長岡市医師会たより No.403 2013.10


もくじ

 表紙写真 「憩い(スジボソヤマキチョウ)」 廣田雅行(長岡赤十字病院)
 「長岡へ」 戸谷真紀(石川内科医院)
 「チョウチョ チョウチョ お宿はどこじゃ?」 廣田雅行(長岡赤十字病院)
 「自由・平等・友愛と“ベルサイユのばら”〜その3」 福本一朗(長岡技術科学大学)
 「英語はおもしろい〜その33」 須藤寛人(長岡西病院)
 「松島湾クルーズ」 郡司哲己(長岡中央綜合病院)



「憩い(スジボソヤマキチョウ)」 廣田雅行(長岡赤十字病院)


長岡へ  戸谷真紀(石川内科医院)

 父の診療所をしばらく手伝っておりましたが、昨年10月に診療所を引き継ぎ、なんとか1年を迎えることができました。これまで医師会、診療所、地域の皆様に助けていただいたお蔭と、感謝いたしております。現在は父と二人交代で診療を行っており、いろいろと指導をしてもらえるありがたい環境ですが、それでも院長業は医業とはまったく違い、わからないことばかりで、毎日あたふたとしている間に1年経っていたというのが正直な感想です。そんな1年でしたが、私は以前より地域のホームドクターとして患者さんやその家族と関わっていきたいと思っておりましたので、今の診療所の仕事を楽しんでおります。
 私は長岡生まれの長岡育ちですが、私の実家の家族はもともと長岡出身ではないため、両親も兄弟も長岡弁を話すことはなく、私はほぼ標準語の中で育ちました。そんな環境にも関わらず、友達の影響からか、私は家の中でただ一人、長岡弁のネイティブスピーカーとして「○○がー」を連発しておりました。ですが、進学で市外の高校、県外の大学に進み、その後新潟大学の医局に在籍していたため、長岡以外での生活の方が長くなり、残念ながら長岡弁は私の中で封印されておりました。そんな中、仕事を機に昨年4月に新潟から長岡に転居をし、再びどっぷり長岡生活に浸ることになりました。以前は特に何も感じなかった故郷も、年齢を重ねたせいか、やっぱり居心地がよく、長岡の町や人のあたたかさを感じます。そしてやっぱり長岡弁がいい!なんだかとっても落ち着くのです。私も長岡弁で一緒におしゃべりをした〜いとネイティブの血が騒ぎ始めました。ところが残念なことに、錆びついた長岡弁はなかなか流暢に出てこず、ちょっとさみしい感じなのです。仕方がないので患者さんなどが話す長岡弁を楽しく聞かせていただいてニコニコしていますが、それはそれでとてもいい感じです。ときどき私も「そいが〜」などと合いの手をいれさせてもらっています。
 そんなのどかな長岡生活も楽しんでばかりはいられず、やはり冬は大変でした。毎日雪がどの位ふるのか気になってしかたがないし、出勤前と帰宅後の自宅の除雪と診療所の除雪のため、筋肉痛で両腕が上がりませんでした。私の除雪の仕方は、最初の頃は車が出入りできればいいやという程度で、お世辞にも上手とはいえませんでした。しかし、自宅周辺の皆さんは朝早くからきれいに除雪され、特にお向かいの方が非常に美しく除雪をされる方で、うちの汚い除雪が特に目立っていました。これはいけないと思い、何とか私も美しく除雪したいといろいろと試行錯誤し、だんだんと要領がわかってくると、もっときれいにしてやるぞとむきになってきて、自分でもおかしくなってしまいました。ようやく少しずつ上手にはなってきたもののまだまだ修行が必要で、今年もまた頑張りたいと決意を新たにしております。
 そして冬は除雪だけでなく、屋根の雪下ろしも頭の痛い問題でした。雪が降り続くと毎日屋根を見上げ、まだ大丈夫か、いやそろそろなのかと気をもんでおりました。そしてやるにしてもいったい誰がやるのか。関東出身の我が家の主人では、きっと使い物にならないだろうと深いため息ばかりでした。幸い昨年は大雪のあとにはお天気が続き、屋根の雪が解けたので雪下ろしをしなくても済みましたが、今年はどうなることやら今から心配です。
 こんな感じで、ずっと長岡に暮らしていると当たり前と思ってきたことも、久しぶりに帰ってきてみるととても新鮮でした。楽しいことも憂鬱なこともある長岡生活ですが、夏にはすばらしい大花火を鑑賞することもでき、本当に住んでよかったと思っています。これからも長岡を愛し続け、地域の皆様のお役に立つことができればと思っております。今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。

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チョウチョ チョウチョ お宿はどこじゃ?  廣田雅行(長岡赤十字病院)

