長岡市医師会たより No.391 2012.10


もくじ

 表紙絵 「晩秋の河川敷」 丸岡 稔(丸岡医院)
 「セカイの木村をめざして」 木村慶太(木村医院)
 「宝塚歌劇ロミオとジュリエット随想〜その1」 福本一朗(長岡技術科学大学)
 「会員ゴルフ大会の記」 田辺一彦(田辺医院)
 「英語はおもしろい〜その28」 須藤寛人(長岡西病院)
 「秋に咲くアサガオ」 郡司哲己(長岡中央綜合病院)



「晩秋の河川敷」 丸岡 稔(丸岡医院)


セカイの木村をめざして  木村慶太(木村医院)

 開業と言えば開業ですが、私の開業は一般的な開業とは少し違いました。全く一からの開業でなく、母の木村医院を継承する形だったからです。ゆえにおそらくは一からの開業に付きまとう苦労もないままに一年を経過しているのではないかと思います。その代り継承することの難しさももしかしたらあるかもしれません。
 と、書きつつも、実は自分では継承による難しさなど、ほとんど感じませんでした。先代と比べられることも当然ありますが、「顔がそっくり」とか「診てもらうのは先生で四代目だ」とか、そんな好意的な感想ばかりでした。それというのも、代々関原に根付いた当院は、地域の人にとって、「世代が変われば主治医も変わる」のが当たり前のこととして受け入れられているからなのだろうと書きながら、そう思いました。これは御先祖様に感謝です。
 一からの開業ではなく、継続通院する患者さんもいて、先代である母が縮小傾向にしてくれていたおかげで忙しすぎるわけでもなく、医院そのものは順調なように思います。
 一番大きな問題は、あるとすれば家庭内の問題でしたが、それも今は割とうまくいっているように思います。実家に帰り医院を継承したことは私の希望によるものであり両親にも妻子にも感謝しています。
 医院を継承するに当たっては、母から「すぐ近くに木村慶太医院として新規にクリニックを開業しないのか?」とも念を押されましたが、私はほとんど迷うことなく昭和30年代からの今の医院(建物)をそのまま継承することを選択しました。それは、そもそも私が医者になろうと思ったのが、今のこの医院で医者として祖父と一緒に働きたいという夢から始まったからです。世界中に何万というという医者がいますが、私にとって世界ランク一位は祖父でした。どうしてそこまで尊敬していたか、今となっては良くわかりませんが、幼いながら絶大な信頼をしていたように思います。当初からの目的が木村医院で働くことだった以上、新しい医院で働くのなら何のために帰ってきたかわからない、と思えたのです。
 かくして私は古くからの木村医院と、その建物も継承して今に至ります。
 家族には迷惑をかけてるな……と思いつつも、私自身は木村医院を継いで良かった、と思える実感を何度か覚えています。
 今まで受診したことのなかった人から電話が来て、「めまいがして動けないのだが往診してもらえないか?」と、私は断らず往診へ。その初診の患者さんは、小学校で一緒に児童会の役員をしていた一つ下の学年の子の親であり、亡くなった祖母の同年代の友達の入り婿でもあったり……。同じ関原に生きているからこその人のつながりがありました。
 二年連続参加した関原まつりの民謡流しでは一年目より多くの人から踊っている時にも声をかけてもらったり、指さしてもらったり、後日の診察で「先生踊りうまかったねっか」といってもらったり。そんな地域との、人とのつながりを感じられるのが最高です。
 さて、賢明な読者の皆さんはもうお気付きと思いますが、セカイの木村とは、世界の木村ではないのです。私は世界に名を知らしめたいわけでなく、ただ関原の医者になりたかったし、これからもかくありたい。つまりセカイの木村は「関原界隈の木村」略して「セカイの木村」ということなのです。
 私は本当にちっぽけな人間なので、誰よりもまず家族、家族の次は町、町の次は市、市の次は県、県の次は国。実は世界で何が起こってようと気にしない人間なのです。地球の裏で誰かが病気で死んだって、知り得ないし実感もないし、実はどうでもいい。でも関原の人は無駄死にさせたくない。そういう医者であり、そういう医者になりたかった人間です。夢は小さく、しかし狭くても深く。そういう医者がいてもいいんじゃないか?という持論を一年目にして再確認しています。
 そんなちっぽけな私ですが、連携なくしてセカイの木村たり得ないのも事実。これからもどうぞよろしくお願いいたします。

