長岡市医師会たより No.394 2013.1


もくじ

 表紙絵 「頌春(1月3日 忍野村にて)」 丸岡 稔(丸岡医院)
 「新年を迎えて」 会長 太田 裕(太田こどもクリニック)
 「新春を詠む
 「永遠のいのち〜丸山正三先生逝く」丸岡 稔(丸岡医院)
 「杉本邦雄先生の思い出」 斎藤古志(さいとう医院)
 「雪やこんこ、あられやこんこ」岸 裕(岸内科・消化器科医院)



「頌春(1月3日 忍野村にて)」 丸岡 稔(丸岡医院)


新年を迎えて  会長 太田 裕(太田こどもクリニック)

 明けましておめでとうございます。会員の皆様には健やかに新春を迎えられたこととお慶び申し上げます。
 昨年は、暮れの衆議院選挙で民主党から再び自民党へ政権交代がなされ、国民の政治に対する目が一層厳しくなった年でした。長引く不況、デフレ、自民党の不甲斐無さに失望し、3年前、民主党の夢のマニュフェストに希望を託しましたが、歯車がうまく回らず、更に悪い状況になりました。そして高福祉を維持するには財源が必要で経済の発展がなければ叶わぬことを国民は悟ったようです。
 一方医師会もこの大きな波に揉まれますが、2回の日本医師会会長選挙を通し、医師会の集票能力の低下と政治的発言力の弱体化、医療界の不協和音により組織内候補の選出が難しい事を認識しました。その善後策として、基本に立ち戻り医師会独自の医療政策を明確に提示し、そして国民に発信し理解を得て、その政策に賛同する人を応援してゆく戦略に転換したのです。今回の選挙では、政策協定書(国民皆保険堅持、保険制度に悪影響を及ぼさないTPP、控除対象外消費税、医学部新設反対が主な内容)を候補者と結び、推薦、応援することとなりました。新潟県では、1区の西村ちなみ、5区の長島忠美、6区の高鳥修一氏がその対象でした。結果は皆さんの知るところですが、全国的にも大きな成果を上げました。日本医師会には国民の健康、命を守り、医療を発展させるためこれからも政策提言を続けていっていただきたいと願っております。
 次に長岡市医師会を取り巻く状況についてですが、今年4月に小千谷地区が長岡の二次保健医療圏に編入されます。これは救急を含めた患者動向そして地元医師会の了承により決定されました。また同地区では小千谷総合病院と魚沼病院の合併が平成28年度に予定され、300床規模の病院となり、高度医療は長岡の病院にお願いするとのことです。
 次に平成27年6月に開院予定の魚沼基幹病院についてですが、対象人口の減少、外来の新設と地元医師会との協調、病院の将来像など不安、不確定要素は多々あるようですが、開院することは間違いありません。患者の受診状況そして長岡地区の医師、看護師の配置とも密接に関係してきますので今後もその動向に注目していかなければなりません。また、まだくすぶっています医学部新設の問題にも目が離せません。
 長岡市医師会についてですが、お陰さまで地域医療連携がうまく機能しております。地域医療の根幹をなす救急医療については、休日診療、大人の夜間診療、こども急患の一次救急を基本に、3病院輪番による二次救急のバックアップ体制がうまく回り、救急車の域外搬送もほとんどありません。また昨年より2病院の完全週休2日制が実施されましたが、大きな支障もなかったようで一安心しております。救急患者の主治医の問題がまだはっきり決まっておりませんが、2か月に一回開かれている救急懇談会で更に検討していただきたいと思います。
 数年前より整備が進められていました各種疾患の連携パスについてですが、脳卒中、大腿骨頸部骨折のパスは保険適用もあり比較的うまく回っていますが、全県統一パスとなった5大がんのパスは残念ながらうまくいっておりません。パスに関する講演会、啓蒙を行っておりますが、連携が進まず、地域連携、地域完結型の医療の難しさによるものかもしれません。
 昨年、国は重点課題に在宅医療を取り上げてきました。これに関連して昨年度より、こぶし園を中心に在宅医療連携拠点事業が行われております。医療と介護そして在宅がどのように繋がるか、かかりつけ医の役割は、行政の関与はなど今後の事業の進展に大きな指針を与えてくれることと期待しております。
 その他では、来年度には医師会の一般法人への移行、また急患センターのさいわいプラザへの移転などが控えております。また今年の春には、丸山正三先生の「Maruの杜」絵画館のオープン(残念な事に先生は昨年の暮、百歳でお亡くなりになりました)と、長谷川泰先生の銅像の除幕式が予定されております。お二人に関する事業は、長岡を益々文化的に輝かせることと思います。
 最後に、伝統ある長岡市医師会をこれまで以上に発展させ、社会に貢献する医師会としてゆく所存でございますので、会員の皆様のご支援、ご協力よろしくお願いいたします。
 皆様にとりまして飛躍の巳年になりますよう祈念して新年の挨拶とさせていただきます。

