長岡市医師会たより No.365 2010.8


もくじ

 表紙絵 「早朝の文化公園」 丸岡稔(丸岡医院)
 「故 小澤寛二先生を偲んで」 小西徹(長岡療育園)
 「はじめまして」 吉川秀人(長岡療育園)
 「雑談・弁天小僧」 中山康夫(南魚沼市:中山医院)

 「拉致・監禁からの生還〜その4」 美矢家秘吐詩(三宅仁:長岡技術科学大学)
 「楽しい研修医生活」 土屋潤平(長岡赤十字病院)
 「台風とオリーブの木」 郡司哲己(長岡中央綜合病院)



「早朝の文化公園」 丸岡 稔(丸岡医院)


故 小澤寛二先生を偲んで  小西 徹(長岡療育園)

 小澤寛二先生は、20年以上に渡る慢性肝炎の経過から肝癌移行、肝不全のため平成年7月22日に78歳の生涯を閉じられました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。私のような若輩者が先生の追悼文を書くことになるとは思いもしなかったことで、先生には大変失礼なことではないかと恐縮しています。
 先生は昭和40年に新潟大学医学部大学院を卒業され小児科学教室に入局、ドイツ留学を経て、昭和45年から60年まで長岡赤十字病院小児科部長、その後は平成10年まで国立療養所新潟病院院長、定年後は平成12年まで長岡療育園園長、以後は名誉園長としてご活躍されました。私が小児科学教室に入局したのが昭和49年ですので、既に長岡に赴任しておられ直接のご指導を受けたことはありませんでした。ただ、地方会などのご発表・発言を聞いて“学問的に立派で厳しい先生”という印象でした。私は昭和50年〜平成12年まで富山大学小児科におりましたので、先生との関係は殆どありませんでした。耳に入った噂では長岡赤十字病院では400名/日の外来をこなされているとのことでした。平成11年の秋、そろそろ大学生活に限界を感じていた頃、突然に事務長と2人で富山に来られ、「重症児医療は未だ低レベルである。長岡療育園を盛り上げるには神経専門医が必要」「入所が主体であるが今後は在宅医療・外来診療が重要」とのことでした。そして、驚いたことに長岡療育園の外来・訓練・通園棟の増築設計図(案)まで持参されました。私も先生のご意見と全く同じであり、長岡に赴任する直接的な動機付けになりました。現在、長岡療育園は外来診療を中心に多くの在宅支援事業を展開し、全国でも有数の実績をあげています。先生の先を見る目の確かさには感服しています。
 平成12年、私が園長に赴任してからは名誉園長として公職を退かれましたが、新たな事業展開に対して的確な助言を頂き自信をもって前に進むことができました。また、先生は小児科医でありながら隣接する老人ホームの医療、産業医、学校医、介護保険医など、所謂、サイドの仕事を自ら担当され、我々が働き安い環境を作って頂きました。亡くなられた今、その対応に大変苦労させられており、今更ながら先生の存在の大きさを痛感しています。さて、先生と10年間一緒に仕事をさせて頂いたのですが、その中で最も驚いたのは赴任して直ぐの事でした。神経疾患には脳波検査は付き物ですが、重症児者の脳波判読は極めて難解で、20年以上も脳波を専門としてきた私でも判読には四苦八苦していました。ふと以前のレポートを見ると、達筆で小澤のサインがあり、且つ、レポートはドイツ語でさらさらと書いてあります。「確か小澤先生の専門はアレルギーの筈」、先生に確かめると「誰かが読まなければいけないので、療育園に来てから独学で……。」といとも簡単におっしゃいました。定年を過ぎてから且つ専門外の難解な脳波を勉強された、これはすごい事であり、先生の勉強家で努力家である証であると感服しました。また、先生はITに興味があられたことは周知のことです。50歳を過ぎてから勉強したとのことでしたが、BASICからWindowsへと自分でプログラムを組んでおられました。平成19年に長岡療育園に電子カルテを導入した際も、その中身は先生が一番理解されていた様です。
 2年前ころに肝癌への移行が明らかとなり、自分でも勉強されながら特殊治療の為に短期間お休みになられました。しかし、それ以外は殆ど欠勤なしで、明らかに末期であった筈の6月末まで勤務されていました。6月の初め頃に「腹満(腹水)があって殆ど食べられない。でも、動ける内は勤務する。迷惑を掛ける……。」とのこと、後輩の自分としては「お体を大切にして下さい。」が目一杯の返事でした。医者としての使命感、責任感の重要性を身をもって教えた下さった最期であったと思っています。
 重ねてご冥福をお祈りすると伴に、色々のご指導ありがとうございました。

