長岡市医師会たより No.354 2009.9


もくじ

 表紙絵 「ふれあい」 福居憲和(福居皮フ科医院)
 「開業1年を振り返って」 西村紀夫(にしむら女性クリニック)
 「愛と死の輪舞(ロンド)〜宝塚歌劇(エリザベート考)その1」 福本一朗(長岡技術科学大学)
 「東部班の近況」 山井健介(山井医院)
 「スズメバチを退治する」 郡司哲己(長岡中央綜合病院)



「ふれあい」 福居憲和(福居皮フ科医院)

幸せは
唄う心、笑う心、燥(はしゃ)ぐ心
幸せの輪の中に
輝いている二人


開業1年を振り返って  西村紀夫(にしむら女性クリニック)

 昭和62年4月から長岡中央綜合病院に勤務をさせていただき、途中、魚沼病院の1年を含め22年経ち、平成20年8月に市内新保に分娩は取り扱わない産婦人科を開業いたしました。本当にあっという間のこの1年でした。幸いスタッフの協力のもと、大きなトラブルもなく1年を過ごすことが出来ましたことを感謝しております。まだ勤務医の感覚がとれず、経営者としての資質がないのではないかと思っています。実を言いますと最初から開業の予定はありませんでした。最近の医療界に対する風当たりは強く、医師が不足しているにもかかわらず、患者さんへの説明や対応、研修医の指導、カルテのIC化など、勤務医の仕事がどんどん増えるばかりで精神的肉体的に厳しく、勤務医としての限界を感じたことなどを始め色々なことがきっかけとなりました。そういう中で、開業することはいささかの後ろめたさもありましたが、開業してみますとこれがまた大変で、今度は自分の生活と従業員の生活を物心両面から面倒を見なければなりません。今では開業をして少し楽をしたいと思った甘い考えを非常に反省しております。ただこれが自分の人生の最終章の幕開けだと思い、楽しみながら生活を送りたいと思っています。
 
だいぶ昔になりますが、私たちが研修医の頃は一度見せてもらっただけですぐやってみろと言われ、わけもわからず診療をしていました。今だったら訴訟になっていたかも知れません。私が産婦人科の医師として最初に指導を受けたのは偶然にも長岡中央綜合病院でした。その頃分娩は年間1500件近くあり、当番の日などはほとんど寝ないで翌日の診療をしていたように記憶しています。とにかく忙しいという印象しか残っていません。Op.中の助手(鈎引き)では時々睡魔に誘われておりました。また、診療が終わると直ちに研究室が居酒屋状態となり、他科の先生方や先輩の先生方の勇猛果敢な話(一部学問的な話?)に耳を傾けたものでした。ある意味優雅な時代でした。今では酒を飲んだら診療はすべきではないなどと言われる時代です。患者さんの立場からすれば当然のことですが、医師は酒も飲んではいけない聖人君子でなければならないということになります。お酒を愛するものとしてはお酒を飲んでしまったら、緊急時呼ばれた場合はその旨を患者さんに説明し、了解のもと診療を受けていただくか、場合によっては診療を断ってもいいのではないかとこの頃思うようになりました。開業してからは緊急でクリニックを開けたことは数回ですが、夜中に起こされたことは幸いにもありません。後で患者さんから救急で診てもらったとの話を聞き、当番病院の先生方には大変感謝しております。今後はクリニックでの患者さんへのサポートをもっと充実させていきたいと思います。患者サービスという言葉をよく耳にしますが、サービスという言葉は医療には不適切と考えているものの一人としてサポートという言葉をお勧めしたいと思います。
 これからはプライマリーケアを中心にホームドクターとしてこの地区の産婦人科医療に貢献できればと思っています。また市内の開業の先生方をはじめ、長岡赤十字病院、立川綜合病院、特に長岡中央綜合病院の先生方にはこれからもご迷惑をおかけすると思いますので、宜しくお願い致します。最後になりましたが、医師として病院勤務の最初と最後を長岡中央綜合病院で飾れたことに感謝しています。

 目次に戻る

 


愛と死の輪舞(ロンド)
宝塚歌劇〔エリザベート考〕〜その1
  福本一朗(長岡技術科学大学)

