長岡市医師会たより No.404 2013.11


もくじ

 表紙絵 「初雪(栃尾)」 丸岡稔(丸岡医院)
 「弔辞〜岸裕先生を偲んで」 富所隆(長岡中央綜合病院)
 「軍医総監−森林太郎(森鴎外)」 加辺純雄(田宮病院)
 「瀬戸内で現代アートを巡る」 井上千裕(長岡中央綜合病院)
 「英語はおもしろい〜その34」 須藤寛人(長岡西病院)
 「遠来のお客さま」 郡司哲己(長岡中央綜合病院)



「初雪(栃尾)」 丸岡稔(丸岡医院)


弔辞〜岸裕先生を偲んで  富所隆(長岡中央綜合病院)

(※編集部注:11月14日の通夜式において読まれた弔辞を転載させていただきました。)

 本日ここに故岸裕先生のご葬儀にあたり、深く哀悼の意を表し、お別れの言葉を申し上げます。
 先生と初めてお会いしたのは先生が新潟大学第3内科から当院へ赴任された、26年前の春でした。早稲田大学理工学部を卒業し、都内の私鉄に就職。一時、駅の改札で切符きりをしていたという異色の経歴に驚きましたが、先生のとてもほがらかで、おおらかな人柄にすっかり魅了されてしまいました。
 当時、先生のトレードマークは“ふうてんの寅”でした。寅さんの帽子・鞄・背広・せったなどの小道具はもちろんのこと、風貌も寅さんそのもので病棟の宴会は大いに盛り上がったものでした。
 その後先生は寅さんだけでは飽きたらず、病院の大忘年会や納涼会では各種の演芸のプロデュースを手がけられました。平成に入っての忘年会では、先生が一人で脚本・舞台装置・演技指導まですべてこなされ、サンプラザ長岡の戸枝一明先生や当院の吉川明病院長が主役を張り“矢切の渡し”という寸劇を上演されました。このとき小生は渡し船の船頭で、台詞もなく、ひたすら櫓を漕がされていました。でも翌年の“怪獣モスラ”では主役に抜擢してもらい、背中に大きな羽をつけて舞台を飛び回りました。
 でも、先生のエンターテイナーとしての本領が発揮されたのは、長岡市医師会広報誌“ぼん・じゅ〜る”の編集長に就任されたことがきっかけだったと思います。先生の執筆される巻末のエッセイは先生の多彩な趣味の世界や、先生の芸術観、スポーツ論、そして地域のエピソード、先生のご家族の様子など常に楽しくそして微笑ましく読ませていただきました。おかげで、毎月この“ぼん・じゅ〜る”が届くことが楽しみになりました。
 こんな風に先生のことを考えますと、本当に楽しいことばかりが次々と思い出されてきます。でも、このままだと先生が医師だったことをみんなが忘れてしまいそうなので、診療の思い出も少し話しますね。先生は大学で腹部超音波検査の研究をされていました。当院でもその手腕を遺憾なく発揮されて、黄疸の患者さんへの減黄術、肝腫瘍の患者さんの診療を中心に活躍されていました。普段とは違い、こと超音波診断に関してはとっても頑固で、自分の考えを強く主張されておりました。そんなことも懐かしく思い出されます。
 2年前先生から、どうやら肝臓に再発してしまったようだと連絡をいただきました。始めは少し当惑されたような話しぶりでしたが、最後には、きっと克服してみせるという強い気持ちを感じさせてくれました。その後、先生は副作用の強い化学療法や免疫療法を受けておられましたが、そんなことは微塵にも感じさせないで患者さんへの診療に打ち込んでおられたとお聞きしました。
 昨日、奥様から報せをいただき、駆けつけさせていただきましたが、奥様・妹さん・お二人の子供さん、みんなに囲まれて、とっても穏やかな表情をされていたことがとても印象的でした。
 65歳なんて、とても早すぎるお別れです。先生にはもっともっと生きて、ご家族のため、地域の人たちのため、そして私たちのために活躍して欲しかったと願ってやみません。
 岸先生、本当にお疲れ様でした。これからは、天国でゆっくり休んで、コーヒーを片手に、心ゆくまで鉄道模型を走らせてください。
 最後に、永年おつきあいいただいたことを感謝申し上げ、お別れの言葉といたします。
 岸先生、ありがとうございました。安らかにお休みください。 合掌

平成25年11月14日 友人として 富所 隆

目次に戻る


軍医総監−森林太郎(森鴎外)  加辺純雄(田宮病院)

