長岡市医師会たより No.412 2014.7


もくじ

 表紙絵 「屋外レストラン」 木村清治(いまい皮膚科医院)
 「朝のアフターファイブ 夏のスタミナ源 山菜雑炊」 江部達夫(江部医院)
 「私の趣味」 張高正(長岡赤十字病院)
 「英語はおもしろい〜その36」 須藤寛人(長岡西病院)
 「蛍の瓦版〜その2」 理事 児玉伸子(こしじ医院)
 「巻末エッセイ〜奈良まほろばの旅〜その3」 郡司哲己(長岡中央綜合病院)



「屋外レストラン」 木村清治(いまい皮膚科医院)


朝のアフターファイブ 夏のスタミナ源 山菜雑炊 江部達夫(江部医院)

 カッコウの初音に目覚む五月かな

 ゴールデンウィークが終わる五月五日か六日は二十四節気の立夏になる。暦の上での夏の到来、夏鳥のカッコウはこの季節に合わせて、冬場に渡っていた南の国から、卵を産むため日本に戻って来る(カッコウは托卵の習性)。
 夜が白む頃、我が家の近くを流れている信濃川の、河川敷に広がる雑木林で夜を過ごしたのだろうか、カッコウの声が朝もやの中を透き通るように聴こえてくる。この鳴き声に合わせて私の夏の活動が始まる。
 アフターファイブ(after five)と言う和製英語がある。一日の仕事が終わる夕方五時以降の自由時間のこと。医師不足が叫ばれている我が日本、医師の日常業務の多忙さは、勤務医だけではなく、開業医も忙しくなっており、アフターセブン(after seven)からアフターナイン(after nine)にならないと自分の時間を持てなくなっている。しかし私にはアフターファイブがある。

 寝るひまもなく山に入る短夜かな

 私のアフターファイブは五月上旬から七月上旬までの二ヶ月間の季節限定、それもウィークデーのみの楽しみ。
 日に日に夜明けが早くなってくるこの季節、夜遅くまで起きていようと、五時前に目が覚める。五時に家を出て、七時前には帰ってくる朝二時間の山歩きだ。

 四季ごとに自然の食摘む里の山縄文人(びと)の暮らし思いつ

 我が家から車で十分も走ると、長岡市の西方に広がる西山の里山に着ける。ここは四季を通して、何らかの自然の恵みを私に与えてくれる里山だ。
 雪解けとともに始まる山菜採り、初夏までに旨い山菜を二十種は採っている。
 梅雨の終わり頃からキノコが出始め、秋の最盛期には二十種は採れる。
 秋の始まりはシバグリ拾い、終わりにはヤマイモのムカゴ採り、体力のいるヤマイモ掘りは今や人任せに。
 冬は雪の中スキーを着(は)いてのヒラタケ採り、時には口鉄砲でヤマドリも獲れる。温暖化のためか、五年前からイノシシも増えてきて、時々食卓を賑わすようになった。
 長岡市の郊外にあるこの里山、大自然の恵みだけでも生活が出来る山だ。この山麓のあちこちで縄文の遺跡が見つかっており、かの有名な火炎土器もここの産である。
 朝のアフターファイブを始めて二十五年はたつ。目的はタラの若葉やワラビ、ヤマタケ採り。かっては五月中頃から始めていたが、温暖化のためか雪が少なくなったこの十年、立夏の頃から早起きが始まっている。
 タラは秋の終わりにすっかり枝葉を落とし、枯れ木になる。早春、枯れ木の枝々の先端に付いている、赤紫色の苞に包まれた頂芽が膨らみ、五センチ程に生長すると、中から緑鮮やかな若芽が萌え出してくる。春のタラの芽採りはこれを摘むのだ。

 タラ若葉伸びの速さのすさまじき

 初夏からのタラ摘みは、頂芽からぐんぐん育って枝葉となる中心部の若葉を摘む。順々に伸びて枝葉になる新芽が二十センチ程になり、葉が広がり始めた所で摘む。一週間後には新しい芽がまた二十センチに伸びている。
 タラは大きく育ち、早春の一箇の頂芽は二十本以上の枝葉を出し、盛夏には高さ一メートル、四方に伸びた枝葉も二メートルに広がる。

