長岡市医師会たより No.371 2011.2


もくじ

 表紙絵 「巻機山遠望(塩沢から)」 丸岡稔(丸岡医院)
 「板倉亨通先生を偲んで」 田辺一雄(田辺医院)
 「板倉亨通先生を偲ぶ」 西村義孝
 「英語はおもしろい〜その14」 須藤寛人(長岡西病院)
 「新春ボウリング大会優勝記〜ボウリングのススメ」 福本一朗(長岡技術科学大学)
 「新年囲碁大会」 増村幹夫(長岡西病院)
 「新春麻雀大会優勝記〜地域医療研修?」 臼井賢司(長岡中央綜合病院)
 「恋するだけじゃない 日本語」 郡司哲己(長岡中央綜合病院)



「巻機山遠望(塩沢から)」 丸岡稔(丸岡医院)


板倉亨通先生を偲んで  田辺一雄(田辺医院)

 板倉先生とはじめてお会いしたのは昭和25〜26年頃の新潟医科大学内寮でした。先生は戦時中、国の危急に応じて陸軍士官学校に入学され、敗戦により高校に転じ、昭和23年に新潟医大に入学されたのです。当時の内寮は敗戦後の食糧不足、物価高騰で困窮する学生を救済するべく大学が病院の病棟一棟を学生に提供されたのです。学生は40〜50名位自炊して生活していました。
 配給される物資も少なく、当然外食食堂もない時代で、与えられた食材も各人適宜に調理して食べて授業を受けていたのです。そんな時代でしたが全国を風靡したダンス熱は内寮をも席巻し、毎週木曜日の夜に木曜会と称して、内寮生のダンス熱に凝った数人が指導してくれ、池原記念館で看護婦養成所の生徒さん達を相手にスロー、スロー、クイック、クイックと軽快なリズムにのって足を踏んだり、踏みつけられたりしながら、今では誰も信じてくれませんが、板倉先生、西村義孝先生、私達が踊っていた青春の一頁があったのです。
 27年春に卒業したらインターンを何処でするか迷っていた時、富山の或る厚生病院でインターン生に当直をさせ、そのお手当で生活が出来るというので満州国陸軍軍医学校より来た同級生と2人で行くことにしましたら、板倉先生が聞きつけて一緒に連れて行ってということになり、新潟より3人、金沢大より2人、岩手医大より1人の6名でインターンをはじめました。一人づつ各科に配属され耳管通気や耳処置、今では行われなくなった洗眼、トラコーマにテラマイ軟膏点入、外科では鉤持ち、当直では分娩につきっきりで、内科では結核の全盛期でもあり肺のレントゲン透視を教わったり、各疾患の処方箋の書き方を学び、先生方の病室廻診に随行して診察の仕方や病状の説明について学び、年寄りの高血圧症の患者さん宅に往診したり、附属の診療所に一週間交替で代診に出掛けたり、近くの開業医の先生が病気で休まれる間の代診を頼まれたり、小児科ではネブライザー係でてんてこ舞いをしながら、生活はなんとか出来る様になり、皆で国家試験に向けて勉強していましたが、板倉先生は東大の沖中教授の自律神経の本を買い求めて熱中していました。インターンも無事終えて国家試験に合格し、当時精神科の上村教授が学士会の幹事長をされておられ、新潟の出先き機関である北陸荘でも医師不足で悩んでおり、勤めて貰えば精神科で学位が取れる様に指導するという事で板倉先生は北陸荘に勤められ、肺結核患者の精神身体医学的研究で34年9月に学位を授与されました。
 同月県立悠久荘の内科医長に転じ、40年4月立川病院黒條診療所長に転じ、41年6月、現在の北長岡診療所を開設されております。開業後も第一内科の小黒助教授の許を訪れ胃カメラを習い、放射線科にも通われ、また漢方も学び、寝たきり老人に良導絡低周波治療も試みられて今迄に経験したこともない麻痺などの治り方を患者さんが示したと喜んでおられました。
 温厚で律義で学究的な先生の診療態度は地区住民を引き付け門前市をなしたのは申すまでもありません。何かの趣味に没頭する訳でもなく医学の勉強そのものを趣味とし、中華料理を食する楽しみを味わいながら誠実に生きられた先生の生涯は残された私達に学ぶべき多くの教訓を残されました。
 長い間本当に御苦労様でした。
 安らかにお休み下さい。

