長岡市医師会たより No.401 2013.8


もくじ

 表紙絵 「魚沼初秋(黒又川)」 丸岡 稔(丸岡医院)
 「故高木昇三郎先生の思い出」 木村嶺子(木村医院)
 「故志倉圭子先生を偲んで」 小西 徹(長岡療育園)
 「MaRoùの杜に行きましょう」 丸岡 稔(丸岡医院)
 「女性総合診療医を目指して」 七條公利(七條胃腸科内科医院)
 「面の皮の厚さ・薄さ」 郡司哲己(長岡中央綜合病院)



「魚沼初秋(黒又川)」 丸岡 稔(丸岡医院)


故 高木昇三郎先生の思い出  木村嶺子(木村医院)

 高木先生の思い出を書いて下さいとの依頼を受け、戸惑っております。先生は、私の父親と同世代で昭和29年から関原地区で高木医院を開業されておられましたので、父(木村猛)だったら昇三郎先生との思い出も沢山あっただろうにと思われてなりませんが、残念ながら今から問い合わせ聞き出す術もありません。二人とも関原でとなり合った町内での開業であった事から、私の子供の時に接した先生の姿や、父たちが高木先生の事を話題にしていたのを思い出して、先生の在りし日を偲んでみたいと思います。
 実は、昇三郎先生と私の実母とはいとこどうしでした。母がいつも「昇ちゃが……、昇ちゃが……だった」などと言っていたので、誰のことかと思っていました。私が小学校に入る頃(昭和20年代後半)私の家に毎日来てお茶を飲んでゆかれる太ったおばあさんがおられ、その人の体型といい顔つきが私の祖母によく似ているので、「あの人は誰?」と聞いたところ、「関原3丁目甲に住んでいるすぐ下の妹だ」と祖母が答えてくれました。今から思えばその方が高木先生の母上だったのでした。
 しばらくして、父たちが話しているのを耳にしました。「昇ちゃが関原3丁目乙で開業してくれる事になり、俺の仕事が少し楽になりそうだ」と。実際高木先生が開業された数年後には、父は病気がちになり時々休診していましたから、この地区の医療体制として先生に助けられた事と思います。
 私の小学校時代は所請戦後のベビーブームで、体育館に入りきらない程の子供の数でした。予防注射の時には、高木先生と父が二人でやってくれましたが、騒がしくしていると高木先生には睨まれ怒鳴りつけられたので、子供らにとっては“おっかない先生”で通っていました。私は、どうぞ高木先生にはあたりませんようにと願っていたものでした。
 昭和41年、私が医学部に入った年、父に「昇ちゃ先生の所に挨拶に行って来い」と言われました。理由を尋ねたら、(幼い時の、おっかない先生のイメージが強くて、行きたくなかったのです……)「昇ちゃ先生の奥さんは、耳鼻科の先生で女医の大先輩だ。日赤病院で昇ちゃが内科、産婦人科の先生をしていた時、耳鼻科にいた下田キク子先生と結婚されてな……。関原で2人で開業されてからも奥さん先生は医業と子育てを両立されているんだから、女医の進む道を教えてもらえ」との事でした。恐る恐るお宅に伺ったところ、昇三郎先生がニコニコしながら「俺には関係ない話のようだが、あがって、ゆっくり家内と話して行きなさい」と言って下さいました。恐い先生のイメージが払拭された一瞬でした。
 私が父と一緒に仕事をするようになった頃、医師会の勉強会に出席し、先生とタクシー相乗りで帰った事が何度かありました。車内で色々な事を話して下さいましたが、鮮明に覚えている事は、「息子の正人が、新井の病院長のお嬢さんと結婚することになってね〜」と嬉しさをかくしきれない様子で話されていた事でした。
 今とは違って、その頃の川西地区関原近辺の開業医は、数人しかおらず(大積の脇屋先生、宝地の大森先生、河根川の金子先生、上除の片桐先生と関原の2人)、その中では高木先生が若くて元気で無理のきく年代だったのでしょう。医師会連中の飲み会の幹事を押しつけられておられた様で「ハイハイ、一番若いから幹事をやりますよ」と言っておられたのを聞いた記憶があります。ある時、父がしみじみ「昇ちゃが警察医をしているので、検視に呼び出されなくて、どんなに助かっているかわからんな。夜中に呼び出されて、長い時間付き合わされるのは大変なんだが、ありがたい」と言っていた事も思い出されます。
 関原3丁目乙で開業されていた医院の建物は、娘さんの妙子さんが管理されていて、時々キク子先生を施設からお連れして自宅の空気を味わわせておられます。
 医業の方は、正人先生が緑町で立派に高木内科クリニックを開いておいでです。
 先生は、あの世で昔の開業医仲間とニコニコ顔でお話されているのではないかと思っております。心より先生の御冥福をお祈りいたします。 合掌

