長岡市医師会たより No.424 2015.7


もくじ

 表紙絵 「霊峰に集まる霊たち」 福居憲和(福居皮フ科医院)
 「春谷重孝先生の思い出」 吉井新平(立川綜合病院)
 「立夏のゴルフ場〜温暖化の影響」江部達夫(江部医院)
 「蛍の瓦版〜その14」 理事 児玉伸子(こしじ医院)
 「巻末エッセイ〜アンダルシア(続き)」 富樫賢一(長岡赤十字病院)



「霊峰に集まる霊たち」 福居憲和(福居皮フ科医院)

世界遺産の霊峰富士、平和という名の許で、

心をひとつに霊たちが祝い合う日が来たのです。


春谷重孝先生の思い出  吉井新平(立川綜合病院)

 去る6月13日、当院名物先生の春谷重孝先生が旅立たれました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
 春谷先生は2年前、当院外科泌尿器科合同の大手術を乗り切られて職場復帰され、最近まで月、水曜日、多忙な時には金曜日にも朝の検討会後に多くのファンの待つ外来を受持って頂きました。
 腰痛のため今年4月末から放射線治療されておりましたが、終始「絶好調!」で担当看護師さんの腰痛も気にしてか、用手法にて労われておられたと息子さんからお聞きしました。
 春谷先生からは大変多くの方々がいろいろな面で癒されていたのではないかと推察いたします。先生に相応しいキーワードは数え上げればきりがありません。立川病院心臓血管外科医としては「営業部長」、しかも手術は大柄な体格からは想像できないような丁寧かつ的確な手術で「手術巧者」でした。大変多くの後輩も育てられました。後輩の彼らが現在新潟県の心臓血管外科を支えているといっても過言ではなく、現場第一の「指導者」でもありました。一旦仕事を離れますと「宴会部長」に早変わりされ、新潟を代表する「お酒様」でもありました。「お酒様」の名は遠く山梨の地にも届いております。
 先生には我々が存じ上げない謎の部分も多く、いわば「離れ、奥座敷」をいくつも持っておられる方でもあったと思います。知りうる具体的な方面としては、マージャン、競馬などの「勝負ごと」、「海外旅行のベテラン」、誕生日の9月9日には必ず見に行く「片貝花火大好き人間」など、他にも大変多くの分野・人脈をお持ちでそれぞれに多くのお友達がおられたようです。これも先生の仁徳のなせる技、他人への配慮や思いやり、人を楽しませることが趣味の「好感度抜群先輩」でした。
 私ども後輩から見ると一見控えめでシャイですが、先輩・後輩からいつも気に懸けられている存在でした。研究会や学会で春谷先生を知る多くの先輩方にお会いするとまずは「春谷先生はどうしている、元気か」と声を掛けられました。「元気に仕事をされています」と答えますとどなたもとても安心され「にこにこ」されます。どうもそれ以外はあまり関心がないようで続いて「立川は最近どうだ」と聞かれたことはありません。
 春谷先生から声をかけてもらうだけでなんとなく「幸せ」な気分になります。春谷先生を知る百人いや千人の方々にはそれぞれ百通り、千通りの想い出があると思いますが、一応個人的な想い出を少し書かせて頂きます。
 先生とは昭和55年の秋から半年間、会津若松の竹田病院でご一緒させてもらったのが始まりです。心臓血管外科は実働春谷先生と二人のみでしたが、数多くの想い出多い手術をさせて頂きました。術者は基本的に交互でしたが勿論私は難易度の少ない手術が主で、春谷先生が術者の時は私が人工心肺と麻酔を担当することになっていました。どの道手術が終わると術後管理は私で、先生は病院近くの焼鳥屋「やまもと」を根城に街へ営業に出かけられる日々でした。
 先生はその後56年の春、神田に出来たての立川綜合病院に赴任され、これをきっかけに立川病院心臓血管外科がさらに世間に広く認知されることとなりました。その後、私が赴任していた山梨医科大学第二外科からも立川病院には心臓血管外科、消化器外科に修練医を出させて頂きました。彼らは多くの症例に恵まれのびのびと修練させて頂いたのみならず、全員「お酒様」の信奉者になって帰ってきました。
 先生が立川病院で個性豊かな先輩・後輩に恵まれ絶好調の20年目、当時山梨にいた私に、小さな消え入るような声で「立川に来てくれるといいんだけど……」と誘われました。ほんとに誘い上手でコロッとその気になってしまいました。先生の周りの少なからぬ方々にもこんな場面があったかも知れません。
 私は平成15年の秋立川病院に赴任、10年間一緒に仕事をさせて頂き、大変充実した心臓血管外科医生活を送らせて頂いております。これ以上の感謝はありません。
 2年前、10時間以上におよぶ大手術を乗り越えられ、当科ICUで数日過ごされ回復も目覚ましく再び往年の生活を楽しまれていましたが、運命には抗し難く、人生絶好調の盛りに逝ってしまわれました。いつか二人で病院スタッフを驚かせるべく、ある日突然丸坊主になって病院に行く約束を密かにしていましたが、実現出来ませんでした。
 「春谷先生、今は天国に居られると思いますが、そちらもやっぱりお酒はうまいですか?美しいお姉さん方も多いと聞いています。そうそう、そのあたりでうちの杉本努先生を見かけましたら、先生からもこちらに戻って来いと伝えて下さい……お願いします。」

