長岡市医師会たより No.378 2011.9


もくじ

 表紙絵 「サンポールの丘(南仏)」 丸山正三
 「長岡の魅力について」 渡邉ゆか里(長岡中央綜合病院)
 「英語はおもしろい〜その20」 須藤寛人(長岡西病院)
 「さ〜て今年は?」 廣田雅行(長岡赤十字病院)
 「仔育て奮戦記〜新しい家族 ちびワン」 岸 裕(岸内科・消化器科医院)



「サンポールの丘(南仏)」 丸山正三

 「南仏コートダジュールで絵になる町を探しても見つからない。何故なら全部の町が絵になるから。」という話はよく聞かされることで、期待して訪ねてみたがビルフランシュ、ニース、カンヌと巡っても、期待に反して実際私には絵心が起きなかった。
 巴里のムーフタール通りの汚れた壁の好きな私には、豪華に見えて却って興味がなかったようだ。散歩のついでにニースの港でスケッチしていたら、暫く傍で見ていた老人が bon! と云ってにっこりした。そんなことが記憶に残っているだけである。
 翌日ニースから内陸のほうへバスで一時間ほどのサンポール・ド・ヴァンスヘ行く。
 ゆるい坂道を登るにつれて「鷹ノ巣」と呼ばれる低い丘の上の城塞都市が見えてきた。南仏に城塞都市が幾つあるか知らないが、私はこのような小さい丘に軒を寄せあって建つ部落が大好きで、バスを降りると早速絵を描く足場を探した。私は一軒一軒丁寧に屋根の重なりを描いた。町の中央には素朴な教会があって、構図を引き締めてくれる。初秋の木々はそろそろ色付き空は広く高く、空気もさわやかで、私はこの場の情景にひたって描いた。
 昔からこの町には絵描きさんが多いと聞いた。巨匠シャガールはお気に入りのカフェがあって、いつも同じテーブルに座って長い時を過ごしていたそうである。
 町の入り口の狭い階段を登り始めると、上から白いスポーツウェアーにラケットを持った少女が降りてきてちょっと会釈をしてすれ違った。白い短なスカートから長い細い足が見えてトントンと降りて行く。後姿を私は暫く見ていた。階段を降りてからどちら側へ曲がるだろうかと。


長岡の魅力について  渡邉ゆか里(長岡中央綜合病院)

 医師として働きはじめて今年で3年目になります。初期研修から続いてずっと長岡中央綜合病院でお世話になっています。消化器を専門に選択し、3年目となって早くも半年が過ぎようとしています。外来も始まり、検査数も多くなり、立場や責任の重さも加わって、周りの先生方やスタッフの方々に助けていただきながら、忙しくも充実した毎日を過ごしています。
 また、長岡での生活も3年目をむかえます。社会人になって職場での飲み会や個人的に飲む機会も多くなり(忙しいんじゃないのかと指摘されそうですが……)気づいたことがあります。それは長岡の日本酒がとてもおいしいということです。長岡は野菜をはじめとして食べ物もおいしいので、日本酒ともよく合います。そろそろ涼しくなり、これからの季節はひやおろしが出荷される時期ですが、さんまやまつたけなどのきのこ、れんこんなどおいしい秋の食べ物と合わせて飲む瞬間を想像するだけで、よだれがでてきます。
 長岡市民の方には今更かもしれませんが、長岡という土地は県内に100近くある酒蔵のなかでも有名な日本酒の酒蔵が多く、種類も豊富でおいしい日本酒が気軽に飲める、魅力的な場所なのです。県内で最古の酒蔵である吉乃川や、上杉謙信の名前を由来とする栃尾の諸橋酒造の越乃景虎、新潟のお酒として全国的にも有名な朝日酒造の久保田などをはじめとして、長岡を含め中越地方にはまだまだ美味しい日本酒を造っている酒蔵がたくさんあります。東に山脈が位置する寒冷な気候で、雪解け水としてきれいで純度の高い軟水が使用でき、酒米も種類が豊富であるため、すっきりとしたのどごしの良い、淡麗辛口な日本酒を作るのに適した土地と言われています。ちなみに、越乃景虎は硬度が0.47(水道水は80)という超軟水だそうです。
 日本酒は、原料の米を磨く程度を示す精米歩合によって本醸造酒、純米酒、吟醸酒の3種類に大きく分けられ、またその製造法の違いによって細かく分類されるため、同じ銘柄でも香りや味の違った日本酒が生まれます。たまにお店で同じ銘柄の利き酒セットというのがあって、日本酒が好きな人と飲みながら、あーだこーだと好き勝手言いながら飲んで楽しんでいます。(途中から味もよくわからなくなってくるのですが……)また日本酒のとても繊細に管理される製造過程はとても奥深く、各酒蔵の特色もあって、知れば知るほど飲む楽しさもわいてきます。
 今まで長岡の日本酒の魅力について書いてきましたが……ちなみに私の一番好きな日本酒は村上にある宮尾酒造の〆張鶴(大吟醸)です。美味しいのは値段が高いからだとか、吟醸酒は香りが高いけど、すっきりしすぎてるとか……さまざまな意見はありますが、なんと言われようと〆張鶴の大吟醸を飲んだ感動は忘れられません。(残念ながら年によって冬に出荷される本数が違うので、酒屋さんに行っても予約はできない貴重なお酒なんですが……)
 日本酒はお酒の中でもアルコール濃度が高いため少量ですぐに酔ってしまったり、吟醸酒になるほど値段も高くなり、比較的敬遠されがちですが、最近は大半の銘柄で梅酒を出していたり、酒屋さんに聞くとソーダやロックで割ったりと飲み方もいろいろ教えてくれるので、ぜひ日本酒を飲んだことのない方は試してみてください。

