長岡市医師会たより No.402 2013.9


もくじ

 表紙絵 「ミュンヘンのシンボル」 木村清治(いまい皮膚科医院)
 「本県由来の歌舞伎はご存じでしょうか?」 樋口裕乗(樋口皮膚科医院)
 「これでも女子旅です」 風間絵里菜(長岡中央綜合病院)
 「自由・平等・友愛と“ベルサイユのばら”〜その2」 福本一朗(長岡技術科学大学)
 「映画の街、長岡」 岸 裕(岸内科・消化器科医院)



「ミュンヘンのシンボル」 木村清治(いまい皮膚科医院)

ミュンヘンの中心部を近くの教会の展望台から見た少々欲張った絵です。
一番向うにある先端が円形の2つの塔のある建物がフラウエン教会、
その手前の建物が新市庁舎(ここに有名なカラクリ時計があります)、
一番手前の建物が旧市庁舎、市庁舎の前の広場がマリエン広場。


本県由来の歌舞伎はご存じでしょうか?  樋口裕乗(樋口皮膚科医院)

 歌舞伎の八幡祭小望月賑(はちまんまつりよみやのにぎわい)、通称『縮屋新助』(ちぢみやしんすけ)は万延元年七月(1860年8月)江戸市村座で初演された。二代目河竹新七(黙阿弥)作、全六幕。四代目市川小團次のために、河竹新七が書下ろした世話物の狂言。文化四年(1807)に深川八幡宮の祭礼の人出から付近の永代橋が崩落した事件と、文政三年(1820)に起きた深川の芸者殺しの事件を題材にしている。歌舞伎の筋は、木更津の親分赤間源左衛門が、妾のお富と間男の与三郎が海に身を投げてしまう派目になり、憂さを晴らすために子分をつれて鎌倉(実際は江戸)化粧坂の仲町に遊びに来る。野花屋の抱えである「新藁おみよ」がお富と瓜二つなのに惚れこんだ源左衛門はおみよに付きまとう。そこへ越後の縮緬商人「新助」が源左衛門に誤って突き当たる。怒った赤間たちは新助をなぶりものにしようとするが、来かかったおみよのとりなしで新助は助けられる。一人になったおみよは愛人の「新三郎」と逢瀬を楽しむが、源左衛門に見咎められ、二の腕に彫った「新」の字から情人の名を言えと迫られる。そこへ最前の新助が出てその字は私の一字だと言っておみよの危難を救う。源左衛門は腹立ち紛れに新助の額を煙管で割り立ち去る。
 はじめ親切心からおみよの恋人だと嘘をついた新助だが、おみよに恋心を抱く。花水橋(実際は江戸の永代橋)で、鳶の者と赤間の子分が大喧嘩をする。丁度祭りの時分で人出が多く、橋の上は大混乱となる。ついに欄干が壊れ、おみよと大勢の人が稲瀬川(実際は大川)に落ちる。川に落ちたおみよを救ったのは偶たまたま小舟で通りかかった新助であった。だれもいない小舟の中、新助はおみよに恋心を打ち明ける。困惑したおみよは、新三郎が求める宝物の香炉が手に入って仕官がかなった上で新助と夫婦になろうとその場しのぎの嘘を言うが、新助は本当の事と思いこむ。新三郎の許嫁おきしの兄で剣術の師匠の小天狗正作から「先日の橋の喧嘩の際に香炉の質手形を拾った。お前にはおみよといういい女がいるので妹おきしは悲観して尼になった。香炉請け出しの金子をそえて手形をお前に渡すのでこれを破談の証文にする。香炉をもって主君の元に帰れ」と諭される。新三郎はおみよの元に来て、「お前との関係もこれまで、新助と言う男がいるのだから身を引く」と心ならずも縁を切る。自棄酒をあおるおみよのもとに、新助がいそいそと縮屋の仲間を連れて香炉の代金を工面してやって来るが、おみよは酔いも手伝って新助を冷たくあしらい愛想づかしをする。満座の中で恥をかいた新助は悔し涙を流しながら帰る。おみよは野花屋の女房お露から新三郎の書置きを見せられはじめて事の真相を知り、新助に詫びの手紙を書く。ところが妖刀村正を買った新助は、刀を手にした途端、狂い出しておみよを殺しに駆け出していく。おみよは赤間の子分に捕まり駕籠で拉致されるが、新助につかまりなぶり殺しにされる。その時おみよが持っていたお守りを見て「おっ、これは正しく菅谷のお不動様、おみよは幼い時に生き別れた私の実の妹だったのか!」と絶句する。殺人鬼と化した新助は通りかかった縮屋の仲間達をも手にかける。
 その後、新助は正気にもどるが、申し分けなさに自害して果てる。
 菅谷不動尊、菅谷寺は新発田市から荒川へ抜ける290号線にある。源頼朝の叔父君護念上人(源慈応)の創建。比叡山で修行中の護念上人が、平家の圧力から比叡山を下りる際、日頃より帰依していた不動明王の「御頭」のみを笈に納め、諸国を巡錫したのち、文治元年(1185年)に仏縁有って菅谷に一宇を建立したのが寺の開山。
 江戸時代には眼病に功があると言われ全国にその名前が知れ渡っていた。
 「越後のちぢみ」小千谷市 西脇新次郎著 S45.11.25刊行 (財)綾玄社刊行 500部刊行 には次のように書かれています。
 5代目新次郎(新助)慶応3年(1867)11.20.享年64才 この歌舞伎の初演時彼は57才だった。当時縮は江戸で大人気で縮商人は御本丸内所、役者衆から裏長屋まで広く売って歩いた。新助が遊里や劇場などでお得意客をもち黙阿弥、小団次とも懇意で小団次が新助をモデルにして歌舞伎の演目を書いてくれと黙阿弥に頼んで出来上がったのが八幡祭小望賑だった。役者の着る着物の紋は西脇家の西のマークが使われている。台詞の中で「ちとも早く国へ帰ってラッポン小路へでも行きたいものだ」は新潟古町14番町の遊郭ダッポン小路とのことです。
 鎌倉室町時代には苧麻(からむし)で作られた越後上布、越後白布があきない物として普及し、江戸時代に織り方や糸の撚り方に工夫が施された越後縮は明和・安永(1764〜80)の全盛時代には年産20万反にも達し米と共に越後の経済の双璧だったとのことです。
 拙家は十日町市で昔から機屋をやっており西脇家と付き合いがあったので、その縁で豪華な歴史的価値がある本書が手元にありますが、医師会に貰っていただけることになり本文を投稿いたします。本書には実物の貴重な縮み布が多数貼付されております。ご覧頂ければ幸いに存じます。