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新春を詠む

医の道に 繋がる証 年賀の句  荒井紫江(奥弘)

五十年の 医院を閉じて 初暦  鳥羽嘉雄

ゴンドラの 吹雪の山に 吸はれけり  十見定雄

去年今年 大河は流れ 同じゅうす  江部達夫

元朝や まず日暦の 初めくり  いちろう(一橋一郎)

妙高の 峰より舞へる 風花か  石川 忍

−今年も元旦が仕事始め
福笑ひ 点滴の手も 伸ばしては
  郡司哲己

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永遠のいのち〜丸山正三先生逝く  丸岡 稔(丸岡医院)

 昨年暮の14日に、丸山正三先生は突然この世を旅立って行かれました。

 11月24日に肺炎で、かかりつけの吉田病院に入院されたのですが、如何にも先生らしく、間もなく危険な状態を乗り越えられ快方に向かっていた時でした。

 11月2日は先生の満100才のお誕生日でした。この前日、時折り陽の射す午後に、私は長岡造形大学のキャンパスに建設中の「丸山正三絵画館」の現場に先生をご案内しました。

 8月22日の地鎮祭以来でした。

 木の間越しに紅い落葉松の葉がじゅうたんのように敷きつめられた中に絵画館は姿を見せていました。

 中に入ると思っていたよりずっと広く、感慨深そうな先生のお顔に、完成後の様子を思い浮かべているのが分かりました。しばらくして帰りの車に乗った時、「一寸待って下さい。」と言われ、先生はすでに用意して来られた画帖を取り出し、窓越しにスケッチを始められました。ものの10分程で、晩秋の林の中の建物が美しい構図で画面の中に息づいていました。

 翌日、時々先生のアトリエにお邪魔している仲間数人で、市内のホテルで小さな誕生日のお祝いをさせてもらいました。先生は終始にこやかに話をされ私たちを楽しませて下さいました。時には情熱的に時にはしんみりと、いつの間にか予定の時間を30分以上も過ぎていました。

 この1ヶ月余り後に、先生は病床の人になっていたのでした。

 入院中は、熱のある時でも、お訪ねする度に絵の話、特に先生が大事に思っておられるデッサンの話などして下さったのでした。

 12月7日に絵画館の内装や展示の相談の集まりがあり、翌日にご報告に伺いました。「先生にやって頂かなければならないことが沢山あるのですから、いつまでもこんなところに寝ているわけには行きません。」と申し上げると先生は嬉しそうに笑っていらっしゃいました。

 いつも「早く絵を描きたい。」「アトリエに戻りたい。」と仰って、足腰の弱るのを気にしておられました。

 12月14日、午後3時頃お伺いした時、すでに始まっていたリハビリの成果を、丁度お出でになった主治医の高橋先生に、先生はびっくりする程力強く足を動かして見せておられました。まさか、この数時間後に急変するとは思っても見ませんでした。

 丸山先生は「医者をしながら絵を描いていると、一般に“余技”だ“趣味”だと言われがちですが、私にとっては、もう一つの“work”なのです。私は私の選んだ二つの道を両立させることを願って努力してきました。」と書いておられます。

 先生の絵の多くは、外国の風景とそこで生活している人々がモチーフになっていますが、これについて「自分では特定の町や特定の人達を描いているつもりはなく、探せば日本にもあるに違いない情景で、普遍的な所、極く当たり前の人達の心を描きたいと思っているのです。」と仰っています。先生の制作の姿勢がよく見えてくる言葉です。

 ある日「今まであれをやりたかったとか、今後こんなことをやりたいと思われることはありますか。」とお訊ねしたことがありますが、その時先生はきっぱりと「ありません。」と仰って「夫々の時代の作品は、突然生まれるわけではなく、今やっていることを、もう充分やり尽くした。これ以上やっても自分を模倣するだけのものになると意識する時、新しい仕事が生まれるのです。」と言われ、先生の長い画業の、あの変遷のきっかけが、そこにあったことを知り粛然としたことを憶えています。