 タラの花藪に存在示しおり

 タラは夏の終わりに、その頂上に白い小さな花をたくさん付ける。花の集塊は強い日差しの中、きらめいて見え、離れた所からでもタラノキの存在が分かる。藪の中のタラ、そのあり場所はこの頃に頭の中にインプットしておく。
 タラの若葉は花芽が伸び出す七月中旬まで収穫できる。湿らせたペーパータオルに包んで冷蔵庫で保存、十日間は新鮮さが保たれる。

 ヤブワラビ人目を避けてすくと伸び

 タラの若葉を摘みながら廻るコースで、藪の中にワラビが生えている。雪国ではワラビは日当たりの良い所で、四月下旬に生え始めてくる。この藪の中のワラビ、日差しの悪い藪の中、五月中頃から生えてくる。ゆっくりした発育で、太くてしっかりしたもの。ヤブワラビと呼んでいる。春のワラビと比べ、粘りもあり、旨みも勝る。山菜の中では一級品、七月始めまで次から次へと伸び出してくる。
 灰汁(あく)抜きをして、冷蔵庫で保存、やはり十日間はおいしく食べられる。

 ヤマタケの伸び出す沢の遅き春

 立夏を過ぎる頃から伸び出してくる山菜の一つにヤマタケ(ネマガリタケのタケノコ)がある。この十数年、温暖化のためか、長岡郊外の里山では、四月末にもう生え始めてくる年もあるが、雪解けの遅い沢では立夏が過ぎてから、他の山菜と一緒に一斉に伸び出し春を迎える。雪が多かった年は山菜採りを長く楽しめる。
 二十年前には六月になると魚沼方面の山に出かけていた。標高千メートルの山では、六月中頃から七月初めまでが収穫の最盛期、太くて質の良いタケノコがたくさん採れた。
 今では湯沢町に住む知人が送ってくれる。我が家の冷蔵庫の野菜室はヤマタケで一杯になる。ヤマタケは毎日食べても飽きのこない山菜の一つだ。二週間はおいしく食べられる。

 山菜の活力食べる朝の膳

 初夏から盛夏にぐんぐん伸びてくるタラやヤブワラビにヤマタケは、私の夏の元気の源だ。その勢いがそのまま夏のスタミナ源だ。週三回は朝食にこの三種の山菜を具にした雑炊を造っている。
 ヤマタケは硬い節を外し、斜めに薄く切り、土鍋で水から煮る、煮上がったら前夜のご飯を水で洗って鍋に入れ、煮え立ったら三センチに切ったタラの若葉と灰汁抜きしたワラビを入れ、味噌を落とし、一煮えしたら出来上がり。山菜の持ち味と味噌の風味が楽しめる一品。こんな雑炊を食べているのは、日本中で我が家しかないだろう。
 早春のフキノトウ、四月中頃から採れるコゴミ、ウルイ、ウド、ミヤマイラクサやモミジガサなども雑炊の具になる。しかし盛夏まで長く楽しめるものは、タラ、ワラビ、ヤマタケしかない。いやいや晩秋まで食べられるミズがあるが、旨みにやや欠ける。秋にはキノコ汁の残りで造る雑炊が旨い。

 新緑の活力満つる気を胸に

 スタミナの源になる山菜、一日数センチと勢いよく伸びる若芽は活発な細胞分裂を行っている。その分裂を起こさせる物質が元気の源になっているのであろう。
  もっとも朝早く起き、朝のアフターファイブで新緑の里山を歩き、きれいな空気を胸いっぱい吸ってくることが一番の活力源になっているのであるが。

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私の趣味 張 高正(長岡赤十字病院)

