長岡市医師会たより No.352 2009.7


もくじ

 表紙絵 「飯豊連峰・地神山」 渡辺修作(渡辺皮フ科医院)
 「渡辺修作先生を偲ぶ」 神谷岳太郎(神谷医院)
 「南アフリカにルーツを求めて〜その15」 田村康二(悠遊健康村病院)
 「山と温泉48〜その57」 古田島昭五(こたじま皮膚科診療所)
 「かりゆしウェア」 郡司哲己(長岡中央綜合病院)



「飯豊連峰・地神山」 渡辺修作(渡辺皮フ科医院)


渡辺修作先生を偲ぶ  神谷岳太郎(神谷医院)

 6月12日、渡辺修作先生がお亡くなりになられました。昨年より体調を崩されて御自宅で静養中でしたが、お嬢様に見守られて静かな御最後でした。心から御冥福をお祈り致します。
 5月15日の92才のお誕生日には、親しい方々を招かれて楽しい一時を過ごされました。先生の体調を知っている者として、内心心配していたのですが、終始和やかに楽しそうにお話をされていました。あの会は、先生が御自分の体調を考えられて、親しい方々へのお別れの会であったと思います。
 先生は、南蒲原郡大崎村(現三条市)の御出身で、旧制新潟高校から新潟医科大学へ進まれました。学生時代は山岳部に入られ、大好きなスキーもこの時に覚えられたとのことです。又、ラクビー部でも御活躍で、若い時にしっかりと体を鍛えられました。
 昭和18年9月、大学卒業とともに海軍に入られ、昭和20年12月に小笠原諸島の父島より復員されました。その後新潟医科大学皮膚泌尿器科学教室に入局され、昭和29年6月、学位を取得された後、厚生連中央病院(現長岡中央綜合病院)に皮膚科医長として赴任されました。同病院での6年間の御勤務の後、昭和35年、渡辺医院を開業されました。当時、数少なかった皮膚科専門の開業医として、門前市を成す御盛業であったと聞いております。又一方、御子息修一先生を立派な後継者として育てられ、平成19年6月に引き継がれました。渡辺皮フ科医院は以前にも増して御繁栄です。
 長岡市医師会においても、理事一期を務められた後、昭和49年から18年間にわたり裁定委員を勤められました。これは先生に対する会員の信頼がいかに篤かったかを示すものと思います。
 先生とのお付き合いは、主としてスキーを通してでしたが、真冬の、他に誰もいない早朝の市営スキー場で、スキー狂の二人が30才という年の差を超えて、「シーハイル」と挨拶を交わしたことや、米国オレゴン州マウントバチェラーへのスキーツアーに同行させていただいたことが強く思い出に乗っています。先生は腰部脊柱管狭窄症という宿痾を抱えておられましたが、これに負けず、88才までスキーを続けられました。米国へのスキーツアーの時に主催者が84才という先生の年令を知って、本当に大丈夫かと念を押したそうです。修一先生の、傍目にも気持良い細やかな心遣いのもとに、一週間のツアーを終始お元気に過ごされました。マウントバチェラーの2700メートルの山頂からの長い急なコースを滑りおりられたのは、日頃の鍛錬の賜物と感服しました。
 “ぼん・じゅ〜る”には、お好きな山やスキーについての文章、友人だった先生方への追悼文、俳句などたくさん書いていらっしゃいます。いずれも先生のお人柄を示す、やさしさやユーモア、自然に対する思いが溢れており、読んでいて気持の良くなる名文です。
 ここ数年は日本画に熱中され、90才で新築されたお宅には立派なアトリエがあり、絵の仲間と制作に励まれました。市展にも入選されましたが、告別式場の入口に飾られた山の絵には、山を愛してこられた先生の瑞々しい感性が感じられました。
 亡くなられた後にお嬢様からお聞きしたところでは、新しいスキー靴を慣らすために、スキー靴を履いて診療されたとか、顔にペインティングしてアルビレックスの応援に行かれたとか、プロ野球観戦中にメガホンを持って野次を飛ばされたとか、楽しいお話がたくさん出て来ました。こうしたことがまた周囲の人々を引きつける先生の魅力であったのでしょう。
 先生とは80才になられる頃からの十数年のお付き合いでしたが、益々高齢化の進む時代に、老後としてではなく、充実した人生の現役として、80才代を如何に生きるかを教えて頂きました。80才を過ぎても、真冬の早朝に一人で黙々とスキー登山を続けられた鍛錬と節制。いろいろなことに興味を持ち、新しいことに取り組める心の柔軟さ。そして、一人孤立せずに周囲の人々に心を配るやさしさといったものではないでしょうか。
 現世のお務めを終えられた先生の御霊は、千の風になって、大好きだった山のお花畑や白銀の峰々、そして先生が愛し、慕われた沢山の方々のもとを廻って歩かれることでしょう。

