長岡市医師会たより No.362 2010.5


もくじ

 表紙絵 「ルピナスの花」 藤島暢(長岡西病院)
 「拉致・監禁からの生還〜その1」 美矢家秘吐詩(三宅仁:長岡技術科学大学)

 「宇宙への入口」 目崎直実(長岡赤十字病院)
 「我々は何処から来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか〜その1」 福本一朗(長岡技術科学大学)
 「家庭菜園の春」 郡司哲己(長岡中央綜合病院)



「ルピナスの花」 藤島 暢(長岡西病院)


拉致・監禁からの生還〜その1  美矢家秘吐詩(三宅仁:長岡技術科学大学)

プロローグ
 2010年1月19早朝、急性心筋梗塞(三枝病変)で緊急入院し、ステント治療にて30日に退院(12日間入院)できました。
 本作品はこの経験に基づいて再構成したフィクションです。やや被害妄想的ですが、突然の入院はキューブラ・ロスの死の受容から言えば、5段階のうちのまだ2〜3段階目ということでしょうか?まだASD(急性ストレス障害)から回復していなく拘禁症状が出ているのかもしれません。患者心理の一端のつもりです。芸術療法と思い、お付き合い下さい。
 T病院救急外来担当S先生、主治医N先生、研修医S先生、看護師さん、その他多くのスタッフの皆様に紙面を借りて深甚なる感謝を申し上げます。また、心配頂いた大学の同僚、学生諸君、友人、家族にも御礼申し上げます。

2010年1月19日(火)午前3時 拉致・監禁
 「あなた、起きて。とうとう来たわよ。」妻の緊張した声に、覚悟はしていたが、これから起こる出来事に自信はなかった。かねて用意したカプセルを静かに噛んだ。
 3、4人の男たちはあっという間もなく俺を車に押し込め、泣き叫ぶ妻を置き去りに、まだ夜が明けない、雪道を静かに走り出した。手足はなぜか動かず、体には電極のようなものを張られ、口にはマスクを押し当てられ、声も出せなかった。
 観念して時間を計ってみたが、意識も朦朧としており、15分程度と思われたが、実際には1時間ぐらい走ったのかもしれない。彼らのアジトに着くと、服はおろか、メガネ、時計など身に着けていたものはすべてはがされ、素っ裸にされ、早速拷問が始まった。
 氏名、生年月日、家族などありきたりのものから、仕事の内容までかなり詳細にわたって聞かれた。ウソを言うとそのたびに縛られた手や足を躊躇なく痛めつけ、極め付きは陰部をもてあそんだ挙句、陰茎に管まで入れてきた。見渡すと男ばかりでなく、若い女スパイもたくさんおり、SM趣味のない俺にとってはとても耐えられるものではなかった。当然、自白剤のようなものを注射されたはずで、無意識に何かしゃべったかもしれない。しかし、カプセルのお蔭で肝心なことはしゃべらなかったはずだ。
 彼らはすぐに次の手段に移った。すなわち、腕からカテーテルを入れ、心臓を直接探り始めたのだ。なかなか手ごわい相手だ。おそらく、北朝鮮のようなレベルの低い国ではなく、U国かC国か、はたまたR国か。場合によっては国際的な犯罪組織かもしれない。しかし、たとえ直接心臓を探られても分かるはずがないという自信があった。カプセルは15分で消滅したはずだ。
 「お前たちが欲しがる物は止まった心臓からは得られないぞ。バイパス手術と称して、開胸して対外循環、心停止にすれば、例のものは永遠に得られないぞ。」必死に俺はわめいた。「動くな、動くと死ぬぞ。」薄れゆく意識の中で、男の声が響いた。

2004年2月11日(水)午前8時 建国記念日の黒い影
 最初に彼らの存在に気づいたのは6年前の建国記念日だった。子供にせがまれてスキーに行く準備をしていたところ、近所の家の前に見知らぬ黒塗りのワゴン車が止まっているのに気づいた。何となく怪しいと思い、スキーを取りやめた。息の詰まるような胸苦しさが続いた。その年は結局、一度も出かけなかった。
 以後、大学の独法化、二度の大地震や父の死など大きな出来事があったが、その前後、彼らの存在に気付いたことはなかった。他方、二年前から休日の外出時や学会の出張時などに時に黒い影を認めることもあった。特に研究が完成に近づきつつあった昨年の夏ごろからたびたび目撃することとなった。しかし、かれらも研究が未完であることを知っており、すぐに襲われることはないものと高をくくっていた。
 今年の正月は郷里の岡山で学会があり、正月休みを延ばして実家に滞在した。この間、老いた母親の世話をしたり、十年前に急性心筋梗塞でステント治療をし、現在開業している友人を訪問したりした。しかし、これらはカムフラージュであり、本当は学会で共同研究者のH教授と情報交換することが目的であった。黒い影が追ってきたが、土地勘のある岡山では尾行を撒くのは造作もないことだった。(つづく)