 多くの日本人にとり森鴎外は夏目漱石と並ぶ文豪であり、史伝ジャンルを創造した作家として親しまれてきた。従来から文学に較べ軍医としての評伝は少ない。私は以前『世界に先駆けて脚気を根絶した軍医総監—高木兼寛』を『防衛衛生』(平成10年4月号)に書いたが、高木の学説に徹底的に反対した人物として、森は一種の仇役になっている。若干のズレはあるが、海軍の高木兼寛(慈恵医大創設、日本初の看護婦養成所創設)と陸軍の森林太郎はライバル的存在である。高木について調べて以来、軍医としての森についても興味を持ち、同誌(『防衛衛生』(平成10年8月号))に『軍医総監—森林太郎(森鴎外)』も書いた。
 以前、防衛庁海上幕僚監部首席衛生官だった時、外人に自己紹介する時は Surgeon General(軍医総監)と言えば理解していただいたが、日本人に自己紹介する時にはなかなか理解していただけなかった。漢字を見れば衛生の仕事らしいと思っていただけるが、会話の中で「シュセキエイセイカン」は理解していただけない。日本語としては自衛隊の造語であるため、よほどの自衛隊通でないと理解されないが、英語では世界的通用語のため、外人には理解されるが日本人には理解されないという逆転現象が起こっている。
 そこで日本人にわかってもらうため、旧日本軍の例を引く事にした。森鴎外(明治の文豪、陸軍医務局長、軍医総監)を御存知ですかとたずね、彼が陸軍でやっていた事と同じような仕事を海上自衛隊でやっていると説明した。年配の方ならこれで理解されるが、理解されない場合は具体的に説明した。
 さて森自身の話にもどる。津和野藩で抜群の秀才だった森は年令をごまかして後の東大に入学し、19才8ヶ月というとびぬけた若さで卒業した。明治14年陸軍に入り、3年後ドイツ等に留学し4年学んだ。帰国後、医学においても文学においても活動的で明治24年医学博士をとり、26年には陸軍軍医学校長となった。翌27年、日清戦争中は現場に行き、いくつかの軍医部長を経験し、軍医学校長にもどった。明治30年医務局課長、31年小倉の12師団軍医部長となった。彼は軍医として順調でないと文学的意欲は昂揚しないタイプで、この時期の文学的活動は無い。軍医が本職で文芸は余技であると自分に言い聞かせ、軍内外に示す事が、「文学をやるあまり軍務の手抜きをしている」との批判に対する答であり、軍務にいそしんだ。小説家として弟子をとらず、宴会が嫌いでまっすぐ家に帰る事が多かった。小倉時代にクラウゼヴィッツの戦争論を将校に講義した事が陸軍の大御所山縣有朋の目にとまり、以後好遇を受けるようになった。
 明治35年、第1師団軍医部長、37年日露開戦により第2軍軍医部長として戦地を転戦、凱旋後第1師団軍医部長に復し、軍医学校長兼務となった。明治40年、軍医総監(中将)に昇任、陸軍省医務局長となり、8年以上もその任を保ち得た事は、森の能力とともに山縣の後盾も無視しえない。陸軍における医学的業績は、優秀な衛生官僚としての業績が主である。この時期は作家としての活動もピークとなった。軍医として順調な時、文学的意欲が向上する性格に加え、軍医最高の地位に昇り、まわりに気兼をする事なく、自分の思うように振る舞う事ができた事になる。この時期は文学書の多さに比し、医学関連の著作は非常に少ない。なお明治42年には文学博士の学位を受けている。
 大正5年、予備役に編入、翌年帝室博物館総長、大正8年、帝国美術院長に任ぜられた。森の有名な遺言「……余は石見人森林太郎として死せんと欲す……宮内省陸軍の栄典は絶対に取りやめを請う……」にもかかわらず、大正11年61才での死亡(萎縮腎、肺結核)にあたり、栄典を与えられ、従二位に叙せられた。
 軍人として馬で出勤し、帰宅後は、軍隊用のシャツとズボン下を着て、私的な宴会にも軍服で出席するように、軍服に対する思いを持ち続けた。予備役編入後の文官としての名誉職も小さな事に思えたであろう。さて彼を医師あるいは医学者としてみた場合、臨床家ではなく衛生学者である。医師としてより、軍人としての匂いが強い人物であった。なお作家としては、40年間毎日400字詰原稿用3枚のペースで書き続けた事になる。

目次に戻る


瀬戸内で現代アートを巡る  井上千裕(長岡中央綜合病院)