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はじめまして  吉川秀人(長岡療育園)

 はじめまして、平成22年1月より長岡療育園小児科に勤務しております吉川と申します。生まれも育ちも長岡で、昭和53年に長岡高校を卒業するまで長岡におりました。
 大学卒業は昭和60年で、新潟大学小児科に入局しました。1年目の研修医時代は、長岡市医師会副会長の大塚武司先生にオーベンとして指導していただき、大学小児科での骨髄移植第1例目なども経験させていただきました。昭和62年より国立精神・神経センター武蔵病院(現在の国立精神・神経医療研究センター病院)小児神経科レジデントとなり、小児神経の臨床および基礎研究に従事し、先天性代謝異常症の治療の研究や小児神経疾患のPETなどの仕事をやっておりました。平成3年より米国国立衛生研究所で研究生活を送ることになり、先天性代謝異常症の遺伝子治療に関する研究を行っておりました。
 帰国後、平成7年から9年まで現在の長岡療育園に勤務しました。その時に、こども発達センターを開設し、単なる入所施設ではなく外来機能をもった在宅支援のできる施設への第一歩を踏み出せたと思っております。そのことがご縁になり今回、また長岡療育園へ戻ってくることになったと思っております。
 平成9年より新潟市民病院小児科に勤務し、小児神経救急疾患をみておりました。1990年代後半は小児のインフルエンザ脳症の大流行があり、多くのお子さんの命が奪われました。その対応に力を傾けておりました関係もあり、厚労省のインフルエンザ脳症ガイドラインやけいれん重積ガイドラインの作成にも関わらせていただきました。
 平成15年に宮城県立こども病院神経科に赴任しました。当時の浅野宮城県知事の思いもあり、宮城県民20万人の署名を集め、全国で23番目、東北初の小児病院ということで開院しました。ほんとうに、すべてがゼロからの出発で、医師をはじめとする職員も、全国から公募で選び、文字通り北は北海道、南は沖縄から集まっておりました。既存の病院の新築移転と違い、あらゆる書類、カルテの書式、さまざまなルールもゼロから皆でつくり、開院前半年は毎日、会議にあけくれておりました。そのような経験もなかなかできないので、個人的には有意義な時間であったと思います。また、先生、院長などの職階で呼ばない、白衣は着ない、大学の枠にとらわれないなど斬新な理念をもった病院ではありましたが、やはり医師不足は深刻で、特に小児麻酔科医不足により手術がなかなかできず、外科系の先生がたは欲求不満もたまっていたと思われます。患者数もゼロからはじまりましたが、最近はベットの空きがなく、なかなか入院できない病院になってしまいました。新潟にもこのような小児専門病院がないのが残念です。
 仙台では、仕事の後、楽天の試合をよくクリネックススタジアムへ観戦に行っていました。病院にも、岩隈をはじめ多くの楽天の選手およびその家族に来ていただいておりました。仙台の病院では、医局も、楽天派と、ベガルタ仙台派に分かれており、若者はベガルタ、おじさんは楽天のような構図でしたが、看護師さんは若い人も楽天派が多かったので、楽しく過ごすことができました。
 救急医療におけるたらいまわし問題に象徴される多くの問題の背景にあるのは、医師・看護師不足、重症患者の長期入院などによるベット不足、不採算性などがありますが、もうひとつ、重症長期入院患者をうけいれる後方病院・施設の不足、在宅医療体制の不備も、あげられます。救急医療や先端医療の進歩は話題になりますが、命を助ける技術が向上しても、その先にある在宅医療を充実させていかないと、自ずと限界が見えてきます。
 いわゆる入口、出口問題ですが、小児ではPICU、NICUすら十分に整備されておらず入口問題さえ解決されていないのですが、救急受け入れ困難の原因の一つである、いわゆる出口問題を解決するためにも在宅支援のための社会資源の整備が必要です。特に小児、それも重度障害児は、その絶対数が少ないこともあり、社会的にもまだ注目度は低いのですが、日本の医療が何をしようとしているかを測るいい指標でもあると思っております。
 地域での重症心身障害児医療は一病院で完結することはなく、多くの関連病院の支援なしでは成り立たちません。また自閉症、ADHD、学習障害などの軽度発達障害、学校への不適応児なども受け皿もまだ少なく、単に重症心身障害児施設ではなく、地域での発達障害支援センター的役割も担っていかなければと思っております。
 今後とも、ご支援よろしくお願いいたします。

