長岡市医師会たより No.375 2011.6


もくじ

 表紙絵 「雨上がる(大源太湖)」 丸岡稔(丸岡医院)
 「医療救護活動の一日」 坂爪香(長岡中央綜合病院)
 「災害医療支援」 小黒武雄(立川綜合病院)
 「忘れ得ぬ北欧の亡命者たち〜私の1Q84〜その6」 福本一朗(長岡技術科学大学)
 「秋田には“秋”がない」 石川友美(長岡赤十字病院)
 「ご禁制の黄花」 郡司哲己(長岡中央綜合病院)



「雨上がる(大源太湖)」 丸岡稔(丸岡医院)


医療救護活動の一日  坂爪 香(長岡中央綜合病院)

 平成23年4月18日、寝袋の肩口にあいた隙間から冷たい風が入り、起床時間の1時間前から目が覚める。他県の医療救護チームと公民館で寝泊りを共にしており、起床時間の5時を待って支度を始める。朝ご飯はパックのご飯とレトルトのカレー。食後に片付けをし、早めに支度ができたので車で石巻の海岸近くを見に行くことにする。4月も後半というのに、外にはうっすらと雪が積もり、息が白い。海岸に近付くほどに瓦礫と汚泥が増え、海岸沿いではそれ以外の物はなくなっている。防砂林の松の木には、様々なゴミとともに逆さになった高級車がぶら下がっている。ここは本当に日本なのだろうか。津波は何もかもを流して持っていくだけではなく、代わりに瓦礫や汚泥を残していくため、車外に一歩出れば町中に悪臭と粉塵が充満している。テレビで見ていた以上の現実を肌で感じ、午前中の診療をするため担当の避難所に向かう。所々で信号は未だ作動せず、大きな交差点のみ警官が交通誘導を行っている。津波が到達しなかった区画はほとんど平常と同じようだが、路地を1本挟んだだけでも、津波が来たエリアは状況を異にする。道路の両脇には、泥だらけの車や家財道具が積まれ、車がやっと1台通れるくらいにまで狭くなっている。まだ水が引かずにぬかるんでいる所、大潮で再び冠水してしまう道路もある。迂回を繰り返し、両脇がすれすれの道路をやっと抜けて避難所にたどり着く。担当となった小学校は、津波が1m30cm程まで達したため、小学校の近隣には瓦礫や汚泥も積まれ、流されてきたボラが異臭を放っている。
 教室の一つに設置された診療所には、小さな石油ストーブが一つあるのみで、屋内とはいえ、寒くて上着は脱げない。診察台は、工作室にある6人掛けの大きな木の机を毛布で被ったもの。受診する患者さんは1日10数名、避難所の人と近所の人が半々。主訴としては上気道症状が半数以上を占めていて、他は常用薬が不足しての処方希望である。診察していると、症状に困って受診するというよりは、毎日肩を寄せ合っている避難所以外の人と話をしたい、不安を聞いてもらいたいという様子の人もかなりいる。一通り話すとホッとした表情となって帰っていく。診察の合間に見て回った校舎内や近隣の様子からは、それも当然とわかる。ライフラインはだいぶ復旧したが、下水にまだ不備があるためトイレで大便は行えず、トイレ内に張ったテントに簡易トイレを設置してある。しかし、臭いもひどくて行きにくい。やっと設置された仮設トイレは校庭で、教室からは少し離れ、行くためには屋外に出なければならない。夜間や天候が悪い時など不便この上ない。避難所の人は、そんな理由からトイレをぎりぎりまで我慢したり、夜は何人かで行くようにしているそうだ。避難所となっている教室は、敷き詰められた毛布が万年床で、外の悪臭や粉塵のため換気もしていない。身体的にはもちろんのこと、精神的にも間違いなく悪い環境である。一時は避難していたが自宅に戻った人も多いと聞き、避難所の近隣の自宅も巡回してみる。ほとんどの人は、診療を再開した近隣の医療機関に受診できており、巡回診療までは不要な様子である。
 夕方になり、石巻の医療の拠点となっている石巻日赤でのミーティングに参加するため、避難所を後にする。普段であれば分程で到着する距離を、道路状況の悪さや支援活動の終了による移動の車で混雑し、倍以上の時間をかけてやっと到着する。石巻日赤では、医療コーディネーターの専属医師が統括し、感染症動向や各専門分野の医師チームの巡回の情報(精神、糖尿病、眼、歯など)、避難所にいる障害者や要介護者などの把握、診療所がある避難所での今後の防災まで、多岐に渡って検討・把握・調節を行って情報提供をしている。その日の新しい情報を聞き、宿泊所としている公民館へ向かう。カップラーメンやカップパスタで夕食を済ませてから、チームでミーティングを行い、就寝の準備をする。寝袋に体を横たえると眠気が襲い、22時の消灯を待たずに眠っている。余震や物音で何度か目が覚めるが、またいつの間にか眠りに就く……。
 穏やかな日差しと澄んだ空気の中、新しい海岸沿いをのんびりと散歩する夢を見ながら……。