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宇宙への入口  目崎直実(長岡赤十字病院)

 新しい世界を切り拓くという行為は大変な労力を伴うけれど、その先にはすばらしいものが待っていると思います。新しい世界を知るということは、自分の視野を広げ新たな発見をすることができます。
 私は小さい頃、冒険家になりたいと思っていました。その頃は具体的なことはわかりませんでしたが、ただ漠然といろんなものをみてみたいという好奇心はありました。現在は医師として働き出しましたが、いろいろな世界をみてみたいという思いは変わりません。そんな私は冒険の最たるものである宇宙という空間に興味を持っています。特に人間が宇宙へ行くという有人宇宙開発は魅力的な分野だと思っています。人間が初めて飛行機で空を飛んだのは1903年のライト兄弟によるものです。それから初の人工衛星打ち上げが1957年。人類初の宇宙飛行を行ったのがソ連のガガーリンで1961年。月面着陸を果たしたのが1969年。スペースシャトルの初飛行が1981年……と人間が空を飛ぶようになってからまだ百年あまり、宇宙に行くようになってからは50年程しか経っていません。そんな浅い歴史の中で飛躍的な進歩を遂げてきました。宇宙開発当初はアメリカまたはロシアの軍人のみ宇宙飛行を許されていましたが、今では様々な国の民間人が行く時代となりました。宇宙での滞在時間も初めは数時間でしたが、現在では宇宙ステーションもできて、人が宇宙で暮らせるようになりました。
 宇宙から地球をみると世界観が変わるとききます。実際に宇宙飛行した人の中には宗教家になった人もいるくらいです。価値観を根底から変えてしまうくらいのものがあるのでしょう。そんな瞬間を目の当たりにしてみたいものです。宇宙から地球を眺める、そして宇宙からさらに広がっている宇宙空間をみるということは宇宙の中の地球人として体験してみたいことであるし、必要なことだと思います。
 昨年の夏、私はアメリカ一人旅を計画しました。目的地は長年行ってみたかったNASA(アメリカ航空宇宙局)のロケット発射台です。アメリカの南部フロリダ州にあるケープカナベラルという地にNASAの一施設であるケネディ宇宙センターがあります。その中の東部、大西洋に面したところに発射台があります。ここからアポロ計画以降のロケットが発射され、現在のスペースシャトルもここから打ち上げられています。言わば宇宙の入口です。発射台から約6キロ離れたところにシャトル組立棟があります。発射台と組立棟の間には砂利道が敷かれていて、発射最終段階に準備されたシャトルがキャタピラ移動車に乗ってゆっくりと発射台へ向かうのです。一般客の立ち入りが許されているのは発射台監視場という発射台から少し離れたところで、発射台や組立棟などを見られるようになっています。
 昨年の9月下旬、私はここを訪れました。晴天で、爽やかな暑さを感じる日でした。私が行った期間はシャトルがまだ組立棟に入っている段階で、建物の隙間から準備中のシャトルを覗くことがやっとできる程度でした。海の方を見ると真っ青な空の下、穏やかで真っ青な大西洋に囲まれて発射台が立っていました。ここから何人もの人を乗せて、いろいろな思いをのせて飛び立って行ったんだと感慨にふけりました。センター内では、失敗をしながらも、前を見て道を拓いていこうとする力強さを随所で感じました。結局私は3日間その場に行って、何をするでもなくただその景色を眺めていたのです。しかし、何だか心を洗われた様な気分になりました。
 NASAは2010年をもってスペースシャトルを退役させる方針としています。以降の計画は現在頓挫しているような状 態です。しかし、大きな目標はまだまだあります。きっとどんな逆風にも負けず前へと進んでいくことでしょう。
 私もあの場所で感じたことを大切にして前へと道を拓いていきたいと思っています。

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我々は何処から来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか

福本一朗(長岡技術科学大学)