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「雑談・弁天小僧」  中山康夫(南魚沼市:中山医院)

 “ぼん・じゅ〜る”を毎号お送りいただきいろんな方々の文を懐かしく、また楽しく読ませていただいております。とくに4月20日発行の361号は、ぱっとひっくり返したとたんに歌舞伎についての随筆を見つけうれしくなりました。三浦洸一の弁天小僧は私が好きな歌でした。実は一昨年になりましたが、平成20年12月に何十年ぶりかでこの歌を歌いました。歌の好きな患者さんが自分の属しているカラオケの会の忘年会に私を招待してくれたのです。一通り皆さんの歌を聴いた後で「一曲お願いします」とうながされて歌いました。あいにくカラオケの伴奏がなかったので、自前の鼻音楽でやりました。

一番 牡丹のようなお嬢さん尻尾出すぜと浜松屋 二の腕かけた彫り物の桜にからむ緋縮緬(ひぢりめん)
知らざあ言って聞かせやしょう おっとおいらは弁天小僧菊之助

二番 以前を言やあ江ノ島で年季勤めのお稚児さん くすねる銭もだんだんにとうとう島を追われ鳥
うわさに高え白波の おっとおいらは五人男の切れ端さ

三番 着慣れた縞の振り袖で髪も島田に由比ヶ浜 だまして盗った百両も男とばれちゃ仕方がねぇ
突き出しなせえどこへなとおっとどっこい晒しは一本巻いて来た

歌が終わると畳に座り、片膝立てて台詞です。

知らざあ言ってきかせやしょう
浜の真砂と五右衛門が
歌に残せし盗人の 種はつきねぇ七里ヶ浜 その白波の世働き
以前を言やあ江ノ島で 年季勤めの稚児ヶ淵
百味講(ひゃくみ)で散らす撒き銭を 当てに小皿の 一文子(いちもんこ)
百が二百と賽銭の くすね銭せえだんだんに 悪事は昇る上(かみ)の宮
岩本院の講中に 枕探しも度重なり お手長講と札付きに
とうとう島を追い出され それから若衆の美人局 ここやかしこの寺島で
小耳にはさんだ音羽屋の 似ぬ声音でこ強請り(こゆすり)騙り 
名せえゆかりの 弁天小僧菊之助たあ 俺がことだ

 「百味講で散らす撒き銭」から「百が二百と賽銭の」あたりでちょっとつまづきながらもなんとか無事に全部を言い終わりました。
 さて、塩沢は歌舞伎の盛んな所で、かつてはいろんな部落に愛好者が居て、鎮守の祭りなどで歌舞伎を上演していたそうです。今私の住んでいる隣の学区にある石打小学校には歌舞伎クラブがあり、子供達が歌舞伎を練習しています。中学生になっても続けている子供もいます。よく上演するのは「青砥稿花彩画」(あおとぞうしはなのにしきえ)から「稲瀬川勢揃」、「伽羅先代萩」(めいぼくせんだいはぎ)から「御殿の場」、「一谷嫩軍記」(いちのたにふたばぐんき)から「熊谷陣屋の場」、「菅原伝授手習鑑」(すがわらでんじゅてならいかがみ)から「寺子屋」などです。
 よく上演される「稲瀬川勢揃」の白波五人男の台詞の暗記に私も挑戦してみました。

日本駄右衛門 問われて名乗るもおこがましいが、生まれは遠州浜松在。十四の時から親に離れ、身の生業は白波の、沖を越えたる世働き。盗みはすれど非道はせず、人に情けを掛川から、金谷にかけて宿々で、義賊と噂、高札の、めぐる配布の盥ごし。あぶねえその身の境涯も、もはや四十に人間の、定めはわずか五十年。六十四州に定めのなき。賊徒の張本日本駄右衛門。

