長岡市医師会たより No.369 2010.12


もくじ

 表紙絵 「魚野川初冬」 丸岡稔(丸岡医院)
 「会員旅行記〜東蒲原の旅」 大塚武司(大塚こども医院)
 「英語はおもしろい〜その13」 須藤寛人(長岡赤十字病院)
 「忘れ得ぬ北欧の亡命者たち〜私の1Q84〜その3」 福本一朗(長岡技術科学大学)
 「プチヴェールを育てる」 郡司哲己(長岡中央綜合病院)



「魚野川初冬」 丸岡稔(丸岡医院)


医師会会員旅行記〜東蒲原の旅  大塚武司(大塚こども医院)

 心配された雨模様の天候も幸い回復、薄日も差した10月30日の午後、医師会会員旅行のバスは麒麟山温泉を目指して出発しました。今回の旅行には大田裕医師会長以下、荒井栄二先生、石川紀一郎先生、杉本邦雄先生、加辺純雄先生、春谷重孝先生、小林眞紀子先生、鈴木しのぶ先生、小林徹先生、高木正人先生、草間昭夫先生、窪田久先生、そして事務の星さんと大塚武司の名が参加しました。
 乗車後すぐに恒例の車内宴会が始まり、ビールや日本酒、鈴木先生のお手製の梅酒が振舞われ、大いに盛り上がりましたが、今回は高速道路を一直線に津川に向かいましたので乗車時間が短く、ウォーミングアップ程度の酔いで宿に到着しました。
 宿の「雪つばきの宿古澤屋」は二千坪の雪椿の庭園が自慢の老舗旅館で、露天風呂も素晴らしいとの評判でしたので、早速着替えて風呂場に直行しました。秋の日暮は早く対岸の赤崎山の山容が分かる程度の眺めでしたが、阿賀野川の川音とライトアップされた中ノ島の木立が幻想的で、肌に優しい泉質と相俟って身も心も癒され、評判どおりの湯でした。
 宴会には前の県立吉田病院の院長で、現在は阿賀町のへき地巡回医療に従事している阿部昌洋先生にも草間先生とのご縁からご参加頂きました。差し入れの地元の銘酒や、美味しい料理に酒宴は盛り上がり、即席のカップルのデュエットも飛び出し楽しい会になりました。
 翌日は好天に恵まれました。早朝の露天風呂からの眺望は、遥か山頂に雪を頂いた飯豊連峰と阿賀野川の滔々たる流れ、そして秋色に染まった赤崎山と、豊かな自然が織り成す大パノラマで、今まで入湯した露天風呂の中でも最高の至福のひと時を味わうことが出来ました。
 朝食後、玄関前で恒例の集合写真の撮影を済ませ旅館を後にしましたが、ガイドの最初の挨拶が、昨晩、隣の民家の庭に熊が出現したとの報告で、その爪痕が残った柿の木の庭先を通過した時には驚きと共に、今年の熊騒動を実感させられました。
 2日目の最初の観光は「三川観光きのこ園」で、各自ポリバケツを片手に園内の舞茸やシメジ、ナメコを収穫、購入しました。評判の乾燥シイタケもお土産に好評でした。
 続いて今回の目玉、阿賀野川ライン下りの乗船場、道の駅「阿賀の里」に移動しました。残念ながら水量が少なく舟下りコースは欠航で、周遊コースに乗船しました。両岸の紅葉は始まったばかりでしたが、それでも美しく、鷺や鴛鴦にも出会い、あっという間の分でした。案内の40船頭さんは歌が上手で、「阿賀の舟歌」など数曲を歌いましたが、印象に残ったのは「うちら会津で昔から正月の門付けで歌われた会津万歳」との前振りで歌った万歳は絶品でした。考えてみれば東蒲原は小川庄と呼ばれ、およそ年にわたって越後700国でありながら会津の一部になっていて、明治の廃藩置県で当初越後府の所轄になりますが、それまでの強い繋がりもあり、住民の強い要望で若松県の所轄になります。しかしその後の再編で福島県が誕生するに至り、県庁所在地の郡山市への移転問題から、遠方との理由で、明治年19切り離されて新潟県に編入され新潟県東蒲原郡として歩みだした歴史があります。この地域には今でも会津への特別の思いがあることの一端を垣間見た思いでした。
 昼食を「物産館夢蔵」で済ませ、最後の目的地、安田町の考順寺に向かいました。このお寺は親鸞の越後の七不思議の一つ「保田の三度栗」の逸話の寺ですが、千町歩地主の一人であった斎藤家の旧邸で、大屋根をいただいた本堂や回遊池泉式の大庭園のたたずまいは、見ごたえ十分で、室内も贅が尽くされ、柱は全て目の整った四方柾目、床の間には当時これだけで家が一軒建つと言われた紫檀、黒檀、鉄刀木が使われていタガヤサンました。昭和の初めの周辺の町村の不況対策にと当時の斎藤家が造営した邸宅で、往年の千町歩地主の財力と見識の高さが偲ばれる建物ですが、同時に敗戦、農地改革、税制改正の嵐で物納され競売に掛けられた歴史の証人でもあります。
 帰りも順調で少し早く医師会館に到着、無事解散となりました。楽しい旅行でした、運転手さん、バスガイドさん、そして細々とした心遣いで世話をしてくれた幹事の星さん、本当に有難うございました。

