長岡市医師会たより No.416 2014.11


もくじ

 表紙絵 「オクトーバフェストのパレード」 木村清治(いまい皮膚科医院)
 「カラ…ス……!?」 廣田雅行(長岡赤十字病院)
 「会員旅行報告記」 川嶋禎之(長岡赤十字病院)
 「柏市豊四季台団地視察について」 理事 草間昭夫(草間医院)
 「蛍の瓦版〜その6」 理事 児玉伸子(こしじ医院)
 「巻末エッセイ〜軍人の靴下」 江部達夫(江部医院)



「オクトーバフェストのパレード」 木村清治(いまい皮膚科医院)


カラ…ス……!? 廣田雅行(長岡赤十字病院)

 「さて、出かけるとしますか。忘れ物は無いですか?」との女房殿の問いに、「ああ」と、返事をしつつ、ふと車の窓の外を見ると、あれれェ、「カラス……だよなァ?」「何が?」と、外を見た女房殿も「ですよ……ねェ」そうなんです、カラスと言えば「黒い者」なのに、目の前の柵に止まって居るその者は、羽の一部分が白いのです。
 「良いんですか?」「え?」「写真を撮らなくても」「オット、そうそう、そうであったなァ」と、一瞬遅れて家の中へ走り込み、手近なカメラを引っ掴んで戻った時には時遅く、敵さん既に逃亡後。「アッチの方へ飛んでったようだけれど」と言う頼りない手掛かりを頼みに捜しては見たものの、既に影も形も有りません。残念、と思っているその時に、お向かいの屋根と道を挟んだ電柱の上に止まったフツーのカラス達が「アホー」の合唱。「お前さん達に言われたくは無いワイ」と、思い乍らも、『あの一瞬の遅れはやっぱり年かねェ』等と思っておりますと、「年ですねぇ」と、見透かしたような女房殿の一声。ま、その日はそんなこんなで日が暮れて行ったのではありました。
 スズメ「チュン」と鳴いて陽が登り、翌朝の事でした。「カァー、カー」と普段に無くカラス達が賑やか。それも昨日とほぼ同じポジショニングで鳴いて居る様なのです。『二羽のカラスが昨日とほぼ同じ様に屋根と電信柱で』と言う事はもしかしたら、と思い当たる事が有り、カメラを持って外に出てみました。昨日、例のカラスを見失った場所の近くの松の木にそのカラスが止まって居ます。矢張りそうか、思った通り恐らく二羽のカラス達はこのカラスの親ガラス達だと思われます。この発想の元になったのは、以前、巣立ったばかりと思われるカラスの子が、家の窓ガラスに当たって庭に落ちていた事が有り、その時に、親ガラスが暫く近くで騒いでいた事が有ったのです。年寄りの経験の蓄積は侮れないものでしょ?。そういう目で、件のカラスを見てみると、未だ産毛が一部に残っている様でもあります。アルビノでは無いので、目の色は黒。羽の一部分が白い様です(写真1)。羽を開くとその白い部分が一層目立ちます(写真2)。親と思われる二羽は、写真を撮っている間も付かず離れず、鳴き交わしています。そうか、昨日の「アホー(阿呆)」は「(明日)アオー(会おう)」だったんだな、等と独り言ちておりますと、「イジメなさんな」との女房殿の一言。「分かっとりま、敵さんお利口だからねェ」と答えつつ撮ったと言う次第です。
 カラスは頭が良く、人里で頻繁に見られる比較的大型の鳥と言う事から、吉兆を表す鳥として扱われる事が有ります。良くご存知の物としては、サッカーでご存知「八咫烏」、色では、縁起の良さの順に赤烏、青烏の順番が有り、その下に同等で、蒼烏と白烏が位置している様です。『全てのカラスは黒い』と言う、1940年代のドイツのカール・ヘンペルの「カラスのパラドックス」は、こんなにも多種類の色のカラスが有ったのでは、端から成り立たない事が明白でした。因みに、エジプトのカラスは白黒ツートンカラー、東南アジアの者の多くは腹部が白いとの事です。カラスの遺伝子の中に白い羽の色のファクターが潜在しているのでしょう。グーグル検索でこういったカラスの画像が見られます。
 「頭の良さ」、「愛情の深さ」を示す物として例えば、クルミを高い所から固い地面に落として割ったり、道路に置いて車に割らせたりしてクルミを食べたりする事や、巣の近くを通る者を攻撃して巣や雛を守ろうとする等が有ります。因みに、これは病院のコネクト通路の上に残された彼らの食べ残しのクルミの殻です(写真3)。しかし、その食性が死肉食、腐肉食性と言う事や彼らの利口さが逆に災いして、漆黒の衣装に身を固めている事等から、吉祥とは逆に不吉な者、悪賢い者としてのカラス像が出来上がって行った様です。しかし、考えてみれば、ゴミ漁りに関して言えば、人が居て、ゴミが漁れる様な状態に有るので、カラスが集まると言う事も出来る訳で、人間がもう一寸ゴミの出し方等を工夫すれば、カラスとの棲み分けがもう少し上手く行くのでは?とも言えるかも知れません。
 え、『それから如何なったか?』ですって?。そうそう、件のカラスの事ですね、忘れていた訳では無いのですが、ついつい話が脇に逸れてしまいました。いけませんいけません、写真を撮った後、あまり長く近くにいてもと思い、その場を離れました。3羽のカラスは暫くの間、鳴き交わしていましたが、やがて静かになりました。はて如何なったかと窓から件の木を見ますと、既に「子烏」の姿は見えなくなっていました。全く飛べなかった訳では無い様子だったので、恐らく「親ガラス達」が、安全な所に誘導した物と思われます。
 最後にネットの中をウロウロしていた時(決してサーフィンしていた等とは申しません)の蛇足を一つ。『とり「鳥」と、からす「烏」の漢字の差は、鳥では「目」がハッキリ分かり、烏では「目」が分からなかった為』と言う事でした。いかにも象形文字の成り立ちから、有りそうなエピソードでした。
 その夜は、他のカラスと違っていてもイジメられずにしっかりと育つと良いが、等と老爺心乍らも一寸心配しつつ、空けたビールは何時もより一寸ほろ苦かった様な……。