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故 志倉圭子先生を偲んで  小西 徹(長岡療育園)

 余りにも突然であっけないお別れでした。
 亡くなる前日までの3日間、北九州での産業医研修会に出席され、長岡に戻って直ぐの長岡療育園発達講座(公開講座)、講演開始5分もしない内に演台上で倒れられました。直に病院に救急搬送となり左被殻部出血の診断、軽度の麻痺はあるものの症状は一旦安定し意識も回復、数日間の入院とその後のリハビリで職場復帰も充分可能とのことで一安心していました。しかし、その数時間後に脳幹部を中心にした再出血で帰らぬ人となられました。先生らしい最期だったのかも知れませんが、余りにも急ぎ過ぎです、そして、何時もの頑張りはどうしたのですか? 連絡を受け病院に掛け付けた時には、ベッド上に「全てをやり終えた、これで良いの」と言わんばかりの安らかな顔がありました。61年の短い人生、しかし、長い間ご苦労様でした。思わず合掌させて頂きました。
 志倉圭子先生は東京女子医科大学を卒業され、小児科学教室に入局、最初はNICUで研修されました。しかも、当時から最も先駆的で高度医療を実施していた聖隷浜松病院NICUでした。そこで、しっかりとした急性期医療を学ばれました。その後、重症心身障害の領域に移られ、国立精神・医療センター(武蔵病院)、緑成会、東京小児療育病院などで、この領域の重鎮である有馬正高先生や筋疾患の大家である埜中郁哉先生など、数多くの著名な先生方と一緒に仕事をされてきました。つまり、日本における重症心身障害医療・療育の中核的な役割を果たしてこられた先生であります。更に、一般小児科学、小児神経学は勿論のこと、障害児整形やリハビリ学の研鑽もされており、その豊富で幅広い学識と臨床経験は重症児者医療の発展に多大な貢献をしてきたことは間違いありません。しかし、これだけ広範囲の領域を網羅習得するのは並大抵な努力ではなかったものと推測されます。重症児者の“よりよい命・生活”を求めて、走り続け・働きずくめの人生だったのではないかと思われます。“こどもが好き”“障害のある子をどうにかしたい”その想いだけではとても出来る事ではありません。以前から、あの小さい身体のどこにそんなバイタリティがあるのかと信じがたい存在でした。
 ご縁があって、平成24年11月より長岡療育園で一緒に働いてもらえることになりました。重症児者医療の日本の中心から長岡の田舎へ、そんな簡単には行かないだろうと思っていました。しかし、先生自身の人のよさもあって、短期間のうちに長岡に慣れ親しんで頂きました。医療面に於ける働きぶりは当然ですが、重症児者本人・家族との繋がり、職員の教育・信頼など重症児施設/社会に必要な全てに及ぶ働きぶりでした。最後の研修となった産業医研修会も重症児者に関る全ての人達を守りたいと言う先生の想いであったと理解しています。8ヶ月余りの短期間ではありましたが、先生の重症児者に対する想い、医療・療育のあり方、前向きで積極的な対応など、長岡療育園の果たすべき役割を再認識させて頂いたことは間違いありません。感謝しております。ありがとう御座いました。もう少し長い期間一緒に仕事が出来たら・・・、愚痴になりますが残念です。ただ、今更仕方ないのですが、先生のライフスタイルである常時全力疾走でオールマイティ・パーフェクトを目指す姿勢は医師として、人として立派でした。しかし、この姿勢を長期間続けるにはやや無理があります。ゆっくりと余裕を持ち、自分の為の時間も楽しんで貰いたかったと思っています。
 どうぞ、ゆっくり休んで頂いて、自分の為の時間を楽しんで下さい。ご冥福をお祈りいたします。

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MaRoù の杜に行きましょう  丸岡 稔(丸岡医院)

