長岡市医師会たより No.398 2013.5


もくじ

 表紙絵 「イザール川」 木村清治(いまい皮膚科医院)
 「聴覚障害をもつ救急患者さんに手話を」 福本一朗(長岡技術科学大学)
 「英語はおもしろい〜その31」 須藤寛人(長岡西病院)
 「ACLSを受講して」 佐野真由子(さえき内科:事務)
 「湯島界隈散策」 岸 裕(岸内科・消化器科医院)



「イザール川」 木村清治(いまい皮膚科医院)

ミュンヘン市内を流れている川で、場所によっては(川幅の広い所では)いかだ遊びや6月頃になると川辺で日光浴をしたり、サーフィンをする若者がいる。
4〜5月には川沿いのマロニエの花が満開になる。


聴覚障害をもつ救急患者さんに手話を  福本一朗(長岡技術科学大学)

 新潟市急患診療センターでの内科当番に就いていたある冬の日、聴覚障害者の若い男性が救急車で来院された。付き添いの家族も見当たらず、一緒に来た救急隊員も「腹痛」意外は全く事情が分からず、とにかく急患診療所につれてくれば何とかなるだろうと考えて搬送してきたようだった。手話通訳者は依頼してはいるもののいつ到着するか分からない。丁度、折悪しくインフルエンザが猖獗を極めていた時期だったため、内科だけでも1日200名以上の患者さんが詰めかけて診療所内はまるで戦場の様。苦痛で脂汗を流している患者さんも医療者側もとても筆談ができる状態になかった。困ってしまって、長岡総合福祉センターで習いたてのたどたどしい手話で「どこが痛いのですか?(Fig.1」)」「いつから始まりましたか?」「薬は?」と尋ねてみたところ、患者さんの顔が笑顔で突然輝き、苦痛で折れ曲がっていた腰がまっすぐ伸びた。それは丁度、ロシアの船員にロシア語で、中国人のコックさんに北京語で、韓国人のウェイトレスに韓国語で、またイタリア人の奥さんにイタリア語で挨拶した時と全く同じ反応であった。もちろんテレビ講座で独学しただけの外国語で診察に必要な会話が十分できるはずはない。単語も発音も文法もほとんどでたらめに近い片言でも、自分の国の言葉を少しでも解する医師に診てもらえると知っただけで placebo 効果があるのであろうか、患者さん方の苦痛は大分和らぐようであった。この経験から「手話は聴覚障害者の方にとっては一つの独立言語」なのだと実感し、手話の勉強にも身が入る様になった。いわゆる広義の「手話」には、仮名文字・数字・アルファベットを片手の指だけで示す「指文字」と(Fig.2)、感情・意見・地名・人名などの抽象的あるいは具象的事物を表情・視線・上肢手指の動きで表現する「狭義の手話」があることも知った。
 また手話は「単語」が日本語とは異なるだけでなく、例えば「あなた→行く→どこ?」「君→彼女→好き→なぜ?」というように「文法」も独特である。さらに聴覚障害者の方々の指運動が滑らかで自由自在であること、視野が健聴者よりも広く、一般に視能力・画像記憶力が素晴らしいことにも感銘を受けた。また「聾(ろう)」という言葉は差別語で使っては行けないと信じていたが、障害者の方自身が「盲」「聾」「唖」という表現を好んでしておられることに驚いた。手話を学んでいると、今まで無知であった供音のない世界僑の住民の方々の喜怒哀楽が少しは分かる様になった。
 思えば今から21年前の春、技科大に着任した早々、聴覚障害者の助けになりたいと考え、長岡聾学校に赴き、生徒さん・先生がた・父兄の方々からお話を伺った。私はその時まで、視覚障害者が点字を学ぶ様に、聾学校では生徒さん全員に手話を教えているものと信じていた。しかし校長先生のお話では、卒業して社会で健聴者に混じって生活するためには手話よりは口話が大事なので、聾学校では手話を禁じているとのことであった。それまで戦争映画「コンバット」や忍足亜希子さんの映画で手話を見て、それがけなげで優雅であるだけでなく有用でもあると思っていたので大変残念に思った。
 今、手話を学んで既に4年になろうとしている。一昨年は前橋市まで手話講習会に行き、お陰で手話5級に合格して、今年は4級を受験した。まだまだ本当の診療に使えるレベルの手話ではないが、患者さんが突然手話で話されても戸惑うことなく聞き返すことができる様になった。
 一般的に言って新しい言語を学ぶことは、忍耐と時間が要求される。特に手話の様に文法も単語も統一されていない上、教授法も確立されていない場合には初心の学習者は混乱の極みにあることが多い。「手話は聾者のもので、健聴者はそれを学ばせていただいているだけ」との手話教室の先生のお言葉には当惑した。技大では「留学生が学び易い簡易な標準技術日本語」を留学生の協力で作成しようとしている。また災害時に視覚聴覚障害被災者の方々にも危険到来と避難経路を、手話・音声・点字で分かりやすく教える「ユニバーサル報知器」を開発中である(Fig.3)。
 思うにブリテン島の粗野な地方語から国際語となった英語を例に引くまでもなく、あらゆる言語はその時代の人々の努力によって、より明快にかつ学び易く変わって行く運命をもっている。手話もまた聾者と健聴者の両者の協力で、より洗練された美しい言葉となって欲しいと願うものである。

