長岡市医師会たより No.420 2015.3


もくじ

 表紙絵 「ヴュルム川」 木村清治(いまい皮膚科医院)
 「開業一年目の感想」伊藤薫(伊藤皮膚科クリニック)
 「この髪型」 堀内綾乃(長岡中央綜合病院)
 「別れのことば」 小林眞紀子(小林真紀子レディース・クリニック)
 「辛かったけど感動いっぱいの未丈ヶ岳登頂記」 江部佑輔(長岡赤十字病院)
 「第142回新潟県医師国保組合会」 荒井義彦(荒井医院)
 「蛍の瓦版〜その10」 理事 児玉伸子(こしじ医院)
 「巻末エッセイ〜半世紀前の北海道無銭旅行」 星榮一



「ブュルム川」 木村清治(いまい皮膚科医院)


開業一年目の感想  伊藤 薫(伊藤皮膚科クリニック)

 開業して一年ということで原稿の依頼をいただきました。開業といっても私の場合は父が既に開業していた医院に入ったため、ゼロからの出発ではなく、大きなことは言えないのですが、思いつくまま記したいと思います。
 昨年私が入ったことで医院名を皮膚科クリニックとしましたが、父も週一回は診療しています。私もその日は新潟大学病院の外来で新患の方の診察を行っています。それによって若い大学の先生たちとの交流ができるのも新しい情報を得るのに有用です。
 開業医は患者さんが最初に訪れるファーストタッチの役を担うようになってきているのも実感します。例えば、帯状疱疹はごくごく初期の段階で受診される方があります。以前病院で診察していた時はなぜこんな重い症状になるまで病院を受診しなかったと感じることが時折ありました。それに対して開業医では早期の段階で診ることが多くなったと思います。ただし、あまりにも早期に受診され、却って診断に苦しむこともあります。
 また、大学での週一回の診察時の患者さんの難易度が大きく異なるとも感じています。大学では前医で診断と治療が難しいと判断されて紹介受診する方が多いので難しいのは当たり前ですが、いつもとは違う刺激を受けます。
 さらに開業医と勤務医の大きな違いは、事務的な仕事があることでしょう。大学や病院では事務の方々が行っていた仕事の大変さが分かるようになってきました。
 診療をしていると気が付くのが高齢の患者さんが多いことです。勤務医時代にはそれほど感じなかったことなのですが、まさに高齢化社会を実感します。しかし私も遅かれ早かれ仲間入りするので他人事ではないなと思うこの頃です。
 開業すると気を付けないといけないことが、新しい疾患概念や薬剤や検査の知見に遅れをとらないようにすることです。それは開業して年月が経過しても独りよがりな診療にならないようにするためにも重要なことと感じます。病院ですと周囲に同僚や他科の先生がいらっしゃるので、その方々から専門や専門以外の分野の知識を得ることができますが、ひとりではそうはいきません。さらに皮膚科では薬疹をはじめとする薬剤性障害を診る機会があるので他科の新薬の知識も必要です。そのためにも少なくとも自分の関連する講演会や学会にはできるだけ参加し、時間の制約もあるので全てに目を通すのは無理ですが、医学雑誌などに載る他科の記事にも関心を持つようにしたいところです。
 最近は増える書類、文献、趣味の文献をなるべく電子データに変換するようにしています。パソコンの機能とインターネットの速度が向上してきているので、なるべくペーパーレスを目指したいと思ったからです。これは診療にも応用しています。
 診察時にはタブレット端末を持って行き、患者さんの使っている市販の薬品や化粧品や健康食品を検索するようにしています。これは病院時代にはできなかったことです。病院の診療に使っているパソコンはセキュリティの確保のために外部と繋がっていないため、診察の際にすぐにインターネットで検索ができないのが不便でした。その頃にはスマートフォンも持っておらず不便な思いをしました。その点タブレット端末だと簡単に検索できるし、患者さんの目の前にすぐ提示できます。データや書類を電子化してタブレットやスマートフォンで見られるようにしはじめています。
 仕事のことばかりを書いてきましたが、自分の体のことも気にしなくてはなりません。勤務医の頃は医局、外来、病棟、売店(?)の間を行ったり来たりと結構な距離を歩いていたのですが、医院では歩くことがめっきり少なくなりました。運動不足になりがちです。もっと頭を使ってグルコースを消費すべきなのでしょうが、思ったように消費されていないようです。そのために医院から近くの買い物にはなるべく歩いて行くようにしています。ウィークデーの昼間に外を歩きまわることができるのは病院勤務時代にはあまり無かったことだなと新鮮に感じています。これからも自分の体も大事にしながら続けていきたいと思っています。

