長岡市医師会たより No.355 2009.10


もくじ

 表紙絵 「10月の海(山北)」 丸岡稔(丸岡医院)
 「窪田武久先生を偲んで」 亀山宏平(長岡西病院)
 「英語はおもしろい〜その1」 須藤寛人(長岡西病院)

 「愛と死の輪舞(ロンド)〜宝塚歌劇(エリザベート考)その2」 福本一朗(長岡技術科学大学)
 「第40回会員ゴルフ大会の記」 長部敬一(長岡西病院)
 「夢は空を飛んで」 岸 裕(岸内科・消化器科医院)



「10月の海(山北)」 丸岡 稔(丸岡医院)


窪田武久先生を偲んで  亀山宏平(長岡西病院)

 窪田先生は長い御闘病の後、平成21年9月18日亡くなられた。平成9年6月に胸部大動脈瘤の手術を受けられたが、術後容態が急変したとの知らせで立川病院にお見舞いに伺ったが、全身の浮腫強く「天よどうか良き友人窪田先生に今一度活躍の機会をお与え下さい」と奇蹟を祈りつつ辞したのが尚脳裡に明らかである。先生はその後目覚ましい快復を遂げられ、御宅で御家族に守られながら療養生活に入られた。
 その後時々窪田久先生にお逢いする毎に「御父上は如何ですか」とお尋ねすると「幸い大きな変化はありません」とのお話しで安心した。
 ところが本年9月18日朝、久先生より「父の容態が急変しました」とのお電話をいただき、外来終了後御見舞いをと考えていたが、正午頃帰らぬ旅に立たれた。
 先生は大正13年11月長野県松本市郊外に生まれられた。名門松本中学(現在松本深志高校)を卒業された後、桐生高等工業を卒業されたが、戦後医師を目指し、昭和21年新潟医科大学に入学された。この年は旧制高校が戦時中の教育期限短縮(三年→二年)を再び旧の三年としたため、旧制高校の卒業生のいない一年で高等専門学校卒業以上の資格があれば誰でも受験できた。私の様な旧軍人も、一般文系大学を出た人もあるという多士済々の級であった。先生は円満な笑をたたえ、且老成の大人の風格があられた。又講義の際はいつも教室の前で端然とうけられサボって麻雀をしたり、喫茶店にゆく者もいる内、真面目な学生と皆から一目をおかれ「トウチャン」と愛称されていた。因に私は「亀さん」と呼ばれ変わりばえがしなかった。
 この級は面白いことにこうして出身学校も年令もかなり異なる集団なのに、まとまりがよく恒例の大運動会(現在の歯学部のある所が運動場であった)には級をあげて仮装行列を行い、大喝采を博した。例えば集団見合、黒坊大会と言った具合である。そうした級がまとまるのは窪田先生の一言、「皆でやりましょうよ」が利いていた。
 先生の訃報を級の幹事役を勤められている村上敏雄先生に知らせた所、先生は当時新潟医大を中心とする日本海綜合大学構想があり、私達もその運動に参加したが、村上先生はその中心であり窪田先生に大変扶けられた懐かしい想い出がありますと返事をよこされた。
 大学卒業後、先生は解剖学教室へ、私は第二内科教室へ残ったので暫くお逢いすることがなかった。
 先生は解剖学教室助手をへて、昭和28年長岡中央綜合病院に赴任された。
 当時病院は野本先生、鈴木宗先生がおられ、両先生とくに野本先生の指導を受けられた由である。
 私は昭和36年5月中央綜合病院に鈴木先生御開業後の後任として赴任した。当時野本先生は御病気中であり、窪田先生、鳥羽先生、佐藤嘉瑞先生などがおられた。
 昭和36年秋の農村医学会で入貞彌院長先生は「農村における高血圧症の臨床」という宿題報告をうけてこられた。早速窪田先生を中心に内科全員集まり協議し、都市住民、農村住民、精神労働者の三グループに分け、その地域の悉皆血圧調査、高血しっかい圧者の精密検査、死因調査などを行い従来の常識をくつがえす面白い結果を得、入先生の発表は大成功であった。このために各住民が帰宅する頃をねらって各居宅を訪問、血圧測定をさせてもらった。大変な作業であったが窪田先生の指導指示の適確さが、この成功をかちえたものと思う。