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英語はおもしろい〜その31  須藤寛人(長岡西病院)

 Heartful ?
 2〜3年前、看護室の奧の脇の壁に「今年の接遇強化目標:ハートフルな言葉使いと誠実な態度」の貼り紙が目にとまった。この時は何となく看護師さんの「真心のこもった」ような気持ちに感心した。一昨年、当地に新しい介護施設の一つ「ハートフルケア○○」ができ、私も仕事の上でその施設と連絡をもった。その時は「心のこもった」介護をしてくれる施設なのだろうと思いながらも、「ハートフル」というカタカナに何となく違和感を抱いた。はてさて、"heartful" という英語は習ったことはあったっけ?という感じであった。そこにきて、ある朝(平成24年1月)、某テレビ局の新顔アナウンサーが、「ハートフルコメディーの〔○と愛〕が始まる」と喋った。私は、この耳新しい英語は「とうとうそこまできたか!」と思った。しかし、注意していたのであるが、某局はその後二度とこの言葉を使っていないようである。今回は、いまひとつ得体の知れない、"heartful" から調べ始めた事柄を書き留めたい。
 英語を習いたての頃、"from the bottom of the heart" が「心底より」で「英語も日本語と同じ感覚!」と思ったことがあった。その後、「心をこめた」whole-hearted、「心より」wholeheartedly あるいは、「心暖まる」heart-warming、ex. heart-warming hospitality / story / reception、「心温かい」warm-hearted などが適切であろうと思い、自分でも使ってきた。
 研究社英和大辞典、岩波英和辞典、三省堂英和辞典には "heartful" は全く記載無く、また研究社和英辞典にもこれにあたる言葉はなかった。近い言葉として「心からの」hearty、heartfelt(heart-felt)、あるいは「衷心から」heartily などとあったが、これらの単語を私はいずれもあまり見聞きしなかったように思う。
 Merriam-Webster 大辞典を広げてみたところ、案に反して、heartful:"full of heartfelt emotion:Hearty〈heartful prayers〉"と記載されているではないか!"heartfully"(副詞)も書かれてあった。Etymology:Middle English と記されていたので、研究社の英語語源辞典を調べてみたら、最古引用文献は1338年と書かれてあった。
 Weblio 辞典は各種の専門用語辞典を含んだインターネット上の総合辞典であるが、そこには、"The good-natured and heartful Tatsumi Geisha……"「気前がよく、情に深い辰巳芸者……」の例文が載っており、もう一つは日本の AAA というポップバンドが "Heartful" というアルバムを発売したというものであった。そして Weblio 和製英語辞書に heartful =「heartfelt、heart-warming、心からの、心温かい」とあったが、※を付けて「和製英語」と明記されていた。
 まとめてみると、「"heartful" は、歴史上、かつては使われたことを大辞典で見つけることができるが、今日的には英語圏では使用されておらず、日本で最近しばしば使用されるようになった、〔心温かい〕英語である」ということになろう。手紙などによく書かれる「心からの感謝」は、"heart" を使わない、sincere thanks、warm t.、cordial t. が一般的で十分であろうと思われる。
 以下は蛇足になるかも知れないが、たくさんある「和製英語」のなかで、私が留学してすぐ痛い目にあったものは、「ホッチキス」stapler と「ボールペン」ball-point pen であった。「コンセント」は plug、plug receptacle、あるいは outlet、electric outlet で、日本の〔アース〕にあたる conductor という言い方でも良いようだ。手術室で「コンセント、コンセントはどこだ」と大声を上げたが全く伝わらなかった苦い経験を思い出す。(続く)