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この髪型 堀内綾乃(長岡中央綜合病院)

 長岡中央綜合病院の研修医2年目、堀内綾乃と申します。“ぼん・じゅ〜る”のリレーのお話をいただきましたが、わたしは昔から趣味がなく、好きなことについて語ることはできそうにないので、最近の他愛もないできごとを書かせていただきます。
 少し前、同じ病院にいる先輩から「生まれるとき○○先生に取り上げてもらった」という話を聞きました。そしてつい先日、健康診断で調べた風疹抗体価が低値でした。風疹やってなかったっけ?
 年末年始、実家に帰らせてもらいました。そのときこのことを思い出して母に母子手帳をみたいと言ってみました。母はすぐに戸棚からポーチを持ってきました。私は三人姉妹ですが、ポーチの中から4冊の母子手帳が出てきました。もしや……1冊は母の母子手帳でした。表紙のデザインは年代によってこんなに変わるものでしょうか。笑ってしまいました。しかし内容は成長曲線や予防接種の記録などそれほど変わらず、児童憲章は一文字も変わっていないようでした。小さい「っ」が大きい「つ」で書かれていたり、センチメートルやグラムが漢字だったりした程度。家族と笑いながら一通りみたころ、もしや、と思って父に尋ねました。「母子手帳持ってたりする?」。書斎からすぐに持ってきてくれました。家族に大爆笑が起こったそのすべらない写真がこちらです。時代を感じますね。そして中をみます。長男のわりにあまり書き込まれていなかったので、予備欄にあった1行が目に止まりました。「配給台帳に記入済み」と書かれハンコが押してありました。「配給? 配給ってあの?」父が生まれたのは戦後10年くらいだそうです。歴史を感じました。もちろん表紙と同じく笑いも起きましたが、戦争が身近なものに感じてなんだかドキドキもしました。最近の他愛もないできごとでした。写真をみて笑っていただきたかっただけでした。
 母子手帳に興味がわいたので調べました。以下インターネットの情報です。妊娠がわかったら、役所に届け出をして母子手帳を受取ること。病院での妊婦検診や出産、家庭での育児の過程、予防接種や健診などでの活用。これらは日本ではあたりまえのこと。しかし、妊娠中から幼児期までの健康記録が1冊にまとまり保護者の手元に保管されるこのしくみがある国は、世界ではあまりありません。『日本、ブルキナファソ、コートジボワール、東ティモール、インドネシア、韓国、ニジェール、セネガル、タイ、チュニジア、ユタ州(アメリカ)』。日本では1942(昭和17)年、真珠湾攻撃の翌年、戦争の規模が一気に拡大し、兵隊さんを産めよ殖やせよの富国強兵施策の一環として、国が妊婦の段階からその健康を管理するために考案されたと言われています。ドイツのある地域で取り入れられていた母子手帳による妊産婦登録制度に感銘を受けた当時の厚生省の瀬木三雄氏が日本用に改善を加えて導入したそうです。妊産婦手帳を普及させるために様々な工夫がなされ、妊産婦手帳を持っていれば食糧不足の戦時下でも米など物資の優先配給が保証されたり、定期的な医師の診察を受けたりすることができたようです。さらに妊産婦手帳には出産申告書がついていて、これを提出することによってミルクを手に入れることができる仕組みになっていました。(父の配給台帳はこれのなごりですね!)その後1947年に妊産婦手帳はなくなりましたが、翌年に『母子手帳』が登場することになりました。母子手帳には赤ちゃんが生まれてからの健診データや予防接種の記録が付け加えられました。
 いま私は産婦人科で研修させてもらっていますが、最近の母子手帳はかわいいものが多いです。お気に入りは横浜市のミッフィーちゃんです。わたしも子供を授かったらミッフィーちゃんの手帳がいいな、と横浜をうらやましく思いながら、私は新潟で働いていきます。これからもよろしくお願いします。