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災害医療支援  小黒武雄(立川綜合病院)

 平成23年4月22〜24日宮城県石巻市に医療支援に行かせて頂きました。災害医療に精通している人の話を聞いたり、災害医療活動の書を読んだり、一緒に活動を行う仲間と話しながら、自分たちに何ができるのかを考えました。一人の人間として困っている人に自分のできることをするということにつきました。
 医療の原点に立ち返ることができるような経験でした。
 ただ話すだけでほんの一瞬でもhappyな時間を一緒に共有することができたのなら、少しは役に立てたのかなと思っています。人と人との関わりとはそういった時間を一緒に作り上げていくことなのかもしれない。そんなことを思っています。
 心的外傷後成長なる概念があります。心的外傷を負うような出来事を経験することにより、以前より人生をありがたく思うようになり、人をより愛することができるようになることであるそうですが、そんなことを切に願いながら、私の報告とさせて頂きます。

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忘れ得ぬ北欧の亡命者たち〜私の1Q84〜その6  福本一朗(長岡技術科学大学)

2・10 ポーランド亡命女医「ヨーランタ」
 旧東欧共産圏諸国の中でスラブ系民族のポーランドの人々は、同系民族のソ連の強い影響下でどのような生活をしていたのだろうか? 地図を見るとスウェーデンは北海を介してポーランドに対面している隣国であるため、国内には多くの移民・難民を抱えている。美俐に紹介されたメイリその友人で女医のヨーランタもその一人であった。背が高く痩せて亜麻色の髪をしたヨーランタは、共産主義に嫌気がさして家族を捨て、単身でスウェーデンに密航して来た女医である。祖国に年老いた母を一人残して亡命してきたのには、人に言えない事情があったのであろう。彼女はいつも笑顔で明るく社交的であったが、自分のことはほとんど話さなかった。ある日、美俐夫妻と共にメイリホームパーティに招いた時、珍しくヨーランタが祖国での生活を話してくれた。
 ポーランドでは全ての学校で共産主義学習が必修科目として義務づけられていて、医学部でも厳しく出席を取っていたが、教えるポーランド人教師も学生もやる気なく、「代返」が横行していたという。また医学生には軍事教練が必修科目で、女子学生も落下傘降下実地訓練を何度も経験したという。
 女性初のノーベル賞受賞者であるキュリー夫人を生んだポーランドは、過去幾多の国々から侵略を受け、対岸のスウェーデン王国の一部となったこともあった(Fig.11)。そのため両国民の交流は深く、スウェーデンは二回の世界大戦に際して多くのポーランド難民を受入れた。その結果ヨーランタの様なポーランド系の医師が誕生し、彼女も放射線科医と内科医の二つの専門医資格を取得して、結婚もせずに南部のマルメ市の病院で働いているという。昨年は喉頭癌を病むお母さんを祖国から呼び寄せて治療をしていたがはかばかしくないため、日本での治療を希望して、筆者に日本の医療事情を打診してきた。インターネットのお蔭で、世界中の友人達と瞬時に連絡が取れる様になったことは、航空郵便しかなかった20世紀とは隔世の感がある。今後も異国の友人達との交流は絶やさないで、協力し合いたいと願う次第である。