 おそらく中学生くらいのことだったと思う。青い空、青い海を背景に、埠頭に大きな南瓜がたたずんでいる写真を情報誌で見た。草間彌生作「南瓜」。美しい自然の風景と人工的なアート作品が共存する、その不思議な風景に強く心ひかれた。その情報誌によると、どうも瀬戸内に、島をまるごとアートの島にしたところがあるらしい。いつか行ってみたい、と思いながらも、しばらくその存在を忘れていた。
 今年の8月。研修医になって初めての夏休みの過ごし方を悩んでいた。とりあえず、大好きなディズニーに行ってミラコスタに泊まることは決めているけれど、あとの時間をどうしようか……。たまたま同期の研修医と四国の話になった。そのときに、ふとあの南瓜の写真が頭の中に浮かんだ。これは、と思いウェブで検索したところ、あの島は「直島」ということが分かった。どうも今年は直島をはじめとして豊島、犬島など瀬戸内の島々で瀬戸内国際芸術祭を催しているようだ。これは行くしかないだろう!ということで、夏休みの過ごし方が一気に決まった。
 9月某日。ついにやってきた夏休み。羽田から高松へ飛び、高松港から高速旅客艇に乗り豊島へ。小型電気自動車をレンタルし、まずは豊島美術館へ。車窓から見えるのは、写真で見た様な青い空、青い海。照りつける太陽が肌を焼くが、海から吹くひんやりした風がもう秋なのだと感じさせる。海沿いの道を走り、豊島美術館に到着した。「美術館」という名前はついているものの、作品はひとつだけ。海辺に面した棚田や、海に浮かぶ瀬戸内の島々を眺めながら、白い、なだらかな曲面を描く建築物に着いた。中に入ると、楕円形の大きな窓がふたつ天井に開いており、光が差し込んでいる。床をいくつかの水の塊が、窓から吹き込んだ風に吹かれて、ころころと転がり、みずたまりを作っていく。水がまるで生きているかの様な、不思議な光景だった。豊島では他にもいくつかの作品を鑑賞したが、豊島美術館が最も印象的で、何度もその光景が頭の中をリピートした。
 豊島をあとにした私は直島へ向かった。宿泊場所はベネッセハウス。美術館を併設しており、宿泊中は自由に館内を見ることができる。チェックインを済ませ部屋に向かうとバルコニーから、私の大好きなニキ・ド・サンファルの作品が見えた。夕飯までの少しの時間、外に出て作品を見に行った。色とりどりのサンファルの作品を近くで堪能した後、埠頭に向かうと、あの「南瓜」が見えた。思ったよりも小さく、他の屋外作品と比べると控えめな印象だった。ちょうど日没も近く、他の観光客もまばらだったため、せっかくあこがれの南瓜に出会えたのだから記念にと思い、砂浜にカメラをうずめ、セルフタイマーを利用して一緒に写真を撮った。
 夜は併設している美術館に向かい、解説ツアーに参加した。屋外に展示してある作品もあるため、夜の美術館は表情が違う。夜の学校に入り込んで歩き回る様な、妙な高揚感があった。地下1階に降りると、安田侃の「天秘」という作品があった。展示室側のガラスをのぞいた三方向を打ちっ放しのコンクリートの壁で囲まれて、天井だけが開け放たれている空間に、やさしい丸みをおびた大理石がふたつならんでいる。解説によると、てのひらが太陽の光をうけている様を描いているという。そのてのひらの上に寝そべってみると、星空が見えた。大きなてのひらが空から降ってくる力を受け止めているようで心地よかった。
 翌日、地中美術館へ。安藤忠雄が設計した、建物のほとんどが景観を損ねないよう地中に埋まっているから地中美術館というそうだ。地中という名前からは、内部は相当暗いのだろうと思ってしまうが、照明はほとんど使用せず、自然光で作品が照らされており、空がみえるところもある。建物そのものも作品のひとつに感じられた。
 本村港周辺に移動すると、空き家になった民家を利用した「家プロジェクト」という作品群を巡った。コンセプトも見せ方もそれぞれ異なるが、人の暮らしている民家のなかに紛れ込んでいる。地図を片手に宝探しをするように作品を巡った。
 高松へ戻る船が出る宮浦港へ行くとすでに日が傾いていた。直島銭湯で汗を流し、そこで買った限定物のタオルを乾かしながら海風にあたる。手近なバーでビールを飲んで外に出てみると、もう日が沈み、港の赤い南瓜ばかりが光っていた。もう片方の黄色い南瓜の方が控えめで品があったな、と思いつつ、帰りの高速艇に乗り込んだ。波に揺られながら、酔い止めでぼうっとした頭で、「また行きたい、こんどはもっとゆっくり楽しみたい、そうだ、今度は誰かが一緒が良い。」なんて考えながら、うつらうつらと眠りに落ちていった。