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宝塚歌劇「ロミオとジュリエット」随想

〜その1「古田島雄志先生の想い出」  福本一朗(長岡技術科学大学)

1.小田島雄志先生のシェークスピア講義
 筆者は、シェークスピアの全作品翻訳を完遂された文化功労者の小田島雄志先生(1930〜)に憧れ、1968年から1969年の二年間、東京大学教養学部英語の英文学の授業を受講した。その折に「マクベス」「ハムレット」「オセロ」とともに「ロミオとジュリエット」を、格調高い原文で教わった。先生は女子大の非常勤講師などを経てようやく東大助教授となられたばかりでまだ三十代であられたが、既に頭髪はなく立派な禿頭であられた。お酒・麻雀・芝居・宝塚歌劇そして女優さんが大好きであられた先生は、劇団「天井桟敷」座長の唐十郎や新劇女優達と飲み明かしてその足で登校されることもしばしばであった。「相良直美はテレビで見るのと違って実物はとても綺麗だよ。でもその後で会った和田アキ子は大きくて怖かった。」決して遅刻・休講されることはないものの、お酒の香りを漂わされながら真っ赤な顔をされて教室に入ってこられた。教室の窓を開け放って開口一番、「ああ春、春、春。春はやはりシェークスピアですなあ!」とおっしゃって、前列左端から一人ずつ指名されて原文を朗読させ、全文訳を所望されるのであった。しかし16世紀欧州の片田舎の小国であった英国の言葉はまだまだ未開で、シェークスピアの戯曲によってはじめて英語は洗練され、原語として完成したといわれることからわかるように、文法も単語も現代英語とは異なる点が多く、その全訳は例えば日本文学でいうなら源氏物語の原文を訳せといわれるに等しい。それを高校を出たばかりの18歳の若者がやらされるのであるから、まともな訳ができるはずはない。要領の良い学生はあらかじめ訳本を読んでおいてそれを元に自分の訳を披露していたものもいたが、筆者は思いつきもせず毎回拙い訳を辿々しく奏上していた。
 しかし小田島先生はどんな劣等生のひどい訳でも決して怒られず、坪内逍遥や福田恒存などの先達達の伝統訳とご自分の名訳を比較されながら、説明された。例を挙げるなら、ハムレットの“To be, or not to be:that is the question.”は、坪内逍遥訳では「世にある、世にあらぬ、それが問題じゃ」、福田恒存訳では「生か死か、それが疑問じゃ」、小津次郎訳では「やる、やらぬ、それが問題だ」であったが、小田島先生は「このままでいいのか、いけないのか、それが問題だ」と訳された。その理由として、ハムレットはその時、父を殺して王位を簒奪した叔父と母をそのままにしておいて良いかどうかを悩んでいたのであり、自らの生死などは二の次だったはずと説明された。
 小田島先生にとってシェークスピアは神に等しい存在であり、その卓越した人間観察眼と心理描写は余人の追随をとうてい許すものではなく、紫式部と並んで人類の文学史上最も優れた文学者であると明言された。そして彼の作品に満ちている名言の数々を、例えばオセロの「It is the green-eyed monster which doth mock The meat it feeds on.(嫉妬は緑色の目をした怪物で、人の心を餌食としそれをもて遊ぶのだ)」、リア王の「When we are born, we cry that we are come To this great stage of fools.(人間生まれてくるときに泣くのはな、この阿呆どもの舞台に引き出されたのがかなしいからだ)」、ハムレット4幕5場の「When sorrows come, they come not single spies, But in battalions.(悲しみはただ一人ではやって来ない、大群で押し寄せてくる)」、ヴェローナの二紳士の「I have no other but a woman's reason:I think him so,because I think him so.(理由と言われても、私には私の理由しかありません。つまり、そう思うからそう思うのです)」、マクベス1幕4場の「There's no art To find the mind's construction in the face.(顔つきで人間の本性を知る術はない)」、マクベス1幕7場の「“Sleep no more ! Macbeth does murder sleep”(眠れぬぞ、眠れぬぞ。マクベス、お前は眠りを殺した!)」、アテネのタイモン4幕3場の「There's no thing level in our cursed natures, But direct villainy.(我々の呪われた世界に、真っすぐなものなど何もない)」、お気に召すまま2幕7場の「All the world's a stage and all the men and women merely players.(この世は舞台、人間みな役者)」、ロミオとジュリエット3幕1場の「O, I am fortune's fool!(ああ、俺は運命の弄びもの)」を時には涙しながら「この人生経験に裏付けされた人間観察はすばらしい」と絶賛されるのであった。
 特にハムレット1幕5場の「There are more things in heaven and earth, Horatio, Than are dreamt of in your philosophy.(この天と地の間には、ホレーショよ、哲学などの思いもよらぬことがあるのだ)」では、それまでは「ホレーショよ、この天と地の間には、お前の哲学が夢見る以上のものがあるのだ」と訳されていたが、これは誤訳で your philosophy の“your”は、特定の“君”ではなく、当時の劇で観衆と演者との距離を近づけるために用いられた、“一般的な人”の意味であったと説明された。そしてこのたった一言の誤訳が、華厳の滝に身を投げた第一高等学校生藤村操に「巌頭之感=悠々哉天壌、稜稜たる哉古今、五尺の小躯をもって此之大をはからんとす。ホレーショの哲学、ついに何等のオーソリティに値するものぞ、万有の真相は唯一言にして尽く、曰く不可解。」との諦めを生んで、有為の青年を失う悲劇に繋がったと残念がっておられた。
 先生のご講義は人間愛とユーモアに溢れ、学生諸君に親しみ深いものであったため、東大入試が中止となった1969年の学園紛争の時代であっても先生の教室は全共闘の“つるし上げ(大衆団交)”の場となることはなかった。講義を離れた脱線もしばしばで、「東大文学部の同級生に女学生が一人いてね。あいつは本当にできがわるかった。今ぼくの妻だけど。」と若子夫人とのなり染めを話されたことがあった。若子夫人は早くに両親を亡くされ、奨学金で大学に進学し、卒業後は八丈島の高校教師となられた。小田島先生は八丈島まで行って求婚されたという。子供が二人できて東大講師となられても生活は貧しく、狭い官舎ではシェークスピア全集の翻訳ができないため、喫茶店で仕事をする習慣になられたという。ご夫妻の中はとてもむつまじく、後年夫人も大学教授となられ、ご子息の小田島恒志氏も英文学の道に進まれ現在早大教授となっておられる。なお小田島先生の駒場での英文学講義は、シェークスピアだけでなくユダヤ人現代劇作家アーノルド・ウェスカーもその守備範囲に加えられ、「I am talking about Jerusalem.(僕はイェルサレムのことを話しているのだ)」をはじめとする“ウェスカー三部作”も講義されていた。その講義は現代人の心の葛藤を軽妙な語り口で描き、現代演劇の集約ともいえるものであり、大変興味深いものであった。それは英国に留学した友人の高橋康也に勧められて、あちこち借金をして英国に渡られたことの成果であったのかと、今にして納得した次第であった。(その2「宝塚歌劇ロメジュリ」)に続く)