 

 

 目次に戻る


英語はおもしろい〜その13  須藤寛人(長岡西病院)

Stony Brook ストーニーブルック

 Stony Brook は Penn Station より Long Island Express で1時間40分のところにある学園町であった。越後線の内野駅を複線にした程度の駅で、降車客は改札口を通らず、壊れた垣根の小道を通って出ていった。引き続き、Stony Brook 近郊で産婦人科を開業している David Shobin, M. D. のことについて書く。
 彼の経歴は、著作の著者紹介に以下の如く記してある。「ショービンはアメリカのメリーランド州ボルチモア生まれ、ペンシルバニア大学で政治学を専攻した後、メリーランド大学に入って医学の道に進んだ。その後、マンハッタンで産婦人科医となり、1975年にニューヨーク郊外で産婦人科医院を開業した。現在はロングアイランドに住み、産婦人科をしながら文筆業をしている」。
 彼はレジデントの後、subspeciality として同じ大学の Endocrinology-Infertility fellow となった。私は同じ不妊症でも、同大の Sidney Shulman 教授の下で、精子免疫学の research fellow の道を選んだ。彼との長きにおよぶ別れはその1年半後であった。
  "The Unborn"に引きつづく、その後の彼の著作をあげてみると、"The seeding":1982年発刊「妊婦が熱帯植物の甘い香りを残して次々に急死する話」。"The obsession":1985年発刊「特殊なダイエットで肥満を克服した美人女優の体に異変が起こる話」。
  "Terminal condition":1998年発刊「脳に外傷を負った患者に人体実験をしている病院を舞台にしている……」。"The center":1999年発刊「世界一技術の進んだ病院は、医学コンピュータが全てを支配し、完璧な治療を行っていた。医者も看護婦もいっさい不要で、検査から手術、退院まで、コンピュータに管理されたロボットが取り仕切っていた。……」。日本語訳「ザ・センター」文春文庫。その中に、「ヒタチのスドーに電話するのをわすれてたら、注意してくれ。……」などと書かれている。そして "The provider"。書評は、scary、suspenseful、shocking、terror、terrifying、thriller など怖い恐ろしい語の連続であった。
 David との再会は30年ぶりであった。彼は確実にアメリカンドリームを獲得していた。Stony Brook より車で30分くらいの Smithtown にある自宅は、敷地は1.5エーカー(1800坪)くらいあり、テニスコート付き、かつ4レーンで20mはあろう室内プール付きであった。Bed room は6部屋であったが、同期生の女医、Hollace Jackson の家は 7 bed room であると彼が言ったことは、アメリカ人は家の大きさは bed room の数を参考にして判断するようであることが分かった。これが自分の書斎で、考えて考えて小説を書いてきた机だと誇らしげに案内してくれた。
 私は、彼はよく働き、良く稼いだものだと感心した。ところが同行した私の娘が、アメリカの医者はこんなに優雅に生活しているのかとびっくりした。アメリカの数カ所でホームステイを経験していた彼女にとっても驚きであったようだ。そこまでは良いが、"I wanna be adopted."と言い出す始末であって、冗談とはいえ、これにはドキッとした。
 翌朝、David と私は Ston yBrook 大学の Monday morning conferance に参加した。Stone 名誉教授が全員の前で私を紹介してくれた。私は正式のところは新潟大学の clinical assistant professor に過ぎなかったが、Stone 教授は Clinical も Assistant も省いてくれた。
 検討会が終わって、David と私は、病院の最上階に行った。四方は見渡す限り森であった。この辺には高い建物は建てないように規制がかかっているとのことであった。大きな石というか、岩ころが所々に散在しているのを見ていて、Stony Brook の名の由来を感じていた。そちこちに各種の学部があり、15000人からの大学生(大学院生を含めると23000人)が学んでいるとのことであった。インターネットによれば、創立は1957年と若いのであるが、MRIの発明でノーベル賞をもらった先生と日常的に使用されているバーコードを作った先生がいることで有名であるそうだ。
 "Hito, Dr.Stone likes you.!" と David が話しかけた。それはそのまま、"Dr. Stone likes you David." であった。"As far as he likes you, everything will go O. K." と David 。アメリカ人は男女の間がどんな悪い関係になっても、そこに「愛があれば、問題は解決する」という絶対的真理を信じている。同性間でも「好き」という気持ちがあれば、人間関係の基本は保たれ、多くの問題は解決に至ると言いたげであった。David と Stone 教授の、一生を通した、長きにわたる師弟愛に私は深い感動を覚えた。
 これが第7作目だと手渡してくれた本は "The Cure" であった。表紙の裏には "To my bestfriend Norihito" とサインされていた。私の彼への最後の一言は、「今度一度、日本に来てみなよ!新しい小説が書けるチャンスになるかも知れないヨ」であった。(続く)