 立秋が過ぎても、太陽を遮る雲ひとつない日が続いている午後、ここ「MaRoùの杜」には爽やかな風が流れていました。この6月1日、長岡造形大学の広い美しいキャンパスの一角にオープンした、医師であり秀れた画家でもあった丸山正三先生の絵画館は、緑の木に囲まれ、入り口に入ってすぐ、ロビーの大きなガラス越しに美しいビオトープが広がって見えます。木々の緑が影を落とす水面には、幾種類もの水草が葉を拡げ、時折モリアオガエルが水を揺らします。
 ここで、この絵画館が出来るまでの経緯を簡単に記してみます。
 ここのところ、国の内外で次々と起こる大きな出来事で、多くの人はそれに振りまわされ、人生の確かな目標を見失っているように見えます。戦中、戦後を生きて来た私など、青年期には、学ぶことは真善美を追究することだと教わり、それを信じていました。しかし、そんな言葉を聞かなくなって、もう久しくなりました。果たして風化してしまったのか、真理ではなかったのか、そんな思いが頭をよぎったこともありました。そんな中で、美しいもの、真実なるもの、善なるものを求める気持がいささかもぶれることなく、満100才の生涯を終えた丸山正三先生に巡り会い、再び青年の頃の魂を甦らせることが出来たのでした。このような先生の人と業績を後世に遺したい。そういう想いを抱いた時、同じ想いを持っている人が大ぜい居ることに気がつきました。世の中がどう変わろうとも、真実が力を失うことはない。われわれ志を同じくする人達は、確信を持って丸山先生の絵画館をつくろうと決心し、そして、それは市民の力でつくってこそ大きな意義があるのだと確認し合いました。
 東日本大震災という大きな壁にぶっかった時も、いち早く長岡市医師会は大きな力を貸して下さいました。
 多くの一般市民も次々と協力を申し出て下さったのでした。すでに長岡造形大学からは土地を提供して頂いていましたので、こうして最も理想的な形で、丸山正三絵画館「MaRoùの杜」が完成したのでした。
 さあ、ロビーで美しいビオトープを眺めたら、早速作品を観て行きましょうか。
 その前に、この建物を設計した、造形大学の山下秀之教授の言葉を紹介させて下さい。「展示館、4面対稱のキューブの“回転”。その中に“やんちゃな十字形”を挿入した。それだけに留まらない。キューブの円部空間を分割し、4つのいびつな吹き抜けをこしらえる。展示館の小さな内部空間、狭い巾と広い巾、高い天井と低い天井、明るさと暗さ。4つの高窓から、東西南北のひねった光がさしこむ。木漏れ日がゆらめく。うごめく。めくるめく。平行ではない壁が続く。ここはユニバーサルな“展示場”ではない。丸山正三先生のみの絵画館である。」
 この教授の言葉だけでは何のことかちょっと分からないかもしれませんが、一歩足を進めてみますと、忽ちに、壁や天井や窓たちが、舞台の役者となり夫々の台詞として説明してくれるのです。
 丸山先生の一点しか残っていない少年時代の絵から始まる、ハルビンシリーズ、壁派、アメリカの黒人達シリーズ、そしてヨーロッパシリーズと移ります。豊かな光彩と厳しい構成により、かぐわしさが溢れています。こうして見て行きますと、多くが外国の風景とそこで生活している人々がモチーフになっていますが、先生は「自分は特定の町や特定の人を描いているつもりはなく、探せば日本にもある情景で、普遍的な所、極く当たり前の人達の心を描きたいと思っているのです。」と仰っています。これが先生の作品の特色であります。最後の3点の大作は、昨年100才を迎えた時のもので、人々の最も幸せな形を描きたいと願って制作した、正に「人間讃歌」と言えるものです。
 先生の3千点を超す作品の中の一部を飾るに留まった空間でしたが、観る人々の心の中に、人を信じる気持や前向きに生きる勇気がきっと湧いてくると信じています。
 どうか、親しい人を誘って「Ma-Roùの杜」を訪ねて下さい。

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女性総合診療医を目指して  七條公利(七條胃腸科内科医院)