追伸:本県由来の歌舞伎と信じられていた有名な演目があることを知っている人はもう私だけだと思うのでお話します。父から聞いた話ですが、昔、十日町の大店佐渡屋(関口家)の手代三次が江戸に商いに行き、吉原の遊女お紺となじみになったが、お紺の本意は嘘だったことが分かり、がっかりして帰る際に玄関口で預けていた刀を受け取ったらそれが偽物とすり替えられていたことに気づき、「俺の刀を返せ」といいながら女中の肩を鞘で叩いた所、鞘が割れて女中が怪我をする。そこから騒動が始まり三次は次々と8人を切ってしまった。三次は捕らえられ打ち首になって、遺骨が縄を打たれた篭に載せられて十日町に戻されたと言うのです。だから『伊勢音頭恋寝刃』(いせおんどこいのねたば)は通称『伊勢音頭』となっていますが、十日町では通称「お紺三次の八反切り」と言われていたとの事です。この事件は十日町の恥だから絶対にこの歌舞伎は見てはならないとされていましたが、禁じられると更に見たくなるのが人の性で、近くの町でこの歌舞伎の公演が行われると、こっそりと見物して三次の不幸な出来事をひそひそ語り合ったそうです。実際に三次という人がいて、そんな大事件をおこしたのかすら今となっては不明で、この話は十日町の人も知りません。しかし、私は多分実際にこの事件と似たような事件があったと思うのです。もしなかったなら、十日町の人がこの歌舞伎に「お紺三次の八反切り」の通称をつけるまでして呼ぶことはしなかったでしょう。もしこの話が実話だったとしたら、三次のやったことは罪悪であっても一大スペクタクルで史実として残す価値が十分あると思います。
 この歌舞伎の題材は、油屋騒動(あぶらやそうどう)で、寛政8年5月4日(1796年6月9日)夜、日本三大遊郭の一つといわれた伊勢古市の妓楼油屋で、医師の孫福斎(まごふくいつき)が酒に酔って、仲居をはじめ数人を殺傷した事件です。この事件を題材にして、近松徳三が『伊勢音頭恋寝刃』をつくりました。事の真相は、孫福斎が日本三大遊郭・伊勢古市の中でも大店の油屋に立ち寄った。斎の相方になったお紺は途中で呼ばれて他の客の部屋に移ってしまう。お紺に侮辱されたと感じて彼は憤るが、なんとかなだめられて帰ろうとするが、玄関口で脇差を返されると、いきなり下女の一人に切りつけ、ついで下男にも切りかかった。狂乱状態に陥った斎はお紺を探して部屋に駆け戻り、目の前に現れた者を次々と切りつけた。
 お紺はなんとか無事に逃げたが、結局死者2名、負傷者7名を出す大事件となった。逃げ切れないと覚った斎は、5月14日に自刃して果てた。
 この事件は伊勢参りに来た参拝客によって瞬く間に日本中に知れ渡り、有名になったお紺を見ようとする客で油屋は大繁盛したという。同作は現在でもたびたび上演される人気の演目です。ご覧の際には私の話を想い出してください。