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ACLSを受講して  佐野真由子(さえき内科:事務)

 あれは7、8年前のこと、医院が開業してしばらく経った職員旅行の車中で、でした。「事務の人も一度ACLSを受講してみたら?」と院長がおっしゃいました。
 最初、ACLSとは具体的に何なのか、何故、私達事務にそれが必要なのか、ということが全くわかりませんでした。ただ、周りの人の反応で、おそらく、私達には難題なことなのだろうとは感じました。しかし、その頃の私は、医療事務という仕事を始めてそう年月は経っておらず、家庭では子育て真只中という状況でしたので、どつぼに嵌るのではという恐怖感から、その返事はうやむやのままフェイドアウトする形となりました。しかし、無理だろうな、と思いながらも、期待に応えてみたい気持ちも頭の片隅にあったのを記憶しています。そのせいか、その後も何度となく思い出してはいました。しかし、足を踏み入れる覚悟はなかなかつかないでいました。
 しばらくして、仕事もだいぶ慣れた頃、日々、資料を取り寄せて資格取得の為に机に向かっている夫の姿に感化され、自分も何かに挑戦したい気持ちになりました。この歳にもなると、資格を取ろうとでも思わないとなかなか勉強する機会もありません。その時、ACLSを受講することを決めました。
 夫からは、「応援しているよ、かんばって。」と久しぶりにやさしい言葉を掛けてもらいました。
 それをインストラクターをされている院長に伝えたところ、大変喜ばれ、早速参考書を貸して下さいました。院長から、「全部を読んだら頭がいっぱいになって逆にダメ。」と言われ、読む項目も絞っていただきました。
 約3週間前から勉強を開始しました。仕事を終えて家に帰ると否応なしに母親モードにさせられます。仕事が終わってから帰宅までの1時間、又は、子供が寝てからの1時間をその時間と決めました。
 参考書は、素人の私にとっては専門用語ばかりに感じられ、なかなか読み進められませんでした。まず、専門用語を調べることから始めました。最初は内容が全く頭に入って来ず焦ったりもしましたが、何回も読んでいくうちに少しづつわかってきました。また、興味のある内容だったので、どんどん気持ちが入り込み、時間があっという間に経つといった感じに勉強ができたので、あまり苦にはなりませんでした。
 そして、院長や受講経験のある看護師さんに、わからない所を質問したり、実際にどんな感じの講習なのかを聞きました。しかし、話を聞けば聞く程、自分とはかけ離れた世界でのことに感じられ、ただ、何も出来ずに恥をかきに行くだけなのではないかと不安が募るばかりでした。
 講習会当日、参加者名簿を見て、私のような職種の人がいないことを知り、正直肩身の狭い思いでした。しかし、「やることはやったのだから大丈夫。とにかく慌てずに堂々とやろう。」と何度も何度も自分に言い聞かせました。
 最初にインストラクターの方々の実演を見せて頂きました。まさに緊迫した医療現場といった感じで、専門用語が飛び交い、絶えず動いているように見え、何が何だかさっぱりわかりませんでした。「間違ったところに来てしまった。勉強の仕方が拙かったのだろうか。これから一日どうなってしまうのだろう。」と、愕然としました。しかし、いざ講習に入ってみると、丁寧に教えて頂き、何度も繰り返し実践をやることによって体が覚えていきました。結局、緊張は一日中続きましたが、少しづつ講習を楽しめるようにもなりました。
 カリキュラムの全てが終了した時、確かに解放感はありました。しかし、それが思っていた程ではないことに自分でも驚きました。それよりも、充実した一日を過ごせたという満足感があり、覚えたことを忘れたくないと強く思っていました。
 医療事務員である私は、今後もこういった場面に出くわす確率は低いでしょうし、学んだ技術を求められることが少ないこともわかります。しかし、以前の私は、AEDの意味すらも漠然としていました。もし、そのような場面に出くわせば、オロオロするばかりで、おそらく何も出来なかったはずです。しかし、今は違います。良質なCPRの重要性、救命に必要となるあらゆる知識や手技を学びました。医療現場での経験がない、いわゆる下地のない私が受講することは、本来のACLSの目的からだいぶかけ離れているかもしれません。しかし、それでも、全く知らないのと少しでも知っているのとではずいぶん違います。今なら、そのような場面に出くわしたとしても、逃げず、私なりにですが向かって行けるという自信がつきました。それだけでも少しは意味を成したのではないかと思います。
 この度のACLSの受講に繋がったのは、院長の考えが、「事務なんだから……。」ではなかったからです。この恵まれた環境で働けていることをありがたく思っています。
 また、良い経験をさせてもらった、だけで終わらせたくはないです。これからも、これらの学んだことを忘れぬよう定期的に磨いていきたいと思います。

