長岡市医師会たより No.372 2011.3


もくじ

 表紙絵 「三菱一号館」 藤島暢(長岡西病院)
 「佐藤達蔵先生追悼文」 田辺一雄(田辺医院)
 「英語はおもしろい〜その15」 須藤寛人(長岡西病院)
 「忘れ得ぬ北欧の亡命者たち〜私の1Q84〜その4」 福本一朗(長岡技術科学大学)
 「東日本大震災(東北関東大震災)によせて」 岸 裕(岸内科・消化器科医院)



「三菱一号館」 藤島暢(長岡西病院)


佐藤達蔵先生追悼文  田中政春(三島病院)

 佐藤達蔵先生は地域住民に敬愛され、90才過ぎても現役で診療された人生の達人で、旧三島郡医師会が誇る紳士でした。郡内は勿論長岡市での各種研修会に最近まで常にご出席されておられました。ここ1〜2年間勉強会に参加されず、高齢になられ出席を控えていられるのかと推察しておりましたが、平成23年2月18日訃報に接しました。
 衷心からご冥福をお祈りいたしますとともにご家族の皆様にお悔やみを申し上げます。
 先生は出雲崎町尼瀬にて出生。昭和14年3月昭和医学専門学校を卒業。同年10月に軍医候補生として陸軍省に採用されています。主に朝鮮で軍役に就き、昭和17年4月軍医大尉に昇進し終戦を迎えられる。昭和21年3月日復員。
 昭和23年、生れ育った三島郡西越村川西(現出雲崎川西)で外科と産婦人科を標榜されて開業される。平成8年3月医療法人に組織替えされ、標榜科を内科、外科、整形外科に変更し、ご子息の毅先生と一緒にご診療をされていました。患者さんを丁寧に診療をされているとの評判は私たちにも伝わっており、大変な盛業であったと聞いております。
 先生の紹介状は極めて独特なものでドイツ語を横書きに書き、てにおは等は縦に、右上から書き出す変わった紹介状でした。慣れるとひらがななどを見なくても状況がすぐ飲み込める分かりやすいものでした。こうしたわかりやすさと合理的効率を追求されて患者さんに病状を説明されていたことが繁盛の理由ではないかと推測されます。
 医師会活動としては昭和51年度から昭和63年度の間三島郡医師会裁定委員、昭和41年4月から昭和45年3月まで新潟県医師会予備代議員を歴任されております。
 平成10年の春の叙勲で、「50年以上に亘るへき地保健衛生に貢献したこと」に対し「勲五等双光旭日章」が授与され、そして、平成10年9月の新潟県医師会総会で特別功労会員在籍50年表彰を受けられました。
 以上の各褒賞からも窺えるように先生の生涯は地域医療に尽くし切った一生でありました。
 平成2年から平成10年の間、三島郡医師会の監事をお願いしていましたが、監査に当っては丁寧に書類を見られ、厳しい発言をされておられましたが、最後は笑顔で了承されていました。争いごとを避けるための監査で、紛糾すると発言され、会員を納得させておられました。会員も長幼の序を心得ており、先生の和やかな発言で円満な医師会になっていたと感謝いたしております。
 三島郡医師会の総会は各町村持ち回りで開催していましたが、佐藤達蔵先生のお世話で開催される会はいつも食べきれないほどのご馳走が並び一番豪勢でありました。勉強会などでも好きなものをさっさと平らげ、二次会は先生馴染みの店にいかれて、さらに美味しいものを食べておられたと聞いていました。現在食べ過ぎが病気の元凶と喧伝されていますが、佐藤達蔵先生の健啖ぶりと活動的な長寿を見た私には旨いものを食べることが長寿の秘訣ではないかと思われ、現在の長寿法に批判的になったりしています。
 晩年病気になられたと聞いておりますが、臥床期間は短く、この点でも私たちに「よく働け、美味しいものを色々と食べよ、争いを避けよ」と諭されているようです。
 長い間、愚鈍な後輩をご指導いただき有り難うございました。
 冥土で戦友や友人と再会され、そして、ゆっくりとお休みになられることをお祈りし追悼の一文と致します。