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会員旅行報告記〜信州の鎌倉“別所温泉” 川嶋禎之(長岡赤十字病院)

 10月18日から週末を利用して1泊2日の医師会会員旅行に初めて参加してまいりました。初参加の特典としてレポーター役を仰せつかりましたので、簡単な報告をさせていただきます。
 参加メンバーは太田裕会長以下、明石明夫、荒井義彦、大塚武司、加辺純雄、神谷岳太郎、児玉伸子、小林徹、小林眞紀子、高橋暁、中村敬彦の各先生方と事務局の星さん、そして初参加の私を入れて総勢13名でした。
 14時半に医師会館を出発したサロンバス(注1)はまれにみる好天の中、ここ数年の会員旅行記と同様のパターンで車中を過ごし(注2)、凪いだ日本海、妙高山、黒姫山、を後に夕刻、信州は別所温泉玉屋旅館に到着いたしました。硫黄の香りのするロビーを抜けて、温泉に浸かった後(注3)、これまた例年同様の大宴会がありました(なんとカラオケ設備なし)。二次会は“明石の間”でしたが、同名の先生は宴会場から“夢浮橋の間”で寝ておられました。二次会は、会員消息と真面目な話ばかりで私も起きていられませんでした。12時ころ、お開きになりましたが、部屋割りに恵まれ、鼾で起こされることもなく熟睡できました。ほかの部屋では、夜中に一人カラオケに夜の温泉街に出かけられた方、未明にジョギングされた方が居られたようです(注4)。また、女性軍は外湯に遠征、別所温泉全制覇されてきたようです。
 翌朝はこれまた例年同様、中村先生ご持参の、朝シャンつきの朝食を頂きました。朝風呂・朝シャンで二日酔いも落ち着いたところで、朝の散歩となりました。アップダウンはありますが、旅館から歩いていける距離の、国宝八角三重塔のある安楽寺、(南向きの善光寺と向かい合っているという)北向観音堂に朝参りいたしました(注5)。
 9時半には玉屋旅館を後にサロンバスは無言館に向かいました。ここは、水上勉氏のご子息が館長を勤めておられることでも知られている、戦没画学生の遺作を収めた美術館です。木立に囲まれ、照明も暗く、沈んだ雰囲気の中、無念の死を遂げられた方々の生きた証しが展示されていました。長く家族が大事にしていた作品だったのでしょうが、多くは、保存状態も悪く、また、普通の美術館のような修復をあえてかけていないため、美術鑑賞というより感傷に浸り、祈るための場所なのであろうと解釈いたしました。ただし、中には、戦地で亡くならずに、長生きしたらさぞかし立派な作家になっていただろうなと思わせるような作品もいくつかありました。某K女史の“私たち、彼らの3倍も生きているんだ……”という発言に頷いてしまいました。
  “口をつぐめ、眸をあけよ、見えぬものを見、きこえぬ声をきくため”  窪島誠一郎(館長)というメッセージに込められたとおり、コンセプトのしっかりした展示でした。若い方に是非一度、訪れていただきたいと思わせる処でした。
 美術館前の公園でしばし日向ぼっこ、お土産屋さんで帰りの荷物を少しずつ重くしたところで、次の目的地に向いました。
 昼食をとったのは Villa d'Est ガーデンファームアンドワイナリーでした。(注6)