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板倉亨通先生を偲ぶ  西村義孝

 私は先生の訃報を聞いた時驚きとともに、昔新潟医科大学の学生寮(内寮)でともに生活した時のことが頭の中を駆け巡りました。その頃のことは田辺一雄先生が追悼文に詳しく書いてくださいました。私は内寮のことは、それに少しだけ板倉先生の横顔を加えさせていただき、板倉先生から頂いた大きな遺産ともいえる「X線画像研究会」について感謝の気持ちを込めて述べ追悼の言葉にしたいと思います。
 板倉先生は私の1年上の昭和23年の入学で2年後の25年に入寮、都会的な学生という印象でありました。名門の東京府立7中、成蹊高校出身とのこと、さすがと思いました。豊かな黒髪をオールバックに纏め、何時も笑顔を絶やさず、また端正な学生服姿、あるいは当時珍しかったVネックのセーターと白いカッターシャツ姿は今も忘れません。この度、当時のことを、高校も大学も同級の新発田の樋口義健先生から「在学中、前の2年間は同じ下宿で同室でした。後の2年間は大学の寮でこれも同室でした。板倉先生は勤勉で謹厳実直、本当に努力家だし優秀でした。よい意味のライバルでした。」などとお聞きしました。私はここで多くの優れた学生と交わることができ、内寮を提供してくれた大学に感謝しております。
 話を変えて、板倉先生との「X線画像研究会」のかかわりに移りますが、板倉先生は昭和34年学位論文終了後第一内科で胃カメラを、放射線科で胃のX線診断の修練を始めておられます。当時放射線科には高校同級の樋口義健先生、力石務先生(後の助教授)が在籍していて好都合であったと思います。当時私も同級の表町の小川信次先生とともに放射線科に属しており、第一内科の胃カメラの研修にも参加し、板倉先生など多くの人々とともに早期胃癌の研修を行った経緯があります。
 その後私は放射線科助手を経て昭和40年に長岡赤十字に赴任し、板倉先生と個人的に胃のX線所見などの検討を行っていましたが、暫くして板倉先生の発案により、病院内で院外の医師を交えてのX線診断学の勉強会が始まりました。この会は特に名前などはなく、病院で確定診断のついた症例を提示、また会員が診療中の症例を提示して皆で検討をするという形のものでありました。胃カメラ像の投影などは手作りの装置で行い、月1回、とにかく始めました。その後厚生連中央の佐藤實先生も参加されました。開催の連絡などは全て板倉先生に委ねられました。
 しかし佐藤實先生が、続いて私が新潟大学へ転出し中断のおそれもありましたが、板倉先生のご尽力で継続して現在に至りました。日赤の佐藤敏郎先生、厚生連中央の原敬治先生、佐藤敏輝先生が次々と症例のまとめを担当され、開催場所も日赤病院から中央病院と変わり、症例の検討範囲も拡大し内容も濃くなり、メンバーも増えたと聞きました。
 その後私は長岡に里帰りして仲間に入れていただきましたが昔からの藤井正宣先生(地蔵堂)、会田恵先生(柏崎)なども残っておられ、金井朋行先生(見附)、高橋剛先生、大貫啓三先生など多勢の会員が増えておりました。担当された放射線科部長、お世話役の板倉先生のご努力に敬服しました。会の内容は症例検討にとどまらず、放射線医学や医政の最新情報の伝達もあり集会の開催が待ち遠しいほどであります。
 このような検討会の存在は長岡の他の診療科にも少なからず存在すると思いますが、40年以上にわたりお一人で昔は名も無かった会を自己よりもむしろ他人のためにお世話を続けて下さった板倉先生の献身的努力に心から感謝申し上げます。特に昨年は体調の優れないなか、11月の東京ドームホテルでの第38回日本頭痛学会の良導絡低周波治療についての講演を控えてご負担もおおかったと思われます。
 今後は大貫先生が世話人を引き継いで頂けるとのことで、この2月21日にはじめて板倉先生不在の会が開かれます。板倉先生には遠いところから我々を見守って頂きたいと思います。板倉先生有難うございました。
 ご冥福をお祈り申し上げます。合掌