 先生の戒名は

  医伯院輝岳修禅居士

 岳と修の字を入れてほしいという御希望だったそうです。合掌

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南アフリカにルーツを求めて〜その15  田村康二(悠遊健康村病院)

第10章 そうか、俺たちって、そうだったんだ

 旅をしていると、色んな思いが沸々と湧いてくる。再びアフリカの大地の真ん中にいると、何故か画家・ゴーギャンの「我々はどこからきたのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」という名文句を想い出した。この文句はアメリカのボストン美術館にある目玉の絵(D'ou venons-nous? Que Sommes-nous? Ou allons-nous?)で、大作の左上にフランス語でこの名文句は書かれている。1897年に娘の訃報を受け、人生に絶望して遺作として描かれたものだと聞いている。画面右部分には大地に生まれ出でた赤子が、中央には果実を取る若い人、そして左部分には老いた老婆が描かれていることから、一般的には人間の生から死の経過を表現したとする説が採用されている。

1.35億年前には既に南アフリカには生物がいた
 アメリカで最近見たCMの傑作はビールのGuinessの広告だ。人類のさかさまの進化のCM、「オレはサルのときが一番よかったな……。」「魚も悪くなかったよな!」などと思い出しながらビールを飲むという筋書きだ。では、このように考えられている生物進化の証拠はあるのだろうか? 現在発見されている世界最古の岩石は40億年前のもので、南アフリカの35億年前の地層からは生物の痕跡が認められている。
 はっきりとした最古の生物化石といわれるものは、西オーストラリアのビルバラ地域で発見された35億年前の微生物の化石だという。この生物は、浅海で光合成を行っていたシアノバクテリア(「ラン藻」ともいわれるが植物の「藻」(も)の仲間ではなく、もっと単純な真正細菌というドメインに属する生物である)と思われていたが、最近の研究では海底熱水噴出孔にすんでいた微生物らしいということになっている。化石の有機物からも、確かにこれは生物の起源らしいということになってきた。

2.スタークフォンティン洞窟
 Johannesburgの北西約40kmに1947年にDr.Robert Broomによって200万年前のアウストラロピテクス・アフリカヌスが発見された洞窟がある。ここへは是非とも行きたかった。ツアーと分かれて1日間行けるように按配を予め頼んでいたのだが、寸前になって現地旅行社から「今はこの地への旅は安全を保証できません」と言われたので諦めた。
 この洞窟はスタークフォンティン谷間にある約22億年前に堆積した土砂を浸食して造られている。隣接するRobert Broom Museumには、このレプリカが展示されていると言う。
 スタークフォンティン、スワートクランズ、クロムドライ及び周辺地人類化石遺跡群は、南アフリカの北部にあるユネスコの世界遺産だ。ここにはアウストラロピテクスや、パラントロプス・ロブストスなど多数の人類化石が発見されている。このため、人類のゆりかご、人類発祥の地とも呼ばれている。2005年に開催された世界遺産会議で、新たにタウング頭骨化石遺跡(Taung Skull Fossil Site)とマカパン渓谷が追加された。
 スタークフォンティンの洞窟を1924年に洞窟を調査したレイモンド・ダートは、小さい頭蓋骨を発見。これはアウストラロピテクス・アフリカヌスと名前が付けられた。ダートは、アウストラロピテクスは直立二足歩行を行った人類の直接の先祖であるという論文を、1925年に雑誌「ネイチャー」に発表した。ダートの説を支持したロバート・ブルームにより、スタークフォンティン周囲での発掘は続いた。1938年にブルームはアウストラロピテクスの化石を発見。1947年には、ついにほぼ完全なアウストラロピテクス・アフリカヌスのメスの頭蓋骨を発見した。この頭蓋骨にはミセス・プレス(Mrs.Ples)と名前が付けられた。
 スタークフォンティンから1km程離れた洞窟から100万年から200万年前に暮らしていたと考えられているアウストラロピテクスの亜種、パラントロプス・ロブストスが発見されている。また、1969年にはパラントロプス・ロブストスとほぼ同時期のものと思われるホモ・エルガステルの化石も発見された。クロムドライの周辺でも、アウストラロピテクスの化石が発見されている。
 ウィットウォータースランド大学のレイモンド・ダートが南アフリカから出土した「タウング頭骨」を世界に示した。彼は、この子どもの頭骨が類人猿と人類の双方の特徴をうかがわせると主張した。20世紀半ばまでには、6つのアフリカの遺跡から出土したこれらの猿人の化石が人類の南アフリカ起源説の証しであることがはっきりした。スタークフォンティンでは350万年から150万年前の人類標本を600以上が見つけられた。ここが初期人類の遺物の世界でもっとも豊かな遺跡であること、およびその近郊にも他の化石産出遺跡が並はずれて集中していることから、スタークフォンティンとその周辺の洞窟群は世界遺産とされた。