 良く晴れた秋の一日、里山歩きの初めを彩ってくれたのがこの「スジボソヤマキチョウ」でした。まるで色紙を切り抜いたような羽の形、花の間をフワフワと羽ばたく様、本当に「てふてふ」と言うに相応しいものでした。表紙の一枚はその時の物です。(表紙、及び写真1)
 この蝶はシロチョウ科で、「ヤマキチョウ」と同一の属をなすものです。ヤマキチョウは、岩手、青森、長野等の県の一部で見られる。とは言うものの絶滅危惧種とされている蝶です。其れに比べると、このスジボソヤマキチョウは、一応本州、四国に比較的広く分布し、絶滅危惧種と迄はされていません。とは言うものの産地の開発等で減って来ている事は確かな様です。この2種類の蝶は、羽の脈の「太い、細い」で区別されていますが、一寸見では中々区別は難しい物が有る様に思います。このチョウ達は年に1回だけ、7月頃に羽化し、生まれた蝶は夏の暑い時期は仮眠して過ごし、9月頃から又、顔を出すとされています。成虫で越冬、春に産卵します。他のシロチョウ科の様に多数回の発生はしません。ヤマキチョウの方がやや大きく、強そうに思われますが、先程書きましたその「分布」で明らかな様に、「種」としての強さはスジボソヤマキチョウが勝っています。又、この2種の大きな違いが、その越冬後の姿に現れています。写真2はスジボソヤマキチョウの越冬後の春先の姿ですが、見るも哀れな程にボロボロになり、羽には「染み」迄付いてしまっています。写真は有りませんが、他方のヤマキチョウの方は殆ど汚れも無く綺麗なままと言う事です。この差は越冬する時の場所の問題だろうとされています。ヤマキチョウが乾燥した場所で越冬するのに対して、このスジボソヤマキチョウは比較的湿気の強い場所、例えば落ち葉の陰とか、木の虚等の様な所で越冬する為では無いかとされていますが、はっきりした所は分かっていないようです。一体どんな所でどうやって過ごしたら、あれ程綺麗だった羽があんな風に成ってしまうのでしょうかネェ。と言う事で、これが今回の「お題」でした。

 閑話休題、その日の里山歩きの収穫はスジボソヤマキチョウとヒョウモンチョウの他、数種類を撮影する事ができて、マアマアと言った所でした。
 最後に蛇足を一つ、英語で「飛ぶ物」を示す「Fly」、例えば「トンボ」は「Dragonfly」で「龍の様に飛ぶ」、又、「蛍」は「Firefly」、「燃えて飛ぶ」ですよね。では「蝶々」を意味するのは「Butterfly」ですが、これは「Butter Fly」から来ていて、この「ヤマキチョウ」の羽を、「バターのような羽」とした所から来ているとされているようです。因みにこれはウィキペディアからの引用です。ア〜「英語って面白い」って……あれれ〜どこかで聞いたような?。
 さて、秋は「ウラギンシジミ」の光る季節、お天気の良い休日を念じながら、今夜は虫の音をバックグラウンドミュージックにして、一寸一杯やりましょうかね。では皆様何れ又。

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自由・平等・友愛と“ベルサイユのばら”〜その3  福本一朗(長岡技術科学大学)