 若い方はご存じないかもしれませんが、ここのオーナーの玉村豊男さんは、エッセイスト、コメンテーターとして、かつてマスコミへの露出度のかなり高い方でした。10数年前体調を崩され、現役をセミリタイアして信州で田舎暮らしを始めた当初は話題になったことをご記憶の方もおられるかと思います。自給自足の生活を始めたとか、敷地内の元桑畑であったところを開墾して、ブドウ畑を作ったとか、自家製ワインを作り始めたなどという話を、アウトドア系の雑誌や田舎暮らしの勧め系の雑誌に載せていましたが、都会人の粋狂で、単なる話題作りかと高をくくっていましたが大間違いでした。ワイナリーと立派なレストランにイングリッシュガーデン、人生二毛作とはこのことだと思い知らされました。田園生活にあこがれる都会育ち?の私としては僻みを感じながらも感激してしまいました。ワインも料理も及第点でした。近くに行ったら寄るべきところとしてお薦めです。お土産のワインは、ワイン通の中村先生曰く、シンプルに値段=味とのことで、皆さん一番高価なワインを買って行かれたようです(注7)。
 昼食後は静かに帰路につきました。途中の小布施のパーキングエリアの“道の駅”は収穫期を迎えた様々な種類のリンゴの山また山で、お土産のリンゴでバスもだいぶ重くなったようでした(注8)。
 小布施の後は一路長岡に向い16時に医師会館に到着。無事全行程を終了いたしました。

(注1)越後交通最新?の車両で、バス後方部は11人がテーブルを囲んで宴会したまま移動していけるという、私にとっては初めての乗り物でした。
(注2)全行程で消費した酒類は、私の試飲した範囲で得月、呼友、想天坊、吉乃川、万寿、轍、景虎、八海山、牧之、かたふね、洗心、日本酒だけで合わせて5升、ワイン2本、シャンパン2本、ビールはカウント不能でした。カラオケは行き帰りともバスガイドさんの作戦か、到着前15分のみのオンステージでした。
(注3)バスの中で、某O先生より混浴の露天風呂には眼鏡をつけたまま入るべきであるという経験談がありましたが、紛失防止のため、普通の男風呂には持ち込まない方がいいようです。(某‘O先生、眼鏡は届きましたか?)また、某T先生は、某N先生のお尻が素敵だと言っておりました。男は“けつ”で人生を語るわけではないが、日ごろの節制を語っているようです。ちなみにベスト2は某A先生だそうです。
(注4)同一人物のようですが伝聞情報です。この某A先生は、飲み続けてハイになってエンターテナーを演じてくれているか、飲みつぶれて寝ているかのどちらかで、ここ数年の旅行記の記載通り、非常にオンオフのメリハリのある先生とお見受けしました。
(注5)北向観音には愛染桂という桂の大樹がありました。川口松太郎はこの樹を見て恋愛小説の着想を得、タイトルとし、これがベストセラーになったがゆえに、無名であったこの樹に名前が付いたようです。私はアイゼンカツラときくと“藍染鬘”を連想しましたが、某K先生は、愛染ってポルノ女優にいたよなーと境内に大声を響かせておられました。
(注6)某K先生は長物がお好きなようでレストランに到着する前も、昼食の後も、蕎麦が食いて〜、ラーメンが食いて〜とずっとおっしゃっていました。蕎麦が食いて〜には同感でした。
(注7)オーナーの玉村豊男さんはレジ係、奥さんもウエートレスとして働いておられました。お土産コーナーが商業主義的で、観光名所化しているのが私的には“玉”に瑕でした。
(注8)バスの中に携帯、お土産など多数の忘れ物がありました。最後まで星さんご苦労様でした。