弁天小僧 さてその次は江ノ島の、岩本院の稚児あがり。普段着慣れし振り袖から、髷も島田に由比ヶ浜。打ち込む波にしっぽりと、女に化けて美人局。油断のならねえ小娘も、小袋坂に身のやぶれ。悪い浮き名も辰の口。土の牢へも二度三度。だんだんくぐる鳥居数。八幡様の氏子にて。鎌倉無宿と肩書きも。島に育ったその名せえ弁天小僧菊之助。

忠信利平 赤星十三郎 ※略※

南郷力丸 さてどんじりに控えしは。潮風荒き、小動(こゆるぎ)の。そなれの松のまがりなり。人となったる浜育ち。仁義の道も白川の、夜船に乗り込む船盗っ人。波にきらめく稲妻の、白刃でおどす人殺し。背負って立たれぬ罪科(つみとが)は、その名に重き虎が石。悪事千里というからは、どうで終いは木の空と、覚悟はかねて鴨立つ沢。しかし哀れは身に知らぬ。念仏嫌えな南郷力丸。

 力丸の台詞の最後の部分は、西行の歌「心なき身にも哀れは知られけり鴨立つ沢の秋の夕暮れ」を読み込んでいるのですが、ここが歌舞伎の台詞のすばらしいところだと感心します。
 なお、弁天小僧の「髷も島田に由比ヶ浜」は三浦洸一の歌では「髪も島田」となっていますが、実際に歌ってみると「髪」の方が歌い易いので、そのためかと感じます。
 さて、一昨年5月は、歌舞伎座百二十年の五月大歌舞伎を見に行って来ました。演目は「青砥稿花彩画」の通しでした。(脚本全部やるときはこの題目で、「浜松屋の場」と「勢揃い」くらいを抜き出して上演する場合は「弁天娘女男白波」と云うようです。)弁天小僧=尾上菊五郎南郷力丸=市川左団次忠信利平=板東三津五郎赤星十三郎=中村時蔵日本駄右衛門=市川團十郎といった配役でした。
 今年は最後の「御名残歌舞伎」を観に、4月21日(当院は休診日)に歌舞伎座へ行って来ました。第三部で、「実録先代萩」と「助六」でした。助六は当然市川團十郎が演じました。病を克服しての熱演は良かったですし、中村勘三郎(元勘九郎)がなかなか洒脱な味を出して笑わせました。
 最終列車に乗り込むのにちょっとあわただしかったのですが、越後湯沢行きの新幹線は有り難いです。ここに開業したのも、年をとってから歌舞伎を観に行くのに便利だという理由からなのです。

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拉致・監禁からの生還〜その4  美矢家秘吐詩(三宅仁:長岡技術科学大学)

2010年1月22日(金)午後1時 第4日 ケータイ
 妻がケータイをもってきた。どうせ使えまい。使えてもしっかり盗聴されるに違いない。それを承知でやっと許されたトイレまでの歩行という条件下で連絡を試みる。とりあえず、片っ端からメールを送る。ベッド上で身動きでず、医師の許可もないから見舞いに来るなという内容だが、実は「助けに来るな!」という意味だ。これが分からないやつは敵のスパイに違いない。
 最初はトイレでスイッチを入れてみたが、やはり使えなかった。すこし様子を窺うと、出入り口の裏にポケットがあり、そこで使えた。修士論文の締め切りが近づいている学生にもメールでやり取りした。何という教師魂!自分でも何でここまでと思ってしまう。

2010年1月25日(月)午後10時 第7日 囚人生活
 酸素マスク・鼻管が取れ、腕の静脈ラインもはずされ、5日目を過ぎると連日の尋問も意味がないと悟ったのか、比較的待遇がよくなった。囚人の一日は朝6時に始まる。5時には廊下の灯りが点くが、6時にはっきりと起こされる。洗面などを済ませると、朝の点呼というか尋問がある。2、3日で慣れてしまった。お腹を空かせているとやっと7時半過ぎに飯にありつける。例の味気ない飯だ。経費節減か量まで少ない。なぜか朝が一番豪華。昼までは囚人それぞれ個別に尋問があるようで、適当に呼び出されていく。俺は特別待遇なのであろうか、呼ばれることはなかった。昼食も、午後も、夕食も同じ。比較的ゆっくりと時間が流れる。彼らも諦めたのか。実はそうではなかった。俺は泳がされていた。夜は長い。静まり返ったアジトは、かすかにモニターの音が響くだけ。時折、手下が見回りに来る。逃げ出すにはまだ体力が回復していなかった。