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英語はおもしろい〜その14  須藤寛人(長岡西病院)

mesmerizing 魅了された
 旧友の Dr. Marina Guerrero がこのところ頻回に E-mail を送ってくる。先日のメールは彼女が昨年夏、シアトルへ旅行し、Mt.Rainier(レーニエ山)を訪れた時のものであった。雪を頂いた「タコマ富士」との別称もある美しい山に、この山だけに見られる特殊なレンズ状の雲(lenticular clouds)が数重に登り上がっている幻想的な写真を載せていた。コメントに"What a stunning beauty! It's mesmerizing."と書かれてあった。彼女がこのメールを世界の友250人に同時送信していることを勘案するとよほど感動したものと推察された。
 まずは、彼女のコメントにある英語に関してであるが、"stunning"は、(1)人を呆然と(気絶)させるような、(2)すてきな、とても美しいである。mesmerizing の意味は「魅惑される、唖然とさせられる」である。mesmerize には他に、「催眠術をかける」という意味がある。意訳するなら「息も止まるような絶景、見続けていると頭がぼーっとなるような壮大な光景」でいかがであろうか?
 次に、mesmerize(mesmerise)の語原であるが、オーストリア人医師 F. A. Mesmer(1734−1815)に求められる。派生語に mesmerism「催眠術」、「催眠状態」、mesmeric「催眠の」、mesmerically(副)、mesmerist「催眠術者」、mesmerization、mesmerizer などがある。
 以下Goo辞典、Wikipediaなどを参考にしてまとめてみると、1766年、Dr. Mesmer は「惑星が人体に与える影響」という論文を書き、宇宙、地球、人体、生物の全てに、目に見えない液体が流れており、病気はこの流れのインバランスから来ていると考えた。触ったり、打ったり、催眠的凝視や磁力を送る杖などを使い治療にあたった。磁気治療の提唱者とみなされ、パリで人気を博した。しかし、1784年、Benjamin Franklin らは Mesmer の主張する〔磁力線〕は存在しないと結論づけ、この治療が有効であった人は、もともと催眠にかかりやすい人で、"auto-suggestion"によるものであるとした。現代的に言えば、「暗示による心因性ストレスの解消法」であったといえよう。当時、外科手術に当たっては鎮痛剤はアルコールを飲む以外にはこの"mesmerism"という方法しかなかった時代の話である。
 私たちは「催眠」というと、まず hypnosis という単語を思い出す。この言葉をはっきりと使ったのはスコットランドの外科医James Braid(1795−1860)だそうである。Hypnos はギリシャ神話の「眠の神」である。Braid は Mesmer の行った「紫色の着物を着て、鉄の玉を持って(著者注:少し「いかがわしい」という意味を含む)した fansiful metaphysis とは異なる」と主張した。
 hypnosis「催眠状態」、「催眠現象」;hypnotic「催眠の」、「催眠剤」;hypnotically「催眠的に」;hypnotism「催眠術」、「催眠状態」、「魅力」、「暗示力」;hypnotize「催眠術をかける」;hypnotist「催眠術者」などこちらも多数の関連語がある。
 Mt. Rainier は私にとっても思い出の山である。横須賀米軍病院の時、私は一人の同年代の看護兵(corpsman)、John McNamara と親しくなった。彼は整形外科病棟でギブス(cast)の仕事に携わっていた。彼のベトナム行きが決まったとき、二人で、横浜まで飲みに出かけた。いしだあゆみの「ブルー・ライト・ヨコハマ」が大ヒットしていた頃であった。彼の父は医者であったが離婚し、幼少時つらい思いをしたことなどを話してくれた。数ヶ月後、ベトナムにいるはずの彼が突然横須賀に、今度は、病人として戻ってきた。本来、襲撃されてはいけない決まりの病院船がベトナム解放軍に狙われ、死者も出た。自分の気持ちが整理できないと私に訴えた。結局彼は除隊し、郷里のシアトルに戻った。しばらくして、私の方は新婚旅行途上での彼との再会となった。彼も婚約者と一緒で元気を取り戻していた。4人でドライブとなった。シアトルの町中から遠くに見えた山は、次第に近くなり、いつの間にか山道に入っていった。それが標高4392mの Mt. Rainier(イギリスの海軍大将の名前)であった。途中で幾度となく鹿に遭遇した。6月初めで、雪で行き止まりのところで引き返したが万年氷河を頂く山は確かに雄大であった。John達は私達の次の出立地の Portland, Oregon までドライブしながら送ってくれた。心優しい若者であった。John との音信は途絶えてしまったが、きっと、良き Dad、いや良き Grandpa でいることであろう。