 

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わかれの言葉 小林眞紀子(小林真紀子レディース・クリニック)

 私の大切な友が、あっという間に逝ってしまいました。
 その友の名は古屋敷香織先生(長岡中央綜合病院麻酔科医)。
 私が彼女と初めて出会ったのは、平成22年10月、長岡中央綜合病院臨床研修医2年目の地域研修で当クリニックに来られた時でした。偶然にも大学の後輩。育児中の研修医は初めてでしたので、お互いに不安がいっぱいでした。しかし一緒に働いてみると、あっという間に不安はなくなり、むしろ魅力に変わっていました。何とも言えない可愛らしさ、温かさ。今になってみると、きっと子育て中でなければ出しえない味だったのかもしれません。
 我が家には、ウサギが7匹おります。彼女は私のウサギ飼育の先生でもあったのです。そのきっかけは、先生が“ぼん・じゅ〜る”に投稿して下さった「ウサギと暮らす」(平成23年4月、bR73を拝読したからです。ウサギを育てる際に最も大切なのは、ストレスを与えない事と温度調節であると何度も何度も教えて下さいました。おかげで我が家のウサギ達はみんな元気です。先生のお宅にもらわれて行ったウサチャンも、その日がお正月に近かった事から、“おもち”ちゃんと名付けられ、愛情たっぷりに育っている様でした。その成長ぶりを、時々メールで送って下さいました。“おもち”ちゃんをもらいに来られた時の光景は、今でも忘れられません。
 御主人(剛先生)、御嬢さんと3人で、どのウサギにするか、なかなか決まらす、結局御嬢さんの選ばれたウサギに決められたようでした。
 先生のお宅には、先輩ウサギ“まる”ちゃんと、ネコちゃんも同居と聞いております。ウサギとネコが仲良しなんて考えられませんでした。きっとそれも、先生とご家族のやさしさゆえと思います。今回の落馬事故の時まで、お馬さんの事は知りませんでした。きっとお馬さんにも愛情たっぷりでいられたのでしょうね!。
 「今度一緒に食事をしたいです」との伝言が、最後のメールになりました。
 今までは、会おうと思えばいつでも会える、声を聞きたければ電話をすれば良い。けれど亡くなってしまうとそれができなくなる。“死”とはそういうものなのですね!。先生のあの温かな笑顔が見られなくなると思うと辛いです。でも先生は私の心の中で、ウサギ達と一緒に生き続けます。
 お通夜の際の御主人のお話をうかがい、ご家庭での香織先生の御様子が手に取るように分かりました。お幸せでいられたのですね。あまりにも早すぎる別れに、辛い思いでいっぱいですが、きっと先生はこの短い生涯を人の数倍、いや数十倍も充実した暮らしをされたのではないでしょうか? ご冥福をお祈りいたします。合掌。

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辛かったけど感動いっぱいの未丈ヶ岳登頂記 江部佑輔(長岡赤十字病院)