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これでも女子旅です  風間絵里菜(長岡中央綜合病院)

 暦の上では秋となりましたが、日中はいまだ暑さが残ります今日この頃、皆様いかがお過ごしでしょうか。
 私は現在、魚沼病院で地域医療研修をしております。長岡中央綜合病院研修医室の喧騒から逃れて、静かな山中で筆を執りたいと思う反面、あの賑やかさが懐かしく、いわばホームシックならぬホスピタルシックに陥っております。今回は中でも最も騒がしいと言える、同期四人の金沢女子旅行の珍道中をレポートしたいと思います。
 最近流行りの「女子旅」なるものですが、私たち四人はそんな優雅な響きからは程遠く……朝早いにも関わらず全員がお化粧をして集まれたことに「全員のおめかし顔が揃うのは久しぶりだね」と記念撮影を行い、出発しました。順番に運転しながらも、車内は同期や後輩の話、救急外来で困った症例の話、映画など趣味の話、最近見つけたお店の話……話題は尽きることがなく延々と流れていき、金沢に到着するころには喋り疲れの色が。出発前、計画しているところに居合わせた後輩に「その四人だと、車内のデシベルは凄そうですね」と笑顔でいわれたことを思い返し、ひとり苦笑してしまいました。
 金沢の魅力を三つあげるとすると、誰しもそのうちの一つに兼六園を選ぶのではないでしょうか。日本三名園の一つである兼六園は、中国洛陽の名園である湖園にならって、宏大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望の六つを兼ね備えるように整備された名園ということが名前の由来となっているそうです。六つすべてを感じ取ることは難しそうだと笑い合っていた私たちも、自然の土地の高低を利用した園内を登りつめると現れた、霞が池と徽軫灯籠の成す初夏の風景には目も心も奪われました。兼六園と言えば雪吊が美しいと聞きますが、次は冬の六勝を堪能したいものです。
 私たちの金沢満喫ポイント二つ目は、食事でした。普段は医局のカップラーメンや、実家が農家の同期が持ってきてくれる果物で飢えを凌いでいる私たちですが、加賀野菜のコース料理、お麸料理、加賀おでん、朝の近江町市場で食べる海鮮丼……どれも外せない料理たちが、私たちの食いしん坊心を満たしてくれました。特にお麸料理は、さすがは金沢の名産品だけあって、色とりどりの美しいお麸、珍しいお麸が、金沢郷土料理の治部煮やつくね、お寿司、お饅頭と姿形を変えて盛り付けられており、味も格別なものでした。
 三つ目は……三つと言いましたが、古い街並みを残す茶屋街は勿論のこと、金沢市が行っているレンタサイクルの「まちのり」も便利、日本唯一の、車で海岸を走行できる千里浜なぎさドライブウェイも絶景でどれも甲乙つけがたい……。後者は車窓からさえぎるものが何もない水平線を見つつ、波打ち際を走行することができ、爽快感がたまりませんでした。
 こうして、「金沢の土を踏みたい」といったところからスタートした私たちの旅は、金沢に到着したところで目標の8割を達成してしまいましたが、それ以上に、ややもすると単なる「仕事仲間」で終わってしまう同期と、それ以上の友情を育みたいといった欲求はこの一年半、私の根底に流れ続けてきたようで、旅から帰ってきてからも満たされることはありませんでした。友情を旅路に例えるとしたら、私たちはほんの出発地点にいるのだろうな、と思いを巡らせつつ、その旅は終わることがないといいなあと思っています。
 長岡中央綜合病院の研修医は総勢17名、成功談も失敗談も分かち合える、気の置けない仲間たちです。一泊二日の研修医旅行の他にも、長岡花火を見たり、誕生日を一緒に祝ったり、スノーボード合宿へ出かけたりと、プライベートの時間まではみ出しつつ、それが窮屈ではない、とても良いバランスで、性別関係なく、友好を深めてこれたのではないかと思います。残念ながら来年度以降は新潟を離れる者もおり、これからは各々が志した道へ歩を進めて参りますが、皆が新たな道で、仕事仲間という枠を超えた友情をまた見つけていけたらいいなと思いつつ……私のことも忘れないでねと思いつつ……次に会った時には、少し立派になったお互いと、また、かしまし旅行ができるといいなあと思いつつ、今後も自己研鑽していきたいと思います。
 加賀百万石と言われた歴史も由緒もある土地ですが、私の文才がないからか、私たちの旅行に人様に晒せる情緒が足りないからか、拙稿となってしまいました。最後までお読みいただいた諸先生方におかれましては、今後の成長を暖かく見守っていただくとともに、ご指導とご鞭撻のほど、何卒よろしくお願い致します。