 先生が亡くなられた時、アトリエには、翌年の制作の為に、100号のキャンバス2枚が、すでに下塗りが終わっていて、傍にテーマとなる鉛筆の下描きが置かれてありました。

 先生にとって、死は終わりではなく、通過点の一つであったのではないかと思いました。

 ただ、95才を過ぎて医師という一つの“work”を終え、「せっかくそばに居られるようになったのに、今は子どもに戻ったような姿を見守るだけになってしまった。」と仰っていた奥様のことが一番心配だったのではないかと、心が痛みます。

 これからは、丸山先生に会いたくなったら、間もなく完成する「丸山正三絵画館」に行きます。

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杉本邦雄先生の思い出  斎藤古志(さいとう医院)

 昨年暮れの29日、杉本邦雄先生がご逝去されました。ここに衷心より謹んで哀悼の意を表します。

 杉本先生は私より十歳年長でおられましたが、共通の趣味がご縁で本当にお世話になりました。ことあるごとに先生のお宅をおじゃまして、亡くなられた奥様やお母様からも身に余るご厚情をいだたきました。また、まもなく30歳になる末の娘は先生にとりあげていただきました。

 杉本先生は長い間医師会の理事を務められた他に、数多くの文章を投稿されたり、めざましいご活躍をされましたが、これらは周知のことでございますので、私は先生の数多いご趣味の中のひとつ、囲碁に関するご功績と情熱などを紹介いたします。杉本先生に初めてお目にかかったのは、朧げな記憶ですが35年ほど前のことかと思います。

 故太田茂先生や杉本先生を中心に、中越地区の囲碁愛好の先生方が集まって、年2回の大会を開催しました。後年「中越医碁会」と名づけられまして、何回目からか私も参加させていだたきました。この会の魅力は、毎回プロ棋士を招聘して指導が受けられることでした。日本棋院の大枝雄介九段(数年前に他界されました)が、大勢の内弟子を伴って来てくれました。皆十代の少年でしたが今では高段に達しています。

 中越医碁会は会員の高齢化による減少で解散しましたが、杉本先生を中心に有志が結集して、今でも大枝九段門下の棋士達の指導を毎月受けています。

 中越医碁会の設立のみならず、長岡地区のアマチュア囲碁会の発展にも杉本先生は多大な貢献をされました。

 25年ほど前のことでしょうか。当時、日本棋院長岡支部は行き詰まりの半潰れ状態でした。その再建のため、故太田先生が私財を投じて立ちあがり、現在の支部の礎を作りました。しかしまもなく太田先生は他界され、杉本先生が支部長の重責を引き受けて下さいまして10年余にわたりご尽力されました。現在長岡の囲碁界は支部を中心にして大いに隆盛しています。その貢献が認められて、杉本先生は平成9年に日本棋院から「普及功労賞」を受賞されました。この賞は毎年全国から数人選ばれる名誉あるものです。近年、全国のあちこちで碁会所の倒産や、支部の閉鎖の報が聞かれますが、長岡支部はむしろ右肩上がりに発展しています。太田先生と杉本先生が播いて下さった種が稔っているのです。

 杉本先生の囲碁の実力(才能というべきか)はプロ棋士から高く評価されていました。私のように専らプロの模倣と知識を拠り所にしている者とは異次元の、豊かな独創性を身上としたロマンあふれる碁をめざしておられたように思います。

 このことに関して私が長年師と仰ぐ大淵盛人九段が、ある雑誌の囲碁講座に寄せた一文がありますので引用させていただきます。

『財界人』平成15年7月号
(前略)こう書いていると、とある雪国の病院長S先生のお顔が浮かんできました。S先生は囲碁を芸術と捉え「ここへ打ってみよう」と思った所へスーッと筆を運ぶように着手してこられます。その発想はプロの碁のモノマネからは決して生まれない、常に新しい気持ちの中から湧いてくるもので、勝負への熱心に日々生きる私達プロにとっては心洗われるオアシスの泉にも感じられます。「ああ、S先生、S先生、羨ましいです」と独り言をしながら帰宅して、家人に並べて見せたこともありました。S先生ご本人は「なかなか勝てませんねェ」と長嘆息しておられましたが、魂をゆさぶられ、打ちのめされたのは私の方でした。あたかも一枚の絵の前に動けなくなった日の記憶のように(後略)