2.フランス革命と自由・平等・博愛
 「ベルサイユのばら」登場人物のうち、男装の麗人オスカルとその恋人アンドレは、シェークスピアの「十二夜」のヴァイオラ、あるいは手塚治虫の「リポンの騎士(1953)」のサファイア(Fig.5)からの着想と思われるが、マリー・アントワネットやフェルゼン伯は実在の人物である。「ベルサイユのばら」原作者の池田理代子は東京教育大学哲学科および東京音大出身であるため、その背景となったフランス革命(Révolution française)については十分に調査・考察されている。
 18世紀のヨーロッパ各国では、自然権や平等・社会契約説・人民主権論など理性による人間の解放を唱える啓蒙思想が広まっていた。責任内閣制を成立させ産業革命が起こりつつあったイギリス、自由平等を掲げ独立を達成したアメリカ合衆国は、他国に先駆けて近代国家への道を歩んでいた。プロイセンやロシアでも、絶対君主制の枠を超えるものではなかったものの、政治に啓蒙思想を実践しようとした啓蒙専制君主が現れた。しかしフランスでは18世紀後半に至っても、君主主権が唱えられブルボン王朝による絶対君主制の支配(アンシャン・レジーム)が続いていた。アンシャン・レジーム下では、国民は三つの身分に分けられており、第一身分である聖職者が14万人、第二身分である貴族が40万人、第三身分である平民が2600万人いた。第一身分と第二身分には年金支給と免税特権が認められていた。一方でアンシャン・レジームに対する批判も、ヴォルテールやルソーといった啓蒙思想家を中心に高まっていた。自由と平等を謳ったアメリカ独立宣言もアンシャン・レジーム批判に大きな影響を与えた。
 1787年王権に対する貴族の反抗で始まった擾乱は、1789年7月14日のバスティーユ襲撃を契機としてフランス全土に騒乱が発生し、第三身分(平民)による国民議会(憲法制定国民議会)が発足、革命の進展とともに王政と封建制度は崩壊した。絶対王政が倒れたのち、フランスは立憲王政から共和制へと展開する。革命の波及を恐れるヨーロッパ各国の君主たちはこれに干渉し、それに反発した革命政府との間でフランス革命戦争が勃発した。フランス国内でも、カトリック教会制度の破壊などキリスト教の迫害、ルイ16世と王妃マリー・アントワネットをはじめとするギロチン処刑の嵐、ヴァンデの反乱を始めとする内乱、ジャコバン派による恐怖政治、繰り返されるクーデター、そしてそれに伴う大量殺戮などによって混乱を極めた(Fig.6)。
 革命は1794年のテルミドールのクーデターによるジャコバン派の粛清によって転換点を迎え、1799年のブリュメール18日のクーデターでナポレオン・ボナパルトによる政権掌握と帝政樹立に至る。1787年の貴族の反抗からナポレオンによるクーデターまでが一般に革命期とされている。革命に端を発するこうした混乱の最終的な決着は、フランスがアメリカの民主政治に学んだ第三共和政の成立を待たねばならず、革命勃発より余年を要した。(続く)

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英語はおもしろい〜その33   須藤寛人(長岡西病院)

ameliorate 寛解させる
 今回は、痛み、症状、病状、臨床経過などが「軽快する、寛解する、回復する」など「良くなる」という意味の英語に言及したい。 ameliorate は他動詞で「(環境などを)改善する、(品種などを)改良する」、自動詞は「(状況などが)良くなる、向上する、改善する」で、to make or become better の意味である(goo辞典)。ライフサイエンス辞典では、医療的な訳、「寛解させる、回復させる」を当て、"be ameliorated by" は「……によって回復する」とある。先回書いた deteriorate の反対語と言える。
 Merriam-Webster 大辞典では、ameliorate の説明は二行で終わり、同義語として improve の一語を挙げている。The cough was ameliorated.(咳は軽減した)、The agents are thought to ameliorate autoimmune states. の例文が示されているように、ameliorate は医師には大変良く使われる英語と言えよう。
 語源についてみると、元々は L. melior = better「より良い」からで、これが(古フ)meiller となり、そこに "a" が付き、(フ)ameliorer となり、これが英語に入り ameliorate になったようだ。「ameliorate は meliorate の alteration(変化したもの)」とあるので、二つの意味は同じと考えて良いようだ。私は今回初めて "meliorate" という単語があることを知ったが、南山堂の医学英和辞典などに amelioration「回復、改善、軽減」はあるが、melioration は見あたらず、Dorland's medical dictionary にも meliorate や melioration の項は無く、医学的な使用は無いであろうと判断された。
 共起検索の例文には、"Amphetamine ameliorated recognition memory defects."、"NaB ameliorated clinical symptoms and disease progression"、"…… ameliorate kidney injury"、"…… exacerbate rather than ameliorate" 等があげられている。
 subside は福武英和辞典には、(自)(1)(地面・建物などが)沈下する、陥没する、落ち込む、(2)(洪水の水分などが)引く、(3)(悪天候・騒ぎ・激情などが)静まる、治まるの意味と書かれている。研究社新英和中辞典の和訳でも、ほぼ同様で、あまり医療的な訳語が与えられていない。ライフサイエンス辞書には「鎮静する」の一語でまとめられているが、私はこれを不十分な訳に感じる。昨年発刊された篠塚規訳医学英語活用辞典には「軽減する」、「病気が治まる」(ショックの徴候、発熱などが減少する、より明白でなくなる、または正常に戻る)としている。subside は、以下に共起検索例を示すが、日常の医療行為の会話や文章において、たとえば「激痛が一時的に治まった」時、「症状が改善、寛解した」時、「臨床経過の悪化が落ち着いてきた」時など広く用いられる言葉といえよう。
 M-W大辞典で、語源は(ラ)、subsidere, from sub-sidere to sit down, sink(ラ sedere to sit に近似)とあり、意味は、(1)fall、sink、(2)descend、(3)settle down、ease(痛み、緊張などを和らげる)、(4)として "to fall into a state of quiet …… to become tranquil" とあり、例文として "the fever has subsided"(解熱した)と書かれている。
 例文でみると、三省堂英和大辞典には「(腫れ物が)引く」として、"A small blister subsided in a day."(水ぶくれは一日で引いた)が挙げられている。共起検索の例文の中より臨床的使用例を選別してみると、"symptoms of angina subsided."、"These changes subsided after 48−96h."、"Most of the side effects subsided."、"the inflammation has subsided."、"clinical symptoms have subsided."、などたくさん挙げられている。
 「良くなる」という意味の英語は他に多数あるが、その主なものをみると、他動詞では alleviate「苦痛を和らげる、緩和する」(名詞:alleviation)、palliate(名詞:palliation)、improve(名詞 improvement)、自動詞は diminish、lessen、decrease、relieve、remit(名詞:remission、形容詞r emittentは「病気が良くなったり悪くなったりすること」の意)、re-cover(名詞:recovery)などが挙げられる。これらの語彙間のニュアンスの違いはその場その場で、適切に使い分けていくしかないであろうが、subside や ameliorate を使いこなすことで、医師らしい一段上の英語表現になるように感じる。(続く)