scaphoid 陥凹した
 腹部の理学的所見をとるとき、まず、仰臥位の視診で、flat「平坦」、distended「膨隆」、scaphoid「陥凹」の別を記した方が良い。「膨隆した」は bloated でも良いが、「太りすぎの〔たるみっ腹〕」も含む素人言葉/スラングである(参考中野次郎箸「臨床医学英語」)。scaphoid はもともと「舟状の」、「ボートのような形の」という意味である。scaphoid abdomen で「舟状腹」(南山堂医学英和大辞典と日本医学会医学用語辞典)と書かれているが、「腹部陥凹状」の訳が良いであろう。陥凹の程度が極めて強ければ、悪液質なり重要な疾患をもっていることが疑えるかもしれない。なお、奥田邦雄、他著「医学英語の書き方」には scaphoid は取り上げられてはいないが、〔医学に関する俗語〕の項に"boatbelly"として書かれている。
 scaphoid の語原は、Merriam-Webster大辞典では L. scaphoides, from G skaphoeid?s, from skaph? through, bowel, light boat, skiff oid?s-oid と書かれているので、もともと、木のお椀や丸太舟を意味したのであろう。私たちは解剖学で手の骨の名前を覚えた時、Os scaphiodeum(舟状骨)は三角骨、豆状骨、月状骨と四つで近位手根骨(carpal bone)であった。整形外科的に、手をついたときに骨折し易い骨で scaphoid fracture の説明文もある。辞書的には scaphoid chest(舟状胸)、scaphoiditis(舟状骨炎)、scaphocephaly(舟状頭)などがある。また、scaphoid fossa(舟状窩)は、耳介(auricle)の耳輪(耳の縁のひだのヘリの部分)(helix)とその前側にある対輪(antihelix)との間にある垂直の溝、=fossa of helix、=fossa navicularis auris を指す(McMinn et al. A Colour Atlas of Human Anatomy)。scaphoid fossa はもう一つ解剖学的用語で、「頭骨の蝶形骨にあるくぼみで、上咽頭収縮筋の起始を示す部位」にあるとステッドマン医学大辞典には書かれてある。
 「舟状の」というと、もうひとつ"navicular"という単語が頭に浮かぶ。fossa naviculare 舟状窩(navicular fossa of urethra〔尿道舟状窩〕)、Os naviculare(navicular bone)舟状骨は踵骨と距骨と三つで近位足根骨であると習っていた。navicula はnavis(ship)の指小辞、「小さい船の形をした構造」とあった。
 考えてみると、日本語では同じ「舟状骨」でも、なぜ手の骨がscaphoideumで足の骨がnaviculareなのであろう?scaphoidとnavicularはどのように使い分けるのであろう?。Merriam-Webster大辞典ではscaphoidを引けばnavicularと言い換えてあるし、navicularと見ればscaphoidと書かれている。かってはきっと大きな違いがあったのだろうと推測するが。navi-は本当の舟型のような、より大きな船を指したのであろうか?。結局、私には分からずじまいである。英語は、奥が深く、知らないことが多く、それ故おもしろい。
 navi-はnavigate、navigation、navigator にみる如く、意味は船から航空機にかかわることにまで広がり、今は「カーナビ」にまで至って繁栄(?)している英語である。
 話を元に戻して、「陥凹」をいう種類の英語をみてみたい。concave〔k?´nkéiv〕は(形)「凹状の、凹面の」であり、名詞の「凹状、凹面」はconcavity〔-〕である。この反対の言葉は、超音波診断装置のプローベの「コンベックスタイプ」でおなじみの、「凸状の」convex、名詞「凸状」convexity である。新生児の陥没様呼吸は retracted respiration、剣状突起陥没は xyphoid retraction、肋間陥没は intercosta lretraction、陥没骨折は depressed fructure、陥没乳頭は inverted nipple、陥没浮腫は pitting edema、陥没胸は foveated chest(= funnel breast 漏斗胸)と、「陥没」を表現する英語は多彩である。(続く)