 私は最近めっきり山にハマっている。近年、中高年の間で登山がブームですが、以前は正直「年寄りの冷や水」と思い、救急外来に中年の登山者が怪我して運ばれると「ほらみろ」なんて本当に思っていた。ところが、3年前、あることをきっかけに、本当に突然にヤマキチになってしまった。それ以来、鋸山、粟が岳、守門岳、浅草、仙ノ倉、谷川岳、苗場山、岩菅山などこの近辺の山から、白馬や五竜などの北アルプス、さらには四国の剣山など、時に学会を途中で抜け出してでも登るようになった。雨飾山では雷を避けながら死ぬ思いで下山したこともあったし、平ケ岳では雨で体力を奪われ途中で下山を余儀なくされた。父も登山には理解があり、春から秋までの登山は構わないとのことで、今年も精力的に登り続けた。しかし、冬山は家族全員から「NO!」とのことで、1、2月は近所の三之峠山(市営スキー場の右側に見えるピークです)近辺をスキーやスノーシューで歩いて楽しむだけにしている。
 まだまだ登山経験は浅いが、実は山登りを始めた時からずーっと興味を引き付けられる山があった。それが「未丈ヶ岳」である。奥只見にある山で、藪が多く、マムシなどが多いことから極めて人気のない山なのだが、なぜかその山名に魅かれ、いつかは登ろうと考えていた。が、ヘビが苦手なためついつい避けつづけてきた。しかし、ふとしたことからそのチャンスが到来した。それは10月末の週末、久しぶりに粟が岳に登り越後の秋山に魅了され、この秋もう一回登りたいという衝動に駆られていた時であった。実は11月の連休は会津朝日岳に登ることにしていたが、その後、会津朝日の登山口までの道が昨年の水害で未だに通行止めであることが判明。結局どこに行くか決まっていなかったので、ここは、と一緒に登った整形の大滝先生と高校同級で僕の山登りの相方である霜田君に「11月連休は未丈にしよう」と提案したところ賛同を得られた。「やった、ついに未丈だ」と心から興奮した。ネットで天気予報を確認すると、11月3日の魚沼市の天気は曇り、日中最高気温18度との予報であった。一般にマムシなどの蛇類は日中の気温が10度ぐらいまで下がると活動しなくなると言われている。未丈の登山口の標高は680mだから、まあ心配ないだろうと考え、僕の中で未丈登山は確実なものになった。直ぐに当院病理検査OBの岩本さんにもメールしたところOKの返事をいただいた。
 「未丈ヶ岳」の「未」は干支で羊を意味する。山の名前に干支の文字が使われることは多く、馬を意味する「駒」は越後駒ヶ岳や栗駒山など非常に多く使われており、他の干支の生き物の字も山の名前にはよく使われるが、未年の「羊」や「未」は殆どなく、北海道の羊蹄山以外には本県の未丈ヶ岳しかない。つまり未丈ヶ岳は本州唯一の未年の山なのだ。山名の由来は定かではないらしいが、江戸時代後期に編纂された「日本山嶽志」には「大鳥みしょうヶ岳」とある。以前、未丈ヶ岳山頂から先に大鳥鉱山に向かう道があったとのことであるが、鉱山廃鉱後は道も廃道となり、未丈より先の山には容易には足を踏み入れることができなくなった。
 当日は朝方まで雨が降っていたが、集合時間の5時半には雨も上がった。当日の魚沼地方の予報は午前中曇り時々晴れで小出近辺の気温は日中20度を超える予想。ただし、午後の3時頃から山沿いで雨が降り始めるとのこと。メンバーは私、大滝先生、岩本さん、霜田君の4名。これまで未丈に2回登っている霜田君の車に乗り込んで6時に江部医院の駐車場を出発した。未丈ヶ岳の登山口は奥只見シルバーラインの湯ノ沢トンネル内にある泣沢待避所のシャッターを開けて入るが、その時点でもういままでの登山と違う。待避所から100mぐらい入ったところに車台は止10められる広場があり、軽自動車が一台だけ止まっていた。そこで支度を整えて7時15分登山開始。歩き始めるなり前方で爆竹を鳴らす音が。どうやら先の一台で来られた方らしく、おそらくはキノコ採りでクマ避けに爆竹をならしたのだと思う。我々は恐る恐る登山道を前に進んだ。登山口の気温は8度、天候は薄曇りで、時おり日差しも差し込むぐらいに回復していた。登山道はすぐに沢に下り、最初の渡渉。水量はさほど多くなく普通の登山靴で十分に渡れる程度であった。渡渉は計三回。3つ目の渡渉の前後で鎖場の下り、登りがあった。