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松島湾クルーズ  郡司哲己(長岡中央綜合病院)

 先月秋分の日、仙台で学会発表でした。このところ家人は、緊急入院から回復中の佐渡の実家の母の介護のため、気疲れしていました。さいわい容態も安定し、ここで気分転換にと家人を誘い、仙台と松島の旅に夫婦で出かけました。行楽季節に観光名所松島の宿泊の直前予約は困難でした。そこで学会会場の仙台市内ホテルに連泊を追加し、日帰りで松島に出かけました。
 朝食後仙台から東北本線で一時間、松島海岸駅に到着。伊達政宗の菩提寺の観光客でにぎわう瑞巌寺へ。本堂が修復工事中のため、庫裡、大書院の内部公開でむしろ貴重な本尊等を間近で見学できました。そして松島湾の島々も一望できました。
 帰路は塩竃港への『松島湾クルーズ』に乗船してみました。小一時間で松島湾の島々を巡る、看板脇に別表記のある「定期遊覧船観光」。
 ちなみにわたしたち夫婦がクルーズという言葉ですぐ思い出すのは、「エーゲ海クルーズ」のこと。大学の研究生活の新婚時代(三十数年前)。アテネでの国際学会(自分はポスター参加)に団体旅行。オプションのロードス島観光。このとき「エーゲ海クルーズ」と旅行パンフに!担当旅行社がとんだくわせ者、経費節減の集約場面がここ。豪華でもない客船の甲板にも出歩けない船底の団体部屋での輸送が実態でした。(密航団体の一歩手前状態……)島のリゾートホテルはまずまずゆったりできました。オリーブ油のギリシア料理に食傷後で、ここの塩ゆで海老のマヨネーズ添えのおいしかったこと。帰路は通常船室で海風を浴びられたのはさいわいでした。この事件以来、言語トラウマが「クルーズ」に対してあります。
 さて秋日和の松島海岸の中央桟橋を出港。小一時間で塩竃まで。いろんな形状と名称の島々を海上より眺め(中年の)ガイド嬢の解説。二年前の震災の津波の経験談はまだ生々しく、涙腺が刺激されました。お昼過ぎでのども乾き、船内売店でビールとコーラに笹かまぼことえびせんの小袋を買いました。「これって、カモメに撒いてやるやつじゃないかな?」と首をかしげる家人。「へいきさ、カルビーブランド製品じゃん。他におつまみはこの笹かまぼこだけだったんだ。」と自分はポリポリ、ゴクゴク、本場の笹かまもうまいな、ふむふむ、ゴクゴク。
 到着は塩竃マリンゲート、なんて古都に似つかわしくない名前の港。タクシーで山上の陸奥一宮である伝統ある塩竃神社に参拝。下りは徒歩で塩釜駅まで。塩釜は寿司の本場とのことで、遅い昼食に、旅ガイド本掲載の有名某寿司店をこわごわと訪れました。「めんどくさいし、やっぱり初めての店だから安全策でいこうかね。」などと相談しながらのれんをくぐりました。ガイド本おすすめのセットメニューを注文。味噌汁と手作りシャーベットもついて、おいしくいただけたのと、無難なお会計をふたりで喜びつつ、塩釜駅より電車に乗り、仙台から松島の日帰り小旅行を締めくくりました。
 ちなみに十月に放映のNHK番組「おくのほそ道」で松島の話題。松島は古来名歌が詠まれた歌枕の場所、ここで芭蕉はあえて俳句を詠まなかった(無理に対抗しないでむしろ空白の余韻を策した)とその真意を長谷川櫂が推測していました。芭蕉があまりの絶景に句が浮かばず「松島やああ松島や……」と詠んだ逸話は有名。これは実は虚構、この句は江戸時代後期の狂歌師の田原坊の作というのがネット情報でした。

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