 皆さん、初めまして。長岡赤十字病院研修医二年目の張高正と申します。どうぞ宜しくお願い致します。初期臨床研修医として一年二か月が経過しました。思い返せば喜びと緊張、期待と不安が入り混じる複雑な気持ちで初出勤を迎えたことを鮮明に思い出します。一年目では病棟や救急外来と右も左も分からず、二年目研修医の先生方や指導医の先生に頼りっきりの状態でした。一年が経過し、病院や業務には少し慣れた気もしますが、様々な症例を経験させて頂く度、自分の勉強不足を痛感しています。さらにこの四月からは後輩もでき、指導してくださった先輩の先生方の姿とは程遠い今の自分を感じる度、より精進しようと実感している次第です。
 自分は新潟市出身で新潟高校、新潟大学を卒業し研修で初めて長岡でお世話になっています。長岡は学生時代に何度か来たことがある程度で詳しくは知りませんでした。一年間長岡で暮らしてみて、感じたのはまず冬の雪です。今年の冬は暖冬で積雪はかなり少ない、とのことでしたが、当直帰りに車が雪で埋もれて自分の車を確認出来なかった時には衝撃を受けました。次に感じたのはやはり花火の素晴らしさです。学生時代来たいと思いながら来たことがなかった自分にとって、堤防からみる花火は圧巻でした。それと同時に花火の日の救急外来の大変さ、道路の混雑状況には愕然としました。今年は土日が長岡花火ということもあり楽しみと焦りで複雑な気持ちでいます。
 さて、話は変わりますが今回は自分の趣味、ハマっているものについて紹介させて頂きます。まず一つ目は歌舞伎です。何歳なんだと言われるかもしれませんが奥深くて面白いものです。自分が初めて歌舞伎と出会ったのは学生時代のドキュメンタリー番組です。歌舞伎と言えば市川海老蔵の迫力ある見得、故中村勘三郎の華やかな踊りなどが思い浮かぶかもしれませんが、その番組では、歌舞伎囃子方という鼓の家元の一つ、田中流家元、田中傳左衛門の特集をしていました。歌舞伎役者が幼いころから師匠である父に就いて厳しい芸の稽古を積むというのはよく知られた話ですが、囃子方も父を師匠として物心ついた時から毎日厳しい稽古を続けていました。幼い子供が手の豆が潰れるほど鼓を一心不乱に打ち、舞台に臨む姿を見て感動したのを覚えています。番組中では歌舞伎の舞台裏に迫り、囃子方だけでなく衣装、鬘など小道具の保管、準備、音響など歌舞伎の裏の裏まで特集されていました。その一つ一つの仕事に誇りを感じながら舞台に挑む姿に大変感動しました。それからというもの舞台の番組やドキュメンタリーがある度注目して見るようになりました。
 自分が一番お勧めしたいのは「春興鏡獅子」という舞台です。小姓の弥生が将軍の前で踊りを披露し、飾られた獅子頭を手にすると獅子の精が乗り移るという内容です。前半は気品のある女方、後半は荒々しい獅子の精という対照的な役を一人で踊り分ける点に見どころがあります。特にお勧めしたいのが舞踊に定評のある中村勘九郎による「春興鏡獅子」で前半に慎ましい女方から獅子に豹変する場面は圧巻です。残念ながら歌舞伎座で直接鑑賞したことはないので、研修中に時間を見つけて鑑賞しようと意気込んでいるところです。
 二つ目はボルダリングです。ボルダリングとはフリークライミングの一種で、最低限の道具(シューズやチョーク)で岩や壁を登るスポーツです。始まりは学生時代に軽い気持ちでジムに行ったことがきっかけでした。上級者が体を巧みに使いながら傾斜のある壁を軽々と登っていく様は本当に憧れを抱きました。しかし実際に自分が始めてみると体の使い方がよく分からず、力ずくで移動しようと思っても上手くいかず、挙句の果てに直後から、激しい全身の筋肉痛に2日間程襲われてしまいました。ジムが独自に定めたコースは初心者から超上級者まで幅広く設定されているため、初心者でも気軽に始めることが出来ます。通過するルートは決まっているため、いかに無駄なくスムーズにクリアするかを事前に考え、それを実際に達成出来た時の喜びは格別です。残念ながら長岡市にはボルダリングの出来る施設はないようなので、時間の出来た時に遠征したいと思っています。
 何だかまとまりのない文章になってしまいましたが長岡での残りの研修も精一杯初心を忘れず努力していこうと思います。宜しくお願い致します。

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英語はおもしろい〜その36 須藤寛人(長岡西病院)