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新春ボウリング大会優勝記〜ボウリングのススメ  福本一朗(長岡技術科学大学)

 前回2001年のメディカルボウル新年大会で優勝させていただいてから丁度10年後に、再度優勝記を書かせていただくという名誉をいただけるとは思ってもみませんでした。ただ今年は最高201点ピン(前回は216ピンだったのに!)でハイゲーム賞こそいただいたものの、成績は172−175−201−155(アベ175)と平凡なもので、たまたま会員の皆樣方が連日の雪掻きで疲れ果てておられたためと、ハンディを今年度21点上げていただいたという偶然が重なった結果、小生の如き老骨が優勝させていただいたような次第で、本当に感謝の言葉もありません。
 小生も還暦を迎えて老化が進んだためか、近年のボウリング成績は図1に示す様に低迷しており、昨年末の納会における2010年度成績発表では、定期的に参加されておられるメンバー10名中最下位という誠に恥ずかしいものであり、そろそろ引退時期かと本気で考えていたところでした。
 そのため今年も「参加賞のお菓子詰め合わせだけいただいて帰ろう!」とリラックスして、スコアを無視しスペアを取ることも一切考えずに、「二球目はない、ただこの一投に定むべし」と無心になって、ただひたすら10本のピンだけを見つめ、右第1スパッツにボウルを投げつけていました。それがよかったのか久しぶりにダブルやフォースが続出しただけでなく、いつもはなかなか倒れてくれない右奥のピン(テンピン)が良く倒れてスペアも次々と決まって行きました。これは前回の優勝時と全く同じ現象であり、ボウリングは真に「心身一如」の精神的スポーツであると実感した次第です。「心身一如」という点は日本古来の武道と同じです。剣聖宮本武蔵は「武道とは何か?」と問われた時、「畳の縁の上を歩けるか?」と逆に尋ねました。「雑作もないこと!」と言った修行者に、「しからば千尋の谷に掛かる畳の縁の幅の木橋を同じ様に渡れるか?それが武道だ」と答えたと言われます。これは禅宗に言う「平常心」、また長岡藩牧野家壁書にある「常在戦場」の精神と同じ趣旨と思われます。ボウリングもまた、心技体が充実しており「静かなる水面の如く」心が雑念から開放されていないとストライクが続かないため、単なる「玉転がし遊び」ではなく、「心身統一」を修養する「道」の面をも有しているのではと思われます。
 ここで「心身統一」を目指す修養法としては、心拍を自在に制御できるヨガやアルファ波を自由に出せる座禅が有名です。この「身体不随意機能の随意制御」を生体情報計測装置の助けにより、素人にも可能として様々な心身症治療に応用しようとする学問が「バイオフィードバック Biofeedback」です。我が国では1973年ハーバード大学医学部の心理学者シャピロ博士が来日された機会に、石川中(東京大学医学部)・水口公信(国立がんセンター)・松山義則(同志社大学文学部)・宮田洋(関西学院大学文学部)・平井久(上智大学文学部)の先生方が発起人となられて、東京と福岡で第1回バイオフィードバック研究会が開催されたことに始まり、1983年日本バイオフィードバック学会(http://www.jsbr.jp/)と改称して、1988年には学会認定バイオフィードバック技能士制度が設けられました。今では、気管支喘息・高血圧・不整脈・頭痛・癲癇・冷え症・過敏性腸症候群・円形脱毛症・自律神経失調症・脳血管障害後リハビリ・失禁予防など種々の病態の治療やその予防に用いられています。また日常の心身の状態を快適に保っておくための健康増進面でも有用であることが判明しているだけでなく、オリンピック選手の競技前の心身管理や精神集中の役にも立っています。この意味でボウルのコースやピンの倒れ方を視覚的にフィードバックして、ゲームの中で自然と心身を制御して行くボウリングは、「広義のバイオフィードバック」を実践していると言えるのかもしれません。
 さらにボウリングは若者のスピードも人並みはずれた筋力も必要とされないにも拘らず、1ゲームで散歩40分に相当する運動量があり、中国語でも保齢球(baolingqiu)、つまり「齢を保つ球技」と呼ばれていることに象徴されている如く、高齢者にも最適です。特に冬期に高齢者向けの適当なスポーツが少ない雪国では、雪掻き運動とともに得難い運動の機会を与えてくれるものと思います。
 さて今年の新年大会では大変喜ばしいことが一つありました。それは8年間休会されておられました明石明夫先生がメディカルボウリングに復帰され、長年のブランクをものともしない華麗な投球フォームと、高い金属音とともに全ピンを遠くに弾き飛ばす豪快なストライクを見せていただいたことでした。「雪後始めて知る松柏の操、事難くして方に見る丈夫の心(山本五十六)」、苦難に遭われて始めてその人の真価は現れ、丈夫の心は平素の修養の現れであることを、明石先生は教えてくださいました。どうぞご自愛のほどを。小生と同じアラカン(around Kan-Reki)の明石先生は、今年お嬢様が医院を無事御継ぎになられて悠々自適の毎日を過ごしておられるとのことですが、これからもわれわれ医師ボウラーの模範としてクラブ員一同をお導きいただければ幸いに存じます。
 小生も今回のような良い成績にはもう二度と巡り逢えないとは思いますが、42年前大学入学の時に購入した16ポンドのボウルと古シューズとともに、これからも細く永く身体の許す限り続けてゆきたいと願っております。医師会の先生方におかれましては今後ともよろしく御付合いいただけますよう、御願い申し上げます。