1.ボストン美術館門外不出のゴーギャン遺作初来日

 2009年7月3日から9月23日まで東京国立近代美術館でゴーギャン展が開催され、ボストン美術館門外不出の秘蔵の名作「我々は何処から来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか(D'ou`venons-nou? Quesommes-nous? Ou`allons-nous?)」が我が国で初めて展示された。19世紀の爛熟した西欧文明に背を向け、南海の孤島タヒチに向かったフランス人画家ポール・ゴーギャン(Paul Gauguin 1848−1903)は、その波乱に満ちた人生をただ芸術にのみ捧げた放浪の画家であった。自らの内なる「野生」に目覚めたゴーギャンは、その特異な想像力の芽を育む「楽園」を求めて、ブルターニュ、マルチニーク島、南仏アルル、そして二度のタヒチ行きと旅を繰り返し、その過程で「人間の生と死」「文明と未開」という根源的な主題に行き着いた。このような人間存在に関する深い感情や思索を造形的に表現することがゴーギャンの命をかけての課題となった。タヒチで制作された「我々は何処から来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか(1897−1898)」は、ゴーギャンのその追求の集大成であり、後世の人々に残された遺言ともいうべき傑作である。

2.ゴーギャンの年譜抄
 ポール・ゴーギャンは1848年パリのノートルダム・ド・ロレット街にジャーナリストで共和主義者のクロヴィスを父とし、ペルー生まれのスペイン系貴族の末裔で女性解放運動家フローラ・トリスタンの娘アリーヌ・マリー・シャザルを母として生まれた。翌年、ルイ・ナポレオンのクーデターによる迫害を危惧した一家は、母アリーヌの親族を頼ってペルーに亡命するが、船上で父が病死し、母と一歳年上の姉マリーとともにリマにある大叔父ドン・ピオ家で暮らす。1854年母アリーヌは二人の子供を連れてフランスに戻り、オルレアンに住む。母はお針子として働くために年パリに移るが、ゴーギャンはオルレアンに残って14歳まで教育を受け、ようやく1862年海軍学校の入学試験のために母の暮すパリに移った。しかし海軍学校の入学には失敗し、17歳で商船の見習水夫となりリオデジャネイロに航海する。1867年ゴーギャンが再び南米を航海中に母アリーヌは42歳で亡くなってしまう。1868年フランス海軍に徴兵された彼は三級海員としてジェローム・ナポレオン号に乗船、1870年にはプロイセンとの海戦に参加するがその翌年には徴兵を解かれる。その後姉マリーととともにパリに住み、株式仲買商ポール・ベルタンの店に勤務し、パリ証券取引所で仕事をする。その時、同僚のエミール・シュフネッケルと出逢って絵画への関心を深めた彼は画塾アカデミー・コラロッシに通う。1873年デンマーク生まれのメット・ソフィー・ガッド(1850−1924)と結婚。翌年長男エミール誕生。1876年26歳でサロンに風景画が入選する頃、株の売買の成功で経済的に余裕のできたゴーギャンは、セザンヌやマネらの作品を購入する様になる。1877年長女アリーヌ誕生。1879年銀行家アンドレ・プルドンのもとで働き始め、第4回印象派展に彫刻を出品した年、次男クロヴィス・アンリ誕生。1881年第6回印象派展に出品した作品10点のうち、裸婦習作(W39)をユイスマンスが激賞。その年、三男ジャン・ルネ誕生。1882年フランスのユニオン・ジェネラル銀行の株が大暴落し株式市場が崩壊したことを機会に、ゴーギャンは金融家と画家の二つのキャリアの間で迷い、1883年証券取引所を辞めて画家になる。同年、四男ポール・ロロンの誕生を機会にルーアンに移る。1884年妻メットが長女と四男を連れてコペンハーゲンの実家に帰り、ゴーギャンも後を追うが、翌年パリに戻り姉に預けていた息子クロヴィスとともに暮らす。ポスター張りや検閲官等の仕事に従事。1888年11月画商テオ・ファン・ゴッホ(1857−1891)とその兄フィンセント(1853−1890)と知り合う。1887年シャプレのもとで陶磁器作品制作。「画家としての私の名声は日増しに高くなるが、時には三日も食物がないことがある。これは健康ばかりか精力までもだめにしてしまう。精力の方はなんとしても取り戻したい。私は野蛮人として生きるために、パナマに行くつもりなのだ。(3月末妻メット宛の手紙)」。同年4月から11月、シャルル・ラヴァル(1862−1894)とともにパナマとマルチニーク島に滞在。パナマ運河の建設に加わるが人員削減で失職しフランスに帰国。1888年フィンセント・ファン・ゴッホとアルルで共同生活を始めるが、フィンセントの「耳切り事件」の後、テオと共にパリに戻る。その後、フィンセントの死まで書簡を交わす。