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立夏のゴルフ場〜温暖化の影響  江部達夫(江部医院)

 平成27年5月5日、今年共に傘寿を迎えた女房とゴルフ初打ちの日。若人二人がお供をしてくれ、地元長岡カントリーに。天気にも恵まれ、眺望が開けた南コースからのスタートに。

夏立つ日コース早くも芝みどり

 1番は急な打ち下ろしのロングホール。ティーグランドに立つと、コースの芝はもう新しい青々とした若葉が伸び始めていた。日当たりが良く雪が早く解けた所は一面の緑に。昭和の頃は、冬枯れしたコースの芝が緑に変わり出すのは5月中頃からであった。
 日頃の運動不足を補うため、ティーショットが終わるとカートに乗らず歩くことにした。坂を下ると左は谷になっており、タニウツギがもう咲き始めていた。

タニウツギ花咲き初めし早夏日

 タニウツギはスイカズラ科の落葉低木、本州では日本海側の山地に自生している。新潟県では初夏の里山を彩る代表的な花だ。葉の緑が濃くなり始めた枝先に、ロート状の紅色の蕾をたくさん付け、開くとうす紅色の花に。温暖化が進んでいる平成にしても、今年の開花は早かった。
 グリーンに上がってみると、4打目がピン側に付きいきなりパー。
 南2番はミドルホール。コース左側の奥の深い林からブッポウソウの鳴き声が聴こえて来た。

コノハズク姿見せずに鳴きさかり

 声のブッポウソウのコノハズクは留鳥。冬は国内の雪のない南の方に渡ると言われていたが、雪の少なくなった昨今、長岡市内の常緑の大樹の枝に数羽に群れて、冬を越している光景を目にするようになった。冬場にはブッポウソウの鳴き声は聴かれない。ブッポウソウは初夏のラブコールの声のようだ。

タラ若芽葉枝大きく広げ出し

 南3番のティーグランド、左側の藪にタラの木がたくさん生えている。十日も早ければ食べ頃の若芽が採れたのだが、芽は生長し、早くも羽状複葉の葉枝を大きく伸ばし始めていた。昭和の頃のゴルフ場周辺の林では、ゴールデンウィークにタラやコシアブラの新芽を摘んだものだ。

コシアブラ五つ葉広げ吾迎え

 南4番は打ち下ろしのショートホール。運良くワンオン。ゆとりを持ってグリーン回りの藪に目をやると、コシアブラはたくさん生えているが、食用になる若芽の時期は過ぎ五葉の葉を広げていた。京料理にコシアブラの大きくなった葉を敷いて、アマダイなど白身の魚を蒸し焼きにする料理がある。私は大きな土鍋に小石を並べ、コシアブラの若葉を敷きノドグロを蒸し焼きにする。コシアブラの香りがしみ込んだぜいたくな一品に。この料理のために新緑の頃のコシアブラの葉を採り、冷凍にして保存しておく。
 南5番はミドルホールでグリーンまで登りが続く。ティーショットはよく飛んで、急な登りの中段に届いた。この登り坂の右側は藪になっておりOBゾーン、雪解けが遅く太いワラビが生える所。覗いてみるとまだ伸び出したばかり。