 目次に戻る


忘れ得ぬ北欧の亡命者たち〜私の1Q84〜その3

福本一朗(長岡技術科学大学)

2・4 ムジャヒディーン戦士「ムハンマド」
 1979年の旧ソ連軍によるアフガン侵攻に対抗して、「聖戦(ジハード)を遂行する者=ムジャヒディーン」国民軍が結成され激しいゲリラ戦を開始した。筆者が渡瑞した1982年はソ連軍が優勢であり、多くのムジャヒディーン達が捕えられて拷問に付され殺されていた(Fig.5)。運良く捕虜収容所から脱走し、地下組織によってスウェーデンに亡命したひとりがムハンマドであった。長身・口髭で鉢巻をした彼は熱心な回教徒で、例え授業中・試験中でも決められた時間に一日5回のメッカに向かって礼拝を継続し、毎年秋にふらふらになりながらも1ヶ月の絶食月(ラマダーン)を北欧でも頑なに固守していた。最近は自爆テロ等で批判されるムジャヒディーンも当時は、外国侵略軍から国民の命と祖国の独立を守る正義の闘士として国内外の尊敬を集めていた。
 ムハンマドは異教徒に対しても礼儀正しく、いつも背筋を真直ぐに伸ばして言葉少なく、冗談も笑い顔も決して見せない、まるで日本の武士の様であった。顔には拷問でつけられた切り傷が無数に見られ、恐らく生き地獄を体験したであろうが、それを吹聴する事もなく、何時もストイックに自らに厳しく、しかし人には大変優しい勇者であった。彼の悩みは二つだけ。一つは食事で、豚肉は言うに及ばず、ハラル(お祓い)をしていない肉を食べる事が禁じられているのに、北欧ではハラルをする資格のある僧侶が当時はいないことであった。他の一つは女性で、経験な回教徒は妻以外の既婚女性と二人だけで同席したり、個人的に話す事を禁じられているため、女性クラスメートとのグループ作業や女性教官との面接口頭試験の時にはいつも悩んでいた。
 「祖国とアフガン人のためにならいつでも死ねる」と言い切る彼を見ていると、太平洋戦争中の神風特攻隊の青年達の事が思い浮かばれ、ここにも戦争によって人生を狂わされた青年がいると、いい知れぬ悲しみに囚われた。そしてムハンマドの様な命知らずの愛国者がいる限り、米国のベトナム戦争と同様にソ連のアフガン侵攻もきっと不成功に終わるであろうことを確信した。

2・5 ボリビア孤児「ヘンリー」
 1980年代は南米で独裁政権に対する学生達と労働者の抗議運動が猖獗を極めていた。ボリビアでも多くの鉱山労働者と大学生が民主化を求めて街に溢れ、多くの逮捕者を出した。首都ラパスでの街頭デモを主導していた工科系大学生のヘンリーは、辛くも逮捕を免れたが、指名手配された。スウェーデン大使館に逃げ込んで亡命を求めて認められたヘンリーは、10歳年上の同国学生亡命者のラクティスと結婚して可愛い息子マリオを得、奨学金をもらいながらシャルマース工科大学電子工学科を優秀な成績で卒業して、今ではゴッセンブルグ市内の自動車企業ボルボ社にエンジニアとして勤務している(Fig.6)。
 日本人と見間違う容貌の小柄な青年ヘンリーは、両親とも純粋なインィオでありインカ帝国の後裔と自任していた。貧乏な一家は肉類・酪農製品が買えないため、激しい肉体労働をする炭坑夫の父親は朝晩の食事には洗面器一杯のスープを飲んでいたという。朝早くから夜遅くまで地下に潜って留守にする父親を支えて、母親は赤児を背負って家事の合間にアンデスの畑を耕して暮らしを支え、12人の子供を育てたという。熱帯の祖国から極寒の北欧にたった一人で流れ着いた彼は、自己主張の激しいスウェーデン女性にはなじめず、孤独に過ごしていたが、同じ文化をもつ同国人の亡命女性に出逢い、可愛い男の子を得て始めて異国で生きてゆく希望と勇気を得た。彼等を見ていて、幸せな家族生活は決して経済的な豊かさとは比例しないこと、また地球上のどこに生まれて生きていても人間としての生き方と喜びは変わらないことを学ぶことができた。(つづく)