 Viva Medical Bowling!!

2011.1.17 阪神淡路大震災16年目の日に 6434名の方々のご冥福を祈って

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新年囲碁大会  増村幹夫(長岡西病院)

 1月15日、新年囲碁大会が魚藤であり、今回の参加者は次の十名でした。
 遠藤彦聖(立川綜合病院)、太田裕(太田こどもクリニック)、大塚武司(大塚こども医院)、小林矩明(喜多町診療所)、斎藤古志(さいとう医院)、齋藤昌志(三条市:さいとう小児科)、新保俊光(新保内科医院)、増村幹夫(長岡西病院)、山本和男(立川綜合病院)、吉田正弘(吉田医院)
 くじ引きでの1回戦は順調に勝ちましたが、2、3回戦はいずれも負けていたのに、相手の見逃しがあっての思いがけない勝ちで、その上たまたま3勝者が私1人ということが重なっての優勝で、全く思いがけないことでした。
 囲碁は新大の寮にいた時に誘われたのが初めてでした。精神科教室に入ってからは、澤教授を始め囲碁好きの先生方と時々昼休みに打っていました。
 悠久荘に移ってから、杉本先生に誘われて医師会の囲碁大会に時々参加するようになりました。プロの大枝雄介先生やそのお弟子さん方の指導を受けることもありましたが、腕はあまりあがりませんでした。最近はNHKの日曜午後の囲碁の時間を見て楽しむのが主で、外には近くの町内の囲碁大会に最近一回参加した程度です。
 今回の宴会の時に見せていただいた月刊碁ワールド付録の「張栩の四路ワールド」は、縦横四線の点に白と黒の石がいくつか置いてあってのゲームで、一寸面白そうでしたので買って見ましたが、案に違わず中々手強くて面白かったです。
 最近うっかりミスが増えていますので、今後の上達は難しいと思いますが、せっかく優勝させていただきましたので、今後も続けて、もう少し深くよむ碁がうてるようになりたいと思います。