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英語はおもしろい〜その15  須藤寛人(長岡西病院)

pound〔paund〕ポンド
 アメリカは頑なにメートル法を入れない国である。マイル、ヤード、フィート;ポンド、オンス;ガロン、パイント;エイカー;Fahrenheit(華氏)……。単位は、The International System of Units(フランス語 Système International d'Unités を略して)を「SI系単位」と称し、アメリカ方式は「ヤード・ポンド法」と呼ぶそうである。pound と ounce は重さの単位である。新生児が生まれたら、出生証明書にも○lb.○oz.と記入しなければならない。1lb.は16oz.、1lb.は453.6g、1oz.は28.35gに相当する。従って、3,000gはおよそ6lb.10oz.で、低出生体重児となる2,500g未満は5lb.8oz.未満となる。1lb.は約454gと覚えておけば良いが、重さに慣れることだけでも大変なことである。細かいことであるが、1lb.は#と書かれることがあり、lb.とft.にはピリオドを付けることが多い。また、通常、単位記号は複数形は無いのであるが例外としてlbs.と書かれることがある。私は今もってyrs.、hrs.と書いているが、このように複数形になる単位記号は、他にsecs.くらいであるという。
 lb. はラテン語の libra に由来する。libra(複ae)は、(1)秤、(2)衡準器、(3)ポンド、(4)おもりの意味を持つ(研究社羅和辞典)が、元々は「天秤ばかり」とみなしてよいようだ。古代ローマでは重さの単位は libra であった。ラテン語 pondus は重さ(weight)の意味で、その奪格形は pond?(=by weight)であった。libra pond?(=libra by weight)は、たとえば qu?nque libra pond?(=five libra by weight)と表現されたものが、次第に libra がとれてqu?nque pond?(=five by weight)のように言われるようになり、あたかもに重さの単位の意味があるように感じられるようになり、ついには「重さの単位」の意味になった。これが、書き言葉の上では、現在に至ってもポンドが lb.と表記される理由とのことである(上野景福著英語語彙の研究研究社出版)。
 ところで、ポンドといえばイギリスの代表的通貨単位である。「イギリスのポンドは特に pound sterling といい、sterling というのはもともとノルマン朝時代のペニー銀貨のことで、ポンドは重さの単位であった、〔重さ1ポンドのスターリング貨〕という発想から、ポンドが通貨単位となったとのこと」。なお、1poundは、かっては20sillings であったが、シリング(s.)は1971年に廃止され、現在は100pence(d.)である。ポンドの表語文字(logogram)は£であり、上記した libra の大文字 L のイタリック体である。アメリカの重さの単位にグレイン grain という単位がある。ヤード、ポンドなどを常衡(avoirdupois weight 古フランス語で「重さの品」の意)というとき、薬品重量を量るときに限って薬衡 apothecaries'weightと呼ぶそうである。grain はその基本単位で、1grain は0.067・・・グラム(67mg)である。元々は大麦1個の重さを示したようだ。現在でも、小児用バファリン1錠はアセチルサリチル酸81mgを含有であるが、このハンパな数値は grain より換算された名残りではないかと想像している。薬衡は1920年頃にはメートル法に置き換えられたとのことであったが、それでも grain と書き続けるアメリカ人医師を見たことがあった。grain の正式略字は G で(grと書くこともある)、グラムも g であることから、私は時々、非公式の時はグラムを grain と区別するため、"gm"と書く癖がついている。
 重さの単位にはもう一つ、金を量るときに限って使われる金衡 troy weight というのがあるそうだ。常衡、薬衡、金衡はポンドでいうと実際の重さが異なるが、grain では同等であるとのことである。常衡では1pound=7,000grainと定義されている。
 日本では昭和34年(1959年)1月1日よりメートル法のみ使用することになり、尺貫法とともにヤード・ポンド法の使用は禁止された。現在ポンドはボーリングのときの玉の重さ、プロボクシングの階級別体重やプロレスリングの体重くらいしか使われないようである。アメリカ人の好きな「パウンドケーキ」は、小麦粉、砂糖、バターをそれぞれ1ポンドづつと卵をたくさん使った、濃厚なケーキである(三省堂辞典)。
 英語の pound を日本語ではパウンドと言わずに、なぜ、ポンドと言うかということに関しては、英語の pound がオランダ語で pond となり、これが日本語に根付いたためであると考えられている。英語の ounce、coffee、cup はオランダ語で ons、koffie、cop で、日本語ではオンス、コーヒー、コップとなったとのことである(上野景福著英語語彙の研究)。
 以下は Wikipedia よりであるが「アメリカは1975年に Metric Conversion Act(メートル法転換法)が成立して、Metric Board(メートル法局)が設立されたが、メートル法使用の義務づけはされなかったこともあり、1982年には廃止された。1988年 Omnibus Trade and Competitiveness Act(包括通商競争力法)により政府省庁やその関連先(建築業界を除く)ではメートル法も導入された」とあった。アメリカ、イギリスは伝統単位への執着が強いと言わざるを得ない。