2・11 ルーマニア難民女医「サンダ」
 北欧では医学部を卒業すると同時に最下級の医師資格を与えられ、卒業翌日から独立して臨床に従事する、2年間のインターンが始まる。筆者は学生寮のあるゴッセンブルグ市からスウェーデン最大の大河イェータ川を北に100km遡った河港都市トロールヘッタンにある、北エルブスボリ病院で1989年の春から勤務を開始した。最初は車をもたなかったので列車通勤であったが、その時に途中の駅から毎朝乗ってきた同僚がストックホルム大学医学部を卒業したばかりのペールであった。産婦人科医を目指していたペールはインターンの間、我々外人医師に気を配ってくれいろいろと助けてくれた。
 彼の妻のサンダは亡命ルーマニア人女医で、やはり隣町のウデバラの病院でインターンを始めたばかりであった。二人の間には既に、アレックスという可愛い娘が生まれていて、二人で子育てをしながらの医学修行に苦労していた(Fig.12)。当時のルーマニアはチャウシェスクの独裁政権下で国民は塗炭の苦しみに喘いでおり、ただでさえ食料も医薬品も欠乏しているうえに、エイズが蔓延して幼い子供達が毎年数万人も命を落としていた。ペールとサンダは毎月、祖国の人々に援助物資と支援金を送るとともに、毎年夏休みにはルーマニアに渡って医療奉仕活動を続けていた。「富の偏在と貧困が世界からなくならない限り戦争は不可避的に発生し、小国のスウェーデン一国が平和を維持する事はできない」と主張して世界平和と全民族の平等を唱えた故オロフ・パルメ首相に代表されるように、スウェーデン人は開発途上国や戦火に喘ぐ難民達に暖かい手を差し伸べざるを得ない人種である。しかしペール夫妻のルーマニア支援は医師としての収入のほとんどと余暇時間の全てを捧げるほどに徹底しており、賛嘆に値するものであった。ただ個人の自律と余暇を楽しむために働いている北欧人に、アジア人の如く自らの人生を犠牲して親族に尽くす生き方が、長く耐えられるものであろうかと疑問に感じた。
 ペールはサンダの家族と話すためにルーマニア語までマスターし、利発で可愛い娘のアレックスをこよなく愛していたが、その後勤務地がスウェーデン南部の都市マルメに移動になったため家族と離れて単身赴任することになった。夫婦の7割が離婚するスウェーデンではよくある事だが、ペールはそこで若くて美しい同国人の看護師さんと恋に落ち、遂にはサンダと離婚してしまった。その事をサンダからのクリスマスカードで昨年知った。今サンダは娘と一緒にマルメの隣町に住み、医師として働いているという。
 結婚制度は国によって、また時代によって大きく異なっており、決して普遍的なものではない。現在のヨーロッパ先進諸国の恋人同士は相手を決めるとまず家族に紹介し友人を招いて「今日からこの人が私の婚約者です」と宣言して同棲し、子供ができると友人達の手で結婚式を行って市役所で籍を入れるという結婚方式(フランス式結婚)が主流となっている。また「子供は社会のものであり、親はその養育を社会から依託されているだけ」と考える北欧では、児童虐待や両親適格のない親の場合はそれを疑った医師・看護師にその場で児童を隔離保護する義務が課せられている。離婚に際しても子供の保護は徹底しており、子供には自分の両親に会う権利が当然に与えられ、夏休み等には別れた片親に会いに行くための旅費が町から子供に支給される。親の財産の相続権も実子・庶子に関わらず完全に平等であり、両親が離婚しても子供の相続権は奪われない。離婚した両親も大体はそれぞれに新しいパートナーを見つけて再婚するため、隣家の娘さんは「私にはお父さんが5人もいて、夏休みはそれぞれを回って過ごすので忙しいの」と言って、我が息子達を羨ましがらせたものだった。
 スウェーデンのジョークに次の様なものがある。「世界で一番幸せな男は、アメリカ人の給料をもらってスウェーデンの家に住み、中国人のコックを雇って、日本人の妻をもらっているやつだ。しかしこれが少しずれると大変な事になる。アメリカ人のコックが作った料理を食べ、スウェーデン人の妻を娶り、中国人の給料をもらって日本の家に住むのは人生最大の不幸だ。」。なるほど料理・住宅・給料については確かにうなずける。しかし女性については、例え平均的な大和撫子が全人類の女性の鑑であったとしても、スウェーデン女性にも映画カサブランカでハンフリーボガードの恋人イルザを演じた女優イングリッド・バーグマンに代表されるように、優しさ・善良さ・聡明さ・美しさを兼ね備えた素晴らしい女性は多い。人の価値はその民族性ではなくむしろ個々人の人間性に依存する事が大きく、スウェーデン女性の7割が離婚の経験を有する事は、ただ彼女達が不合理な自己犠牲や忍従に耐えられない自己主張の激しさを備えているためであると信じたい。
 ルーマニアという国名はRoma.nia、つまりRoma人から名付けられたという。自らをローマ人の後裔と信じ、南欧の明るい日差しに育まれたラテン系気質と広大なロシアの大地に根ざしたスラブ系体質を兼ね備えたルーマニアの女性は、シェンキビッチが「クオ・ヴァディス」の中で女性の理想像として描いた王女リディアの様に気高く、忍耐強く異郷に適応する。そのルーマニア人女性であるサンダは、祖国に尽くしてくれた夫ペールに大変感謝しており、離婚に際してもペールを愛していたからこそ、静かに表面上は喜んで新しい恋人に彼を譲ったものと信じる。そしてそのような思いやりは、人間であれば誰でも持っているものであり、決して民族性によるものではないと、スウェーデンでカ国を越す30異邦人達と交際して感じたことであった。(つづく)

