長岡市医師会たより No.358 2010.1


もくじ

 表紙絵 「浅間新春(軽井沢から)」 丸岡稔(丸岡医院)
 「新年のご挨拶」 会長 大貫啓三(大貫内科医院)
 「新春を詠む
 「開業4年間を振り返って」 横田隆司(横田内科・消化器科医院)

 「英語はおもしろい〜その4」 須藤寛人(長岡西病院)
 「善きサマリア人」 鳥羽智貴(立川綜合病院)
 「宝船と初笑い」 郡司哲己(長岡中央綜合病院)



「浅間新春(軽井沢から)」 丸岡 稔(丸岡医院)


新年のご挨拶  会長 大貫啓三(大貫内科医院)

 新年あけましておめでとうございます。先生方におかれましてはいかが新年をお迎えになられたでしょうか。
 昨年8月の総選挙で民主党政権が誕生し、医療を取り巻く環境がどのように変化するのか、また日本医師会の対応はどうなるのかが注目されました。
 総選挙での日本医師会の対応に対して長妻厚生労働大臣は、中医協のメンバーから日本医師会の役員3人全員を外すという荒療治で対してきました。この結果、診療報酬等を決定する場に日本医師会が十分な影響力を発揮できないという未だかつてない事態が生じております。これに対して日本医師会の対応は、長妻厚労大臣の中医協外しに対しては抗議の声明を出しましたが、犬の遠吠えのようなもので、また唐澤執行部は本年7月の参議院選でも再び自民党選出議員を推薦するなど、大鉈を振るえないでおります。本年4月1日に行われる日本医師会長選挙には、昨年の総選挙から民主党支持を鮮明に打ち出し、唐澤執行部との違いを明確にしてきた茨城県医師会の原中会長が立候補し、唐澤現会長との間で激戦が予想されています。
 しかし民主党政権になってからは、自民党小泉内閣からの負の遺産でありました社会保障費2,200億円の削減は行われないことになり、また、2010年度の診療報酬改定の改定率は、ネットで0.19%のプラス改定となり、10年ぶりにマイナス改定でなくなりました。ただその内容は、開業医の再診料を下げて病院の再診料を上げて同じくしたり、小児科、産科、救急等の診療報酬のみを引き上げようとするものであったり、診療所にとってどの程度プラスになるかは実際に診療報酬が改定されなければ分からない部分が多くあります。
 また昨年は、新型インフルエンザに振り回された年でもありました。人への感染を最も恐れられていた強毒性の鳥インフルエンザ(A/H5N1)ではなく、メキシコで発生した豚インフルエンザ(A/H1N1)が、瞬く間に世界を席捲しました。昨年暮れの時点では国民の8人に1人が新型インフルエンザに感染し、医療機関を受診した1300人に1人が入院し、入院患者の16人に1人が重症化しています。また受診者の13万人に1人が死亡したと推計されています。新型インフルエンザは、基礎疾患を有する人の方が重症化しやすく、また、小児死亡例では、その60%が医療機関を受診し抗ウイルス薬などの投薬を受けて帰宅後、重症化したとのことです。新型インフルエンザワクチンについても、国の投与方針が二転三転し、ワクチンの配分方法に関しても、新潟県の場合は昨年の10月中旬に「貴医療機関で接種可能な人数は、1週間当たり概ね何人ですか」という一回だけの質問でワクチンの配給量が決定され、その後のワクチン接種に支障を来した医療機関も少なくないと思います。県にはもう少し木目の細かな配慮を希望するところです。小学校・中学校・高校では学級閉鎖や学年閉鎖が相次ぎ大変でしたが、老人施設での大流行がほとんどなく不幸中の幸いでした。今は新型インフルエンザも少し下火になってきているようですが、季節性のインフルエンザの流行も1月、2月には起きてまいります。新型インフルエンザの第2波の恐れもあり、まだまだ油断は出来ません。