 目次に戻る


プチヴェールを育てる  郡司哲己(長岡中央綜合病院)

「あれ、これって、例の芽キャベツの親戚とかいう野菜ね?」
「そう、プチベール。やっとこさ育った分をすこし摘んでみたんだ。さっとゆでてマヨネーズがけで食べてみようよ。」とわたし。パジャマの上下に我が国伝統のちゃんちゃんこを羽織った姿です。「お願いですから、そんな格好のままで外に出ないでくださいね。」と家人には毎度教育的指導を受けておりますが。
 12月の家庭菜園の畑の作物といえば、この新顔野菜が2株と先月植えたばかりの冬越しさせる玉葱の苗くらいです。
 その新顔野菜とは、秋にたまたまホームセンターで苗を見かけ、今年初めて植えてみたプチヴェール。苗札の説明には、結球しない芽キャベツの仲間とありました。類似野菜のカリフラワーや芽キャベツは栽培の経験があります。
 キャベツの仲間の野菜の歴史をひもとくと、最近は青汁材料で有名な原種のケールから分化して、各地で芽キャベツ、カリフラワー、キャベツなどが生まれました。葉牡丹なんて食えない奴も仲間だそうで。
 プチヴェールは静岡のM採種場なる会社の新品種の研究成果。なんと原種のケールに芽キャベツを交配し直して20年前に誕生した野菜でそうです。「小さな緑(色野菜)」の名前は仏語風ですが、たぶん我が国で地味に栽培されているだけです。
 似たようなケースでは、ロマネスコなんて野菜はご存じでしょうか? つい先日市内のピザ店で供されたサラダでわたしも初めて食べました。緑色だが味はカリフラワー? 店員の女性に訊ねると「それはロマネスコです。数年前にちょっとブームになりましたけど……。」ネット検索では、まさにブロッコリーとカリフラワーを掛け合わせ、ローマ近郊で開発された野菜とのこと。
 さてプチヴェールの話。まず片親の芽キャベツはブリュッセル原産で、フランス語では「ブリュッセルのキャベツ」なる表現。学名はフウチョウ目、アブラナ科アブラナ属、ヤセイカンラン種の変種の「メキャベツ」です。もう片親のケールの学名もフウチョウ目、アブラナ科アブラナ属、ヤセイカンラン種の変種の「リョクヨウカンラン」で、これは緑葉甘藍と書くのでしょうね。
「寿限無、寿限無……長久命の長助」と似たような名前で恐縮です。
 このプチヴェール収穫にいたるまでには紆余曲折がありました。
 秋は「菜虫取る」なぞという季語もありますが、青虫も種族保存に命がけです。モンシロチョウはキャベツ仲間の青葉を見ればやたらと卵を産み付け、その幼虫はもりもりと葉っぱを食べて成長します。なんとか蛹まで変態して冬越しするために。
 ところが苗を植え付け防虫ネットをかけた中でも青虫が発生し、葉は穴あき状態。パスツールの発生実験になぞらえるまでもなく、卵をはやばやと苗に産み付けられたものでしょう。売れ残りの別の苗を買い直して再チャレンジ。今度は何とか育ってくれました。でも植え直しが遅かったため、だいじな成長期に晩秋の日照不足で育ちがいまいちでした。
 それでもやっと試食してみる段階にいたりました。収穫は芽キャベツ同様に数回に分けての採取です。しわしわに開いた緑の濃い芽キャベツというところ。水洗い後さっとゆでて味わいました。おいしかったです。新鮮なきれいな緑を食するのが「健康野菜」って感じ。……でもしょせん「マヨラー」ですからねえ。

 目次に戻る