Blog ブログ
 Blog は Web と Log が合体してできた語 weblog の省略された言葉で、(名)「ブログ」、「日記形式のホームページ」、(自動)「ブログに書く」という意味で、2003年頃より広まった言葉(goo辞典)である。
 まず、Blog の B は web からであるが、web は、福武書店の英和辞典には (1)クモの巣、(2)網、わな、(3)水鳥などの水かき、(4)(ひと機分の)織物、(5)(一巻分の)印刷用紙とある。私達は医学生の時、ターナー症候群の所見で、頚部の webbed neck を「翼状頸」と教わったことがあった。Merriam-Webster大辞典では、web には13の意味が書かれているが、13目が "a radio or television network" であり、これがブログの「ブ」の意味である。パソコンで使う world wide web(www)の web はネット上の一つのサービスであるが、現在では web はネットと同じ意味を持つ(現代用語の基礎知識2010)。
 次に log であるが、誰でもロッグハウスの「材木、まるた」であることは分かる。しかし、もう一つの意味は、"logbook" の短縮形を示すことはあまり知られていない。ロッグブックとは船舶の毎日の位置、スピード、天候等を記録する「航海日誌」に原義を置く。さらに広い意味で、早さ、進行、行動などについての連続記録をしたためた日誌(journal)や記録書を指す。たとえば、(1)飛行機のフライトレコード、飛行機自体あるいは飛行器材の歴史、パイロットやその他のクルーの飛行記録、(2)エンジンやボイラーなどの活動状況書、(3)石油井戸の掘削時の進行記録、(4)映画撮影時のショット記録、(5)ラジオ局より放送される分毎(a minutes-by-minutes)の記録と書かれてある。
 Merriam-Webster大辞典には書かれていないけれど、logbook は「科学者が日時を付けて、実験記録や計算結果を、記録するノート」も意味する。私がアメリカで専門医のコースに入ったばかりのその月に、布製カバーのしっかりした変形A4の冊子を受け取った。そこには大きく "Residents' Log" と書かれてあった。上部には大学名が、下部には Professor and Chairman とHouse Staff Coordinator の二人の教授名が印刷されてあった。見開きには property of      とあり、さっそくそこに自分の名前を書いた。左右で1ページで、合計80ページであった。要すれば、日本の「症例一覧記録集」そのものである。患者の initials、diagnosis、treatment、complications、end result、surg. or asst.(執刀医か助手の別)の項目が書かれてある。今、手元にその Logbook を開いているが、2冊目の終わりが3年生の終わる頃であったが、それなりにまじめに記録していたと自分で感心している。ページをめくる毎に、往時を想いだして、懐かしさで目頭が熱くなる。
 Blog から blogger、「ブログでメッセージを発信している人」という語が生まれ、1日数万〜数十万のアクセスがあるブロガーを「アルファーブロガー」(和製英語)と呼ぶそうで、新聞、テレビ、雑誌に代わる新しいメディアとして注目されており、「ブログ広告」「ブログ・ジャーナリズム」という語が生まれている(現代用語の基礎知識2010)とのことである。

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忘れ得ぬ北欧の亡命者たち〜私の1Q84〜その4  福本一朗(長岡技術科学大学)

2・6 イラン亡命者夫妻「アリとミーナ」
 筆者と妻は9年間に及ぶ留学生活の間に、3人の息子達を授かった。しかし親族も日本人の友人もいない異国において、留学生夫婦2人だけで3人の乳飲み子を育てることは、当地の友人の助けなしにはほとんど困難であった。特に大学の教授就任式等の公式行事には夫婦での出席が要請されていたにも関わらず、健康な子供の公的ベビーシッターは北欧にはあり得ないため困り果てていたところ、今まで全く話もしなかった学生寮の隣の部屋のイラン人夫妻が長男恵の子守りをしてあげると声をけいかけてくれた。それが当時まだ子供のいなかったアリとミーナのイラン人夫婦だった(Fig.7)。アリはイスラム原理主義のホメイニに抗議して国外追放になった亡命大学生で、筆者の留学先であったシャルマース工科大学土木工学課の学生で、ミーナは半年前に呼び寄せられて結婚した専業新婦であった。
 洗礼を受けたクリスチャンである筆者は、異教徒であるイスラム教徒のアリ夫妻に子供を預ける事は最初とても心配であった。しかし彼等は異教徒の恵をまるで自分の子供の様に面倒を見てくれ、その心配は全くの杞憂であった。その後はお互いに親戚付き合いをして、彼等とはお互いに3人の子持ちとなった今に至るまで家族ぐるみの親交を続けているが、言葉も文化も宗教も全く異なる人々であっても、親子や友人関係の人情は全く同じである事を教えてくれたのはアリとミーナであった。ちなみに1980年初頭ほとんど戦争状態であったイラクからの留学生もアリ達の隣に住んでいて、彼等とも親交があった。自分達の国同士の不和は、異国の地で暮らす異邦人達の交流にとっては何の差し障りもないことを目の当たりにした。商人であったマホメットを開祖とするイスラムは、その帝国内にキリスト教徒・ユダヤ教徒・仏教徒・拝火教徒が仲良く暮らしていたことに象徴される如く、本来非常に実利的で寛容な宗教であった。筆者が彼の地で出会ったイスラム教徒達からは、9・11同時多発テロを起こしたイスラム原理主義者の片鱗も伺うことはできなかった。それはまさにドイツ人の全てがアウシュビッツのナチ党員ではなく、日本人医師全てが731細菌戦部隊に関与してはいないことと同じである。