 1890年フィンセント・ファン・ゴッホ死去。1891年テオ・ファン・ゴッホも死去。タヒチ行きの旅費調達ため作品を売る。「私は一人になるため、そして文明の影響から逃れるために出発するのです。私が創造したいのはシンプルな芸術です。とてもシンプルな芸術、……そのために私は無垢の自然の中で自分を鍛え直さなければならない。そして未開人達だけと付き合い、彼等と同じ生活をする。私はそこで、子供の様に自分の頭の中にある観念を表現してみたいと思います。この世で唯一正しく真実である、プリミティブな表現手段によって。(タヒチ出発直前に行われたエコール・ド・パリ紙のインタビュー)」1891年4月1日、フランス国家の公共教育・美術特使としてタヒチに向け出発、6月9日首都パペーテに到着。9月白人と原住民の混血少女ティティと共に、パペーテから南に45km離れたマタイエアに移り、素朴なファレ(草葺き屋根と竹でできた小屋)に住むが、田舎を嫌ったティティをすぐに追い返してしまう。11月若いポリネシア女性テハアマナをモデルとし同棲する。1893年6月タヒチを離れ、帰国、パリに住む。1894年4月新しい愛人のジャワ女アンナとそのペットの猿を伴い、ポン・タヴェンに移る。5月コンカルノーで水夫達と喧嘩し右足首を砕かれる。9月アンナが独りパリに戻り、ゴーギャンのアパートから金目の物を盗んで失踪する。1895年7月再びタヒチに向けて出発し9月9日パペーテに帰着。1896年1月プナアウイアに土地を借用して竹とヤシの葉で伝統的な家を造り、14歳の現地人少女パウラと同棲する。4月貧困・鬱・足の痛みからモルヒネを打ち、モリスに「自殺の瀬戸際」にいると書き送る。7月湿疹にかかり、パペーテの病院に入院するもお金がないため入院費を支払わずに退院する。12月パウラが娘を産むが誕生後すぐに死亡。1897年妻メットからの手紙で1月19日長女アリーヌが死去したことを知り衝撃を受ける。7月眼の感染症・足の傷の合併症・湿疹・梅毒・心臓麻痺(心筋梗塞)を煩っ??て寝たきりとなり、友人に「すべての希望を失った」と書き送る。自殺を考え始める。12月初め再び心臓麻痺に苦しみ、入院を計画する。遺言としての油絵の大作「我々は何処から来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか(W561)」を制作し始める。山に登って砒素で服毒自殺を図るが、翌朝命を取り留めて町に戻る。1898年5月体調が回復し、パペーテの公共土木事業局で働く。「我々は何処から来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか(W561)」他9点の作品をフランスに送る。8月パウラがゴーギャンのもとを去る。9月足の傷が再び悪化し20日ほど入院。11月フランスに送った「我々は何処から来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか(W561)」他9点の作品をヴォラール画廊がたったの1,000フランで購入したことを知り、ゴーギャンはあまりの安さに激怒する。12月歩行も絵画制作もできなくなり絶望感に苦しめられる。1899年1月パペーテの公共土木事業局を辞し、パウラと共にプナアウイアに戻る。4月19日パウラが男の子を産みエミールと名付ける。8月個人新聞「ル・スーリール(LeSourire……微笑)」を自身の手で制作・発刊して、プロテスタント宣教師や植民地統治官を批判する。1900年5月次男クロヴィスが21歳で死去するが、ゴーギャンがその死を知ることはなかったと思われる。1901年9月10日マルキーズ諸島のラ・ドミニック島(現ヒヴァ・オア島)に出発、16日到着し、島民の助けでアトゥオナに「愉しみの家」を建始める。11月「愉しみの家」完成し、14歳の少女マリー・ローズ・ヴァエホを迎え、料理人に二人の召使いに犬と猫と暮らし始める。1902年8月ヴァエホが妊娠し実家に戻り、9月に女児タヒアチカオマタを出産するが、ヴァエホは二度とゴーギャンのもとには戻らなかったため、意気消沈する。12月病気が悪化し制作不能となる。回想と観察を綴った日記風の「前後録(Avantetapres)」の執筆に時間を費やす様になる。1903年3月憲兵に対する名誉毀損罪で禁固3ヶ月罰金500フランの判決を受ける。4月ヴォラール画廊に1899年頃の作品14点を送る。「僕が自分を野蛮人だというのは正しくないといつか君は言ったが、あれは違っているよ。やっぱり僕が正しいのだ。僕は野蛮人だよ。文明人達はそれに気付いている。僕の作品の中には人を驚かせたり、まごつかせたりするものは何もないはずなのに、みな驚いたり、まごついたりしているから。それは僕の中の野蛮人が、本意なくそうした結果を招いたんだ。これが僕を模倣できない所以さ。(4月友人シャルル・モリス宛の手紙)」。5月8日大量のモルヒネ服用と心臓発作により死去。翌日午後2時アトゥオナのカトリック墓地に埋葬される。享年54歳であった。(つづく)