1.ハプスブルグ家の残照
 1898年9月10日素晴らしく晴れたレマン湖のほとりで、オーストリア=ハンガリー帝国皇妃エリザベートは、イタリア人アナーキストのルイジ・ルキーニの凶刃に倒れた。クレオパトラ・楊貴妃とともに世界の三大美人の誉れをほしいままにし、シシィと愛称されたエリザベートの死は、王妃として慕っていたハンガリー国民のみならず、ヨーロッパ中の人々に悼まれた(Fig.1)。そしてエリザベートの死は300年続いた欧州随一の名家、カエサルの末裔を自称するハプスブルグ家の落日を告げるものであった。
 宮廷の束縛を嫌い一人の女として自由に生きることを望んだエリザベートは、姑で伯母のゾフィー皇太后の厳しい躾と嫁苛めに苦しみ、三人の子供達まで取上げられ、自殺まで考える。エリザベートは皇帝に自分か皇太后かどちらをとるかの選択を迫り、子供達を取り戻して養育権を手にする。その代償として夫に協力し、自らの美しさを武器にハンガリー王妃となったが、ハンガリー独立運動に加担した一人息子ルドルフを見捨てて弁護しなかったために、皇子は自殺してしまい、自責の念にかられたエリザベートは夫の元を去る。歌劇では黄泉の帝王(=死)トートがエリザベートに恋をし、何度も誘惑したが、その都度エリザベートは生を選択するも、最後には自殺ではなく暗殺されることにより「死との恋」がかなえられる。これは単に王家に嫁いだ女性の悲劇を描いているだけではなく、子供にとって最後のよりどころである親がその子供を見放すことの帰結や、「よく生きる」ことによってのみ「死を愛する」ことができることなど、その時代の人々に深く人生を考えさせた。

2.宝塚歌劇「エリザベート」
 宝塚歌劇「エリザベート:愛と死の輪舞(ロンド)」は、1922年にウィーンで初演されたミュージカル「エリザベート」のオリジナル脚本を、宝塚歌劇の公演形態に合わせて、ヒーローである「黄泉の帝王」トート役を男トップ役に、また悲劇のヒロイン・エリザベートを娘役トップとして、日本の観客に分かりやすく見直し、宝塚独自の装置・衣装・振付を付したものである。
 エリザベートの生き様は、19世紀末の民族自治・帝政崩壊・アナーキストのテロのみならず、夫婦のすれ違い・夫の浮気・嫁姑の確執・親子の断絶・児童虐待・子供の教育権・過剰ダイエットによる精神性食欲不振・セックスレス・息子の自殺・新型鬱病という現在にも共通する重い家庭問題を含んでいる。しかし法学博士にしてエリザベートの原作者であるミヒャエル・クンツが最も興味を抱いた主題は、「愛・生・死」であった。
 1996年2月に雪組(一路真輝:トート・花總まり:エリザベート)で初演し、大好評を得る。以来、星組(1996年11月、麻路さき・白城あやか)、宙組(1998年10月、姿月あさと・花總まり)、花組(2002年10月、春野寿美礼・大鳥れい)、月組(2005年2月、彩輝直・瀬奈じゅん)、雪組(2007年5月、水夏希・白羽ゆり)、月組(2009年5月、瀬奈じゅん・凪名瑠海)と再演を重ね、総公演数708回、延べ観客動員数170万人と、「ベルサイユの薔薇」と並んだ宝塚歌劇の二大人気演目となっている(Fig.3)。