2・7 ハンガリー亡命女子大生「アンドレア」
 1980年代は東欧で民社化運動が盛んで、それはやがて歴史的な東西ドイツ無血再統一に繋がるのであるが、当時は学生運動・労働者運動をしたため祖国の官憲に追われて国外に逃れた若者が沢山おられた。
 ハンガリーはアジア系のフン族アッチラ王が中央に建国したマジャール人の国であるが、千年を超える年月に欧州人との混血が進んで、外見は金髪・青眼の人々が多い。しかしその心根はフィンランド人と並んで、全くアジア系であり、義理人情に厚く慎み深い。そのため日本人の最も善き隣人となるのはハンガリー人であるケースが多い。我々も例外ではなく、スウェーデンで得た最良の友人は筆者も妻もそれぞれにハンガリー人であった。
 1983年8月に行われたゴッセンブルグ大学医学部医師課程開講日に参集した新入生の中でアジア人は筆者一人だけであった。恐らく自分が最年長だと覚悟していたにも関わらず、驚いた事に学生の年齢は17歳から45歳まで広く分布し、33歳の筆者は中央値より少し年上であるだけだった。ただそれは後になって分かった事で、当時は慣れないスウェーデン語の講師の話に辞書を引き引きついてゆくのが精一杯で学友と話をする余裕等全くなかった。休憩時間にただ一人ぽつねんとベンチに座っていた時、何人かの級友が話しかけて来てくれた中に、一見二十歳過ぎの小柄な金髪の可愛い女性がいた。それがハンガリーからの亡命者アンドレアで、彼女は婚約者のペーテルが祖国で民主化学生運動の指導者であったため亡命したのを機会に、一緒にスウェーデンに逃れて来たのだった。2年前に入国していた彼女はスウェーデン語に堪能で、ボルボの研究者であったペーテルとともに働いて労働点加算を得、医学部に入学したのだった(Fig.8a.b)。
 アンドレアは言葉の才能は素晴らしいもので筆者を助けてくれたが、あまり勉強は得意ではないようで、追試験の勉強やプレパラート口頭試問の特訓をよく手伝わされた。ただその努力の甲斐もなく、彼女は留年を重ねて最終的には卒業できなかったことは残念であった。
 一般に北欧の大学教育は、高等教育とは言うものの職業教育に徹しており、工学部出身者は入社した日から単独設計を任せられ、医学部出身者は研修医初日から外来患者の主治医や夜勤当直に任じられる。そのため学部教育は実戦的で、医師課程の上級学年では手術助手や正常分娩介助まで課せられるほどであり、各科目の修了試験の合格率は50%〜70%であるため、同期入学者の4割は留年や退学となって顔を見なくなってしまった。
 アンドレアも学年を異にする様になってから、大学では会わなくなってしまったが、アジア人の血が呼ぶのかその後も家族ぐるみの付き合いは続き、お互いの国の事や言葉について知識を交換し合った。その中で、ハンガリー語(彼等はマジャール語と呼ぶ)は、日本語と同じ様に名詞に助詞がついて主格・対格などを表す膠着語であり、やはり同様に名詞の複数形や冠詞がないことなど、文法的にはウラル・アルタイ語族に属している事を教えてもらったが、単語は全く異なり「Köszönömケストヌム(有り難う)」位しか覚える事ができなかった。また20世紀初頭までオーストリア・ハンガリー帝国であったためか、伝統的に第1外国語はドイツ語であり高齢者にはドイツ語を流暢に話す人が多い事、ハンガリーは「トカイの赤い牛」と呼ばれる最高級ワインに代表される農業国であると共に、東欧ではチェコ・東独と並ぶ工業国で第二都市ミシュコエツは東欧最大の工業都市であること、国内にはノマドと呼ばれるジプシー集団が数多く住んで芸能活動を行っているがその起源は恐らく北インドである事など、今までハンガリーの事をほとんど知らなかった事に気付かされたことであった。
 ハンガリーが民主化された後、ペーテルとアンドレアは幼い息子と娘を連れて祖国に戻り、ブタペストで幸せに暮らしているとクリスマスカードで知らせて来た。日本で人間に優しく安全性の高いボルボのセイフティーベルト制御機構を見る度に、それは痩せて背が高く無口だが人の良い優秀なエンジニアであるペーテルが作り出したことを考えると、「技術は国境を越える」と実感する。アンドレアも中途挫折したスウェーデン医学を役立てて、祖国で介護の仕事をしているという。あの善良な夫妻の祖国での静かな幸せを祈る今日この頃である。(つづく)