 昨年の3月、長い闘病のあい間に小康を得られた杉本先生が、月例のプロ指導碁会にひょっこりお顔をみせられました。当日の指導は黒瀧正憲七段でした。同七段はアマチュアの指導であっても決して手を緩めたりはしません。杉本先生は、ブランクを感じさせない粘り強い打ちまわしで見事に勝利されました。

 現役バリバリのプロに三子の置碁で勝つことはたいしたことなのです。

 終局後、杉本先生は「冥土のみやげをいただいた」と笑っておられましたが、果してそれが最後になってしまいました。

 今頃杉本先生は、天国で太田茂先生をはじめ懐かしい碁仇の友人達と再会して楽しく盤を囲んでおられるのでしょうか。

 杉本先生、長い間ご苦労様でした。そして本当にありがとうございました。合掌

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雪やこんこ、あられやこんこ  岸 裕(岸内科・消化器科医院)

雪やこんこ、あられやこんこ  降っては降ってはずんずん積もる  山も野原も綿帽子かぶり  枯れ木残らず花が咲く

 皆様ご存じの童謡“雪”の一番です。今シーズンの雪も昨シーズンに負けない位に天は頑張って雪を降らせては積もらせている。私の住んでいる古志十日町でこの位降っているからには入広瀬、山古志、魚沼などの豪雪地帯にお住まいの方々はどんなにご心配、ご苦労されている事かとお見舞い申し上げます。

 さて野原ならぬ我が家の庭木や畑も、綿帽子どころでなく雪だるま状態と、うず高い雪に覆われた雪の原になってしまっています。この雪の下には昨年取り残した白菜、大根、ブロッコリー、カリフラワーが埋まっています。昨年は野菜作りが上達して白菜など大変大きく育って「立派じゃ〜!」と悦にいっていたのですが一度に取り込んでは置いておく場に困るので全部は収穫せずに雪の降る前までに採れば良いと畑に残していたのです。ところが昨年は12月の初めに思いがけず沢山の雪が降り忙しいまま収穫し損ね1月に突入、今となってはとても掘り起こせるものではありません。がっかりしていたのですが患者さんのおばあちゃんが「キャベツもホーレンソウもみんな収穫し損ねて雪の下です。」と話して行かれたので農家の方でさえそうなのだから畑は天の気分次第と潔く諦めました。春になって美味しい雪下野菜が取れるのかそれとも鼠たちが「ご馳になります。美味し。」といただいたかは雪が融けてのお楽しみです。

雪やこんこ、あられやこんこ  降っても降ってもまだ降りやまぬ  犬はよろこび庭かけまわり  猫は火燵で丸くなる

 さて“雪”の二番に犬はよろこびとあるので愛犬ちびにも雪の中を駆け回らせようと庭に連れだしました。一面の白い雪の中を黒い毛玉が飛び回る様を想像していたのですが……。ちびは雪の上に置いた途端に右の前足を持ち上げ震えて見せて私を見上げて訴えました。「冷たいです。家に帰りましょう。」仕方ないので「ちびには猫の血が入っているのか?」と茶化しながら家に連れ帰ると一目散に暖炉のそばに走って行き自分のクッションの上で丸くなりました。一番暖かく居心地の良い場所が自分の場所だとちびは思っているのです。「猫じゃ無いだろう。ちびはわんわんだよ。」と家族の失笑を買ったのでした。

 この“雪”の歌詞ですが「雪やこんこん、あられやこんこん」だと思っていらっしゃる方が多い様ですが、正しくは「雪やこんこ、あられやこんこ、」です。来む来む(降れ降れ)や来ん此(ここに降れ)との事。雪国にとって雪が来る事はあまり有難くない事です。でも作者不詳、作曲者不詳のこの童謡“雪”は、とても歌いやすく美しく、雪国の子供達が雪と共に暮らし、そのずんずん積もる様を楽しんでいるように感じられます。それ故、これまで親しみながら歌い継がれてきたのでしょう。

 などと考えながらチロチロと紅い火が燃える暖炉の上の沸かしたての湯でコーヒーを入れて飲む。かすかに薪にした楓の燃える甘い香りがゆれる。わんこは暖炉の前のムートンの敷物の上で丸くなってまどろんでいる。そして窓の外はまた雪。

 まだもう少し雪は降り続きそうです。私もここで丸くなってちびと一緒に春の到来を待つことと致します。

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