 又鳥羽先生、佐藤先生が相ついで開業された後内科は二内科制とし、第一内科医長窪田先生、副医長高橋剛一先生、第二内科医長亀山、副医長木戸千元先生、他に第二内科からの医員がいた。年二回の信越内科地方会にはお互いに症例を出す様に競って勉強し合ったものだ。医長も副医長も大学卒業が同年でその点はお互いの協力は旨くいったと思っている。
 内科の融和を計るのに欠かせなかったのが窪田先生の存在であった。病院の医局の飲み会、内科だけの飲み会(時に看護師、事務員も合同)には必ず窪田先生が先頭となり童謡を唱いながら踊るのである。曲は二つ「シャボン玉とんだ」「軍艦」であった。見物人一同大爆笑で気持が互いにぐっと近づいたものだ。
 又当時忘年会はイチムラ百貨店の食堂でやっていた。
 窪田先生の発案で内科で毎年余興を出すことにした。一番うけたのは昭和39年東京オリンピックの年、長岡オリンピックと銘うって聖火入場は木戸先生がエチオピアのアベベ選手となり、ファンファーレの鳴る内入場点炎、ついで女子体操茶臼ラフスカ(チャスラフスカ)出場となるが、窪田先生、赤い帽子、赤いシャツ、赤いタイツをはき、白い運動靴で舞台の上を優雅(?)に踊るのであった。先生の真面目の顔と所作の妙に全員腹をかかえて大爆笑。(因みに私は高橋剛一先生とボクシングをやった)翌年は「黒い霧、ピンクの霧」の題名でやった。
 こうしたことは何でもない事の様であるが、皆が心を合わせ一体となる点で内科の団結には大いに役立った。
 もう一つ忘れられないのは麻雀である。先生が麻雀をお好きであったことは“ぼん・じゅ〜る”昭和56年6月号に「麻雀と私」と題して詳しくのべておられる。病院では月初にレセプト点検があり内科医師全員が集まり点検するのであるが、7時30分頃終わるのが常で、誰ともなく誘いあって医員当直室に向かう。窪田先生、私、高橋剛一先生、木戸先生などが常連であった。11時すぎ、この位かと思う頃、窪田先生は「オヤ僕の時計は停まっているよ」といって何時でも先生の時計は11時より進まない。従ってもう1チャン、もう1チャンということになる。ケレン味のない楽しい麻雀を打たれたが「僕の時計は停まっているよ」は当時院内の流行語となった。
 先生は昭和42年に開業されたので中央病院で御一緒に仕事をしたのは6年であるが忘れられない想い出を残された。
 開業されてからは学術講演会や医師会の新年会、総会等でお逢いする程度で先生の御活躍を知ることは少ないが、御子息久先生によれば「父は患者さんには常に優しく笑顔で接し、自分の出来る最善をつくせと何時もいっておりましたし、幼い頃は夜でも、日曜、祭日、正月でも依頼があれば愚痴一つこぼさず黙々と往診に出かける父の背中をみて、父は偉いなと思ったものです。」と語っておられた。
 先生は医師会の仕事にも熱心で国民健康保険審査会委員15年、医師国保会議委員16年、医師会福祉委員を10年それぞれ立派に職責を全うされた。
 先生の御趣味は麻雀ばかりかと思っていたら、ボウリングも定期的に楽しまれ、かなりの腕前に達しておられ、その故か久先生は平成17年第35回全国医師会ボウリング大会に優勝の偉業を達成された。
 先生の晩年は病の為不本意の療養生活を余儀なくされたものの、優しい奥様、久先生を始めとする御家族の献身的看護に支えられておられた。二人の男のお子さん方は医師として大成され、娘さんも堅実な家庭を営んでおられ、後顧の愁いは全くない素晴らしい家庭をつくられた。
 先生の御生涯は医師として又家庭人としてまことに立派な人生であり、同級生の一人として私は心から敬愛をし且誇りに思っております。
 先生には天界から奥様や御子様方、御孫様方の健康と発展を眺められ、又長岡市医師会の発展を見守っていただきたいと思っています。
 先生、ゆっくりお休み下さい。
 さようなら。

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英語はおもしろい〜その1  須藤寛人(長岡西病院)