 このたび7月1日より「婦人科・乳腺内科」を標榜させていただきました。
 「えっ、なんで?」「胃腸科なのにどうして?」と唐突な行動に思われがちですので、今回の経緯につきまして、ぜひとも会員の先生方にご理解いただきたく本誌に投稿させていただきました。
 ご存知の方も大勢いらっしゃると思いますが、私は立川綜合病院で内科医(内科部長を約10年)として勤務しておりました。医師になって今年で30年が経過しますが、実は研修医のころから常に性差医療を意識してまいりました。勤務医時代は専門パートによる分業ですので乳腺や婦人科診療には直接は関わっていませんでしたし、内科でしたので女性だけを診るということもありませんでしたが、診断や治療において男女が同じ診療体系であることに常に違和感を感じていました。
 そもそも性差を意識した事の発端は、私に限らず研修医がとても苦手な「女性の不定愁訴」への対応に苦慮したことでした。男性に比べて女性はあれこれと訴えることが多いので、経験の少ない当時の私にとってそういった外来はとても苦痛でした。そのうちにそれを何とか克服したいと前向きに考えるようになり、臨床経過の男女差を実感していく中から多角的な視野が拡がり、やがて自分の中ではその不定愁訴の原因の紐解きがむしろ得意分野になっていきました。おそらく男性の診療を平行して実践していなければ気が付かないこともたくさんあったのではと感じています。
 女性の不調は月経リズムに大きく左右されることは、今更言うまでもありませんが、経験の浅かった当時の私にはまだ女性ホルモンのリズムやバランスが女性の日々の体調にどれほど強く関わっているかを知るすべもありませんでした。この点を重視した診療経験を積むにつれ、何かと社会的弱者であることが多い女性の声にしっかりと耳を傾け、充分な時間をとって多角的な視点で診療してあげなければいけないという想いが強くなっていきました。病院勤務での外来では男女混合であり、いかんせん人数が多くてそのような診療スタイルは望めないこともあって、「女性の多種多様な不調の訴えを丁寧に診る」という自分のスタイルを確立するため、9年前に開業いたしました。
 開業当初から私の意を察してか、来院される約9割が比較的若年層の女性患者であり、「便秘」を主訴とする方がその大半でした。勤務医時代には知りえなかったことですが、世の中には便秘で困っている女性がこんなにもいるのかと驚かされる日々の連続でした。この便秘こそが体の不調に大きく関わっていることに気付かされ、これを機軸に徐々に診療領域の幅を拡大していきました。そして、開業時の理念で掲げました「幅広い視点から女性の健康をサポートすること」をもっともっと成熟させていくために、まずは5年計画で地道に勉強を重ねて自己を磨いてまいりました。20年間つちかった胃腸系を基盤に多岐の分野にわたっていろいろな研修を受けたり、学会員(日本女性医学学会、日本女性心身医学会、日本乳癌検診学会、日本東洋医学会など)として自分なりに積極的に研鑽を積んでまいりました。またルールが変更されたこともあって、5年前から「女性内科」を標榜し、より広い視野から診療できるスタイルでやってまいりました。
 自己修練の中で、婦人科診療に関しましては、開業後に改めて母校(東京医科大学)の卒後研修制度を利用して、産婦人科の医局長から理論や実践面をいろいろご指導いただき、準備をすすめてまいりました。乳腺領域に関しましては、乳房エコーを中心に各種の講習会や勉強会に積極的に参加して少しずつ経験を重ねてまいりました。当初はもう少し早い段階で今回の2科を標榜させていただく予定でしたが、段階的に進めていく矢先に近隣に産婦人科クリニックが2件開業され、さすがに表立ったその後のステップアップ計画は中断せざるを得なくなり、充電状態のまま3年が経過しましたが、診療を進めていく中で乳腺領域や婦人科領域の診療のファーストタッチの必要性がどんどん高まってきたことで今回の決断に至りました。
 それともうひとつの理由は婦人科や乳腺科を受診すべき予備軍の多さです。これは産婦人科の先生方には絶対に見えない部分なのですが、特に20代から40代の方の中には症状があるのに産婦人科を受診するという第一歩が踏み出せないでいる女性が想像以上にたくさんいます。当院にいろいろな不調で来られる女性の多くが、主訴とは別に、ついでに婦人科的な悩みや症状を訴えてくることもよくあります。「その状態はしっかり専門医で診てもらう必要がありますよ」と説明して背中を押してあげると、割と素直に産婦人科を受診されます。このことから当院のような比較的ファジーな医院の方が相談も含めて気軽に口を開いていただけるのではと考えるようになったことも、標榜に踏み切った一因となりました。乳腺診療につきましても同様の理由ですが、この領域は最初に気軽に受診できる医療機関が少ないということもありました。乳房領域の診察はエコーだけでなくマンモグラフィも導入し、微力ですが癌発見率の向上や乳腺症状の初期治療に対応していきたいと考えています。
 最後になりましたが、私はあくまでも内科を軸とした女性総合診療のプライマリーケア医を目指します。己を過信せずに責任ある初期診療に徹するとともに新設した2科の専門医への受診の窓口になれますように誠心誠意、努力していきたいと思います。なにぶん未熟者で至らぬ点も多々ございますが、新しいスタイルの女性の総合家庭医を目指してこれからも研鑽を重ねてまいる所存ですので、医師会員の先生方、ことさら専門領域の先生方には充分なご理解を賜り、今後ともいろいろなご指導やご教示をいただけますよう、何卒よろしくお願い申し上げます。
 末筆ながら会員の皆様のご健康とご多幸を心よりお祈り申し上げます。