 私が長岡市医師会の会長職をお引き受けしてからもうすぐ2期4年が経とうとしております。この間たくさんのことをやらせていただきました。以前から市民の時間外診療のために行っている「休日急患事業」ならびに斎藤前会長の下で立ち上げた「こどもの平日夜間急患事業」はもとより、平成20年5月から始めた「大人の平日夜間急患事業」も受診者数は伸び悩んではおりますが比較的順調に行われており、また、こども急患事業は、長岡市からの要望で平成21年4月から土曜日の夜間にも開設され、平日の数倍の患児が受診して大忙しの状態です。
 三年前から始まりました長岡高校のメディカルコースの講義は、たくさんの先生方からご協力いただき、本年3月に、初めて医学部を始め、医学系の大学を受験する生徒が出てきます。高校側は医学部に合格する人数が、昨年の倍以上と見込んでいるとのことですが、果たして何人医学部に合格をするか楽しみです。
 さらに、認知症診療のスキルアップ(長尾理事の発案)、緩和ケアのスキルアップ、地域連携クリティカルパスの構築(いずれも富所副会長の発案)の3つの事業についても順調に行うことが出来ました。認知症については長尾理事、三島病院の森田先生を中心に認知症診療のスキルアップのためのアンケートや講習会を行っていただきました。緩和ケアについては、富所副会長、長岡西病院(現田宮病院)の的場先生を中心に、一昨年から昨年にかけ3回のグループワークと一般市民も参加しての「緩和ケアを考える交流集会」が開かれました。地域連携パスについては、富所副会長、日赤の高橋先生を中心に胃癌・大腸癌ならびにB型・C型肝炎について作成され、病診連携の一環として軌道に乗りつつあります。また、日赤の佐藤先生を中心にCOPDの地域連携パスも作成中で、来年度早々にも稼働する予定です。
 また、ほとんどすべてのがん検診において、長岡市が県平均の約半分の受診率であることから、富所副会長の発案で受診率向上を図るべく「新潟県がん検診促進企業連携事業」に応募しましたところ、長岡市医師会が4つの事業所の一つに選ばれました。この事業でいただいた350万円を2009年度中に受診率向上のために有効に使おうと思っております。具体的には、「暮らしの通信」紙に数回にわたってがん検診がいかに大切かをアピールする広告を載せ、医療機関を受診している患者さんすべてに対してがん検診受診チェックカードを用いてがん検診受診勧奨を行い、さらには医師向けに「がん検診に関する講演会」ならびに一般市民向けに「がん検診についての市民公開講座」を開催し、がん検診受診率向上を目指します。この事業はこれからも粘り強く行うことが必要であり、会員各位のご協力をよろしくお願い申し上げます。
 私ごとで恐縮ですが、この度の医師会役員選挙では私は辞退権を行使し会長職を降りさせていただくことにしました。2期4年間にいただいた会員各位からのご厚情ならびに叱咤激励等、誠にありがとうございました。至らぬ会長ではありましたが、ご協力ご支援いただきましたことに深く感謝申し上げ、新年のご挨拶と致します。