3.ご先祖は南アフリカから来たのかもしれない
 頭蓋骨のMrs.Plesが生息していた当時は、この地はサバンナとは違い密林地帯とサバンナとが混在していたらしい。この一帯には洞窟が多くあり、数多くの化石や石器が発見されている。ホモ・エレクトゥスの化石も見つかった。彼等が世界で始めて火を使用したらしい形跡がある。ホモ・サピエンス(クロマニオン人)の直系といわれているサン族は今も生存している。そこで類人猿からホモ・サピエンスの進化はこの地でも起きたという説が今では有力となってきている(B.Hilton-Barber,Lee R.Berger,Field Guide to the Cradle o fHumankind,Struik Co.)。だからご先祖は南アフリカ起源かもしれないのだ。この貴重な石灰岩洞窟群のうちで、スウォートクランスの洞窟での成果は貴重である。
 このヒトの頭蓋の探偵小説様の話は面白い(図10・1)。1950年にアウストロラピテクスの子供の頭蓋骨がみつかった。この頭蓋には2ヶ所に刺し傷のあとがありこの傷が元で子供は死んだと推定された。この洞窟の中にはヒョウとハイエナの化石も見つかった。ヒョウの下顎の犬歯と子供の傷跡とはピタリと一致した。そこで物語は展開する。その昔ヒョウが樹上で獲物を食べた(図10・1)。その餌の中にはヒト(子供)も居た。食べ残した骨は樹下の洞窟へ落ちていった。現在は洞窟の表面は削られていて、浅くなっている。その洞窟の中にはヒョウやヒトの子供の化石が見つかった。しかもそのヒョウの牙が子供の頭蓋の傷にピタリと一致している。そこで食べられた子供も食べたヒョウも共に洞窟に転落して化石化したのだろうと推測されたのだ。
  「スタークフォンティンへ行きたかったよね」と言うと「ジャカランダの花の方がいいじゃない。今回はそれがお目当てだったでしょう。男の人は花を楽しむ気持ちが無いわね」と家内に言われてチョンである。

4.再びルーツを求めて
 或るアフリカ人がアメリカのアフリカ系黒人にこう尋ねたという「アメリカ合衆国には黒人は何人いますか?」「3000万人はいます」「エッ!そんなに途方もない人数を誘拐したのか!」
 最近BBC放送「地球伝説」で西アフリカのセネガルのサンルイ市から列車で1000キロ離れたバイディアガラ山地に住む誘拐された先祖のドゴン族を訪ねるアフリカ系アメリカ人の話が放映されていた。ドゴン族はアフリカの中央部でマリ中央部、バンディアガラ山地に住む農耕民族である。「西アフリカで最も古い伝統宗教が現存しているといわれるドゴン族は、独特の宇宙神話を持っており、自分たちの先祖は恒星シリウスから来たというユニークなものだが、西洋社会が発見する前に、ドゴン族は、肉眼では見ることのできない恒星シリウスBの存在を知っていたという。」(『タムタムアフリカ』山と渓谷社)
 今日の日本社会は情報社会で様々な情報が飛び交い、人々はその情報に翻弄されている。しかし、流入してくる情報や文化をかたくなに拒み、自分たちの伝統を重んじながら生きている、そういった人々が今でも実在していて、その人達の生活を垣間見ることができるのなら、是非訪ねてみたい。

5.奴隷貿易のアフリカ
 大航海時代には3世紀にわたってアフリカ原住民を対象とする奴隷貿易が必要な労働力を提供してきた。供給源となったアフリカが西欧諸国を中心とした世界経済システムの外にあった間は労働力供給手段として機能したが、地域の人的資源が減り、それに伴う奴隷価格の上昇、そして需要元である南北アメリカの農業の生産量増大による産物の価格低下により、奴隷貿易は次第に縮小に向かった。さらに人道的あるいは産業的見地からの反対を受け、1807年にイギリスはついに奴隷貿易を禁止した。
 大航海時代のアフリカの黒人諸王国は互に部族闘争を繰り返しており、奴隷狩りで得た他部族の黒人を売却する形でポルトガルとの通商に対応した。ポルトガル人はこの購入奴隷をカリブ海全域でのプランテーションに必要な労働力として売却した。約3世紀に及ぶ奴隷貿易で大西洋をわたったアフリカ原住民は1500万人以上といわれている。こうした動きの中、アメリカ合衆国では南北戦争での連邦軍の勝利によって奴隷制は全廃された。今になっては「何でもアメリカか!」という世相だが、アメリカは元々は海賊の国であることを忘れてはいけないのだ。