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柏市豊四季台団地視察について 理事 草間昭夫(草間医院)

 平成26年10月5日長岡市の主催で柏市の視察が行われました。
 目的は地域包括ケアの先進的地域として有名で、高齢化率の高い柏市の豊四季台団地での取り組みを参考に、より良い長岡市の独自の地域包括ケアシステムの構築をしようというものです。参加者は、医師会からは、太田会長、大塚・長尾副会長、本田雅浩先生と私、草間が参加しました。また、歯科医師会、薬剤師会、栄養士会、理学療法士会、作業療法士会、医療に関わる事業所の代表の方々が参加されました。行政からは福祉保健部の水澤部長をはじめとする、関係部署の方々も多数参加され総勢33人の視察団となりました。
 アオーレ前に集合し大型バスに乗り込み関越道、外環道経由で柏市に向かいました。あいにくの雨でしたが順調に到着しました。13時から「かしわ地域医療連携センター」で、柏市の行政側と、医師会から地域包括ケアシステムの現状についてご説明をいただきました。長岡市の取り組みにつき長尾副会長から現状を報告し、24時間介護を事業所として提供しているこぶし園からは介護事業所の現状を説明いたしました。その後双方の意見交換が行われました。
 豊四季台団地というのは昭和39年に特殊法人日本住宅公団(現在の独立行政法人都市再生機構、UR)が建設した団地で、平成22年の時点で高齢化率40%という超高齢団地です。これからの日本の都市部が見舞われる状況を既に体現し、かつ、現在日本全国の都市部にある昭和30年から昭和50年頃に作られた団地が現在及び今後直面する課題が集積された団地であるといえます。エレベーターのない5階建てのアパートが100棟以上連なっていますが、この団地の建替事業に伴い、全国のモデルとなりえる超高齢社会におけるまちづくりを、自治体である柏市、東京大学高齢社会総合研究機構そしてURが共同して検討して具体策に落とし込む「柏プロジェクト」と称し、考えることになったわけです。産官学が一体となってまちづくりを考える貴重な事例であります。
 最終的には在宅医療を含むモデルは医師会と行政が密接に相談しなくてはならない事項であり、医師会が地域包括ケアの医療部分を担う事になります。柏市は元々開業医が少なく、昔からの医院も少ない事から在宅診療、往診診療も充実していない現状があり、それの改善には若い医師会員が先頭に立つ必要がありました。この4年ぐらいで大きく変わって来た現状について医師会の副会長からご説明いただきました。主治医、副主治医制で、後方病院は10病院あり、そのコーディネートは行政が行い、拠点として地域医療連携センターが設けられています。このセンターは、医師会、歯科医師会他が拠出した資金で建て、市に寄贈し運営しています。かなり切羽詰まった緊急的な構築になっていると感じました。
 昔から往診をして在宅看取りをしていた長岡地区とは歴史的な点で、大きな違いがあります。山間部を含む広範な地域をカバーしなくてはならない地域的な点でも大きな違いがあると思われました。元々訪問診療に経験のある先生方、訪問看護ステーションの増加、24時間対応の介護体制が既にあるわけですので、お互いの顔の見える体制が構築できれば、現体制でかなり充実した在宅医療ができるものと自信を深めました。
 柏市のプロジェクトは以下の6本の柱にのっとっています。(1)医療提供体制の充実、(2)看護・介護サービスの充実、(3)医療・看護・介護における多職種の連携、(4)生活支援サービスの体制強化、(5)住まいの提供、(6)健康であり続けるための仕組み作り
 興味があったのは6番目の健康であり続ける仕組みです。5階建ての建物を上り下りするお年寄りには健常な方も多く、その方たちがいわゆる「ぴんぴんころり」であることが望ましいわけです。元気なお年寄りの居場所を作ることも大切で、建て替えに伴ってできた遊休地を利用し、柏市では民間に委託して保育園、学童保育、農園等、高齢者の就業場所を作っている現状も説明がありました。長岡でも行政が積極的に舵取りする必要があると思いました。
 日曜日にも関わらず丁寧な説明を行政の職員や医師会の先生がしてくださり大変恐縮しました。 ほぼ毎日のように視察があるとのことで、全国的にも地域包括ケアシステムの構築が急務であることを感じさせられました。あいにくの雨で実際に見学できるところが限定されたことが残念でした。
 帰りのバスの中は多職種の方々とこれからの展望につき忌憚のない話をすることができ、ここでも顔の見える関係が構築できたのではと思いました。