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新春麻雀大会優勝記〜地域医療研修?  臼井賢司(長岡中央綜合病院)

 きっかけは昨年9月16日、地域医療研修にて高橋内科医院でお世話になっていた時のことだった。

高橋先生「先生は学生時代何やってたの?」
私「学生時代はバレーボールと麻雀しかしてなかったですね。部活をしに学校へ通ってる感じでした。」
高橋先生「そっかぁ、先生麻雀できるんだぁ。最近やってる?普段面子はどうしてるの?」
私「いやぁ、さすがに最近はほとんどできないですね。やるとしたら新潟まで行かないと面子が集まらないですし。」
高橋先生「研修医はやらないの?」私「そうなんですよ。最近の若者は……」
高橋先生「それは残念だねぇ。そうそう、毎年年明けに麻雀やってるんだけど一緒にやらない?」
私「えっ……」
高橋先生「そんなちゃんとした場じゃないから大丈夫だよ。」
私「では是非呼んでください!」

 社交辞令のようなものだろうと初めは思っていた。高橋内科医院での研修が終わり何も連絡がないまま数カ月が過ぎた。「やっぱないんだろうな」と思っていたある日、PHSが鳴った。「高橋内科医院からです」と病院の交換からの一言。まさか……。

高橋先生「あ、臼井先生?麻雀の件だけど1月27日の2時からだからよろしく。3卓ぐらい立てたいから他にもできる人いたら誘っといて〜。」

 まさか本当に麻雀があるとは思っていなかったが、久しぶりの麻雀であり、当日が来るのを楽しみにしていた。
 1月27日午前中の仕事が長引き、会場(麻雀クラブトップ)には2時10分頃に到着。「平成23年新年麻雀大会」の文字が目に入る。「何やら仰々しい感じだな……。」部屋に入ると景品のようなものが積まれており、3卓ですでに始まっていた。ほとんど知らない面々(すみません)であるが、想像していたのとは違う雰囲気。「こんなちゃんとした大会だったのか!」なにやら代打ちのような人もおり、交代で入ることとなった。富所先生、中島先生、西村先生という錚々たる面子。入ったと同時に何故か満貫テンパイ。立直に一発で富所先生から上がり牌(白)が出る。これが始まりであった。ルールは3万点持ちの、東北廻しで制限時間打ち続けるという初めて経験するものだった。制限時間になると組み合わせを換え、計3回の収支で順位を競う形式であった。2回戦を終えて小計を出す。上位4人は、西村先生22900、鈴木先生22600、富所先生22200、自分が20600で、最終3回戦を迎えた。どうも優勝すると原稿を持って帰らなければならないらしい。なんのこっちゃと思っていると、メンチン、ドラ1テンパイ。しかし6順目にフリテン……。数順後にドラ(八萬)を引き込みフリテン解消。即座に明石先生から上がり牌がとび出し、優勝を決める一打となった。初めは緊張していたが、あっという間に時間は経ち、表彰式となった。