7.南アフリカの心臓移植
 Groote Schnur病院はケープタウンの高速道路の山側にある。クリスチャン・バーナード医師がこの病院で1967年に世界で始めての心臓移植手術に成功して一躍有名になった。確か1968年のアメリカ心臓病学会がサンフランシスコで開かれ、その席上で彼の招待講演を聴いた覚えがある。講演終了後には満場の医師達は彼の偉業に対して総立ちで拍手喝采を送った。
 心臓移植とは他人の心臓を移植手術することである。2006年現在で世界中では既に30年間に4万6千例以上が行われている。日本では1968年に日本で初めての心臓移植が、札幌医科大学で実施されたが、和田心臓移植事件として取り扱われた。1997年に臓器の移植に関する法律が施行されたが、日本では未だに移植例は数十人を超えていない。国際心臓・肺移植学会による世界中での心臓移植例40755人の追跡調査による統計では移植後の生存率は1年目79%、3年目71%、5年目63%、10年目で45%で25年以上生存した事例は無い。しかしこんな有効な手術療法は他に無いだろう。それが健康保険で認められないのは何故だろうか?
 日本では患者の大半がアメリカへ渡って移植を受けている。2006年の時点では世界中の移植手術の60%がアメリカで行われている。高額な費用が必要であり、日本で実施された場合ですら一千数百万円が必要である。渡米して行う場合には最低でも三千数百万円から1億円以上が必要となるらしい。
 「何故あなたの病院では心臓移植をしないのですか?」欧米の医師に聞かれると、返答に困る。「風邪引き・腹痛の患者の方が、心臓移植より日本では大切にされています」と歪んでいる医療の真実を素直に告げる訳にはいかないからだ。日本の臨床医の腕前は世界的にみれば二流だと思う。第一に現在6年間で医師を養成している国は日本以外には無い。医師不足は騒がれているが、医師の教育や養成問題、はては質の歪みなどの肝心な所に多くの人が未だに触れないのは珍妙だ。この国の医療問題は未だに進化の途中にあるからだろう。(続く)

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山と温泉48〜その57  古田島昭五(こたじま皮膚科診療所)

関田山塊・縦走路完成について
 平成20年9月9日木曜日付新潟日報特集記事「新潟・長野県境の信越トレイル 13日全線開通」が載った。さらに、10月11日・12日・13日にわたり、NHK新潟放送局よりTV放映、縦走路・トレイルが紹介された。
 十日町市松之山町・天水山1088米より、長野県飯山市・斑尾山1382米迄の80キロメートル、新潟・長野県境、所謂、関田山塊・関田山脈トレイルである。開伐し、整備を行ったのは、長野県飯山市の「NPO法人信越トレイルクラブ」であると、新潟日報特集記事にある。私が、果たし得なかった事が、簡単に出来るようになり、大感激しました。クラブの皆さんに感謝します。
 早速に、このトレイルに入る、と、勢い込んでみたものの、歩行障害療養中の我が身は、行けません。なんとしても口惜しく、悲しい事です。
 トレイルの詳細は、次の所にお問い合わせ下さい。
 新潟日報20年9月11日特集に次の一文あり。附記します。

「詳細は信越トレイルクラブ、TEL0269(69)2888  ホームページにも情報を掲載している。
 本県各地で開催する散策イベント情報などは、信越トレイル利用促進連絡会議・事務局(県上越地域振興局)TEL025(526)9326」

 関田山塊の詳細が、このトレイルを辿る事で、はっきり識る事になります。
 トレイルは、斑尾山を下山口ととると、バスなどの交通手段が選べます。斑尾山山麓一帯は開発され、スキー場、ゴルフ場、別荘など、リゾート施設化されている事で、信越線・黒姫駅に容易に出られます。又、野尻湖畔に下山すれば、信越線・妙高高原駅が近い。
 天水山を下山口にとると、バス、列車など、交通手段が選び難い事が欠点です。このトレイルは、5月から10月がお勧めの季節です。途中、一泊が必要。冬季は無理でしょう。しかし、入ってみたいものです。