 Invictus 征服されざる者
 Invictus はラテン語で、英語 unconquered「征服されざる者」という意味で、William Ernest Henley(1849−1902)というイギリスの詩人の書いた詩の題名に使われており、南アフリカ共和国の故 Nelson Mandela 大統領が27年間獄中にあったとき、座右の銘としていた詩であったと Wikipedia に書かれている。また、2009年、Clint Eastwood 監督の同名のアメリカ映画が封切られたが、これは Mandela 氏の自伝的(Autobiography)ドラマで、1995年、自国で開かれた Rugby World Cup を機に、人種隔離政策(Apartheid)をどのようにして克服していったかということを内容にしているとのことである。
 今日、私がここに書こうとしていることは Mandela 氏のことではなく、一人のフィリピン人女医 Marina Guerrero Feliciano のことである。彼女は私より一級上のレジデントであった。Marina は Manila の Santo Tomas 大学の医学部を主席で卒業した才女であった。なぜ主席であったかが分かるかというと、アメリカの大学へ臨床留学するにあたっては、卒業した外国の大学は証明書類に卒業成績順位を書かねばならなかったからである。New York 市には、当時も現在も7つの医学部/医科大学しかない。ニューヨーク医科大学の産婦人科に関しては一学年6人のレジデントであったから、よほどラッキーでないと外国人は選ばれなかった。私は4年間で合計40人ほどの産婦人科のレジデントと一緒に働いたが、東洋人は彼女と私だけであった。フィリピン人は小学生より英語を習い、医学は当然アメリカの教科書で習うのでいわゆる言葉の壁は少なかったであろう。私は彼女と一緒に3年間働いたわけであるが、レジデントの時はいろんな場面で彼女から助けてもらったように思い返せる。
 このところ、彼女から送られてくるメールはほぼ連日で、必ずジョークが入っているが、新しいニュースや情報も満載である。この中から、今日は、彼女自身のことを書いた部分をつなぎ合わせてみて、彼女の周辺のことを含めて紹介してみよう。
 Marina は高校卒業の時、最も優秀な朗読者(most outstanding class orator)として表彰を受けた。彼女は「リンカーンの "Gettysburg Address" も好きであったが、最も心をときめかせた十八番は "Invictus" であった」。以下この詩の日本語訳を書く(http://henjoy.blog78.fc2com.)。私を覆う夜の中から/鉄格子の間にひろがる牢獄の暗黒/神がどんな存在だろうと私は感謝する/我が魂が決して征服されないことに/残忍な情況の手の内に落ちてなお/私はひるみもせず大声で叫びもしなかった/運命の棍棒に打ちのめされ/頭から血が流れているが私は屈しない/この憤怒と涙の地の彼方に/亡霊の恐怖だけがはっきりと見える/そして何年間にも渡る脅迫も/私が今も恐れてなどいないことを思い知るだろう/その門がいかに狭きものであろうと/どうして裁きのままに罪を受けることが出来ようか/(注:最後の2行の英文は)、"IamtheMasterofmyFate,IamtheCaptainofmySoul."〔私は我が運命の主であり/我が魂の指揮官なのだ〕。「私は審査員をまっすぐに見据えて、この詩を大声で、そして低く、バリトン様の声で朗読した。」
 「私はフィリピンの Bataan の貧しい漁村で育って、未亡人であった母の愛護のもとで、自分のゴールを目指して自信の持てる人間に育っていった。」「一人っ子であったので私は友達を作らなければならなかったが、鏡の前で独り言(soliloquy)を言った。さらに向上心を持ち、私は話しを独作し、鏡の前で弁士となった。小学校の2年生の6歳の時、Balanga の Bataan 小学校で英語の読みと朗読コンテストで優秀な成績を収めた。特別な bario アクセント("punto"=なまり)があり、river は "reebburr" であった。数年間、私の先生と音読コーチの Santos 先生は、私を "reeb-burr" とあだ名を付けて呼んでいた。」「私の母校の University of Santo Tomas の聖歌隊が2010年7月に行われた、世界で最も古く、伝統のある聖歌隊コンテスト(World Choir Competition)の、Llangollen International Musical Eisteddfod, in Wales, UK で優勝した。1995年にも優勝しているので、2回も優勝したのはアジアからは初であった。トロフィーはイタリアの偉大なるテノール歌手 Luciano Pavarotti (1935−2007)が1955年に少年聖歌隊として参加したことを記念して、Luciano Pavarotti Grand Prize と言うそうだ。」
 University of Santo Tomas は Manila にある私立のカトリック大学で1611年創立、フィリピンのみならずアジアで現存する最も古い大学で、1個所のキャンパスの大きさでみれば、カトリック系大学としては世界最大の大学である(Wikipedia)。全学の学生数は43,000人で、毎年11,500人が入学するそうだ。医学部(Faculty of Medicine and Surgery)に限って見ると、その成立は1871年からとなり、U. S. Educational Commission for Medcal Graduates によれば、2007年、アメリカの国外にある医学部で、優秀な教授陣が揃っているなどの評価において世界の10位以内にはいるアジアで唯一の大学であるそうだ(Wikipedia)。
 彼女は今年の誕生日に "Fabrics of mylife" (私の人生という織物)と題したメールをよこした。「私はまずしい未亡人の母に育てられた。彼女のマントラ(注:神秘な力を持つ文句)は〔貴方のお誕生日には教会に行かねばなりません。新しいドレスを着て、友達と食べ物を分け合っていただきましょう〕というものであった。私はその約束を決してやぶらなかった。小さい女の子達は、3個のヘアピンや半分の洗濯石鹸、2枚の厚紙あるいは自分の母の香水の空き瓶などをプレゼントしてくれた。私の母は卵のサンドウィッチ、パイナップルジュースそしてヌードルを用意したが、それだけで大歓声があがるほどで、実に楽しいものであった。」
 「60年以上経って2013年8月15日は、夏至を祝うかのように、ニューヨークは Port Washington の自宅ではじまり、大変楽しいうちに終わった。私、夫 Roger そして8月生まれの2人のいとこのco-Birthday を一緒にした。招待者は私たちの会計士、友人、親戚、医学部67卒のクラスメイトであった。8月15日はカトリックの Assumption (聖母昇天)の祭日ですので、皆さん覚えておいてネ。」「私の家の裏庭は美しい Manhasset Bay で、それは Long Island Sound に続いておりそして大西洋につながっている。美しい Kings Point、Sands Point、Potters Field Island (ここは囚人と身寄りのない人が葬られるところ)、Bronx、Trog's Neck Bridge そして Port Washington……」、「天国より母のNancyが見守ってくれる。私は貴女のマントラに従い、貴女の助力に対して今でも感謝しています……。」ここには彼女の敬虔なカトリック信者の顔が見える。
 思い出したことであるが、彼女と知り合ってしばらくし、彼女は私に「自分の叔父は日本軍に殺された」と話した。ひょっとしたら叔父ではなく実の父親ではなかったのか? 彼女の育った Bataan は〔Bataan Death March バターン死の行進〕で有名な町である。1942年、日本軍はアメリカ人とフィリピン人の捕虜75,000人を97q離れた新しいキャンプ地へ7日間かけて移動させ、この間、21,000人ほどが死亡した。戦後、この移動の目的が本当は何であったかが問われたという。
 Santo Tomas の医学部の卒業生の多くはアメリカやヨーロッパに移住し、母国を捨ててしまう。彼女もこの点についてはきっと複雑な気持ちであろう。今度は Port Washington を訪れて旧交を暖めてみたい。(続く)