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英語はおもしろい〜その20  須藤寛人(長岡西病院)

Mary Jo O'Sullivan, M. D. オサリバン女医
 私たちは、平成8年に新潟県で第1例目となった HIV 合併妊娠を取り扱った。シュミレーションどおりに事が進み、その後の新生児感染も予防でき、症例発表をしていた。その後ある日、国立感染症研究所のエイズ研究センターの本田三男先生より連絡があり、厚生省の「エイズ対策研究事業」の「母子感染に関する研究」班に入ってくれとのことであった。班長は国立名古屋病院の戸田良造部長で、防衛医大の喜多恒和講師、旭中央病院の塚原優己先生、等15人が班員となった。会合を重ね、平成12年、我が国最初の「HIV母子感染予防対策マニュアル」を作成することができた。この作業の中で、Mary Jo O'Sullivan 先生は Maiami 大学 Miller 医学校の教授になられており、アメリカでの「HIV/AIDS 合併妊娠の治療ガイドライン」作成の中心人物であったことを知った。
 過日、インターネットで Mary Jo O'Sullivan を調べたら、彼女は同大学産科婦人科の Vice Chair を最後に full-time でなくなり(注:retire と書かれてはいない)、名誉教授になられたと書かれてあった。Maiami 大学 Miller 医学校発行の雑誌〔medicine〕(Vol.8,No.3,2007)に彼女に関しての特集が載っていた。金儲けにいそしむアメリカ人医師の多い中で、第二の人生も賞賛に値する進路を選択した彼女の姿に感服し、是非読者に拙いながらの訳を届けたいと考えた。
 まず、インタビュー者の紹介文である。「彼女は、幼いころより恵まれない人に奉仕をしたいと夢見ていた。医師になってすぐ2年間 Jamaica で医療従事にあたった。30年間 University of Maiami/Jackson Memorial Medical Center で過ごした。医学部教授および母体胎児医学部門の長として仕事をした。HIVの母子感染の劇的な減少に関する仕事をした。full-time でなくなった時、国外での活動の夢が再び盛り上がった。米国健康局との契約で global humanitarianorganization(注:一つの言葉)の一員として、母体・胎児死亡率の減少に寄与するために、アフガニスタンの Kabul の Rabia Ralkhi Hospital で3ヶ月間過ごした。」
 以降が彼女の文章である。「 Kabul についた日は大変寒かった。町を取り巻く山々は絶景であった。宿舎も予想以上に良かった。しかし、国で最高の病院といわれても、アメリカの standard にも入れないものであった。分娩は年10,000件程で、妊婦検診を受けている者は10%くらいに止まっていた。分娩には midwife が当たり、彼女らは中学卒業後18ヶ月のトレーニングを受けて資格を取れるとのこと。彼女らにはほとんど看護の技術はなかったが、スポンジのように学びたいという気持ちが強いことが分かった。滅菌したゴム手袋はなく、分娩セットも無く、後でゴミ入れとなるゴミ袋の上で出産し、時に新生児もそこにおかれていた。為すべきことが多く、3ヶ月間は短すぎると感じた。」
 「送り出してくれた international Medical Corps はあらゆる面で Rabia Rulkhi 病院を支援することを決めていた。私の最も重要な任務は、現地の attending doctor、レジデントそして助産師をトレーニングすることであった。仕事は日曜日より木曜日までの朝8時より午後4時までであった。夕方以降は危険であった。」