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秋田には「秋」がない   石川友美(長岡赤十字病院)

 はじめまして。長岡赤十字病院研修医の石川友美と申します。出身は長岡市で、秋田大学医学部を平成22年に卒業しました。今回は秋田での生活について書かせていただきます。
 秋田市は長岡から北へ約350km。新幹線と特急いなほを乗り継ぎ、約4時間半、車では約6時間の道のりにあります。新潟と同じ日本海側にあり特産物は米と酒。新潟と良く似た土地で、それほど違いはないだろう、というのが私の当初の予想でした。
 4月、入学式を前に秋田に引っ越し、思ったこと。「寒い。」長岡で着ていた春物のコートでは朝夕どころか昼間でも寒かったです。後から思い返せば、入学した平成16年の春は例年に比べて寒かった気がしますが、秋田に行ってからの3ヶ月は毎日「寒い」しか言っていなかったのではないかと思う程でした。秋田を甘く見ていたととても後悔しました。関東から来た同級生達は寒い事を予想し、しっかり冬物のコートを引っ越しの際に持ってきていたようです。4月の中頃、見かねた親が最後の1点だったという残り物のアンゴラのコートを長岡のジャスコで買って送ってくれました。お陰で風邪をひかずに済みました。ありがとう、お母さん。
 夏といえば、8月3〜6日の「竿灯祭り」です。秋田市あげての一大イベントで、竿灯祭りが近づくと、小学校や各企業、大学等ありとあらゆる団体が体育館やグラウンド、空き地で練習を始めます。お祭り期間中は東京方面からもツアーが組まれる等、長岡の花火大会を思い出させる相当な人出でした(写真をご覧下さい。これを長岡の大手通の様な「竿灯通り」という大通りで大勢の人々が一斉に行います)。
 もう一つ、秋田の夏の名物(?)といえば「ババヘラアイス」です。「婆」が「ヘラ」ですくうアイスだから、「ババヘラ」と言うそうです。多くは50代以上(?)の「ババ」が、街中だけでなく誰が止まるのかと思う様な山中の国道脇で、海で使うパラソルの下、ドラム缶程の大きさの冷蔵庫(電源があるのかは不明)と共に座っており、中からびっくりするほど鮮やかなピンクと黄色の2種類のアイスをヘラでジェラート用のコーンに盛りつけてくれます。確か350円でした。噂によれば、このババ達、朝、送迎のバスでそれぞれの持ち場で下ろされ、夕方、また拾われて帰って行くのだそうです。秋田県限定の物だと思いますが、部活の大会のため車で岩手に向かう際、県境を越え岩手県側でこのババを発見したときは驚きました。
 そして、秋。表題の通り、秋田には秋がほぼありません。竿灯祭りが終わると、お盆を待たずに急に寒くなっていき、残暑など全くなく、10月に入る頃にはコートが登場します。
 冬。1年目の冬は、何度転んだことかわかりません。秋田市は新潟市同様、海沿いの街なので、雪の降る量はあまり多くないそうです。しかし、気温が低い分、一度降ったら春まではほとんど溶けることなく道路に積もっていきます。長岡地区では当たり前の消雪パイプは存在しません。というのも、秋田では冬場、最低気温が0度を下回る日が多く、真冬日も珍しくありません。そんな中で消雪パイプを出して止めれば、アイスリンクの完成です。とはいえ、圧雪の道路もそれ相応に滑ります。そこにさらさらの新雪がつもれば車も人も滑る他なく、私もよく転びました。長岡の冬に必要なのは消雪パイプの水たまりを乗り切るゴム長靴ですが、秋田の冬に必要なのは良質なゴム底かスパイク付きの靴でした。ところ変われば、という事でしょうか。その代わり、スキー場の雪質は近場でもすばらしかったです。
 まとまりのない文章になってしまいましたが、秋田での6年間は本当に新たな発見が多く、良い人たちとも巡り会え、充実した時間でした。それでも、私が新潟に帰ってこようと決意したのは、秋田で数年間を過ごし、秋田の気候や文化にも慣れてきたと思っていた頃に、新潟県内の病院見学で患者さんとお話をしたとき、新潟の方言が非常に心地よく聞こえたからです。すっかり慣れたつもりでいたものの、秋田の方言とは違い、ごく当たり前に、自然に耳に響くような感じがしました。やはり地元の心地よさとは特別で、私の居場所はここなのだ、としみじみと感じたのを覚えています。この特別な地元に、医師として恩返しができる様、これからも一生懸命努力していこうと思います。どうか、皆様のご指導ご鞭撻の程、よろしくお願いいたします。