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新春を詠む

 病癒え新年祝ふ四世代  荒井紫江(奥弘)

 胸開き気伸ぶる心地冬至過ぐ  十見定雄

 囲われてなお咲き競う山茶花や  江部達夫

 新婚の写真大きく賀状来る  石川 忍

 折り紙は宝船らし旅枕  郡司哲己

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開業4年間を振り返って  横田隆司(横田内科・消化器科医院)

 私は昭和40年小国町に生まれました。両親が開業医であり医院と自宅が併設されていたため子供の頃から医院が遊び場でした。そんな環境の中、父・母の背中をみて育ったため(三男の私としては周りの期待も低く自由の身であったのですが)、自然と将来医師になりたいと思うようになっていました。そして幾年が過ぎ平成4年岡山の地で内科・救急医療研修医として医師としてのスタートをきりました。
 2年間の研修を終え新潟大学第3内科に入局させていただき消化器内科の基礎を学ぶとともに、青柳教授、須田先生のもと研究の場を与えていただきました。短い期間でしたが私の人生の中で大変貴重な時間を過ごす事ができました。研究生活が終わり17年ぶりに(高校から県外に行っていたため)古里長岡の地に戻り立川綜合病院消化器内科医長として赴任させていただきました。
 その頃の私を取り巻く状況は、兄(次男)が実家の医院を継ぎ、私はその当時の七條部長のもと、肝・胆・膵の分野でのびのびと診療していた記憶があります。また私生活においても一女一男の子を授かり、平穏な生活を送っていました。そんな生活の中で先輩医師が開業していく姿をみたり、開業後の話を聞いたりするうちに少しずつ、幼い頃みた父の姿を思い浮かべるようになっていきました(最終的に私は医師になりたかったのではなく父のようになりたかったのかもしれません……今でもわかりませんが)。青柳教授に相談したところ「一年間魚沼病院で一般内科を勉強してから開業してはどうか?」とアドバイスをいただき、明確に開業に向けて舵を取るようになりました。魚沼病院に移動した後も開業地は決まっておらず頭の中で理想の医院を空想の中で描いているにすぎませんでした。
 そんな中、まず開業に向けてした事はスタッフの選定でした。長い時間をかけて口説き落とした感じです。その後どこから開業の話がもれたのか多くの人から開業地についての提案をいただきました。その中で地元の人の勧めと小国の近くである事が最終的な決め手となり、越路での開業を決めました。その後は地元の人をはじめ、周りの人の協力・支援を得てスムーズに開業準備ができました。ただ一つ医院地鎮祭の翌日があの中越地震だったことを除いては……。
 その後、医院工事が遅れ開業前日まで医院駐車場が舗装されていない状況でしたがなんとか間に合い、平成17年5月2日思い描いていた理想のスタッフと共に開業医としての初日を迎えることができました。開業してから今までの4年間、充実した日々を送っています。医院に来院される子供さんからご高齢の方、勤務医時代から診ている患者さんまで、その一人一人の患者さん達へ「僕なりに満足していただける医療を提供できれば」と思いながら過ごしている今日この頃です。
 父は59才という若さで、朝、診察室に向かう階段で息を引き取りました。今、診察室の机で目を閉じると、父の医師としての患者さんを思う気持ちが少しわかるような気がします。先日高知の墓参りをしてきた時、ふと我が先祖の亡くなった年齢が70代後半から80代であり、そんな中で父だけが早死にである事に気付きました。医者の不養生なのか? 今思う事は「私自身が体力的、精神的にゆとりがなければ優しさを持った医療ができない」という事です。ともあれ今後は、患者さんと共に自分の健康も考え、末永く診療ができるよう心がけていきたいと思います(その第一歩として25年間一日もできなかった禁煙を現在1年半継続中です)。
 医師としてスタートを切りいろいろな人と出会いご指導いただき、また私の頭の中に残るかすかな父親像に導かれてここにいる今の自分、歩いてきた道に後悔することはありません。開業してから一医師にできる限界を痛切に感じております。今まで緊急・時間外を問わず助けてくださった総合病院の先生方、開業医の先生方のおかげで今まで大きなトラブルもなく過ごす事ができ大変感謝しております。今後も諸先生方にいろいろお世話になる事が多いと思います。今後も変わらぬご指導・ご鞭撻のほど宜しくお願い申しあげます。