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自由・平等・友愛と“ベルサイユのばら”〜その2  福本一朗(長岡技術科学大学)

〔ベルサイユのばら:オスカル編のあらすじ〕
 ブルボン王家の楯となって来た貴族のジャルジュ将軍は、娘ばかり5人しか授からなかったため軍人とすべき男子誕生を諦めた。そのため六女をヘブライ語で「神と剣」を意味するオスカルと名付け、女でありながら男として育てた。一方幼くして両親を亡くした同い年のアンドレは、オスカルの乳母をつとめる祖母のマロン・グラッセに引き取られてジャルジェ家へ迎えられ、オスカルの世話役を仰せつかり、それ以来片時も傍を離れず影となって支える。彼はいつしかオスカルを親友から一人の女性として愛するようになるが、アンドレは貴族を憎む志士ベルナールの刃からオスカルをかばって目を怪我して以来、段々と目が見えなくなってしまう。

「オスカル……俺とお前はふたご座のカストルとポルックスのようにずっと一緒に育ってきた。そしてお前を護ることが俺の役目になっていた。オスカル……オスカル……この名前を口にすると俺の心になにか熱いものが込み上げるようになったのはいつのころからだろう……お前に初めて逢ったあの時からだ。あの時も今日と同じように明るい太陽が優しく照り輝き、庭には野薔薇が咲き乱れていた……あの時のお前は天使のように美しく神々しかった。俺は一目でお前を忘れられなくなってしまった……オスカル……オスカル……俺は生命を懸けてお前を護るぞ……それが俺の愛の証なのだから……」(アンドレ独唱“心の人オスカル”)『青い瞳のその姿/ペガサスの翼にも似て/我が心ふるわす/ああ忘れじの君/天に呼べど/君は答えず/ああ忘れじの君/天に呼べど/君は答えず』(第一幕第4場カーテン舞台)

 オスカルに命を助けられたベルナールからフランス国民の96%を占める平民の困窮を聞かされたオスカルは、王宮守護の近衛隊から国民を守る軍隊である衛兵隊への転属を自ら志願し、隊長を務めることになる。最初は隊員の誰もが、「女貴族の上官には従えない」と反発していたが、オスカルの博愛精神と純粋な心に、いつしか結束が固まっていく。「私は衛兵隊の諸君にこう言ったことがあります。どんな人間でも、人間である限り誰の所有物にもならない心の自由を持っていると……しかし……それは間違っていました。いや、問違いというのが適当でなかったら言い直しましょう……自由であるべきは心のみにあらず!人間はその指先一本、髪の毛の一本にいたるまで全て神の下に平等であり、自由であるべきなのです。そんな大切な平等が侵されている……そのことが問題なのです……こんなフランスの現状に眼を背けてきた我々の責任なのです……」(第一幕第9場)

 アンドレは、オスカルとオスカルのかつての部下で貴族の将校ジェローデルとの結婚話にショックを受け、オスカルを殺してでも永遠に自分のものにしようとするが、毒殺寸前で思いとどまり、今までの自分の想いを告げる。最初はとまどったオスカルだが、そのうちに自分の中のアンドレへの想いに気づきはじめる。「オスカルが結婚。そんな莫迦な……嫌だ!誰がオスカルを渡すものか!オスカルをほかの男に渡すくらいなら、このアンドレがオスカルをもらう。例えオスカルを殺してでも……」アンドレ独唱“白ばらの人”『朝風にゆれる後れ毛見せながら/凛々しい姿遠ざかる/なぜか憂いの影秘めて/忘れ得ぬ人と恋慕う/白い面影美しく/オスカル,オスカル/君は心の白ばらか』(第二幕第2場カーテン舞台)