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会員ゴルフ大会の記  田辺一彦(田辺医院)

 今年の長岡市医師会会員ゴルフ大会は9月16日、日曜日、長岡カントリー倶楽部東コーススタートで3組11名が参加して滞りなく行われました。最近は、ほぼ毎年参加していますが、今回初めて優勝いたしました。当日の同伴競技者は、グリーン回りの小技のうまい田中政春先生、パワフルで飛ばし屋の西村紀夫先生、同じ大学の同窓生であり、ゴルフについて研究熱心で理論派の荒井義彦先生の4名で楽しく語り合いながらのラウンドでした。当日は長岡カントリー倶楽部の倶楽部選手権と重なり、グリーンの仕上がりは大変素晴らしい状態ですが、とても速く、倶楽部選手権の日は私にとって長岡カントリーで年に一度の最も難しい日と考えています。今までも医師会ゴルフ大会は倶楽部選手権と重なることが多く、過去に東コース4番ホールショートコースでせっかくワンオンしながらパターでグリーンの外に出してしまったり、グリーンエッジからの寄せでソフトなタッチで打ったつもりが、逆サイドのグリーンの外に出してしまったりで、速いグリーンに対処しきれず、数々のミスを経験していました。当日もグリーンは難しく、同伴者の中にも1メートルのパットに4回かかったりして苦労している先生もおられました。長岡カントリー倶楽部の倶楽部選手権に出場し、あの速いグリーンで、また距離も長くなるバックテイーからうち、70台、80台でラウンドし、決勝まで残る先生には感心させられます。
 さて、話は変わりますが、前日に妻と医師会会員ゴルフについて話していました。アルコールも入り、少し気が大きくなっていたせいもあり、明日は80台前半の好スコアがでるかもしれないと話していたら、妻が最近のスコアを鑑み、「私は88点だと思う」と言うので、少しカチンときて「80台前半が出ると思うよ」と話しました。そうしたら妻が「私の予想が当たって88点だったらスウィーツを買ってきて」と言うので「わかった」と80台前半だった時のご褒美の話もなく、何だか理不尽な約束をしてしまいました。私の最近のゴルフの調子は前半が悪く、後半が少し良い傾向でした。当日は東コースが43点であったため、今日は80台前半でまわれるかもとひそかに期待しておりました。しかし、西コース7番が終了した時点でスコアは35点で残り2ホールがボギーなら45点となり東コースのスコアと合わせ88点になってしまうのに気づき、残り2ホールどちらかはパーをとろうとがんばりました。しかし、どちらのホールもパーパットにはチャレンジしているのですが入らず、どちらもボギーとなり、結局スコアは妻の言うとおり88点となりました。妻へのおみやげを買うため、ゴルフ場の帰りにリバーサイド千秋に寄り道をして、おいしそうなシュークリームを買って帰りました。
 成績発表は場所を変え、懇親会の席上で行われました。本日の目標の80台前半は出せなかったものの80点台は自分にとって満足のいくものであり、3位くらいには入れるかなと考えておりましたが、まさか優勝のご褒美が頂けるとは予想していませんでした。医師会会員のトッププレーヤーの名前が刻まれている優勝カップに自分の名前を入れて頂くのは大変光栄に考えております。優勝のご褒美においしい果物と、おまけにベスグロ賞の賞品として“まつたけ”を頂きました。“まつたけ”は翌日松茸ごはんにしておいしくいただきました。とてもおいしかったです。優勝はまさにハンデに恵まれた結果であり、シングルハンデとなってしまった吉田先生には大変申し訳なく思っております。
 最後に大会参加の皆様と運営にあたられた太田会長、大塚副会長、医師会事務局の方々に感謝します。ありがとうございました。来年はさらに多数の参加があり、盛大に開催されることを願って報告といたします。

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英語はおもしろい〜その28   須藤寛人(長岡西病院)

demise 死