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湯島界隈散策  岸 裕(岸内科・消化器科医院)

 4月初めのまだ肌寒さの残る日曜日に東京散策に行って来た。JR御茶ノ水の駅を出て聖橋を渡ると、左手にある母校医科歯科大は私が在学中の面影などまったく無いほど立派になっていた。昔、動物たちが集められ、木曜日になると悲しい鳴き声が聞こえて来た木造の建物は取り壊され、ヒポクラテス達のレリーフが掛けられた高層ビルになっていた。
 その右手には道を挟んで湯島聖堂がある。湯島聖堂は5代将軍徳川綱吉によって建てられた孔子廟であり、日本の学校教育発祥の地である。林羅山が上野の私邸に建てた聖堂や私塾が幕府の官立の昌平坂学問所となり、のちの東京大学、筑波大学、お茶の水大学の源流となった。そして学問所の跡地のほとんどは医科歯科大のキャンパスになった今も、聖堂には多くの受験生が合格祈願に訪れる。
 ちなみに御茶ノ水の由来は、この近くのお寺(高林寺)から良い湧き水が出てその水が徳川将軍のお茶に用いられた事から御茶ノ水と言う様になったとのこと。聖橋は神田川を挟んで湯島聖堂とニコライ堂を結ぶ橋であるからと言われています。
 聖堂をお参りしてからレーズンサンドクッキーで有名な小川軒でランチをと思って行った所、日曜休診いえ休業だった為、その先のガーデンパレスホテルの和食の店でそば御膳をいただいてから神田明神に向う。
 一ノ宮に大黒様、二ノ宮に恵比寿様、三ノ宮に平将門様を祀る江戸総鎮守である神田明神は大勢の参拝客で賑わっていた。山門脇には神田祭の為の立派な山車が飾られていた。山車は将軍上覧のために江戸城中に入城したとの事で、神田祭は天下祭と言われたそうである。「江戸っ子だってねえ」「神田の生れよ」と浪曲に謡われるように、江戸っ子の誇りに掛けてさぞ威勢のいい祭りだったことでしょう。江戸の頃は男衆だけで担いだであろう山車も、私が学生の頃(30年以上前)見た時には、ねじり鉢巻きに脚絆、半股引きに祭り半天で恰好良く決めたお姉さんも威勢よく担いでいて誠に賑やかでした。
 参拝を済ませ神田明神を出るとすぐ下にレトロな茶店があり、「甘酒」と書かれたのれんが掛かっていた。三丁目の夕日の茶店の様だなとのれんをくぐると看板娘ならぬ江戸っ子のおばあちゃんが「いらっしゃいまし、何に致しましょう。」と冷たい麦湯を持って来てくれた。甘酒を頼むと奥に向って「甘酒です。」と声をかけるや「はい。お代は今お願いいたします。」と、きりきりしていて気持ちがよい。越後人なのでもたもたと財布を取り出して「はい。これで。」とテーブルで清算する。麹の入った甘すぎない美味しい甘酒を飲みながらゆっくりと店内に飾ってある昔懐かしいポスターや古びた掛け時計を眺めさせて貰う。有名な店らしくお客も多く、「店内を撮っていいですか」とおばあちゃんに聞いて写真を撮る若いご婦人もいらした。帰りに隣でやっている土産物ものぞいてみると参拝土産や麹、といろいろ売っていてなかなかに楽しい。ここで七福神のあめと漬物等を土産に購入した。
 今回は行かなかったが神田明神下から上野不忍池方面に向かうと湯島天神に着く。境内からは男坂・女坂が見下ろせてここから上野界隈が眺められる。池波正太郎作品の鬼平犯科帳や剣客商売などの舞台になったこともあり、池波さんもここを良くスケッチされたとのことです。江戸時代はここから東京湾が眺められたそうですが今は高層ビルに隠れて海を見る事は出来ず、残念な事です。

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