 パリ出動前夜、オスカルはアンドレに自らの思いを吐露し、二人はついに結ばれる。「アンドレ、お前は私が好きか?」「好きだ」「愛しているか?」「愛しているとも……」「私の存在など、巨大な歴史の歯車の前には無に等しい。誰かに縋りたい。誰かに支えられたいと……そんな心の甘えをいつも自分に許している人間だ。それでも愛してくれるか?私だけを一生愛し抜くと誓うか……」「誓う!誓うとも!」「アンドレ……」「千の誓いがほしいか。万の誓いがいるのか!命を懸けた言葉をもう一度言えと言うのか。俺の言葉はただ一つ、愛している。愛しているとも……」「アンドレ……私を抱け……今宵一夜、アンドレ・グランディエの妻に……」「オスカル……」「私はアンドレ・グランディエの妻と呼ばれたいのです……何年もただ私のことを思い続けてくれたあなたの妻に……」「ああ見果てぬ夢よ。永遠に凍りつき、セピア色の化石ともなれ……俺は今日まで生きていて良かった……」(第二幕9場)

 そんな中、フランス国内の情勢は急速に悪くなっていった。貧富の差が拡大し、平民の不満は頂点に達し、いつ貴族と平民が血と血で争うことになっても、おかしくない状況となっていく。ついにオスカルは、衛兵隊の指揮官として、パリ出動の先陣に立つことになる。「さらば諸々の古きくびきよ!さらば二度と帰らない私の青春よ!」「愚かな!歴史を作るのはただ一人の英雄でも、将軍でもない!君たち人民なのだぞ!諸君!かつてアメリカが自らの手でイギリスから独立を勝ち取ったように、今我がフランス人民は自由と平等と友愛を旗印に雄々しくも立ち上がった。動くな!たった今から私は女伯爵の称号と私に与えられた伯爵領の全てを捨てよう。さあ、諸君、選びたまえ。国王の、貴族の道具として民衆に銃を向けるか、自由な市民として民衆と共にこの輝かしい偉業に参加するか!」(第二幕第12場)

 しかしアンドレは目が不自由なためにセーヌ河畔の橋上で、オスカルの身を案じながら銃弾に倒れる。翌7月14日悲しみを振り切り、気丈にも衛兵隊を率いてバスティーユに向かうオスカル。平民が絶対王政の象徴だったバスティーユ監獄を攻撃した日、オスカルは弱き者の力になる平民の盾となって貴族の部隊と戦うのだった。「(悲しみを振り切り毅然として)シトワイヤン!彼の犠牲を無にしてはならない!我らは最後まで戦うのだ!自由と平等と友愛のために!シトワイヤン!まず手始めにバスティーユを攻撃しよう。あそこには君たちの同志が捕らわれている。彼らを救うために我らの力を示すのだ!シトワイヤン!行こう!」(Fig.3)

 激戦の中、銃弾に倒れたオスカルは「バスティーユに白旗が!」と叫ぶ部下アランの言葉を妹同然の娘ロザリーの腕の中で聞く。フランス革命がなされたその瞬間に生涯の幕を閉じるのだった。そのとき天が開け、白馬の馬車に乗ったアンドレがオスカルに呼びかけ、駆け寄った二人は強く抱きあう。二人の愛のデュエット『愛それは甘く/愛それは強く/愛それは尊く/愛それは気高く/愛・愛・愛』(第二幕第14場)

 15本の大劇場公演・本の新人公演・9本のツアー公演の全てを鑑賞した訳ではないので、公演の比較採点をすることははばかられるが、あえてお許しをいただき個人的な感想を述べさせていただくとする。1974〜1975年ベルばら草創期(昭和ベルばら)の榛名由梨・安奈淳・汀夏子による何もないところからの手探りの努力は尊敬に値するものであった。1989〜1991年(平成初期ベルばら)では一路真輝と涼風真世の歌唱力が最高であった。2001〜2006年(平成後期ベルばら)では歌唱では安蘭けいが、舞踏では朝海ひかるが抜群であった。そして2013年(創立百周年ベルばら)では1〜3月の月組(オスカルとアンドレ編)以外に、4〜7月の雪組(フェルゼン編)が予定されている。これまでの本公演を総合的に評価してみると、2006年雪組公演(オスカル=朝海ひかる・アンドレ=貴城けたかしろい)と2013年月組公演(オスカル=龍真咲・アンドレ=明日海りお)が、歌唱力・舞踏・演技全てにおいて優劣つけがたくともに優れていると思われる。特に明日海ひかるのサーベルダンスはリズム・切れともに秀逸であり、龍真咲は全公演の中で最も美しい少女の面影を見せたオスカルであり、これまでになく、恋する女の一途さと弱さを一番よく演出して新境地をひらいたと言えよう。なおその月組公演の中では主演以外の生徒さんの中にも素晴らしい方が沢山おられるが、中でもオスカル衛兵隊長の部下の姉で共にバスティーユ襲撃に立ち上がるパリジェンヌのカトリーヌを演じた萌花ゆりあの気高さもえかとダンスの優美さが注目された(Fig.4)。(続く)