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蛍の瓦版〜その2 理事 児玉伸子(こしじ医院)

1.一般社団法人移行

 今までも供お知らせ僑等にて何度もお伝えしてきましたが、長岡市医師会は4月1日より、新たな制度による一般社団法人へ移行しました。医師会活動のように公益性が強く、定款に非営利性が徹底された法人は、一般社団法人の中でも“非営利型法人”に分類されます。以前は民法に基づく公益法人であり、税法上で優遇されておりましたが、今後は法人税法上の収益事業から生じた所得や利息等公益性のないものは課税対象となります。
 一般社団法人移行に伴い、昨年度から会計も新たな公益法人会計基準に基づいて行っています。予算を立て単年度で予算と実際の過不足をみる役所方式から、予算に縛られず実際の会計状況を決済する企業会計に近いものになりました。
 役員の任期も総会を起点とするため、今期は6月5日の定時総会終了時から二年以内の定時総会終了時までとなりました。

2.新たな財政支援制度

 消費税を財源とした新たな財政支援制度による、新規事業のアイデア募集がありました。病床の機能分化、在宅医療の推進や医療従事者の確保を目的とした新規事業に対し、事業者が費用の半分を負担し、国と県が2対1の割合で残りの半分を負担します。国の負担分は全体で904億円の予算があり、新潟県単独で20億円が予定されています。
 先月号の会長挨拶でも触れられていましたが、長岡市医師会でも4つの案(在宅医療にかかる多職種ネットワーク事業2件と医療従事者確保のための事業2件)を提出しています。過去には大貫啓三会長の時に供がん検診の推進事業僑について単年度の補助を受けたことがあります。
 県内25団体(医師会、歯科医師会、看護協会等関係団体や病院、行政)から件余のアイデア提案があり、現在100県が取りまとめ中です。県としては単発で終わらせることなく、全県的かつ継続的な事業に拡大していきたい意向です。実際に事業が始まるのは今秋以降になる予定で、詳細が決まり次第ご紹介します。
 今回の応募期間は4月日から5月25日と短く、既に締め切られています。13今後に備え、何か面白いアイデアがありましたら、ご提案下さい。また、この新規事業に関して皆様にご協力をお願いすることもあると思われます。その際はよろしくお願いします。