 

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蛍の瓦版〜その6 理事 児玉伸子(こしじ医院)

1.新たな財政支援制度〜その3
 瓦版の3号(9月号)でお知らせした“新たな財政支援制度(地域医療介護総合確保基金)”の都道府県枠が内示され、県の福祉保健部からその用途案が示されました。国の負担は全部で602億円ですが、そのうち新潟県へは12億円が割り振られます。都道府県は国庫負担分の半額相当を別途負担するように決められており、そこで新潟県は6億円を負担し、総額18億円が県全体の予算規模となります。
 この予算案は、(1)病床機能計画に基づく病床再編、(2)在宅医療介護サービスの充実、(3)医療介護従事者の確保養成の三本柱に沿って実施される予定です。今年度の予算は医療に関するものが中心となっており、単年度予算ではなく、継続して活用できることが特徴です。この予算案は今後県議会の承認を経たうえで正式な予算として実行されるものです。
 (1)病床機能計画に基づく病床再編に関連する予算では、その99%相当が“回復期リハビリ病床の設備事業”に充当され、2年計画の事業費として総額4億9千万円が予定されています。
 (2)在宅医療の充実のための地域包括ネットワーク基盤整備事業に3千8百万円が予定されています。これは医師会・歯科医師会・看護協会・薬剤師会・栄養士会への委託事業が中心です。医師会への委託事業はまだ事前の検討段階で、今年度の予算は9百万円程度の予定です。県の事業として、認知症連携促進事業に70万円が予算化されています。
 (3)医療従事者の確保養成では、医師と看護師を対象としたものが大半を占めています。医師の確保養成を目的に新潟大学内に地域医療支援センター事業が設置される予定ですが、そこに8億円が用意されています。その内訳も細かく規定されており、5億5千万円は医学生への奨学金です。看護師の確保養成目的の様々な案件にも、総額7億8千万円が充当されています。

2.在宅医療連携に関する委員会(仮称)
 長岡市医師会では、当地長岡にてより良い在宅医療連携システムを構築するために、委員会を設置し検討を行うことになりました。年2〜3回の開催の予定です。在宅医療連携システムや当委員会の活動に御意見や興味のある方は、医師会または委員個人へ遠慮なく御連絡下さい。