 「死」は death あるいは decease であるが、別に "demise" と言う単語がある。私は、産科学を学ぶ中で、 "premature labor, fetal demise and fetal growth restriction"(早産、胎児死亡、子宮内胎児発育遅延)などの表現があることを知り、その後も neonatal demise(新生児死亡)、intrauterine demise(子宮内死亡)あるいは embryonal demise(胎芽死亡)などという言い方に出会っていた。今日は初めに demise に焦点を当て、次いで死に関する英語をみてみたい。
 demise の和訳は、(1)死去、逝去、崩御、(2)(企業などの)消滅、活動停止、終焉、終了である。研究社の和英大辞典の「死」には、他に、departure、biolysis、the end of life とあり、そして demise の単語にだけ「(貴人の)死」と説明がついている。
 語源をさかのぼってみると、demise は中世フランス語女性形 demis の過去分詞 demettre からきており、put away(おい払う)、dismiss(著者注:一般的には〔解散〕と訳されることが多いが、〔向こうへ送るが原義〕(ジーニアス英和辞典)とのこと)の意味で、ラテン語で demittere は send down、(de-from、down、away + mittere send)になる。
 Merriam-Webster 大辞典には demise の第一の意味に「土地、不動産の譲渡」、第二の意味に「統治権の(死亡や退位による)継承者への移譲、遺贈」という意味があると書かれている。"Demise of Crown" は「王冠の移譲」としてイギリス憲法の中に書かれてあり、慣用句的に使われるそうだ。そして、第三の意味が「死」に関してであった。Wikipedia には demis の説明の最後に「婉曲的に、誤用された形で、"(a person's)demise" という言い方が、人の死の大げさな言い方(stilted term)としてしばしば使われる」と書かれてある。
 demise には、Journalistic demise(ジャーナリズムの死)、Th edemise of the Ryukyu Kingdom.(琉球王国の崩壊)などという用例も示されている。
 話は少しずれるが、ネット上の「ライフサイエンス辞書」から「共起辞書」を開くことができ、これまで毎回の如くその利用結果を示してきた。「共起」とは聞きなれない語であるが、"co-occurrence" の和訳でアメリカの言語学者 Z. S. Haris(1909〜)が使い始めた新しい言葉である( Weblio 辞典)。「共起表現」は言語学上の言葉で、簡単に云えば「構文上直接関係する語を整理したもの」といえる。具体的に云えば、Pub Med に掲載されている膨大な医学論文のなかで、ある英単語がどのように使用されているかが列挙されている。
 今、demise に「共起検索」をかけてみると150の実例が表示された。その結果、前記した fetal demise などをはじめとし、in utero demise、in first-trimester demise なども含めた産科的使用が際立って多いことがわかる。その次に多いのが、cell demise、cellular demise、apoptotic demise、mitochondrial demise などの細胞死に対するもので、次いで neuronal demise、neurologic demise、motorneuron demise など神経系に関するものであった。
 ここに疑問が残る。なぜ demise は上記した「王様」以外の成人や老人には使用されず、人間では胎芽、胎児、新生児に限って demise を使用するのであろうか? そこが私には詳しくわからない。「〔人間〕の別称は "The mortals"(死するもの)である」というような話をきいたことがある。この観点から胎児・新生児は洋の東西を問わず、新しい生命であるということから「神々しい(divine)、貴重な存在」であると考えられるからであろうか?答えはどこかに書かれていると思うが、未遭遇である。