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奈良まほろばの旅〜その3  郡司哲己(長岡中央綜合病院)

 大仏で有名な東大寺は、午前に見学した興福寺に劣らず、見ておきたい仏像がたくさんです。法華堂の不空羂索観音像から始め、戒壇堂にはとくに目つきの悪さがクールで不思議な人気の広目天、多聞天らの四天王像。仏像ファンで有名ないとうせいこうの「見仏記」に、仏像グッズはほとんど買わぬがこのファイルは別だとありました。なお天平の塑像の広目天の左手に持つ長い筆はなんと本物でした。帰り際に御朱印担当のお坊さんに家人が質問。
  「あの広目天のお持ちの筆はきれいで新しそうですがいつごろ取り替えたものですか?」「ああ見えても最近では江戸時代のようですな。」

 せんべいをねだるたくさんの鹿と、さらにたくさんの修学旅行の学生やアジア諸国からの観光客の群れを抜けて、日傘をさして広い境内を大移動です。
 運慶、快慶の阿吽の仁王像の両立する南大門を通り大仏殿へ。主役と言える盧舎那仏はやはり立派な佇まい、いや座してのご様子。なお大仏殿は遠足の小学生たちが大柱の穴くぐりで賑やかです。大仏の鼻の穴と同じサイズとか、メタボ体型の成人には無理と横目で見て通り過ぎました。大仏の後ろに控える持国天と広目天の木像も巨大かつ精細です。
 最後に新設の東大寺ミュージアムに廻ります。ここでは三月堂から引っ越しした日光、月光菩薩像が最高でした。天平仏の上品な静謐さが、かの四天王にも共通の表情です。

 仏像鑑賞に満喫してから、ここで巡回バスに乗り、宿泊先の奈良ホテルで下車できました。棟続きの新館の部屋でしたが、庭先は木立でゆったりな造りです。夕食はホテルの和食レストラン「花菊」が宿泊セットです。ドレスコードはないが格式のホテルなので、上着やワンピースなど着用する。丁寧な応対の仲居さんに、新潟から観光で来て結婚記念日なのでと世間話します。(実際は三日前だけど、あらすじは合っているさ、……とわたし)やや洋食折衷の和食料理は美味で大満足でした。デザートが「結婚記念日おめでとうございます」の飾り文字の白チョコプレート付きで、家人もにっこり。「なんでも言ってみるものねえ。」

 夕食後は創業百年の伝統の本館をぶらついて絵画や写真、また調度など見学。売店からお土産用に皇室御用達なる銘菓の発送なども済ます。
 部屋に戻ると観光疲れで、入浴後にすぐに爆睡しました。

 翌朝は奈良ホテルのメインレストラン「三笠」の茶粥定食です。緑茶でつくった大和茶粥。と言っても、日頃が濃いめのお茶好きのわたしには、お茶漬けとの比較で薄味すぎ。もちろん二杯目もおかわり。家人はお洒落な洋定食を選びました。新鮮オレンジジュースと美しい焼きのオムレツに「さすがね」と感動しておりました。

 三日目は寺院三箇所巡りの日程。朝食後すぐに出発で、荷物を次のホテル(駅間近のホテルアジール奈良)にあずけてから電車の旅です。奈良駅から桜井駅まで電車で三十分。タクシーでまず聖林寺へ。バス等の交通が不便なため、タクシーに待機してもらう。参拝は九時から開始。
 本堂でご本尊の地蔵尊などにさらりと参拝し(ごめんなさい)、渡り廊下で観音堂へ。背の高い独特の雰囲気の金箔を残す十一面観音像。お参りして御足もとの鉦を叩くと深遠なゆらぎの音が響く。すると外の谿より鴬の鳴き声です。

 なつうぐひす鉦の響くに負くまじと  蒼穹

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