3.難病患者に対する新たな医療費助成制度
 今年の5月に“難病患者に対する医療等に関する法律”が制定され、国の通知によって行われていた今までの制度とは、いくつかの点が変わります。都道府県が主体となり、法律に基づいて特定医療費(難病患者に対する医療費助成)の支給や、医療機関や医師の指定を行うこととなりました。
 現在56疾病に対して助成が行われていますが、順次適応を拡大し来年夏には約300疾病まで認められる予定です。一方、新しい制度では収入と病状に応じて自己負担額が派生し、既認定者に対しても3年間の軽減措置後同様の負担が求められることとなります。
 新たな助成制度から医療費の支給を受けるために、医療機関と医師は都道府県に申請し指定を受ける必要があります。難病指定医の申請条件として、将来的には1〜2時間の研修が必須となりますが、現時点では不要です。申請書は県からも送付されていますが、未提出の方は御一考下さい。小児難病疾患も同様に変更されます。

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巻末エッセイ〜軍人の靴下  江部達夫(江部医院)

 日本の中高年の方に「秋の味覚」と問えば「マツタケ」と返ってくるだろう。そのマツタケ、戦前には秋になると広島県や岡山県の産地から、毎日数十トンが山陽、東海道線で東京の市場に運ばれていたと言う。しかし今では収量は全国で百トンにも満たない程に激減、絶滅危惧種だ。その原因は「松くい虫」による赤松や黒松の立ち枯れ。大きな松の樹皮が枯れ剥がれ、白い裸木になっている光景があちこちに見られる。
 松の立ち枯れは1905年に長崎で始まり、たちまち九州全土に拡がった。北米から輸入した材木に病原生物が付いて持ち込まれたと推測されるも、病原体が分からないまま、本州や四国にも拡がり、北上を続け、百年たって青森県まで被害は拡がった。
 その病原体が分かったのは、松枯れ病が始まって65年たった1970年。森林総合研究所九州支所が1ミリメートル足らずの小さな線虫が松枯れ病の病原体と報告、マツノザイセンチュウ(松材線虫)と名づけた。この線虫を木から木へと運び伝染させる媒介者がマツノマダラカミキリであることも分かった。
 マツノザイセンチュウは松の樹皮の導管に入り、増殖し、導管を詰まらせ、水の吸い上げを悪くし、松枯れに至らしめると。また有毒成分も分泌していると言われているが、未だ解決されていない。
 さてマツタケの学名であるが、日本では Tricholoma matsutake とされているが、欧米では T. nauseosum だ。つまり nausea のするキノコの意。
 マツタケは、日本では万葉の時代から和歌に読まれている。古くから好まれていた。しかし欧米人にはマツタケの香りを嫌う人が多い。「軍人の靴下の臭い」、「長く風呂に入っていない人の臭い」と、忌み嫌う人が多いのだ。日本人のマツタケ好きはDNAに組み込まれているのでは。永谷園のマツタケの吸い物は子供達にも好まれている。
 吸い物のマツタケの香り、日本の研究者が1938年この香りの成分を解明した。マツタケオール(オクテンオール)とケイ皮酸メチルからなっていると。香りは主にケイ皮酸メチル、今では合成されたものが市販され、吸い物になったり、輸入マツタケにスプレーにして振りかけ、国産品に化けさせたりと応用されているのだ。二千円の土瓶蒸し、騙されて食すのも乙なもの。マツタケの香りは揮発性、地から抜いてしまうと日々香りは薄くなってゆくのだ。
 昭和の時代には関川村の山で担ぎ切れない程のマツタケを採っていた。秋になると日赤病院の仲間十数名を自宅に招き、女房はマツタケ料理のフルコースを造っていた。平成十年代には、関川村の赤松は殆ど枯れ果て、今では奥山に健全な赤松が少し残っているだけ、運が良ければ何本かマツタケが採れるので、今でも毎秋山に入っている。この秋はマツタケは採れなかったが、マイタケの群生に出会った。
 十年前になろうか、傘の径が三十センチもある大きなマツタケに出会った。傷み始めており、軍人の靴下の臭いがしていたが、もったいないのできれいな所を切り出してご飯に炊いた。このご飯を食べた者が、腹痛、嘔吐や下痢を起こした。食中毒だ。マツタケのアミノ酸が変化し、有毒成分(ヒスタミン、フェニールエチルアミン)が生じていたのだ。マツタケは立派な毒キノコでもある。

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