 はじめに

 とある雪の夜、「日赤鮎の会」がお開きになり小料理店を出ようとした玄関で、“ぼん・じゅ〜る”の編集委員ご一行様と鉢合わせしました。私は、酔った勢いで、旧知の先輩、春谷重孝先生に「今度、投稿します!」とつい大声を出してしまいました。あれから2年以上経ちましたが、金輪際、酒を飲んだら何らの約束事もしないと肝に銘じながら、いつか罪滅ぼしをしなければと思ってきました。
 「英語はおもしろい」と題して“ぼん・じゅ〜る”に短文を連続掲載させていただきます。英語の一字を見出しとして、それにまつわるいろいろなことを書きます。いまさらながらの英語解説、いささかながらの知識の披露、懐かしいニューヨーク時代の想い出話など多岐に渡りますが、エッセイなどという品の良いものとはほど遠いものになるかと思います。読む人が何か一つでも勉強になったり、印象に残ることがあれば良いがと願いながら書きます。個人の悪口は書かないように、自慢話はほどほどに抑えるようにします。
 何回続くか分かりませんが、不評であれば止めますので、編集部へご連絡ください。
 さっそく始めましょう。

quarter(s) 居住区域

 私は医学部を卒業して直ぐ米国海軍横須賀病院(USNH Yokosuka)にインターンとして勤めた。日本帝国海軍時代から引き継いだ、数棟の病棟の一つであった事務棟の2階に私達の居住スペースがあった。その一角は“intern's quarters”と称されていた。変な呼び方だな?と感じていた。
 今、改めて、quarterを調べてみた。Websterのunabriged(縮刷されていない)大辞典には、数えたら、quarterには22の異なった意味が書かれていた。あまりにも多いので、自分なりにまとめてみると、第一の意味のグループは「四分の一」ということを基にする意味である。アメリカの大学のsemester(一学期)は6ヶ月であるが、12週間(3ヶ月)は別にquarterとよばれるそうだ。アメリカの25セント硬貨の別名であることはご存じのとおり、あるいは合計したお金が25セントであればquarterと数えられる。Quatrerburgerというハムバーグは肉が1/4poundであるので約110g、やや大きめの商品といえよう。
 第二の意味のグループは、「地区、特別なグループや形で知られる場所」という意味で用いられる。the market quarter of Paris、the wholesale clothing quarter of NY、residential quarter、Chinese quarterなどがあげられている。先年、アメリカ産婦人科学会がSan Diegoで開かれたが、懇親会はOld townの中の“Gaslamp quarter”というところで催された。かってガス灯があった所なのだろう。この第二の意味のなかで、複数形quartersで 1)船のクルーの生活スペース、2)兵隊やセーラー及び家族の居住するところ、3)あるグループの個人、家族に占有された部屋、家、例として、bachelor quarters、club quarters、があげられていた。軍隊の本営・司令部はhead quatersであった。従って、“intern's quarters”はこの範疇での用法となると思われた。
 第三のグループの意味は、その他雑他なことで、この内、アメリカンフットボールのquarterback(forwardとhalfbackの中間のポジション)を意味するクォーターバックは重要なポジションで、「チームの攻撃を指図する、広く指揮する」という意味をもつようになっているそうだ。時事英語辞典にはquarterは「完全とはほど遠い」、「不完全な」という意味で最近は使用されていると記されている。
 語源は(ラ)quartariusで4分の1。
 ところで、USNH Yokosukaのintern's quartersはどんなところであったかというと、間仕切は薄い板で、しかも床から30cmは仕切なし、病院用のベッドと机・イスのみであった。24才と若かった私達は、四面、英語づけの生活の中、切磋琢磨しあいながらEducational Council for Foreign Medical Graduates:ECFMGの受験準備をし、米国留学を夢見ていた。

stipend 給料、俸給

 アメリカのレジデントは2週間に1回の給料をもらう。しかし、このpaymentはsalaryとかwageとは呼ばず、stipendと称される。
 Wikipediaによれば、stipendは「必ずしも仕事量に応じた支払額ではない」点で、wage、salaryと異なる。また、「本来的に無賃金、奉仕的な役目を果たすために支払われる俸給」とある。通常の給料より安い理由は、「資格を得られたり、指導を受けられたり、あるいは食べ物・居住などの補填的優遇を受けられるため」とある。
 歴史的には、非営利事業の仕事、たとえば若者の仕事に対して使用された。イギリスの教会ではstipendiary minister(教会内に居て事務的仕事をして、司教より受給を受ける者)とnon-stipendiary minister(資格をもって、司教から独立して奉仕仕事の出来る者)という言い方があった。goo辞典ではstipendは「(特に牧師の)俸給、年金、奨学金」とあり、stipendiaryは「有給の、有給者」とある。
 語源的には中世英語stipendyよりで、これはラテン語stipendiumよりきており、stip-、stips gift+pendere payからきているとのこと。
 初期臨床研修医の月給は元をたどれば「ギフト」!と言うことになる。研修医でも当直すれば当直料をもらえるようなことがあれば、アングロサクソン人的には、愚の骨頂であろう。厚労省は今後、研修医の給料は「奉公賃」と呼ぶようにしたらどうであろうか。
 stipendは現在、「奨学金」という意味で広く使用されていることが今回わかった。平成21年度の国費外国人留学生奨学金月額単価は“monthly stipend 125,000yen”とインターネット上に示されている。