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映画の街、長岡  岸 裕(岸内科・消化器科医院)

 所用で柏市に出かけた折にタクシーに乗った。「お客さん、どちらから?」「長岡から」と言うと地の果ての様に遠くから来たように「それはまた、遠くから!新潟には一回、上越に謙信公のお祭りを見に行ったことがあります。うちは家内も娘もガクトの大ファンで私はそんなに良いと思ってなかったんですがNHKの『天地人』を見てからは私も好きになりました。でもその先、長岡や新潟までは行った事ないな。」と楽しそうに話すので「上越市の謙信公祭は今年もガクトさんが謙信役で出演し好評でした。長岡祭りでは花火が有名で“天地人”という花火があって大河ドラマのテーマ曲に合わせて夜空いっぱいに花火が打ち上げられる。他にも復興祈願花火『フェニックス大花火』なども」とお国自慢をしてきた。
 そう、花火と言えば大林宣彦監督の映画『この空の花』がまたT・ジョイ長岡で上映されます。“新潟県ロケ地映画祭 in T・ジョイ長岡”が 2013.9.14(土)〜9.23(月) まで開催されるのです。『この空の花』の他、『月曜日のルカ』、『図書館戦争』、『山本五十六』、『ゆめのかよいじ』などが一律千円でみる事ができます。また映画祭作品対象外ですが『飛べ!ダコタ』の先行上映や、小出出身の渡辺謙が主演した『許されざるもの』が並行上映されます。(こちらは通常料金です。当方が本文を書いているのは映画祭のちょっと前なのですが、本文が“ぼん・じゅ〜る”掲載される10月には終わってしまっています。スミマセン。でもこういった情報は時々“市のお知らせ”などに載っています。)
 こうして見ると長岡を舞台にした作品に名作があるなあと嬉しくなります。実は『ゆめのかよいじ』の五藤監督は長岡市十日町のご出身です。映画には“ゆめ”があります。過去や未来、人間と自然の間を自由に行き来できる。
 「でも、長岡が舞台といっても、どうせ山古志や栃尾のひなびた山の中が多いのでしょう。」とお考えのあなた。違います。実はこの間、当医院にも映画のロケ隊がやってきたのです。(当医院も相当ひなびた所にある事はあるのですが。)
 その日、朝9時から診療を開始してちょっとすると「□×○▽▽−!」という裂帛の気合のこもった怒鳴り声。カシャーンとガラスの割れる音。普段なら何事か、と表へ飛び出す所だが、予めロケの連絡を受けている。始まったな。さすが俳優さん。この辺の人間では本気で夫婦喧嘩をやらかしてもこれ程の迫力ある怒声は出せない、と感心しつつ待合室を覗くと道に面した出窓には患者さん達(主におじいちゃん、お婆ちゃん達)の頭が鈴なり。道を挟んだ向いのお宅でロケをしている。
 監督は五藤監督の後輩にあたる若い監督さん。数日前に回覧板が廻り、おらが町に撮影隊がやって来る、若いスタッフ達は(極力経費削減のため)我が十日町コミュニティーセンターや隣町の町内会館に一週間位寝泊りする、ということで、若い撮影スタッフの為に、と地元の美味しい米や野菜の差し入れやらで町内はかつてない活気に満ちたのです。
 また当日の昼頃に岡南中からは校長先生自ら生徒さんを引率し撮影の見学に来られたり、夕方には十日町小の子供達が大勢集まって来ました。
 そんな訳で普段は静かな当医院の周辺も朝からなにやら騒がしく、我が家の愛犬“ちび”も朝から興奮しまくり。その夜はぐったり寝込んでいたのでした。おつかれさま。
 そしてロケ隊の皆様。これからも頑張って下さい。夢に向って。

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