〔宝塚歌劇エリザベートのあらすじ〕

〔第一幕第1場〕
 エリザベート殺害から100年も経っているのに、煉獄の裁判所では暗殺者ルキーニの尋問が続けられている。ルキーニは、「エリザベートは死と恋仲であり、エリザベート自身が死を望んでいた」と主張する。そしてそれを証明するため、エリザベートと同時代を生きた人々を霊廟から呼び起こす。黄泉の帝王トート(=死)が現れ、エリザベートへの愛を自ら告白する。
〔第一幕第2・3・4場〕
 時代は1853年に遡る。少女のエリザベートはバイエルン王女として自由を謳歌していた。ある日、いつものように弟達と綱渡りをして遊んでいたエリザベートはロープから落下し仮死状態となる。冥界に迷い込んだエリザベートを一目見たトートは心を奪われてしまい、冥界のタブーを破ってエリザベートに生命を返してやる。そしてその愛を得ようと、彼女を追い続ける決意をする。
 こうしてエリザベートを巡る愛と死の輪舞が始まった。
〔第一幕第5・6・7場〕
 ウィーンの宮廷では、若き皇帝フランツ・ヨーゼフが母親である皇太后ゾフィーの助言と指示のもと、広大な帝国を治めていた。ゾフィーはフランツと彼のいとこのヘレネとの結婚を望み、見合いを計画する。しかし、フランツが見初めたのは妹のエリザベートだった。
〔第一幕第8・9場〕
 1854年、ウィーンで二人の結婚式が行われる。まだ若く子供っぽい新皇后に呆れと不満を漏らす人々。そんな周囲の思惑をよそに、ワルツを踊る二人。トートは嫉妬を感じつつ二人を見つめ、ついにエリザベートに話しかける、「最後のダンスは俺のものだ」と。
〔第一幕第10・11場〕
 古いしきたりと皇后としての務めをゾフィーに押し付けられたエリザベートはフランツに助けを求める。しかし彼は取り合おうとはしなかった。失望したエリザベートにトートは近付くが、エリザベートは屈しなかった。結婚2年目に生まれた子供さえ、ゾフィーに取り上げられたエリザベートは、ゾフィーへの憎悪の念を募らせていく。
〔第一幕第12・13・14場〕
 オーストリアは相次ぐ戦争、チフスの流行、革命の足音と、不安な状況が続き、フランツは疲れ果てていた。彼はエリザベートに救いを求めるが、彼女は自分かゾフィーか、どちらかを選ぶかをフランツに決断を迫る。そして自分の美しさを武器に人生を生き抜こうと考えたエリザベートは、惜しげもなく金を使い、ますます美貌に磨きをかけるのだった。一方、苦しい生活を強いられている民衆は、皇后への反感を増していった。トートは、反ハプスブルクを唱えるハンガリーの革命家エルマーたちをそそのかし、革命の気運を高めていく。
〔第一幕第15・16・17場〕
 ついにフランツは、エリザベートのすべての要求を受け入れる。エリザベートはゾフィーとの確執に勝利したのだった。自分の力で生きていく自信をつけたエリザベートの輝くばかりの姿をトートが見つめていた。
〔第二幕第1・2場〕
 1867年、ブタペストで戴冠式が行われ、エリザベートはハンガリー王妃となる(Fig.4)。忙しいエリザベートは、幼い皇太子ルドルフを顧みる間もなく、そんな孤独なルドルフにもトートは近付いて行く。
〔第二幕第8・9・10・11・12場〕
 成人したルドルフは、エルマーたちに接触し、ハンガリーの独立運動を推し進める。しかしそれが皇帝フランツの知るところとなり、ルド
ルフの皇位継承は危ういものとなる。絶望したルドルフに近付いたトートは、彼の命を奪ってしまう。失意のエリザベートは放浪の旅を続けた。そんなエリザベートをフランツが訪ねる。フランツはウィーンに戻るよう懇願するが、もはや二人の心が一つになることはなかった。
〔第二幕第13・14・15場〕
 1898年、ジュネーブ。トートからナイフを渡されたルキーニが桟橋を行くエリザベートに襲いかかる。その瞬間一度は手にした傘で防いだものの、トートの存在に気付いたエリザベートは、遂にその愛を受け入れるべくルキーニに向き直る。ナイフは左胸に刺さり薄紫色のブラウスにコインほどの血痕を残した。トートはエリザベートを情熱的に抱きしめ、二人は天空へと昇っていくのだった(文献1より)。

宝塚歌劇Elisabeth評価表〔5点満点:5-秀 4-優 3-良 2-可 1-不可〕
上演年・組(Tod・Elisabeth)
トート
エリザベート
フランツ
少年ルドルフ
青年ルドルフ
ルキーニ
平均点
1996年雪組(一路真輝・花總まり)
4
2
3
4
3
4
3.3
1996年星組(麻路さき・白城あやか)
3
2
2
2
3
2
2.3
1998年宙組(姿月あさと・花總まり)
5
4
4
2
5
4
4.0
2002年花組(春野寿美礼・大鳥れい)
3
3
2
2
3
4
2.8
2005年月組(彩輝直・瀬奈じゅん)
2
3
2
2
3
3
2.5
2007年雪組(水夏希・白羽ゆり)
4
5
5
5
4
5
4.7
2009年月組(瀬奈じゅん・凪名瑠海)
3
2
3
2
2
2
2.3