status quo 変化なし

 医師が朝の短時間で多くの患者さんを回診しなければならないのは大変なことである。回診したかどうかはカルテに何らかの記載があるかどうかが証拠になるので、progress noteに一行ならず、一言でも書いておかねばならない。ドイツ語で教わった“stationa¨r”「変わりなし」は簡潔で良い一言。しかし、ドイツ語と同じ意味で、“stationary”と英語で書くのはどうも和製のようである。stationaryはproceed辞典によれば 1)「静止した」、「動かない」、その次に「変化なし」は確かに載っており、2)「据え付けの」と書かれている。“The uterus seems to remain stationary in size.”という文章があり、「変化なし」は決して間違いではないが、病状や経過が「変化なし」という意味での使用は、ニュアンス上多少の相違があり、あまり使われていないと思ってきた。そのようなときは“no marked change”とか“unchanged”の方がはっきりすると感じられる。
 
一語で「変化なし」という書き言葉は米語で“status quo”である。語源はラテン語で、“status”は「状態」、“quo”は関係代名詞“qui”の奪格で、意味はウィクショナリー日本語版には「現状」と書かれてある。奪格(ablative)とは「主に起点・分離(〜から)を示す」(ウィキペディア)とあり、文法上の言葉で、「動作の原因、手段、所、などを表すラテン名詞の格。英語ではfrom、by、at、in、withなどで作る副詞句にあたる」とある(岩波英和辞典)。
 関連語に“status quo ante”があり、より分かりやすいようであるが、“status quo ante bellum erat”となるともう難しい。“the status quo”や“the status in quo ante”も全て、「もとのままの状態」、「現状(維持)」と大辞林にも書かれている。
 医師はインテリ!、たまにはカルテにラテン語入りはどうであろうか。くれぐれも、stationery(文房具)と書かないでください。(続く)

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愛と死の輪舞(ロンド)
宝塚歌劇〔エリザベート考〕〜その2
  福本一朗(長岡技術科学大学)

3.愛と死の輪舞(ロンド)
「形ある物は必ず壊れ、生ある者は必ず滅す」という真理を最も深く考察された宗教者は仏陀であり、「死と輪廻」の業から解脱する方法として「四締中道八正道」を提唱されたことはよく知られている。それでは宗教と並んで人類の偉大な遺産である芸術において、「死」はどのように捉えられているのであろうか。
 歌劇エリザベートは2013年に創立百周年を迎える宝塚歌劇団の最も大切な演目で、1996年の初演以来観客170万人を動員した。オーストリアハンガリー帝国最後の将校を父にもつ作家ミヒャエル・クンツ(Michael Kunze)博士による脚本・歌詞と、ハンガリー人作曲家シルベスター・リーバイ(Sylvester Levay)音楽の「エリザベート:愛と死の輪舞」は、エリザベートを単なる娯楽オペラでなく、全ての人が真剣に向き合わねばならないこの生と死の問題を正面から扱っている。
 主役の「トート(死:Tod 独、Death 英)」は、男役がメインの宝塚歌劇では「黄泉の帝王(=死)」と読み替えられており、人間の生と死を司る人格神とされている。確かにエリザベートを蘇生させ(第一幕第4場)、自殺を思いとどまらせ(第一幕第10場)、またハンガリー愛国者からの襲撃(第一幕第13場)を阻止しているため、人間に生を与えることはできるとされている。しかし何度かエリザベートに自殺を勧め、黄泉の国に誘っている(第一幕15第15場・第二幕第5場)ものの拒否されていることから、トートは自分で直接手を下して人の命を奪うことはできないものとされている。