 「典型的な1日を見てみると、レジデントは重要な症例や合併症例を提示する。その日に行われることの朝のレポートをアメリカと同じようにした。午前中、レジデントと教官を連れて分娩室の回診をした。午後は講義をして、一人のレジデントと一人の助産師を伴って回診した。このような〔one-on-one instruction〕は大変有効であったと思う。問題は、そのレジデントが産婦人科専門なのか rotating なのか不明瞭なことであった。事態が chaos になった時、正しい指令が生死を分けるので、しっかりしたシステムが必要である。」
 「胎児仮死から数人の児が死亡した。分娩中に胎児心拍をとるように医師や助産師を説得するのに大変であった。早産児に対する呼吸器は一台もなく、1,500g以下は死ぬものと思われていた。小児科医、助産師に対する新生児の蘇生法の詳しいトレーニングが期待され、準備の段階に入った。私は、病院に呼吸器の早期の購入を申し込んだ。」
 「母体死亡に関してであるが、3ヶ月で7人の母体死亡を経験した。若い人の死をみることはつらかった。重症になった時の連携が全くうまくいっていなかった。」
 「この国は30年以上も戦場となった。女性や子どもの健康に関することは全くかえりみられなかった。特にタリバンの支配にあった時は、スタッフは陣痛に入った妊婦に優しくケアーしてあげたり、親切な話をしてあげたりする気持から遠のいていたようであった。」
 「妊産婦死亡の1/3は出血死である。その他は分娩困難例、敗血症ショック、子癇などであった。多くは病院到着時、既に瀕死の重症であった。初めはなんらの進展も無かったが、まずレジデントが反応してきた。attending doctor は自分たちが脅かされそうに感じていたようだが、数週間後には私に質問して来るようになった。」
 「任務の終わり頃になると進歩が見られた。一人の attending doctor は臨床研究プロジェクトとして、長期的に見たとき周産期死亡が本当に減少するかどうか調べてみたいと言い出した。レジデントは骨盤位分娩を教えてくれといってきた。胎児仮死の診断がついたとき、それまでは手術場に出すまで2時間かかっていたのが30分以内で行えるようになった。分娩をもっと頻回に監視するように、そしてWHOのガイドラインに沿ってパルトグラムに従う努力を要請した。重症患者がいるとアドバイスを求めてきて、レクチャーに進んで参加するようになった。そしてこれは one-on-one 教育よりも有効になっていった。」
 「私は、最終ゴールはこの病院にもアメリカ式のレジデント制度が必要であることを確信した。そして、もしアフガニスタンの政府が安定して、新しい戦争がなければ、いつかはそうなるであろうと思った。しばらくの間は、患者治療と医学教育のどこを正せば向上に向かうかを考えれば良い。」
 「私は、アフガニスタンより戻って数ヶ月後、Rabia Ralkhi 病院の周産期死亡率に減少が見られたという e-mail を受け取った。彼らに未来があると感じた。私はカブールに赴いたことをこれっぽっちも後悔していない。私が何か大きな変革をもたらしたであろうか? Yesだと思う。"but really only time will tell."」と結んでいる。
 全文を読んで私は涙した。書かれていたことの中には、私達が35年前に教育を受けた時の、30才代の Mary Jo がいた。教育者として情熱と強い信念を貫き通した、日本人では私のみたことのないタイプの、アイルランド姓( O' = grandson で分かる)をもつ、澄みきった青い目のアメリカの女性医師であった。(続く)