 1996年から2009年まで宝塚大劇場で上演された歌劇エリザベートを、筆者の独断と偏見で採点した結果を表に示す。その結果、最優秀演技者として、姿月あさと(トート)・白羽ゆり(エリザベート)・彩吹真央(フランツ)・冴輝ちはや(少年ルドルフ)・朝海ひかる(青年ルドルフ)・音月桂(ルキーニ)が選ばれ、総合優勝としては2007年の雪組がその栄誉に輝いた。なかでも、主演男役のトートを演じた天才歌手「姿月あさと」、お転婆な少女・神々しいまでの高貴さのハンガリー王妃・息子を失った嘆きの母親・孤独な老女のエリザベートを見事に演じ分けた「白羽ゆり」、夫・父・皇帝の狭間で苦しむフランツを見事に演じた「彩吹真央」、両親に見放されたあどけない少年時代のルドルフ皇子を気高く表現した「冴輝ちはや」、宝塚歌劇団100年の歴史で最高のダンサーにして抜群の表現力を備えた「朝海ひかる」、そして陽気さと狂気を絶妙のバランスで演じた「音月桂」は、見事の一言に尽きる。なお水夏希と白羽ゆりのデュエット・ダンス「最後のダンス」は、他のカップルの追随を許さないほど絶妙でこの世のものとは思えぬほどの素晴らしさであった(Fig.5)。

参考文献1.宝塚大劇場月組公演プログラム「エリザベート」2009.5.22

(続く)

 目次に戻る


東部班の近況  山井健介(山井医院)

 ほぼ1年近く前に寄稿依頼がありましたが、思うところがあり、先延ばしにしていたところ、全域の掲載が終了し、残すは当班だけだと編集委員会の先生方が許してくれず、再依頼されることとなりました。アンケート形式で先生方のコメントが載せてあったりしていましたが、書いていただくのも気が引けますし、個人情報を守ろうという昨今、どこまで先生方のことを書いていいのやら迷っていました。また忘年会の集合写真を掲載しておられる班も多かったのですがやむを得ず出席できなかった先生には失礼ではないかという声もあり、これも不採用としました。というわけで、執筆をさぼっていた言い訳を先に書かせていただいたところで当班の近況に移ります。
 長岡市の東部ですが、ほぼ長岡駅周辺に位置しているといえます。東は中沢の中島内科医院(中島滋先生)、北は今朝白3丁目の土田内科循環器科クリニック(土田桂蔵先生)か微妙なところで関東町の栂野医院(栂野光雄先生)、西は殿町2の茨木医院(茨木政毅先生)、そして南は豊田町の高橋内科医院(高橋暁先生)か内山耳鼻咽喉科医院(内山春雄先生)に囲まれた範囲が東部班の所在です。8月現在22医院・診療所の先生方と長岡保健所の松井一光先生とあと4名の自宅会員の先生方(小原正躬先生・菊池陌夫先生・十見定雄先生・原滋郎先生)の合計27名が東部班の総勢です。
 ここ3年以内では、遡ると平成19年12月に殷煕安先生が長岡駅CoCoLoの2階にアイ内科クリニックを、同年11月に水澤由香先生(理事長は信田和男先生:新発田市)が今朝白1に長岡眼科医院を(本年1月に水澤先生から寺松徹先生に院長交代)、同年7月に木口俊郎先生が木口内科クリニックを、6月に河路洋一先生がかわじ整形外科を美沢に、平成18年5月に高須達郎先生が大手通に高須メンタルクリニックを新規開業され東部班のメンバーとなられました。
 訃報としては平成21年1月23日に武田正雄先生、平成19年12月20日に角原昭文先生、同年6月7日に高橋剛一先生がご逝去されました。
 会員が顔を合わせるのは年に1回の忘年会しかありませんが最近は十人集まるのがやっとで、かつての盛り上がりは残念ながらありません。診療科も結構ばらばらですので講演会なども一緒になることもほとんどなく、ここ何年もお顔を拝見していない先生が多くおられます。是非今年の忘年会には顔を出していただけるようお願いします。東部班として特別な行事や催しをやっているわけではないですのでこの程度の報告しかできずにすみませんでした。
 話は大幅に変わりますが、つい一昨日まで日本文理には非常に楽しませてもらいました。初戦から決勝までの5試合、運良く休日とか昼休みに日程が組まれていましたのでほとんどの試合をハラハラ・ドキドキ・ワクワクとテレビ観戦できました。何年来でしょうか、どんなドラマや映画よりも感動しました。例年ならだらだらした夏を過ごしているのですが今年の8月15日から24日までは日本文理ナインに貴重なものをもらった気がします。本当にありがとう。