「お前の生命奪う替わり/生きたお前に愛されたいんだ/禁じられた愛のタブーに/俺は今踏み出す/心に芽生えたこの思い/体に刻まれて/蒼い血を流す傷口は/お前だけが癒せる/帰してやろうその生命を/その時お前は俺を忘れ去る/お前の愛を勝ち得るまで/追いかけよう/どこまでも追いかけて行こう/愛と死の輪舞(トートのアリア第二番:第一幕第4場)」

 トートが人の魂を手に入れることができたのは、革命蜂起に失敗したルドルフ皇太子にピストルを渡して自殺に追い込んだ場面(第二幕第11場)と、レマン湖畔で暗殺者ルキーニにナイフを手渡してエリザベートを殺害した場面(第二幕第15場)の二回のみである。これらの事実から原作者ミヒャエル・クンツは、「人は最終的には自らの人生は自ら決すべきで、例え神といえどもそれを自由にはできない」と考えていたことがわかる。

「嫌よ大人しいお妃なんて/なれない可愛い人形なんて/あなたのものじゃないの/この私は/細いロープたぐって昇るの/スリルに耐えて世界見下ろす/冒険の旅に出る/私だけ/義務を押しつけられたら/出て行くわ私/捕まえるというのなら/飛び出して行くわ/鳥のように解き放たれて/光目指し夜空飛び立つ/でも見失わない/私だけは/
/嫌よ人目にさらされるなど/話す相手私が選ぶ/誰のものでもない/この私は/ありのままの私は/宮殿にはいない/誰にも束縛されずに/自由に生きるの/例え王家に嫁いだ身でも/生命だけは預けはしない/私が生命委ねるそれは/私だけに(エリザベートのアリア:第一幕第11場)」

 宮廷の束縛を嫌い一人の女として自由に生きることを望んだエリザベートは、姑のゾフィー皇太后の厳しい躾と嫁苛めに苦しみ、三人の子供達まで取上げられ、自殺まで考える。エリザベートは皇帝に自分か皇太后かどちらをとるかの選択を迫り、子供達を取り戻して養育権を手にする。その代償として夫に協力し、自らの美しさを武器にハンガリー王妃となったが、ハンガリー独立運動に加担した一人息子ルドルフを見捨てて弁護しなかったために、皇子は自殺してしまい、自責の念にかられたエリザベートは夫の元を去る(Fig.6)。歌劇では黄泉の帝王(=死)トートがエリザベートに恋をして何度も誘惑し、その都度「死は逃げ場ではない!」とのトートの言葉に自殺を思いとどまって生を選択するが、最後には無政府主義者ルキーニに暗殺されることにより、ようやく「死との恋」がかなえられる。
 エリザベートの物語は、決して日本と全く繋がりのない地球の裏側の皇室の昔物語ではない。明治25年の在日オーストリア代理公使ハインリッヒ・クーデンホーフに神楽坂で見初められて嫁いだ青山クーデンホーフ光子(1874〜1941)は、その息子リヒァルトがヨーロッパ連合の基礎を作ったため「パン・ヨーロッパの母」と讃えられている(文献2)。またクーデンホーフ家はハプスデルグ家の一族であったため、渡欧した光子は当時まだ存命していたエリザベートにウィーンの宮殿で拝謁し影響を与え合ったと言われている。
 さらに長岡市市内でも知る人は少ないが、長岡出身の、美人女優鰐淵晴子さんの祖母はハプスブルグ家の末裔の一人であった。また我が国の皇室においても、古いしきたりに抗して女性の自由を求めておられる皇太子妃の戦いは、まさにエリザベートがハプスブルグ王家で悩みつつ求めていたことと同じではないであろうか?歌劇エリザベートの元となったオぺラ・エリザベートがオーストリア・ドイツ・オランダ・ハンガリーで演じられ、英国では一度も演じられなかったことは、故ダイアナ皇太子妃への遠慮があったためであることはよく知られている。
 エリザベートは愛娘マリー・ヴァレリーにこう打ち明けている。「結婚は愚かな制度です。まだ歳やそ15こらで他人の手に引き渡され、意味もわからないままに誓約して自分を縛り、その後年以上も、その誓約30を解消することができずに後悔しつづけることになるのです(文献3:p49)」「人が狂人と呼ぶ人々は、みな理性的な人物のように思われます。本物の理性は、しばしば危険な狂気と受け止められるのです(同:p114)」。しかし赤十字の創立者アンリ・デュナンと同時代人であるエリザベートは、病人や怪我人に対してこの上ない優しさを見せた。1863年、28歳でバート・キッシンゲンに療養した当時既に、エリザベートは盲目の老公爵の手を引き、全身麻痺のイギリス人の散歩に付き添っている。オーストリア軍が戦ったときには、負傷兵の傍らに座り、手術中ずっと手を握りつづけた。1874年にはミュンヘンで、感染も恐れずコレラ患者を見舞い、汗まみれの危篤患者の手を握りしめた。
 あれほど憎んだ姑ゾフィーに対しても、死の床には付き添い、最後の瞬間まで食事もとらずに看病した。1871年の誕生日プレゼントには、設備の整った精神病院をフランツ・ヨーゼフにねだった。エリザベートには誰よりも未来を見通す力があったのみならず、身体障害者・負傷兵・政治亡命者・コレラ患者・危篤患者・精神病者など、彼女はこれらすべての人々を「人権の萌芽」の眼で見て理解した。そして社会的な弱者に少しでも助けになろうという素直な勇気をもっていた。
 歌劇エリザベートは、単に王家に嫁いだ女性の悲劇を描いているだけではなく、子供にとって最後のよりどころである親がその子供を見放すことの帰結や、「よく生きる」ことによってのみ「死を愛する」ことができることなど、深く人生を考えさせる名品である。その舞台は、歌唱と舞踏の素晴らしさもさることながら、宝塚トップスター達が自分自身の死生観を余すところなく披瀝している。
 人の死の最終判定権を唯一許されている医療者としては、人一倍「生と死」については関心を持たねばならない。「Vitabrevis,arslonga.(人生は短く、芸術は永し)」。残された人生であと幾度この舞台を見ることができるのか分からないが、この歌劇史上最高の名作が次にどの組の生徒さんたちによって演じられるのか、いずれにしても美しいことは間違いないが、密かに愉しみにしている今日この頃である。