(註1)関田山塊の峠は、17と「越後の山旅」にある。斑尾山を除いても多い。このトレイルには16とあるが、旧い峠道は除外してあるようだ。信州側の峠道を加えると、17以上のように憶えている。(私の記憶)

(註2)峠の数について「越後の山旅」に次のような記載がある。『関田山塊の特徴は標高1200メートル級を最高に1000メートル前後に高度が揃って約30座もあることだ。次に高田平野と千曲盆地へ越す峠が多く17の峠がある。
 県下の第1位は大佐渡の外海府から内海府・国中平野へ出る18の越だ。第2位が関田山塊の峠群だ。第3位が信濃川畔の十日町市を中心に上、下流から魚沼丘陵を越え、魚野側筋の六日町盆へ13の峠群だ』とある。
 この文章の峠の数は、関田山塊が県内のみの峠を指し、斑尾山は、長野県であるから、その周辺の峠群は入っていない。関田山塊の峠群は、たしかに17はある。実際に私が歩き廻って調べると、16の峠は分かった。しかしとうの昔に廃道となり、なくなった峠が多い。もう一カ所の峠が分からなかった。今回のトレイルの峠群は、私が調べ歩いた峠と異なり越後信州に股がるはっきりとした16の峠群を指すようです。
 峠を歩き廻る人がいるようです。面白い山行が出来ます。

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かりゆしウェア  郡司哲己(長岡中央綜合病院)

 政局は衆議院解散の引きのばしが続くなか、お笑いタレント出身知事の国政転身への目立とうパフォーマンスが話題になっています。それよりたわいのない政治家の個人ゴシップで、ふふふと笑えたのは某自民党幹事長の『かりゆしウェアたくしこみ事件』です。
 6月は更衣、いまふうにはクールビズの季節の到来です。地球温暖化防止と省エネのため、毎年6月から9月までの期間、政府が推奨する夏季の軽装をクールビズと呼ぶようになっています。その代表例として沖縄県産のかりゆしウェアが政府関連ではもっぱら推奨されています。(内閣府沖縄振興局の公式HP)
 この6月に永田町の自民党本部で開催された、とあるイベントがテレビのニュース番組に取り上げられました。政府・自民党の議員たちが、かりゆしウェアを実際に着て、クールビズの実践をアピールする催しです。選挙前ですし、指名された議員は有権者に顔を売るチャンスなわけです。
 ここで(政権党の政局運営同様に)ミソをつけたのが、某幹事長。
 予定時間に遅刻はよいとしても、問題はそのかりゆしウェアの着こなしの誤りでした。彼はなんとかりゆしウェアのシャツの裾をズボンの中にたくしこんで着て来たのです。あわてた周囲の指摘でその場で裾を出しはしたものの、その裾はクシャクシャの有様でした。
 「涼しく着るものですから、中に入れることはないです。」と『かりゆしウェアを世界へ広める会』の会長を務める小池百合子議員には冷たく言われたそうです。
 この件、ちょっと他人事ではないなあというのがわたしの感想。
 日本の中高年男性には、このシャツの類の裾をズボンに入れる、入れないはやっかいな問題です。本邦ではもともと礼儀正しいシャツの着用方法は、裾をズボンの中に入れることでした。なんと言っても、シャツの裾を入れないのはだらしがない、不良少年の着こなしだ、としつけられた世代です。
 ネット情報(ウィキペディア)によれば、日本では1980年代後半からカジュアルでは裾を外に出す着用形式が広まり、1990年代はポロシャツ、ボタンダウンシャツ等の裾の外出しは一般的になり、とくにTシャツの裾をズボンの中に入れることはほぼ絶滅したとされます。
 かりゆしウェアは沖縄風アロハシャツですが、(1)沖縄県産、(2)デザインも沖縄らしさを表現、と定義されます。「嘉例吉」の語源は軽石。水に沈まないので航海に出る船に向け安全を祈り、「かりゆし」と声をかけたそうです。琉球王国時代から縁起のいい、幸福をもたらすと使われた言葉だそうです。
 そのかりゆしウェアの標準的着こなし方のルールまであります。その一、シャツの裾はズボンから出す。その二、スーツのズボンをはく。その三、靴はビジネスシューズで。
 某幹事長さんにもシャツをお届けした際に、この着こなしのマニュアルパンフもいっしょにさしあげるべきだったんですね。
 わたしもこの夏、月桃の花のデザインの地味めな色のものを通販で一着購入してみました。月桃の葉の成分も一部、織物に使用とかで、この成分は香料や虫除け効果もあるそうです。それはさておき、とにかくズボンに裾を入れないように気をつけ、準公式の場で着てみる予定です。

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