Succumb 死ぬ
 「死ぬ」は die、「死んだ」は dead(形)であるが、問診などで "Is your mother alive?" などと聞くと、"She passed away years ago."などとpass away で返答されることが多い。
 "She has been dead for years." とか "She died years ago." でも良いのであるが、会話上、die とか dead とか軽々しく口にしたくないという気持ちが根底に有るからなのかもしれない。なお、"passing" は away を伴わずとも、書き言葉としても「(遠回しに)死」である(プロシード英和辞典)。
 expire は、研究社英和辞典では、(動・自)(1)(期間などが)満了となる、終了する;(権利などが)なくなる、(2)息を吐く(inspire が反対語)で、(3)「死ぬ」である。しかし Merriam-Webster 大辞典では expire の第一の意味は「= die 」である。三省堂英和大辞典では「(遠曲的表現で)死ぬ」と説明が加えられているが、多少、婉曲的ではあるが expire は良く使われる言葉であろう。共起辞書には "The patient expired of acute heart attack."、"expired due to brain tumor"、"expired as a result of an acute pulmonary embolus"、"The patient expiring from metastatic disease"、"One patient expired 11 months after the surgery." などが示されている。
 perish は(自動)滅びる、消える、「死ぬ」であるが、Weblio 辞典には(突然または非業の死に方で)「死ぬ」と説明されている。"Many people perished in the air crash." あるいは "in the earthquake" などが挙げられている。"Most aneuploid(異数体)fetus perished in utero." などと医学論文で使われないわけではないが、その使用頻度は少ないようである。"publish or perish" は「論文を書きなさい、さもないと首(あるいは辞めなさい)」であった。これは1950年頃、Columbia 大学の Dr. K. C. Atwood が使い初めのようであるが(goo Wikipedia)、現在は成語となり "It was publish or perish." で、インテリには " " 印なくとも理解される。"perish" はすごみを含む語である。
 もう一つの「死ぬ」、succumb(自動)に言及したい。「○○で死んだ」は "died of" であるが、日本人には使い慣れないようであるが、"succumbed to" の表現があり、書き言葉、論文上、広く使用される。"He succumbed to cancer."「癌で死んだ」、"He succumbed to injuries."「負傷して死んだ」などとなる。共起辞書でみてみると、"Twin A succumbed to complications."、"All succumbed to acute infection."、"Mice developed severe liver injury and succumbed to disease."、"Most patients eventually succumb to disease progression."、"Mice succumbed to leukemia."、"They succumb to respiratory failure."、"Mice succumbed 10〜15 days after infection."、"developing severe toxoplasmosis and succumbing within 30 days"、"developed fulminate hemorrhagic fever and succumbed." などの実際の使用法を引用することができる。
 succumb の語原は L. succumbere sub under + -cumbere to lie down で「抗しきれなくなる」、「力に屈する」という意味になり(ex. We never succumb to threats of violence.)、それより「病気に倒れて、死ぬ」という意味になった。なお、succumb の発音は「サカム」くらいで良いようだ。
 「死」、「死ぬ」、「死んだ」の英語表現は、婉曲的、比喩的表現に言及すれば、数十にも及ぶようであるが、それらのすべての説明はこのエッセイの守備範囲外のことである。読者におかれては、今度、死亡例が出たときに、progress note の最後に、die、diedとばかり書かず、expired と書いたり、退院時サマリーの最後に、上品で簡潔な表現、"The patient succumbed to cancer." と書いてみるのはいかがでしょうか。