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英語はおもしろい〜その4  須藤寛人(長岡西病院)

empirical 経験的な

 evidence-based medicine「証拠に基づいた医学」の重要性が強調されて久しい。それでは“evidence-based”以外の医学はどのように表現したらよいのであろうか?あまり適切な言葉は無いように感じていた。あえていうなれば“empiricalmedicine”とか“empiricallyacquiredmedicine”、「理論ではなく(単に)経験によって得られた医学」と呼んだらどうであろうか。
 empiricalという言葉は「経験、観察あるいは実験によって得られた情報を基にする」という意味(Wikipedia)で、empirical research実験的研究、empirical data実験データ、empirical result実験結果、empirial knowledge経験的知識、empirical formula(化)実験式、empirical phylosophy経験哲学などとあるから、empiricalという語はそう軽い意味の言葉ではないようである。
 empiricalの反対語はtheoreticalが一般的のようで、同じ意味のempiricは(名)として「経験のみを頼りにする人」、「やぶ医者」と岩波英和辞典には書かれているので、やはり見下したような語なのであろうか。なお、やぶ医者は米口語ではquackが一般的。
 Wikipediaには、この辺のことが〈variants〉として書かれてあり、empiricalは科学的にはexperimentalと近い意味を持ち、統計を用いた科学研究において、たとえば2つの事象に関連を認めているが、しかし未だ十分な関連性のメカニズムが理論として明らかにされていない時に使用される」とあり。また、“evidence”と“empirical”の語彙関係において“All evidence must be empirical,or empirically based, tha tis, dependent on evidence or consequences that are observable by the senses.”と説明している本もあることから、“empirical medicine”という言い方はあながちではないであろうか!
 empiricの語源はL.<Gr.<emperiaen-,in+peira,atrial。関連語、empiricist経験論者、empiricism(哲)経験主義者。
 古代ギリシャでは病気は神の怒りと考え、神に救いを求めた。治療は哲学に属し権威者によった。ただ一人ヒポクラテスはこの分野を哲学から引き離し、「医術は推論からではなく経験から帰納する。以前に成功した治療経験によって医療を行う」姿勢を貫いた。そしてローマ時代のケルススがコス島の医療集団を「経験学派」、エンピリキと呼んだと二宮陸雄は「知られざるヒポクラテス」に書いている。empiricalという語は悠久の歴史の中で意味合いを変えながら存在していると言えよう。

excoriation 擦過傷

 ある日、Bronxの家庭裁判所に証言をして欲しいと検事(districtattorney)よりの依頼の手紙を受けとった。法律英語は大変特殊で良くわからないのでビビッテいたが、とりあえず出向いた。部屋は日本の学校の教室のようなところで、出席者は十数人くらいしかいなかった。形の如くのYes,Ido.の宣誓をさせられ、カルテのコピーを見せられた。それは私が半年以上も前に書いた、rapeされた女性の救急外来診察記録であった。所見もきちんと書いてあり、絵図もあり、検査もしていた。
 検事は、前胸部数カ所に印しをつけられた“excoriation”と書かれていることを説明してくれと言われた。私は、即座に“medica ltermでabrasionのことです”と言った。しかし、会場の空気の変化を感じなかったので、“scratchmark”と言い直した。出席者は今度は分かったという顔をした。
 excoriationは皮膚のすりむき、すりむけた所である。excoriate(動)はabradeすりむく、peeloff(皮膚を)はぐ、strip、scratch、scrapeなどと一般の辞書には載っている。
 語源は(ラ)excoriate-(tus)の過去分詞excoriare to strip off(the hide)(ex off+corium skin)とのこと。一般のアメリカ市民には、日本人でもそうであるように、医学用語はなかなか難しいようだ。もし、上記の患者に青あざなどがみられ、挫創と判断されたら“contusion”と書いたであろうが、一般の人からすると“bruise”(あざ打撲傷)ということになる。
 hysterectomy(子宮摘出)などと医学用語を使っても頸を傾げられたり、uterus(子宮)と言ってもよく分かってもらえないこともある。womb〔wu:m〕というと子どもも含めてほとんどの人が分かる。一般の人の分かる言葉を、専門用語と対する意味で、“layman's term”(素人言葉)という。子宮筋腫は“myoma”より圧倒的に“fibroid(s)”の方が通じる。日本でも同じように、100年くらい前は子宮のことを、「こぶくろ」と呼んでいたのではないかと推測する。しかし、現在の研究社の大辞典にはwombの訳に「こぶくろ」は載っていない。英語はほんとうに生き物のようにおもしろい!
 書き忘れるところだったが、裁判所には被害者は出席していず、証言(witness)はものの5分で終わった。(続く)