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さ〜て今年は?    廣田雅行(長岡赤十字病院)

 今年は又会えるだろうか?。そんな事を考え始める季節になりました。その相手とは、四十数年来の付き合いになるのですが、年に一回、この一ヶ月位に限られる上に、休日とお天気が上手く合わないとダメなのです。結果としてこの職業では、一年で二回か三回チャンスが有るかどうかと言う事に成ってしまいます。その相手の名前は「ウスバシロチョウ」、半透明の衣装を纏った優雅なチョウです。
 最初にこのチョウの事を知ったのは、従兄弟が採取した標本ででした。その標本が、中学生部門で賞を取り、長岡で展示されていると言う事で、厚生会館に見に来たのです。その時、解説してくれた方の話では、このチョウの「黒化型」の変異に、かなり特徴が有り、それが評価されたと言う様な事でした。しかし、私はその様な話より、半透明のその羽に魅せられていました。チョウの羽と言えば、鱗翅類の物ですから、「鱗粉」が付き物で、その紋様の美しさが魅力で、はまってしまう物なのに、その蝶の羽には殆どそれが無いのです。なのにそれが逆にその蝶の美しさになっていたのです。そして、その翌年、件の従兄弟に時期と場所を聞いて、採集に向かいました。
 良く晴れて、風もあまり無い日でした。場所は、弥彦の猿が馬場(以前の弥彦スカイラインの猿が馬場ゲート付近)。頂上付近の草原に着くと、「フウーワリ」と、有るか無きかの風に乗るように誠に「フウーワリ」と、羽ばたきも少なく、夥しい数のウスバシロチョウが飛んでいたのです。夢中で採集していたのを覚えています。生きた本物との最初の出会いでした。
 「ウスバシロチョウ」は、名前に「白蝶」とは付くものの、「シロチョウ科」ではなくて、「ギフチョウ」等と同類の、「アゲハチョウ科」に属し、ケシ科のムラサキケマンを食草にしています。日本で九州以外に住むこの蝶は、学名 Parnassiusglacialis と呼ばれ、氷河時代の遺残種としても知られています。学名の初めの部分の本になる「パルナッソス」は、ギリシャ神話の中で、神が住む山の名称に因んだもので、外国産の者の中には、羽に赤い大きな斑紋を持つ者が有り、太陽の神「アポロン」に因んで、「アポロチョウ」と呼ばれている者も有ります。又、北海道には「ヒメウスバシロチョウ」と、天然記念物に指定されている「ウスバキチョウ」が生息していますが、この内「ウスバキチョウ」は、大雪山山系等に棲み、羽化迄に足かけ三年を要し、しかも食草は、これまた天然記念物の「コマクサ」と言う者です。
 「ウスバシロチョウ」との付き合いは、弥彦に通える内は何とか続いていたのですが、出張等で、この時期新潟に不在な事も多くなり、いつの間にか疎遠になり、途切れておりました。長岡に来てからは、地の利も少なく、情報も中々得られなかったのですが、私とは同級生で、生き物好きで、美味い物好きで、スポーツマンで、良く一緒に遊んで頂いている、ドクター「K」(度々ご登場頂き、痛み入ります。)から、三年程前に「“N山”の登山口近辺で飛んでいる様だよ。」との情報を頂き、休日に無理を言って連れて行って頂きました。待つ事しばし、見慣れた「フウーワリ」飛行で、半透明の羽衣を纏った蝶が飛び始めました。場所を移しながら、夢中で写真を撮り続けました。写真1、吸蜜する雄(恐らく)。写真2、同、雌。写真3、交尾。この蝶の雌雄の区別は中々難しく、交尾後の雌には写真2の様に受精嚢が腹部の交接器に有る事は知られています。有る程度撮って落ち着いて来た時、一寸高い所からフウワリと滑る様に降りて来る蝶を見ながら、(写真4、滑空する様に飛ぶウスバシロチョウ。)頭の中に或るメロディーが浮んで来ました。それは、グルック(1714〜1787)のオペラ「オルフェオとエウリディーチェ」の第二幕のダンス曲で、フルートで演奏される「精霊の踊り」です。緩やかに静かに流れるメロディーラインがピッタリ。興味のお有りの方は一寸お試しを。丁度こんな感じで飛んで来るのがイメージして頂けるかと思います。暫し俗世を離れ、天界の草原に遊ぶ、と言った所でしょうか。それ以来、この時期に成るとその場所へ会いに出かけるのですが、今年は出来れば、ビデオでその飛翔を撮れれば、等と目論んではいるのですが、如何相成りまするやら。閑話休題、先ずは足の確保から、「オ〜イ、女房殿ォ〜……。」