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ご禁制の黄花   郡司哲己(長岡中央綜合病院)

「おはよう。もう起きたの? おお5時になったのか。」とわたし。

 家人は着替えを終えて、もうガーデニング支度です。

「おはようございまーす。今朝は何時に起きたの?」

「4時ごろかな。もう薄明るかった。」

 わたしの体内時計の夏時間切り替えの早起きは数年前からです。二歳年下の家人も昨年あたりから、ついに早寝早起き仲間であります。

 東日本大震災と原発事故による社会混乱もゆっくりと収束しつつあります。「節電」が夏に向けての今年のキーワード。一部の役所、会社でサマータイムの試みも始まったようです。我が家はとっくに夏時間生活を開始しておるんであります。

 毎朝ふたりで協力して、庭で増えた植物のあれこれを道路端の空き地への植替え作業をしています。紫蘭、酔仙翁=フランネル草、蛍袋、秋明菊、山茶花など。いずれも花の色が紅、赤、白の色ばかりでした。

「色の配置に変化をつけるなら、黄色の花で、あのコレオプシスの仲間のやつが丈夫でいいんじゃない?」

「あの黄花コスモスに似た花ね。」

「そうそう、いまも東バイパス道路に白いヒメジョオンといっしょに山ほど咲いてるよ。」

「あれ、言わなかったけ。二、三日前に庭に生えてるのはみんな抜いてしまったわ。なんだか、とんでもない花らしくて……。ちょっと待っててね、その日の新聞記事を取ってくるから。」

 平成23年6月17日、朝日新聞新潟版、「鮮やかだけど……栽培NO!外来種、オオキンケイギク、長岡の道路沿い」の見出し記事で、見慣れた黄色の花の群生がカラー写真で掲載。なんでも2006年に「特定外来生物」に指定され、駆除対象とされたんだそうです。

 オオキンケイギク(大金鶏菊)はキク科の植物、北アメリカ原産の宿根草で、花期は五〜七月頃。黄色の花はキバナコスモスによく似ているが、葉の形がへら状で異なります。あまりに繁殖力が強くて、日本の在来植物相を破壊するので、対策がとられ始めたようです。

 日本本土の植物が約4000種、そのうち帰化植物は1200種だそうです。日本生態学会の「侵略的外来種ワースト100」には、おなじみの帰化植物では、ブタクサ、カモガヤ、セイタカアワダチソウ、ヒメジョオンなどが、オオキンゲイギクに並んで列挙されています。

 しかしネットで調べると、この「特定外来生物」は法律に違反して売買、栽培、繁殖させると罰則があり、個人には3年以下の懲役や300万円以下の罰金、法人には1億円以下の罰金。そうかあ、オオキンケイギクは帰化植物仲間でも別格の極悪犯罪者扱いなんですね。

 ところで生真面目な家人はこの新聞記事を片手に、すぐに庭先に出て花を見比べ同一と認定するやいなや、一時間以内には我が家の庭の数株を引き抜き回収用ビニール袋に詰め、すべての駆逐任務を完了したと申します。

 わたしどもの住宅地はガーデニングが盛ん。家々の庭や道路沿いにも木々の緑や花々が美しいです。この育てやすいワイルドフラワーとして十数年前に我が国に導入され、今やご禁制となった「特定外来生物」のオオキンケイギク、ご近所の庭のあちこちに大事そうに植えられていてみんな花盛りなんですけど……。

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