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善きサマリア人  鳥羽智貴(立川綜合病院)

 「機内で病人が発生しました。お客様の中に医師の方はいらっしゃいませんか?」というのはよく聞く設定ですが、現実にはどの程度の頻度であるのでしょう。経験した方はその時どうされたのでしょうか。どれだけの医療設備が整っているのかもわからない機内で判断に迷い、数千万単位での損害が出るであろう緊急着陸など安易に選択することはできないでしょう。私は医師になってから飛行機に乗る機会がまだ数回ではありますが、幸いそのような場面には遭遇していません。先日、同期の研修医達と、実際に自分だったらその時に名乗り出るかどうするかという話になりました。
 およそ七割程度の確率で飛行機には医師が乗客として乗っているらしいのですが、いたとしても数人。むしろ自分だけの可能性も高いというわけです。しかし、日本国内の医師に実施したアンケート結果によると、名乗り出るという人は全体の四割近くに留まるそうです。思ったよりも少ないという印象を受けました。皆さんは善きサマリア人の法という法律を御存知でしょうか。聖書に次のような話があります。
 「ある人がエルサレムからの道中、強盗に襲われ、着物をはぎ取られ、半殺しにされた。すると一人の祭司がたまたま通りかかったが、その人を見て道の反対側を通り過ぎた。同じく、一人のレビ人がそこを通りかかったが見て見ぬふりをしてすぎて行った。ところが旅をしていたあるサマリア人が、その人を見て哀れに思い、近寄って傷の手当てをしてやった。それから自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き介抱してやった。その翌日、サマリア人は銀貨二枚を取り出して宿屋の主人に渡し『この人を介抱してください。もし足りなければ、帰って来たときに私が支払います』と言った。」
 要約すると、「報酬を期待せずに善意で人を助けようとする心を持て。」という内容です。やや意味合いが違う気もしますが、この内容が法律化されたのが『善きサマリア人の法』です。災難に遭ったり急病になったりした人を救うために無償で善意の行動をとった場合、良識的かつ誠実にその人が行動したなら、たとえその行為が失敗しても責任を問われない、という趣旨の法です。アメリカやカナダなどで施行されていますが、日本では制定されていません。
 これはアメリカなどでは善きサマリア人の法が無ければ緊急行為に関して罪に問われる可能性が高いというのに対し、日本では善きサマリア人の法がなくても緊急行為が罪に問われる可能性が低いからと言われています。言い換えれば、日本の法律に欠陥があるわけではなく、単に不必要という理由に過ぎず、仮に善きサマリア人の法が明確化されたとしても、現状とそんなに変わるところはないと解釈されています。しかし本当はそうではない気がします。以下のような二つの事例をインターネットで見掛けました。
 「ある夏の夜、ある自宅クリニック前の路上で急病人が発生し、クリニックの医師が診察したところ、上気道閉塞を疑われ挿管は不可能と判断された。転送のため大学の救急救命センターに電話中、呼吸停止し呼びかけにも応じなくなった。緊急で気管切開を行ったが、その際に血管を傷つけてしまい、出血多量で死亡した。その医師を待っていたのは、警察による業務上過失致死の容疑による取り調べ、さらには『助けてください』とその医師にすがった患者の妻からの弁護士を介しての損害賠償請求の通知であった。」
 「知り合いの元スチュワーデスに聞いたところ、彼女の勤務した四年間では緊急事態が四回発生したそうである。一回、初老の医師が名乗りをあげたそうだが、その時の患者は不幸なことに心筋梗塞で帰らぬ人となった。驚いたことに遺族は医師の処置に疑問を抱き、一時は訴訟騒ぎにまでいったが、なんとかそれはおさまったらしい。」
 このような事例があったことを耳にしてしまったら萎縮してしまい、機内でのアナウンスに対して応じない方が賢明だと思う方も多いでしょう。事実、名乗り出ないと答えた六割の半数が日本の法律に対する不安を理由としています。私が同期の研修医達と話した結果、アナウンスに応じないという結論に辿り着きました。苦しんでいる人を助けたいのは当然ですが、リスクが高すぎるから手を出せずにいるとは悲しいことです。きっと日本においても善きサマリア人の法が必要なのではないでしょうか。