「じゃあ臼井先生、医師会報に載せる原稿よろしくね。」
「えーっっっ」なるほど誰も優勝したがらないわけだ……。

 表彰式終了後は、小林先生、明石先生、高橋先生と夜の街へ。楽しい時間はあっという間に過ぎた。
 長岡市医師会にも入っていない研修医の自分がこんな原稿を書いていいのか疑問に感じながら原稿を書いている(遅くなってすみません)。長岡に来てもうすぐ2年が経ち、研修医を終えようとしているが、開業医の先生方と直接接する機会というのは数えるほどしかなかった。紹介状などで名前だけは知っているが、直接会ったことも見たことすらないという研修医がほとんどではないか。そんな先生方と麻雀をし、お酒を交わし、貴重な体験談を聞くことができ、非常に有意義な時間であった。これも地域医療研修の一環か……さすが高橋先生!
 4月からは大学に戻ることになるが、麻雀力の向上に……もとい、外科医として研鑚を積んでいきたい。また長岡地区で働くことになった時はぜひ参加したいと思います。ありがとうございました。

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恋するだけじゃない 日本語  郡司哲己(長岡中央綜合病院)

 骨董ならぬ古い言葉を扱う店のマダム役は余貴美子さん、この女優さんは上品にコミカルな味を出しています。−「恋する日本語」なんてお洒落で軽いミニドラマのシリーズ、深夜のNKKテレビ番組が人気だそうです。泥む(なずむ)、垂り雪(しずりゆき)とかの伝統的言葉の蘊蓄が語られます。

「日本語は、人が恋をするために生まれた言語である。小山薫堂」なんておちょくったような原作者のドグマが番組冒頭に流れます。
 まあ恋にはご縁がなくなったわたしでも、古い日本語の美しさにはとても心惹かれます。わたしの趣味のひとつは俳句ですが、俳句の季語はそんな言葉のオンパレードなんですね。いくつか身近な例をあげてみましょう。

「埋み火」炉や火鉢で灰がかけられ静かに燃える火種になる炭火。
「雪折れ」枝葉に積もった雪の重みで青笹などが折れる様子。
「風花」晴天に風に運ばれてちらつく雪。

 本稿ではこの番組に触発され、恋を離れても美しい日本語として、俳句が醸す抒情の一端を紹介させていただこうと思います。

春の水とは濡れてゐるみづのこと 長谷川櫂雨

だれといふあかときの春のおと 黛執

野の虹と春田の虹と空に合ふ 水原秋桜子

 いずれも機知的なひとひねりある抒情、いかがでしょうか。自分の俳句の師、中原道夫は抒情と滑稽味の融合が創作の基本路線。その個性的な代表作はこれ。

飛び込みの途中たましひ遅れけり 中原道夫

 こんな俳句ありか?と思われたかたもあるでしょう。さらに自分のお気に入りならこれ。

糸蜻蛉弓なりといふ愛しかた 中原道夫

 初学でこれらのような抒情と機知の俳句に出会って、どっぷり好きになりました。俳句を趣味としてもう十数年であり、まだ十数年でもあります。この世界では駆け出しです。
 日野原何某先生のように百歳近くで壮健な医師もおられます。医師全体では他の職種より五年ほど寿命(平均余命)が短いとか、聞きかじった記憶があります。俳句を趣味とすると、画家、書家などと同様に長寿の方が多いようです。歌を歌えば歌手。歌を詠むのは歌人。俳句を詠むのは俳人と申します。日本医師会のような「俳人協会」なるその道の全国組織があります。その会員の平均年齢や役員の高齢または長寿は驚くばかりです。俳句の創作なんてごく限られた機能でも脳を使うと、老化防止に役立つものでしょうか。
 ところで二月の中旬以後、暦の上で立春が過ぎるともはや春とみなされます。でも長岡のような雪国では無理がありますよね。むしろ早春賦「春は名のみの風の寒さや」そのものであります。この春の風が肌に寒く感じられるさまを「料峭」(りょうしょう)とも呼びます。先年心臓発作で急逝した句友を悼んで詠んだ拙句です。

料峭の予約もとらぬ旅立ちと 蒼穹

 実感があって好きな季語(晩冬)は「春を待つ」「春隣」です。いずれも春がすぐそこまで近づいて来ている明るい情趣です。

九十の端たを忘れ春を待つ 阿部みどり女

どの屋根もみな軽くなり春隣 蒼穹

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