目次に戻る


英語はおもしろい〜その34   須藤寛人(長岡西病院)

abstinence 禁欲
 旧友の Dr. Marina Guerrero から3月のある日メールが入った。書き出しは "Today is one of fasting and abstinence Friday of 2012 Lenten Season." とあった。キリスト教や宗教の知識に疎い私はそもそも "Lenten" なる英語が分からなかった。福武英和辞典によれば、「 Lent は〔四旬節〕(キリスト教で〔灰の水曜日〕Ash Wednesday から復活祭 Easter の40日間の断食をしのんで信者が断食や懺悔を行う)」とあった。コンピューター上の「キリスト教4教派の期節・祝日対照表」には4教派とも Lent / Lenten Season とあり、脚注として、Lent は「〔日が長くなる季節〕、すなわち春の意味」とあった。
 私がより心を引かれたのは彼女のメールの中の "abstinence" の方であった。私たち産婦人科医は患者の指導にあたり、しばしば「○○の期間、〔禁欲〕をするように」と言ってきた。これはとりもなおさず、言外に、「性交をもたないように」という意味を含んでいたが、若い人たちは「欲=性欲」であるので、皆さん「はい、わかりました」と即座に返事をしてくれていた。しかし、英語の abstinence は、「禁性欲」という狭い意味だけではないようで、今日は、abstinence について調べたところを書いてみたい。
 研究社新英和辞典には abstinence は「断つこと、節制、;禁欲、禁酒」とあり、ライフサイエンス辞書には「禁断、離脱」、同義語 disengage、withdrawal とあった。Merriam-Webster 大辞典には、語源 L. abstinentia, from abstinent-, abstinens + -ia で、中心になる意味は、「節制すること」で、(1)空腹(hunger)、楽しみ(pleas-ure)あるいは愛情(craving)に関しての自己統御や自己犠牲すること、(2)教会の掟や信仰の主義に従ってある種の(肉)を節制すること(この点において fast や fasting と異なる)、(3)禁酒すること(この時は "total abstinence" という)であった。"abstinence" は、厳密な意味では文脈において理解しなければならないが、多くの場合は単独で "abstinence from alcohol"「禁酒」の意味になるようである。
 共起表現検索をみると300例文が載っていた。abstinence の対象物は、alcohol abstinence、cocaine a.、drug a.、opioid a.などがあり、そのほか、amphetamine、caffeine、cigarette、tobacco、heroine、nicotine、marijuana、smoking、その他の固有薬品、そして sex などが挙げられている。abstinence の形態については、protracted abstinence、total a.、verified a.、early a.、higher a.、acute a.、complete a.、continuous a.、repeated a.などが書かれている。期間に関して、"months abstinence"、"abstinence for 6 months"、"4 weeks of abstinence" や、"8 h periods of abstinence" などと表現されている。"abstinence from" は「……を断つ」で、39例に使われていた。"abstinence rate" の使用は36例と多く、論文で「禁断成功率」を示すものであった。"abstinence syndromes" は「禁断症状」で、より一般的には withdrawal symptoms「離脱症状」と言い換えられるであろう。abstinence を含む文脈に sex、sexual という単語の含まれる例は11例に過ぎず、"sex abstinence"、"abstinence from sex"、"abstinence from sexual contact" などであった。このことより abstinence は「性」関連以外の広い範囲でより使われていることが確かめられた。
 類縁語には abstain「断つ(= refrain)、控える;棄権する;禁酒する」、「慎む、自制する」、abstainer「節制する人、禁酒家」、abstinent(形)「節制ある、禁欲的な」、「禁酒の、断酒の」、abstinently「控えめに」などがある。また、abstention は abstinence と同意語であり、「飲酒のように悪影響を及ぼすかもしれない楽しい活動を自制、節制、控えること」(医学英語活用辞典メジカルビュー社)で、「禁欲」、「離脱」、ex. abstention from intercourse、sexual abstention(性禁欲)であるが、abstention にはもう一つ別の意味、"withholding to vote" すなわち、投票時の賛成、反対、棄権の「棄権」の意味で頻用されている。テレビの BBC や CNN を「主音声」で聞いていると、国連会議場などの投票結果を議長が宣言する場面で、「ayes(aye = yes の複数形)5、nays(または noes で no の複数形)3、abstention 2」などと、日本語の「可・否・棄権」にあたる慣用的表現が使われている場面に出くわすことがある。このような時の書き言葉は votefor(賛成)、voteagainst(反対)であろうが「棄権」はやはり abstention である。
 インターネット上にローマ教皇の四旬節のメッセージが掲示されていたが、そこにも「fast and abstinence」と表現されており、「断食と節制」と和訳されていた。fast は「早い」の fast とは関係なく、「(動)断食する、絶食する(abstain from food)、(名)断食、絶食」の意味で、この言葉を私達はfasting blood sugar(FBS=空腹時血糖)として知っている。朝食の breakfast は、夕食から始まっていた絶食が朝になって破られる(break)ことになる食事で、故に breakfast になったとのことである。メタボでコロコロな私には fast も abstinence も耳に痛い言葉であるとしておこう。(続く)