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宝船と初笑い  郡司哲己(長岡中央綜合病院)

「国立演芸場にやってください。」
「はあ??」とタクシー運転手。
「最高裁判所の裏あたりで……」
「ああ、なんだ国立劇場ですね。」

 三宅坂を上ると国立劇場(歌舞伎上演の堂々たる建物)の正面で降ろされそうでした。裏手に回り込んでもらい、国立演芸場に到着。表の歌舞伎の劇場に比べマイナーな寄席ですが、わたしはこちらの文化派。
 今朝ホテルで起きて、気がついた心配事があります。演芸場の受付係の女性にこわごわ訊ねました。

「今日の昼席をネット予約した者ですが、予約番号のメモを忘れ……。」
「だいじょうぶです。予約でご使用のクレジットカードをこの機械に入れると、入場券が出ますよ。」
「よかった、ほっとしました。」

 齢を重ねると、女性はたくましくなるそうですが、男性のわたしは失敗や挫折にめげやすくなりました。なんとかなるさと理性では判断していても、ちょっと心配でした。家人も安心の笑顔です。
 トラブルも予想し早めに着いたので待ち時間があり、暇つぶしがてら場内売店に行きました。なんとお弁当のみならず温かいお酒なぞ販売中ではないですか。中入り(寄席の休憩)に座席で飲食してよいとのことでした。他の寄席は新宿の末広亭はお酒禁止、上野の鈴本はお酒もよしでビールの自販機あり。国立演芸場は常連でないので、飲食不可と思っていました。だって「国立」ですからね。それが燗酒におつまみ弁当も買え、ささやかなしあわせ。

「うれしそうね。チケットも無事に買えたし、よかったわね。」
「初寄席は十数年ぶり。一番後列の席しか取れなかったんだけど、他の寄席で行列に並ぶよりいいよね。」

 席についてすぐ、背の高い年配の男性が寄席にはめずらしいスーツ姿で登場し、女性グルプと一緒にわれわれの数列前に座りました。
「あっ、あの人、シオジイだわ。寄席に来るんだね。すてきね。」と家人が気がつきました。数年前に高齢で政界引退されたはずですが、ダンディで矍鑠とされてました。
 新春名人会は、正月ならではの正統的な獅子舞の神楽で始まりました。落語は志ん輔、馬生、圓蔵ら。他にも切り紙、漫談、漫才などにぎやかな演目を楽しみました。
 ただ中入り時間が他の寄席より短く、お弁当が食べ終わらずに、すこし「隠れ食い(+飲み)」になりました。最後部席でよかった……。11時半から2時半過ぎの3時間余りがあっという間に過ぎました。
 一泊ミニ旅行で、前日2日は初詣と明治座で『細雪』の観劇でした。宿泊は芝の増上寺裏のPホテル。部屋には宝船の説明文と折り紙見本と数枚の色紙がありました。良い初夢を見るため、枕に宝船の絵を敷く古くからのしきたりがあるそうです。家人が難しいと言いながらも半時間かけて、宝船を折りました。わたしはめんどうくさいので、見本に置いてあった宝船を枕に敷いて眠りについたのでした。

「わたしは疲れてぐっすりで全然夢を見なかったわ。あなたはよい初夢でした?」と帰途の新幹線で思い出したように家人。
「いや、全然夢は見なかったよ。」と答えながら笑いました。

 夢は見ていないと言うのに、夢の中身を隠すなんて水くさいと女房が怒り出し、その夫婦喧嘩が奉行所への大騒ぎとなる『天狗裁き』なんて落語を思い出したのでした。

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