そこまでは沢沿いに傾斜のきつい斜面にある狭い道(へつりという)を歩くため、少々神経は使った。その後しばらく沢沿いの平坦な道を歩くと、黒又川本流にかかる赤い鉄製の橋が現れた。この橋は本年夏に新しく架けられたもので、3年前の水害で橋は流失し、しばらく橋のない時期があったようで、その間は黒又川に腰まで浸かって渡渉していたらしい。橋を渡ってしばらくすると漸く登り道になった。ただ、予想していたよりはるかに良い登山道で、斜度もそれほどではなく、これはきっと快適な登山になるなと思われた。しかし、登り始めて数分もすると頭から汗がだらだらと垂れ、呼吸もいつもに比べてきつく、足もなかなか前に進まない。予想より気温が高くなったことも影響したのだろうが、どうやら二日前に高校の先輩(長高山岳部OB)と深夜まで痛飲したことが当日も堪えたようであった。いつもなら登りが得意で、だれよりも先を登るのであるが、この日は仕方ないのでともかく息が上がらないようにペースを落として、ゆっくりゆっくりと登ることにした。登り始めて1時間ほどで947mピークに到着。天候はさらに回復し予想を超える気温の上昇で、全員ここで上着を一枚脱ぐことにした。ここからは越後三山や荒沢岳が目の前に見えて、目指す未丈の山頂もまだ結構遠くではあったがはっきりと見えた。15分ほどの休憩ののち、いったん50mほど下り、通称「松ノ木ダオ」という幅の狭い鞍部を渡った。ここまでの道のりは、いつもの体調なら特に問題のない登山だなと感じたが(今回はかなりへばっていたが)、松ノ木ダオを渡ってすぐにこの山の本当の姿を知ることになった。斜面が今までより遥かに急登になっただけでなく、所々で笹薮が行く手を遮るようになってきた。笹薮の高いところでは自分の身の丈以上のところもあり、登山道自体もそれまでとは打って変わり、狭く、足場も悪い道の連続であった。笹の藪漕ぎには想像以上に体力を奪われ、重たい足取りはさらに重たくなり、5分歩いては1分休みを繰り返すことになった。先を行く大滝先生と霜田君の影も分からなくなったころには、半ば意欲も喪失した状態であったが、僕の後ろから僕のペースに合わせて登ってくれていた岩本さんに「きつい山ですね。ゆっくり登りましょうよ」と声をかけていただき、なんとか芯を一本保った状態で登り続けることができた。松ノ木ダオから1時間半ほど登ると藪は相変わらずであったが、斜度はゆるくなり、漸く目の前が開けたところに到着、1522.9mの山頂であった。所要時間約4時20分。昭文社の「山と高原地図」に載っているコースタイムとほぼ同じ時間での登頂と少々情けない結果ではあった。この日は比較的空気が澄んでいたため周辺の山々がよく見渡せた。しかし、未丈の醍醐味はこの山頂ではない。山頂からわずかに東南へ藪漕ぎして降りたところに、一面見事な草紅葉をなす広大な草原が広がっている。我々がこの草原に着いた時にちょうどよくランチタイムになり、シートを草原に広げ、山男4人はビールで乾杯をした。私は登山を始めた時から、この未丈山頂に広がる草原にあこがれていたが、まったく期待にたがわぬ見事な光景でした。そこからは、眼下に奥只見丸山スキー場を見下ろし、南に平ケ岳、燧ケ岳、会津駒ヶ岳、東に会津朝日岳、北には毛猛山、浅草岳などの多くの名峰を身近にみることができる。いつまでもそこで山を見ていたい気持ちではあったが、午後1時前から雲行きが怪しくなってきたために、後ろ髪をひかれる思いで下山を開始した。下山も困難が予想されたがまったくその通りで、藪で足場が不確かなために何回も転倒してしまった。大滝先生はガレ場でコースを間違えてしまい、我々もそれについて行きそうになったが、この山のベテランである霜田君がすぐにそのことに気づいてくれたので事なきを得た。3時には予想通り雨が降り始めたが、本降りになる前には無事下山することができた。
 今回の登山は今年もっとも疲労困憊し苦労も多かった分だけその感動は一入であった。その日おそらく未丈の山頂にいたのは我々4人だけだったことも、よりこの山の感動を盛り上げてくれた。中々登ることのない山ではあるが、今度は花の季節に挑戦したいと考えている。ちなみに今回はヘビには一匹も遭遇することはなかった。次回もそうであってほしいと願うばかりである。