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面の皮の厚さ・薄さ  郡司哲己(長岡中央綜合病院)

 今年は8月7日が立秋で、その後の残暑きびしく、とにかく猛暑、暑さより熱さの文字が妥当な感じ。関連報道で、わたしの注目したのは日傘の話題です。これまで女性の持ち物だった日傘ですが、今季は男性の使用が急増中とのことなんです。

 ブルタース諸氏よ、お前もか!

 なんとわたしはトレンドにのってしまっていたのか、おお恥ずかし恥ずかし。わたくし、まだこの夏から日傘の愛用派となったばかりの新参者なのであります。
 そもそもの発端は、この春先。顔が主ですが、赤く脹れたりひりひり感があったりし始めました。
 おりからマスコミでは、美容石けん「茶の雫」大騒動でした。接触性皮膚炎やアレルギーが世間の話題でした。
 自分は汗かきかつ脂性なので、数年前から、男性向けスクラブ石けん液(全然別製品、近所のスーパーで購入)で洗顔していました。
 うーむ、これが怪しいのでは?と思いました。そこで昔ながらの純正オリーブ石けん(家人の好みで洗面所に置いてあった)に切り替えてみました。

 ところで毎朝の日課はまず散歩して一汗かき、入浴してからおもむろに朝食をとり、仕事に出かけます。この入浴時に、顔を石けんで文字通りごしごしと洗っていました。これまでの数十年、これでなんともなかったのです。面の皮の厚さ(物理的丈夫さ)には多少なりと自信がありました。今年は還暦少し前となったわたしですが、なんと老化現象の一端で面の皮まで薄くなるらしいです。人間は年を取るほど面の皮は厚くなるばかり、と思っていました。望んでもいないのに、いつのまにか面の皮の薄い奴になり果てていたのでした。
 そんなわけで石けんを切り替えた後も昼間に仕事場で、まだ額や頬が赤らみ、ひりひり感があるのです。

 そんな時、同僚のM先生いわく、「自分も肌が赤く、かゆいので、皮膚科を受診したばかり。加齢による日光過敏症との診断で、治療は日焼けしない努力しかないようです。G先生もそうなのでは?」

 うーむ、彼は趣味がサイクリングで、職場にも往復数キロの自転車通勤派。たしかに日焼けしそう。……自分はというと、散歩後も庭先で園芸作業。けっこう紫外線にさらされる時間が長いかもしれません。
 それならいっそ対策も多角的にせねばー。家人と薬局に行き品定め。低刺激が売り文句の泡状の洗顔石けんと保湿液を購入。次はスポーツ用品店で紫外線カットのウエアも購入。……LLサイズがあってよかった。
 翌日の散歩からこのウエアを着用、さらに日傘(雨傘兼用)も使用開始です。もちろん洗顔は繊細に。

 その効果のほどは?

 2週間ほどで肌の症状は改善傾向となりました。でもふと浴びてしまう強い日差しには、瞬間で顔の皮膚は刺される痛みを感じる気がします。やはり気をつけないと……。

 つい数日前に長岡アオーレが会場の句会が催されました。越後RYO−MA倶楽部という地元若者たちの主催で第4回目。わたしの俳句の師、結社銀化の中原道夫主宰が指導に来られるのでお手伝いに……いわば黒子の役割で参加。ところが結果は主宰の特選が正規会員をさしおいて、2名の黒子の俳人に。そのひとりがわたしで、恥ずかしながらの名乗りです。

 男ありけり 黒日傘 白日傘  蒼穹

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