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家庭菜園の春  郡司哲己(長岡中央綜合病院)

 5月連休の後半は(前半は仕事でした)庭先の畑に野菜苗の植え付けと種蒔きをしました。その二週間後の雨上がりの朝、菜園の見回りで悪い発見とうれしい発見をしました。
「うわっ、オクラの苗はこの異常低温で完全に枯れてる。苗を買い直して風除室で育て、六月上旬に暑くなってから植え直そうか。」
 アフリカ原産の暑さ好きのオクラの苗の失敗はこれで数回目かも。懲りないようだが、この春先の冷え込みは異常だったからと自分に言い訳なぞしてみます。
「比較にと試しに植えた接ぎ木苗と普通の苗は、茄子はよいけど、キュウリはひどい状態の差だ。どうも普通の苗は枯れてしまいそうだな。」
 キュウリや茄子などの野菜苗は、病害に強く繁殖の盛んな台木(ユウガオまたはカボチャが通常用いられる)に接ぎ木して、苗が売られています。当然ながらポット苗の値段も五割増しくらい高いです。
「おっ、畑の土を少し持ちあげて、やっと緑の芽が出てきた。」
 それは枝豆ですが、1カ所に3粒ずつ蒔いてあり、全体では数日がかりで発芽率はおよそ70%でした。
 通常は7日前後の発芽と手引き書には記載がありますので、数日以上遅れておりました。そこで素人には収穫した豆での継代的な自家栽培は無理なんだろうかと心配し始めた矢先でした。
 たとえば花種では朝顔やヒマワリは大丈夫。かなり難しいのは球根モノで、例えば百合のカサブランカや大半のチューリップも。
 ところで昨年は畑で豆から蒔いて栽培した枝豆(茶豆)は、ビールの友においしくいただきました。
「野菜の取れたては味が違う」とよく聞きますが、家庭菜園で収穫してなるほどと実感できます。ちなみに取れたてを家庭で食して店頭で買った野菜とはひと味違うとわかる御三家は、枝豆、キュウリ、グリーンアスパラガス。素人園芸家のわたしにもこれは断言できます。
 さてそのうまい枝豆を全部食べてしまわずに、一部を残して置き、秋に本体が枯れてから本来の大豆として収穫しました。笊に干し乾燥した数百粒の種蒔き用の豆を我が家に保存しておいたのでした。
 伝統的に春先に種選びという農事作業の用語があり、俳句の季語にもなっています。野菜や花の種を引っ張り出し、植える準備として蒔くべき最も良さそうな分だけを選定する作業であります。種というといつも思い出すのはこの俳句です。

ものの種 にぎればいのち ひしめける  日野草城

 先月の新潟の句会で中原道夫主宰の特選だったわたしの俳句作品は、この枝豆の種選びが題材でした。主宰選評「おもしろいが、新潟の地方カラーの俳句。日本中で枝豆の名前がわかるとよいんですけどね。」

乾びたる「湯上がり娘」種を撰る  越野蒼穹

 わたしの扱った豆は黒崎茶豆で、乾燥するとやや黒に近い焦げ茶色です。その洒落た名前が記憶に残ったのですが、割烹で茹でたてを供され、まさに湯気で上気したような「湯上がり娘」は、たしか青豆だったような気がします。昭和初期にわたしの俳句の師系にある水原秋桜子は、文学製作上での虚構性について「芸術上の真」を主唱して、頑固に嘱目写生を説く師の高浜虚子と訣別しました。
 たかが枝豆の品種が実体験と異なるくらいお気になさらず……。

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