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142回新潟県医師国保組合会 荒井義彦(荒井医院)

 去る8月28日県医師会館にて開催された医師国保組合会に組合会議員として田辺一彦先生と出席しました。当委員会からは、組合理事として大塚武司先生、監事として大貫啓三先生も出席されました。当日は現況報告、議案審議5件は特に異議無く了承されました。
  前回に引き続き、医師国保がおかれている厳しい状況について報告をしたいと思います。まず国庫補助金削減問題です。医師国保の構成員は第一種組合員(医師)、第二種組合員(従業員)、及び家族から成り立っています。現在の国庫補助は、通常かかった医療費の32%ですが、一人医師医療法人や従業員5人以上の社会保険適用事業所となっている診療所が平成9年9月以降に適用除外申請をして医師国保に残った場合の国庫補助は13%となっております。また補助率の少ない被保険者の割合が年々増加しているため平均すると一人あたり20%に減りました。さらにこの国庫補助は27年1月に段階的に減額される見直し案が提示され、28年度より年3.8%ずつ引き下げられ32年度には13%となり現在のほぼ半分になります。このままでは平成28年度以降は大幅な財源不足になることは必然です。さらに平成25年度から単年度収支が赤字に転落し、27年度は組合の財政事情がいよいよ厳しくなってきました。繰越金が以前の1/3になったため、このままでは27年度予算を組めず、26年8月より収支がマイナスとなっている後期高齢者支援金と介護納付金分保険料を7年ぶりに各々1,000円引き上げ、さらに別途積立金より取り崩しを行い、ようやく27年度予算を組みました。
 組合員は75歳で後期高齢者となるため、退会となりますが、高齢者関係の拠出金が増加していることもあり、このままでは近い将来に保険料値上げとなりそうです。当組合も療養付加金制度廃止等の財政引き締めを実施しております。まだ給付率等他の組合国保や協会健保に比較して有利です。個々の医師が医師国保の今後の動向に関心を持っていていただきたいと思います。

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蛍の瓦版〜その10 理事 児玉伸子(こしじ医院)

1.長岡市の救急事情
 2月12日に長岡市消防本部主催の長岡市の救急懇談会が開催され、長岡市医師会からは太田会長を初め大塚・長尾両副会長と担当理事4名(川嶋・上原・加藤・荒井)の計7名が参加しました。診療サイドは、輪番体制の3病院から各3名(病院側の責任者および現場の医師と看護師の1名ずつ)に加え、長岡西病院と精神医療センターからの各1名で計11名が出席しています。長岡市消防本部からは12名が参加し、26年度の長岡市の救急事情について説明されました。
 昨年度の出動件数は9,939件、搬送人数は9,255人ありました。出動件数の内訳は、急病が6,427件(65%)と最も多く、一般負傷1,386件(14%)交通事故794件(8%)転院搬送は655件(7%)ありました。過去10年間の出動件数は、平成17年の8,988件から21年の8,349件までは微減していましたが、その後は徐々に増加しています。
 通報から病院到着までの時間は36分で、全国平均の39分や新潟県の42分に比べ短くなっています。さらに、全国や新潟県では延長傾向にあるにもかかわらず、長岡市では一昨年から短縮に転じています。救急隊から病院への収容依頼は96%が1回で完結しており、3回以上の問い合わせを必要としたものは1%未満でした。表1(※省略)に医療機関別搬送人員を示しましたが、3病院の輪番体制が有効に機能していることが理解できます(ありがとうございます)。
 心肺停止患者搬送数は316名あり、275名には現場で何らかの救命処置が行われています。心拍が再開したものは53名ありましたが、生存して退院したものは7名で、そのうち2名は一般市民によるAED(除細動機)使用例でした。