エピソード2 身代金
 どの国も、どの組織も不況の影響なのか、彼らも潤沢な金を持っていないようだ。ある日、妻に身代金を出せば返してやると持ちかけたらしい。金額はとてもこの世界的研究の割に合う額ではない。ゼロが二つかそれ以上少ない。それでも気丈な妻は安月給だからそんなに払えないと言うと、何と7割引にしてやると言う。それでも払えないと言うと、20万円出せば、あとは大学の共済組合で出してくれるはずだと言う。情けないやら、有難いやら。
(つづく)

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楽しい研修医生活  土屋潤平(長岡赤十字病院)

 長岡赤十字病院で、初期臨床研修医としての生活がスタートし、早くも1年と3ヵ月が経過しました。
 1年目、4月に研修医になったばかりの頃は、文字通り右も左もわからず、病棟をウロウロしているばかりでした。
 2年目になり、少しは成長したような気になりますが、上の学年の先生方と比べると勉強不足、技術不足が明らかであり、焦りを感じる毎日です。
 現行の制度では、短い期間で様々な科をローテートしなければならないので、ようやく慣れた頃にまた次の科に移り、その科を一からやり直さなければならず、なかなか大変です。私自身は将来進みたい科を研修前から決めていたため、初めから医局に属する制度でも良いと考えていました。
 しかし、この制度には、色々な科で研修し、学ぶことで、視野を広げることができるという利点もあります。まわらなければ知ることのできなかった知識や、見ることのできなかった手術がたくさんあり、有意義な毎日を送れていると感じます。
 さらにこの4月には後輩もでき、自分がしてもらったように教えなければならないというプレッシャーも良い方向に作用しているように思います。
 そんな忙しくも楽しい毎日の中で、私の研修生活をさらに充実したものにしてくれるものがあります。それは病院の野球部です。病院の規模が大きいこともあり、スポーツ人口が多く、野球のほかにもテニス部、卓球部、フットサルチームなどがあり、多くのスポーツを楽しむことができます。初期臨床研修は2年間なので、その期間しか所属することはできないのですが、チームの一員として暖かく迎えてもらえました。
 私は小学生の頃から野球一筋で、高校時代は甲子園を目指して野球に打ち込んでいました。余談ですが、母校の新潟高校は昨年秋の大会で、新潟明訓、日本文理など名だたる強豪校を破り、見事準優勝に輝きました。誰もが21世紀枠で初の甲子園出場を信じて疑わなかったのですが、残念ながら落選し、夢は叶いませんでした。夏の大会ではぜひ優勝して、実力で甲子園を勝ち取って欲しいと思います。
 話が脱線してしまいましたが、私は大学での最後の大会が終わったときに、もうこれで自分の人生で本気で野球に打ち込むことはないだろう、と寂しく感じていました。ところが日赤病院には、年に一度病院の名誉をかけて全力で戦う全国の日赤だけの大会があるのです。
 初めてその大会に参加して、チーム全体の勝利への真剣な姿勢に驚くと同時に、また野球ができるということを嬉しく思いました。2年間投手として参加させてもらいましたが、残念ながら結果は出せませんでした。私達が負けた相手には、なぜか甲子園のマウンドで投げた経験のある選手(肩書きは事務でした)がいて、全く歯が立たなかったのです。2年連続で同じ相手に負けてしまい、悔しい思いはしましたが、とても良い思い出となりました。私は今年でチームを離れますが、いつかはその相手に勝ち、優勝して欲しいと思います。
 もちろんまだまだ研修の身であり、仕事もままならないのに野球ばかりに力を注いでいる訳にはいきません。しかし、仕事をする上でも、野球部に所属していることが、とても良い環境を生み出しているのです。
 野球部のメンバーは、看護師や放射線技師を中心として構成されており、ほかにも薬剤師や事務の方々がいるなど、非常に多様です。因みに現在、医師は私ともう一人同期の研修医しかいません。
 ですので、研修医には手を出しにくいICUや、救急外来などで知った顔をみかけると安心しますし、なにより気軽に相談できるという点で、とても助かっています。また、技師さんに緊急の検査が頼みやすいという利点もあります。
 交友関係も広くなり、飲み会などで様々な職種の方の生の声を聞くことができ、医師の視点だけでは気付けなかったことを教わることもあります。
 残りの研修生活もわずかとなってきましたが、改めて自分の周囲の環境がいかに恵まれているかを感じます。この環境で研修できることを感謝しつつ、今まで以上に頑張って研修をして、皆さんに認めてもらえるような医師になりたいと思います。