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東日本大震災(東北関東大震災)によせて  岸 裕(岸内科・消化器科医院)

 3月11日、2時46分。もうすぐ午後の診療開始、と思いながらくつろいでいると、ゆらゆらと船酔いを起こしそうな揺れ。大きい。てっきりこっちが震源地、「またこっちへ来て。」と多少いまいましさを感じながらTVをつけて驚いた。宮城沖。マグニチュード7以上。
 私達の地区は長岡でも特に揺れの大きい地区なのかもしれないが、これで震源地が太平洋側なら現地での揺れはさぞや、と気にかけながら三時からの午後の診療につく。
 TVでは沿岸部に津波警報。情報を気にしつつ診療を続けていると「あっ、津波が……」の声。待合室のTVを覗きに行くと、信じられない光景が。
 防潮堤を超え、林をなぎ倒し、家や車を押し流し、黒い波はさらに田んぼやビニールハウスを超えて幹線道路まで飲み込もうとしている。
 あの林の中に、壊れた家の中に、車の中に人がいるかもしれない。
 「気分が悪くなるみたい……一度経験しているだけに」と誰かの声。
 次々と入る情報に、あの時のあの経験をも遙かに超える災害なのだ、と気づくのに長くはかからなかった。

 私達の地域は長岡南部。長岡市十日町。旧地名は古志十日町。山古志の山(金倉山)を西側に降りてきたところの平野部。片田、十日町、滝谷、六日町地区。長岡全体から見れば小さく人口も少ないが、あの七年前の中越地震の被害は大きかった。私が校医をしている岡南中学の生徒達の家屋の六割強が半壊から全壊だったと後に知った。滝谷駅の踏切から見る上越線の線路はくねくねと波打っていた。道路には亀裂と段差が生じ、電信柱も右に左に傾いていた。
 余震が繰り返す中、一晩を車の中で過ごし、早朝皆がコミュニティー・センターに集まった。地域の市の職員の方達が中心になって音頭を取り、機材を持ち寄り炊き出しの準備を始めた。若いお母さんたちがおにぎりを作るというので、私も医院に戻り、カルテが棚から飛び出し床に散らばる中をかき分け、数メートル移動している内視鏡装置やベットを押しのけて、内視鏡用使い捨てゴム手袋を持ちだした。もちろんおにぎりを作って貰う為に。そうこうしているうちに救急隊が来てくれた。
 何と神戸赤十字から、分断された道路を迂回しつつ来てくれたのだと言う。その後一週間駐留してくれてその後姫路赤十字に引き継いでくれた。自分も医院から抗生物質、風邪薬、整腸剤などとりあえずの薬を持ち出し、守備範囲の四か所の避難所を回ることにした。巡回は雪の降る前、仮設住宅が全て出来上がるまで続けた。往診先のお宅は玄関が右に、部屋は左に傾いていた。静岡からの保健師さんが付いて来てくれた。
 「何で俺達の所だけ」という気持ちは中々消えなかった。でも今考えるとそれほど広範囲ではなかったから助かったのかも。助けて下さった遠方からの皆さま。市の職員。水道、電気の復旧を急いでくれた水道局、電力関係の方々に今も感謝です。

 この春分の日の連休、私達の地域の南部体育館に福島県南相馬市から避難の方々が来られました。私も医師会から連絡を受け、20、21日ととりあえずの薬を持って診療に向いました。初日は皆さん随分と緊張された面持ちで、特に、向こうで服用していた薬がこちらで手に入るかどうか心配しておられた方が多かったようです。大丈夫、こちらにはほとんどの薬があります。連休明けにお近くの医療機関で貰って下さい、と申し上げました。安心して下さい。美味しい米も暖かい味噌汁もあります。暖かい人間も。とりあえず落ち着いて、ゆっくりして下さい。

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