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秋に咲くアサガオ  郡司哲己(長岡中央綜合病院)

「おかえりなさい。予想通り夕方帰りね。日曜日の二次救急当番ですからしかたないわね。」と長年のおつきあいで病院小児科勤務のわたしの繁忙は万事飲み込んだ家人です。

「わたしの方はね、お天気もよいし、庭の畑のトマトと茄子の株をついに抜いて片付けちゃったわ。」
 どれどれと窓から薄暗い庭を見ると、畝がきれいになっています。
「うーん、がんばったね。なんか一気に秋が深まった感じ。」
 残ったのは数株のオクラ、赤いかぐら南蛮、まだ花実をつけている藤豆、それと夏の終わりにちび玉を植えたサラダ玉葱くらいです。

 “花野”なんて秋の季語がありますが、我が家の庭先も花盛りです。桔梗、われもこう、ほととぎす、紅白の秀明菊、鶏頭、そして藤袴(これは色鮮やかな園芸種)など。

 そんな中に、わたくし的に季節に違和感がある青い花がひときわ盛りです。それは今年はじめて植えた西洋アサガオなんです。

 9月30日の日曜日の朝でした。
「あれ……、ちょっと、ちょっと。風除室前の例の朝顔の花がついに咲いたわ。もう秋深し、なのに。」
「ほんとだ。やっと本格的秋でセンサーが短日を感じたってことかな。こっちは“蔓だけ朝顔”で終わるかと思ったのにねえ。」

 そもそもは、初夏に立ち寄った新町の わ○に園芸店(花類は良い苗あり)での、西洋アサガオ苗三株の購入に端を発します。苗札の名前は“天上の蒼”“ヘブンリーブルー”(訳せば一緒じゃん!)“フライングソーサー”の三種類でした。いずれも西洋アサガオ、早咲き、多数の花、成長が早く、夏から秋まで長く楽しめるとあります。値段は前者のみ少しだけ高い設定でした。

 並サイズのプランター三つに一株ずつ植え換えました。7月後半にはその一株が青い大きな花をつぎつぎと咲かせ始めました。“天上の蒼”なる品種で、さすがにやや高い値段相応に早咲きの改良品種と感心。ところが他の二株が蔓は伸びて葉は茂れども、全く花が咲かないのです。緑のカーテンで南向き硝子戸風除室を覆う役には立つのですが。

「窒素肥料が多すぎると枝葉だけ茂って花芽がつかないっていうわね? 肥料配分を間違えたとか?」なんて学術的突っ込みを家人から受けました。うーむ、たじたじ……。

「そんなことないって。プランター用培養土に赤玉土と腐葉土と完熟牛糞堆肥、粒状肥料各種よく混ぜたもの。同じ日にやった作業なんだから均等な配合だよ。」

 そして暑い夏が過ぎ、なお暑い秋になり……。片やよく咲くアサガオ対「ツル草」状態の二株。あきらめていたその二株が、朝寒や夜寒のなか、突然花をつけ始めたのでした。

 植物学的には光周性の面からは、葉に日照時間の感知センサーがあり(正確には暗期時間が規定因子らしい)、春から夏にかけ花芽形成される長日植物、夏から秋に花芽形成される短日植物、無関係な中性植物に分類されます。(……高校生物の知識、大学受験科目に好きで選択。)
 アサガオはその短日の代表選手、6月の夏至以降で短日スイッチが入るはずですが、今年の猛暑でどこか狂ったものでしょうか?

 そんなわけで10月下旬のきょうも元気に青い大きな花をつけています。なお“フライングソーサー”の苗も苗札の誤りのようで、その花模様は出ずに同じ花でしたけどー。

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