 目次に戻る

 


スズメバチを退治する  郡司哲己(長岡中央綜合病院)

 一ヶ月前、軒下の使用してない古い犬小屋になにかが出入りすると家人が申します。「大きな蜂のようなんですけど。」
 「きっとスズメバチでしょ。刺されないように気をつけないとね。」
 ある休日のこと。わたしはテレビで録画した番組を見ながら、俳句雑誌のめくり読み。自作の俳句をひねっては句帳に書きとめる。卓上に朝取りの枝豆、冷たいビールではない飲物。(ヱビスに替えて、田村正和が宣伝中の麦となんやら。)……プハア……ごくらく、極楽。幼少の頃からの『ながら族』であります。
 隣室で片付けをしていた家人が呼びました。「ちょうどいま飛んできたわ。あなたもこっちの部屋のガラス越しにのぞいて見てくれます?」
 合点承知と座敷の硝子戸越しに見ていると、確かに犬小屋にブーンと来て飛び込む黄と黒の縞模様。
 「大きな蜂だよ、やっぱり。」
 「こわいわ。スズメバチだわね?」
 「よーし」と確認のため、わたしは硝子戸を開け犬小屋の上方を持ち上げると、内部に蜂の姿と巣が見えたので、あわてて元の位置に戻し硝子戸をぴしゃりと閉めました。
 「大丈夫?」と心配顔の家人。
 「蜂の数は多くない。だけど、かなり大きいスズメバチの巣が犬小屋の天井からぶらさがっていたぞ。」
 「ええ、見えました。チョコ色っぽい横縞の模様の巣でしたもんね。」
 早速にスズメバチ退治法をネット検索。自治体の駆除担当や専門業者を頼むのが一般的なようです。素人の実行できる有用な対策は見あたらず、そこで家人と我が家の「スズメバチ退治」作戦会議開始。
 「市役所に電話して駆除を頼みましょうか?」と弱気な家人。
 「電話して、ウチの犬小屋にスズメバチの巣があって、ではいささか訴えるところがないかも……。自分らで駆除できるよ。強力な殺虫剤は使わずにさ。」
 よし決行。まずは着替えて長袖、長ズボン、長靴に帽子、作業手袋を装着。まずわたしがその犬小屋を軒下より脇のコンクリート床上にそっと引っ張り出す。小屋全体を段ボール箱、ビニール袋、テープ類で密封しました。そこに受け皿に入れた蚊取り線香を点火して数本入れる。その煙で一晩燻す、伝統の金鳥印の天然ピレスロイドの殺虫効果作戦です。数分で内部に白煙が回ったのを確認して作業終了。
 その直後にブーンと帰巣して来て「あれれ、家が無いぞ。」と軒下をうろうろした間の悪い個体に遭遇。かねて用意の捕虫網で捕獲。スズメバチと言えど、群れでなければ、そう恐くありません。
 変温動物の昆虫は低温では動きが鈍いので、翌朝早くまだ肌寒い時間に、掃討作戦の成果を確認です。テープを外して開放すると、しぶとく生き延びた蜂が鈍い動きで出てきました。これも捕虫網でなんなく捕獲。退治したスズメバチの成虫は合計七匹だけでした。取り壊した直径十センチ余りの三層の傘状の巣の中には、成長途上の白い大きな幼虫や蛹がいました。すべてビニール袋に入れて密封し、ゴミ処理としました。
 後日談ですが、このスズメバチの巣を自分たちで駆除した手柄話を、家人がすると、山育ちの実家の老母は「蜂の巣の幼虫は食べればよかったのに。」と宣うておったとか。
 なおこの蜂は死骸の腹部の先端が黒色という体の特徴から、日本に八種類いるスズメバチの中のヒメスズメバチと同定できました。

 目次に戻る