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台風とオリーブの木  郡司哲己(長岡中央綜合病院)

「しかたないわ、台風ですもの。帰省はキャンセルと佐渡の姉さんには電話しときました。」と家人。

 お盆の13日は十年ぶりで家人の佐渡の実家の墓参りを予定。あいにくの台風4号のため、佐渡汽船と宿をキャンセルでした。
 そこで安易な代案プランだがDVDレンタル店へ。この際、懸案(?)の韓国ドラマをまとめ借りです。家人が以前昼のBS放送で見ておもしろかったという「アクシデント・カップル」8巻、全16話。なんと1本50円の超割引料金中。競合するレンタル店同士の安値競争か、人件費も出ないかもなど心配しつつもうれしい。そのラブコメは2日がかりの全16時間おもしろく見られ、定番のハッピーエンド、こちらもほんわか気分になりました。
 さて台風の影響のその2はひさしぶりの雨。これは猛暑・乾燥続きだったので、庭の草木や雨蛙とともに大歓迎。『予報倒れ』で大風でなかったのもさいわいでした。
 そんなお休み最後の日、早朝の小雨も上がり、きびしい残暑。バラの手入れに、痛んだ枝葉の剪定と木酢液の散布をしていた家人です。庭先でバケツ片手にメダカの睡蓮鉢にさし水をしていたわたしを大声で呼びました。

「たいへん、ちょっと来て。せっかく台風では無事だったけど、イモムシにオリーブの葉っぱが食べられている。」
「どれどれ、ああ尻にツノがあるからスズメガの幼虫だ。ブドウの葉にはよく仲間がいたけど、オリーブの被害は初めてだね。食性から種類をネットで調べてみるさ。」
「どうしようか、この虫?」
「害虫なんだから、『流刑』にして向かいの空き地に捨てるか。」

 きれいな緑色のイモムシ、全長10センチ……ここまで大きいと踏みつぶすのは気が進まない。さらにもう1匹発見。二人でつまんで近くの野原に放り投げてきました。ネットで調べると、シモフリスズメガの幼虫のようです。食性欄にオリーブの同属のモクセイの記載があります。
 ついでに前から気になっていたことがあり、鉢植えのオリーブに関してもネット検索してみました。

(1)なぜ我が家のオリーブは五年以上たっても生長しないのでしょうか?
(2)なぜ花が6月頃に咲いても秋に結実しないのでしょうか?

 なんと、これに類似の質問をあちこちの園芸関係HPで見かけます。つまりわたしの疑問はそのまま、しろうと園芸家のオリーブ栽培の共通の疑問なのだと判明しました。
 さて回答の要約。地中海出身のオリーブの木の成長は、地植えは日当たり良好なこと、鉢植えではそれに加え最低40センチ径以上の大きな鉢が必須。なお植え替え時には石灰分の補給。結実には、オリーブは自家結実性が低いので2種類以上の品種の同時栽培が望ましいとのこと。
 「うちの2鉢のオリーブの木は別の品種なのかな?」と家人に訊ねました。なんでも近くの園芸店で初めに1鉢買い、なにかで「2本ないと実がならぬ」との知識を得て、翌年また1鉢買い足したんだそうです。
 「どちらも『オリーブの木』とだけ苗札に書いてあった気がするわ。」……ひょっとするとこの2本、同一品種の可能性もありますな。
 台風一過の残暑のなか、葉っぱをかじられた80センチ丈の2本のオリーブの木を、数年ぶりに一回り大きな鉢に植え替えました。

おのづから子らは育ちて夏木立

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