2.長岡地域救急懇談会
 平成18年6月に、輪番体制の3病院の救急担当医師と看護師によって、救急医療に関する諸問題の情報共有と対策協議のために立ち上げられました。その後、長岡市の消防本部や、市医師会(救急担当理事)や精神医療センターが加わっています。さらに行政側からは、長岡市の健康課・生活支援課(生活保護担当)・長寿はつらつ課(高齢者担当)や長岡保健所(中越地域いのちとこころの支援センター等)も参加しています。現在は長岡市周辺地域の消防や病院、また県弁護士会やメディアも加わっています。
 現在、本懇談会は長岡市、見附市、小千谷市の関係者が参加し、年に6回偶数月に開催され、毎回30余名が参加しています。会では、提示された問題点を参加者全員が共有し、その対策について協議するようにしています。問題症例についても情報共有や対応の統一化を図っています。3年前からは、年に2回は柏崎と出雲崎地区の病院や消防・行政からも約15名が加わり、さらに広い範囲の地域連携を目指しています。

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巻末エッセイ〜半世紀前の北海道無銭旅行 星 榮一

 昨年の本紙九月号の自己紹介の文を考えていたら、学生時代の種々の愚行を思い出した。
 医学進学課程二年生の昭和三十五年の夏休みに、クラスメイトと北海道旅行を企画した。貧乏学生であるので、学校やお寺に泊まることにして、大学の厚生係長から「本学の学生であるので便宜をはかっていただきたい」旨の通行手形を書いてもらい、鍋・釜一切を持参して六名で出発した。スケジュールは一切決めてなく、行き当たりばったりの旅行であった。鈍行の国鉄と路線バスだけを使った。当時は戦後十五年目で、世の中がのんびりしていて、どこでもお願いすると軒を貸してくれた。
 記憶が定かでないが、三週間位で北海道を一周したように思う。同じ場所に一〜ニ泊しながら、あちこち見学して回った。どこをどう回ったか忘れてしまったが、順序不同で印象に残っている処を記してみたい。
 新潟から青森まで鈍行で大分時間がかかった。青函連絡船に乗り換えて函館に渡った。長万部駅では昼食にホームで駅弁屋から毛蟹一杯ずつを買って食べた。そんなに高価ではなかったように思う。登別温泉ではお寺に泊まり、熊牧場の見学や、第一滝本館の大浴場を使わせてもらった。
 層雲峡では、お土産屋の二階に泊めてもらい、大雪山に登山した。ロープウエーなどがない時代で徒歩で登った。雪渓があり、ナキウサギやクロユリ、コマクサを見ることができた。
 網走では監獄を見学し、港の捕鯨船で鯨肉を求め、原生花園近くの小学校の校庭に幕営した。浜で漁師からは魚を、農家から一升瓶で牛乳をわけてもらった。夜は校長先生の住宅でお風呂に入れていただいた。ここで見たオホーツク海の夜空は忘れられない。
 「君の名は」で有名になった美帆峠や摩周湖では、ロマンチックな思いに浸った。屈斜路湖でも幕営し、湖畔の露天風呂を楽しんだ。
 阿寒湖では、アイヌのおばさんとアイヌの衣装を着て写した写真がある。襟裳岬では海岸で漁師から、素晴らしく上等な昆布の大きな一束を家へのお土産として求めた。
 札幌では北海道大学の恵迪寮に泊まった。札幌ビール工場見学は最後に生ビールの試飲があり、当時新潟では生ビールなどは飲めなかったので、殊更おいしかった。翌日は「おつまみ」を持参して再度工場見学に行った。月寒の丘のジンギスカン焼きも忘れられない。今は札幌ドームや種々の建物ができているが、当時は一面の草原で羊が放し飼いになっていた。恵迪寮も旧制高校時代からの古い建物で趣があった。
 小樽では新潟医科大学の卒業生で、眼科を開業されている先輩を訪問し、ホテルでランチをご馳走になり、旅館を取っていただき北海道で初めて旅館に泊めてもらった。オタモイ海岸や手宮洞窟で古代文字の見学をした。
 それまでは、北大の恵迪寮以外は全て自炊していて、昼は列車の郵便車両で車座になって食べることもしばしばあった。(現在、JRでは郵便車両は連結していない。)
 半世紀以上前の北海道の観光地は現在と大分ちがっていたようだ.今のガイドブックにはあまり載っていない処もある。
 古き良き時代であって、学生ということで甘えさせていただいた。若き日の無謀な企画で、多くの方々にお世話になった。一緒に旅行した仲間も二名は彼岸に旅立ってしまった。

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