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仔育て奮戦記〜新しい家族 ちびワン  岸 裕(岸内科・消化器科医院)

 我が家に新しい家族、供ちび僑がやってきたのは今年の8月17日である。ちびは6月23日生まれのメスのヨークシャーテリヤの仔犬で8月7日に新潟のペットショップに見に行った時には片手に乗るほどの真っ黒い赤ちゃん犬だった。そのおぼつかない足取りとあどけなさに心を打たれ、私達夫婦はちびを買う(飼う)事を即決した。が、まだ獣医さんの診察を受けていないから、との事で引き渡しは8月17日となった。
 ここ数年の間に子供達も親元を離れているし、以前飼っていた柴犬のレオが17歳で天寿を全うしてからもう20年近くなる。だから、ちびは本当に久しぶりに授かった仔供。そこでいそいそと犬の本などを数冊購入し研究してみると、当時とは仔育ても随分変わったようである。
 かくして、ちびを迎える準備にいそしむ。仕事に行く時にも帰ってきた時にも様子がすぐに分かるようケージは玄関に近い廊下に置くことにした。レオの時には玄関の中に犬小屋を置いて飼ってはいたが、家の中に上げる事はしなかった。しかし今は犬の小型犬化が進み室内犬が多くなり、またかなり大きな犬でも家のなかにいたりする。私の患者さんにも犬を飼っている方は多く、往診に行くとチワワやパピヨンと言った小型犬が廊下で出迎えてくれる。
 動けない患者さん宅を往診した時「うちの仔が階段から落ちて腰椎を骨折して動けなくなってしまって……。」と心配していたが人間と同じように病気や怪我にかかるのだから仔供貯金にいそしまねば……。なにしろ自費だからね。
 など色々心配しながら、まだまだ暑かった8月17日、500グラム位のちびをクレート(携行用ハウス)に入れ、車で一目散に自宅に連れ帰る。不安そうなちびと私達。とりあえず教えられた離乳食を食べさせ添い寝の様にしばらくそばに居てやり、クレートごとケージに入れると夜泣きする事も無く寝てくれて無事に1日目の夜が明けた。翌朝5時、朝ご飯にしたがはかばかしく食べないので手に乗せて口に入れてやる。トイレは用意した新聞紙とトイレシーツの上で済ませることをすぐに覚えた。「偉いぞ、ちび」と褒めて育てる。
 数日後、動物病院に2回目(1回目はペットショップで済ませてある。)のワクチン接種に連れて行く。「まだすべての予防接種が済んでいないので他の犬の散歩したところを散歩させると尿などから病気を貰うこともあるため、運動は家の中と庭程度で、」と教えて貰う。「トイレもすぐ覚え、夜泣きもしない仔で……。」と自慢すると先生は「これからですね……。」とにたっと笑われた。
 ちびは日に日に大きくなる。昨日まで自分では降りられなかった段差を今日は上り下り出来る様になり、廊下を転がるように走って嬉しそうに足にまとわり付いてくる。仕事に行く時には悲しそうにうなだれ、帰宅するとちぎれんばかりに尾を振って遊んで、とせがむ。歯の生えかわりの時期なのか何にでも、特に私の足を噛みたがり、いたずらっ子の様に目を輝かせて足の指に飛びついてくる。そして無防備に仰向けになり、くすぐられると声をだして笑うさまは人間の子と一緒である。
 我が家に来た時真っ黒だった毛色は1カ月で鼻先や足先が茶色になり始め、頭の毛にも少し白い毛が混じって来た。ヨーキー(ヨークシャーテリアの愛称)は一生の内で毛色が美しく変わり、顔や手足の毛色はシルバーになる仔が多いそうな。
 ちび!共に白髪の生えるまで(私はもう染めていますが)。仲良く暮らそうな。

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