参考文献
1.宝塚大劇場月組公演プログラム「エリザベート」、2009.5.22
2.シュミット・村木真寿美:「ミツコと七人の子供たち」、河出文庫、2009
3.カトリーヌ・クレマン著・塚本哲也監修:「皇妃エリザベート−ハプスブルグの美神」、創元社、1997
(終わり)

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第40回会員ゴルフ大会の記  長部敬一(長岡西病院)

〜飛距離は金で買えたか〜

 9月20日は長い連休の始まりの日であったせいか、大会参加者は8名とやや寂しいものでありました。しかしはじまってみれば同好の士の集まりといった趣きがあり、一体感と和気につつまれた好ましい感じのラウンドになりました。
 時々風は吹いたものの日差しは穏やかで、当日はクラブ選手権の決勝の日とあって、グリーンはやや速めで、私には好きな部類に属するコンディションでありました。
 さて最近の私のゴルフには問題点が多々あるのですが、最大のものはその解決が最もむつかしい飛距離なのであります。
 当日の同伴者は西脇智弘、田辺一彦、荒井義彦の諸氏とあっては40〜50ヤードはおいていかれるのは必至で、せめてあと10ヤードいけば何とか仲間に入れてもらえるのではないかということで、大会の3日前に行きつけの量販店を訪問したのでありました。訪問の趣旨を伝えると係りのチーフ曰く「今は飛拒離を金で買える時代ですから」といいつつ1本のドライバーを奨めてくれたのでありました。早速ゴルフ場にいって打ってみると、その時は、確かに飛んでいたのでした。ヘッドの形が気になったりシャフトが少々しなやかすぎるというような感じではありましたが、飛距離がでたからいいことにして取り寄せてもらい、大会の前日にそれを手にしたのでした。
 いよいよ当日、東1番のティショットはいつもより数ヤードは飛んで、しかもフェアウェーのセンターをとらえたのであります。セカンドは7番アイアンで花道をねらったのでありましたが、花道を越えてグリーンエッヂまでとどき、あとは2パットのパーと上々のスタートがきれたのであります。2番も3メートルほどのパーパットが決まってパー。3番ではオナーとなり、なるほど「ゴルフは金か」と納得したのも束の間で、そこからは力みすぎたせいか左に曲がり始め、ゴルフはそんなに「甘くないものだ」という、これまで数え切れないほど身にしみているはずの現実にもどったのでした。それでも終わってみれば私にしてはまずまずのスコアであったのは、この日たまたまうまくいった寄せとパッティングのお陰で、すべてのショートホールをパーにまとめることができた結果でした。
 優勝は「隠しホール」にうまくはまっただけのことであって、運がよかったとしかいいようありませんが、それでもこの年になっての久方ぶりのものでしたからおおいに嬉しいことではありました。
 本当に「飛距離は金で買える」ことを実証するべく、しばらくはドライバーの練習をしてみようかと思っているところであります。
 夜の会もまたおおきな楽しみの部分であります。美味い爛酒と料理はいうにおよばず、盛り上がった談論風発はあらゆる分野に及んだのでありました。
 最後に、運営に当たられた太田裕副会長、賞品の調達や夜の会の設定にあたられた事務局の方々に深謝し、来年はさらに多数の参加のあらんことを願って報告といたします。