目次に戻る


遠来のお客さま  郡司哲己(長岡中央綜合病院)

 10月上旬の晴れた日曜午後、すでに片付けが主になった園芸作業のために庭先に出ると、見慣れぬ蝶が藤袴の花を訪れていました。アゲハ位の大きさで青と薄茶色。これは……と風除室に用意の捕虫網を取りに戻り、そっと近寄り、鍛えし技の一閃。……あーら、お見事。……と威張るほどではないが、無事に捕獲でき、家人を呼びました。

「おーい、珍しい蝶がいたから見に来て。」
「はーい、あら、初めて見るきれいな蝶ですね。なんて名前なのかしら?」
「図鑑でしか見たことないんだけど、たぶん……。」

 すぐに家にある昆虫図鑑で調べてアサギマダラと確認、ついでにネット検索で関連情報を探しました。
 驚いたことに、ネット上では藤袴に飛来したアサギマダラの情報が各地より飛び交っていました。

「アサギマダラが南への渡りの途中で大好物の藤袴の花に立ち寄ったらしいね。」
「どうやってうちの庭の藤袴の花を見つけのかしら? 去年園芸店から購入して植えたばかりなのにね。」と首を傾げる家人です。

 藤袴はキク科の多年草で、9月から10月に藤色の花をたくさん咲かす秋の七草のひとつ。野生の原種は減少し、環境省の準絶滅危惧種。その花色は名前負けの曖昧な色でこんな俳句もあるくらいであります。

すがれゆく色を色とし藤袴 汀子

 カタログで鮮やかな花色の園芸種と原種(に限りなく近い?)の2種類を購入して植え、今年が2年目。それぞれよく育ち、鮮やかな青と薄赤紫の花がたくさん咲いています。
 香草の中国名もある藤袴、匂いも古来楽しんだそう。葉が乾く途中で細胞が壊れ、匂いのもとが外に出るそうで、研究者によれば、クマリン配糖体の加水分解でオルト・クマリン酸が生じて、桜餅のような芳香を感じるんだそうです。
 藤袴の含有する毒性のアルカロイドは、ピロリジジンアルカロイド(PA)に分類され、300種類以上の天然物がある。おなじみの植物ならフキ、ツワブキ、他にもムラサキ科、キク科、ラン科、マメ科植物などに含まれるそうです。
 アルカロイドとは、植物に含まれる特殊な塩基性成分(窒素含有)で、ニコチン・モルヒネ・キニーネなどのように、少量で動物に対して強い生理作用があるのでした。
 このPAはとくに肝毒性があり、肝癌にも関連。フキを食べるのに灰汁抜きしてちょうどよいのです。
 幼虫の食草のガガイモ科植物も毒性の強いアルカロイドを含むが、蝶の成体は有毒な藤袴を積極的に探し、花の蜜からこの毒成分を摂取して体内に蓄える。有毒化した体は派手な色合の警戒色とともに、鳥などの敵からの防衛に役立つとされます。この花を庭に植えておくと、花の蜜を好むアサギマダラが飛んでくるなどと書いたブログもありました。
 アサギマダラは10センチほどで、渡りをする蝶で有名です。春に台湾や南西諸島などから日本を北上。本州に飛来した個体は卵を産み一生を終え、秋には成虫に育った個体が再び南を目指し、日本全土から台湾や南西諸島などに越冬に向かいます。
 あっ、もちろん捕獲した蝶はすぐに放しました。昆虫採集は写真撮影かキャッチ・アンド・リリースが原則。捕獲した際に後ろ羽がやや損傷していたが、長旅の途上のためだったんです。藤袴の花蜜に癒されたのか、元気に青空へ飛び立ち、南への旅の続きに出発。また来年も立ち寄ってほしいお客さまでした。

 目次に戻る