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夢は空を飛んで  岸 裕(岸内科・消化器科医院)

 僕の右手の上に小さなロボットがある。黒鉄の精悍なボディに緋脅しの鎧をまとい、背中をすっきりと伸ばし、いま飛び立とうとしている。
 左手のラヂオ・コントローラーの上昇レバーをゆっくりと押し上げていくとメインローターは次第に加速し、右手に感じるロボットの重量はゼロになる。右手を開くとロボットはふわりと宙に飛びだし、僕のコントロール通りに自由に空を舞う。
 ……半年ほど前に秋葉原の家電店でスカイアーマーというラジコンロボットを購入した。両肩にプロペラを装備し、鉄人28号とガンダムを合体させたようなロボットが空を飛ぶ。(室内用です。)“鉄人28号”は父、金田博士が開発した鉄人28号とともに数々の陰謀や怪事件に立ち向かう金田正太郎少年の活躍を描いたもので、“鉄腕アトム”と双璧を担うロボット漫画の代表作です。
 正太郎少年の様に「鉄人、鉄人行け。」と唱えつつ左手でコントローラーを操作すると、彼は胸の青いランプを点滅させながら上昇、微弱前進する。この時に上昇レバーが強すぎると天井にぶつかり、弱すぎると床に墜落する。強からず、弱からず上昇レバーを操作しつつ左右の回転レバーも操作して美しい回転を描かせながら手元にスカイアーマーが戻る様にする。一見簡単そうであるが、このように飛ばせる様になるには毎晩アルコールの力を借りながらのたゆまぬ努力と練習が必要なのだ。
 このスカイアーマー、秋葉原で購入したものとまったく同じものが長岡の家電店で売っていたのを発見してもうひとつ購入してしまった。
 ひとつは医院に持って行き、スタッフの前で飛行のお披露目をしたところ「かっこいい」「先生、すごい」と称賛?され、子供のように誇らしい気持ちになりました。3千3百円なんて信じられない優れものです。
 このように安価に購入できるようになったのは実は携帯電話が普及したおかげなのです。携帯用のプルプル振動用バイブレーターのための安価で極小で丈夫なマイクロモーターができたためです。
 不思議なもので、こういうおもちゃ好きな血は息子にしっかりと受け継がれた。彼はお菓子の付録に付いていたガンダムの組み立てからプラモデル作りに目覚め、小学生の時には長岡龍文堂の常連客となっていた。大学生の今でもフィギア作りに励んでいる様である。
 よく覚えていないが、私がプラモデルを初めて作ったのは昭和33年か34年ころ。潜水艦ノーチラス号を作った。それ以前はなんでも木をナイフで削って作りだしていた。木製でもその表面にうすく溶いたラッカーサーフェサーを重ね塗りし、目の細かい紙やすりに水をつけながら研磨したのち、塗装でしあげると重厚な戦艦や飛行機ができあがる。うまくできあがれば自慢の種、最高の宝物となったのである。
 自分が子供のころはラジコンカーなどはとても高価で、買ってほしいなどと言おうなんて、夢にも思いもしなかった。でも竹ひご製のゴム動力飛行機を作ってゴムを巻いて飛ばし、うまく飛んだ時のうれしい気持ちは今も良く憶えている。
 ……あれにはかなわないような気もするが、この歳になってやっと正太郎少年のように、自在に操縦してロボットを飛ばすことができるようになった。科学の進歩が昔の少年の夢を実現してくれた。勝手にそう思うとなおさら気持ちが昂ぶり、子供のようにわくわくさせられる。
 そう、夢は空を飛んで。

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