ふかぶかと頭垂れおるワラビの子

 深い藪の中に生えるワラビ、生長がゆっくりで軟らかくておいしい。魚沼や岩船の渓流に釣りに入ると、7月上旬まで採れる。ヤブワラビと呼んで楽しんでいる。
 このホール久しぶりでツーオンした。もちろんパーに。ブッポウソウの声が近くで聴えた。
 南6番のティーグランドは高台に。この高台の下に高さ十メートルはある朴の木が生えている。今年はもう開花。緑鮮やかな葉を大きく広げた枝先に、白い大きな花が咲いている。

朴の花気高く咲くも手に取れず

 朴はモクレン科の高木で、花は芳香を放っているが、木に登らなければ手にすることは出来ない。
 6番はロングホール、コースの中程に赤松の老木が生えている。マツクイムシ対策が施されているので枯れることなく元気だ。

一風でコース黄に染む松花粉

 例年なら5月中旬に花粉を飛ばすのだが、今年は立夏に花が咲き梢の枝先は花粉で黄褐色になっている。風が吹くとコースはたちまち黄色の大気に包まれてしまう。
 松林ではハルゼミが賑やかに鳴いており、その声に混じって遠くから近くからウグイスの谷渡りの鳴き声が聴えてくる。

ハルゼミに負けぬウグイス谷渡り

 心が穏やかになる生き物達の美しい声、気分よく打ったグリーン回りのバンカーショット、ホームランで球は大きくグリーンを越え藪の中へ。トリプルボギーに。2番から守ってきたオーナーの座を若人に渡した。
 南7番のティーグランドも高台。新緑の中、遠くにまだ雪山の魚沼三山(八海山、中ノ岳、駒ヶ岳)や守門岳が青空の下一望に見渡せた。

球を打つ忘れて新緑眺めおり

 新緑の中に、梢に白い花をたくさんつけた木々がある。山法師が開花している。例年より一週間は早い。

白ベレーかぶりて粋な山法師

 山法師(山帽子)はミズキ科の落葉高木。花は小さく球状に密生し、白い花弁に見えるのは大きな苞で4枚ある。花が終わるとヤマグワとも呼ばれる赤い実をつけるが、高い木に生るので、小鳥たちの餌だ。
 ミドルホールの8番、ティーショットが終わると急な下り坂。カート道はコースの左側にあり、下り切るとカート道沿いにシオデがもう50センチ以上に伸び花期に。

線香の花火を見たりシオデ花

 シオデ(牛尾菜)はユリ科のつる性の多年草。花序(花軸についている花の配列状態)は複散房型、線香花火を見るかのように、緑色の小さな花をたくさん付けている。アスパラガスに似た食味、若芽は春の食卓を飾る貴重な山菜だ。
 南最後のホール9番にやって来た。カート道は左OBゾーンに沿ってあり、このゾーンは低木の藪で、アケビの蔓がたくさん絡んでいる。蔓からは新芽がどんどん伸びている。キノメである。

夕食の酒の肴やキノメ摘み

 キノメは新潟県でも好んで食べているのは中越地区、特に信濃川とその支流の魚野川流域の人々。昭和の頃は妙高々原でキノメを摘んでいると、地元の人にそんなものを取ってどうするんだと言われたものだ。近頃は県内どこでも摘んでいる人が増えている。
 南9番のグリーンに着く頃、夕食には充分な量の収穫があった。女房は球を追いかけるのに精一杯、キノメ摘みは若人二人に手伝ってもらったが。

アンニンの香りを運ぶ初夏の風

 南最後のグリーンに上がるとアンニン(杏仁)の良い香りが漂っていた。グリーン左奥の林にウワミズザクラの木が何本か生えており開花の期に。百メートルは離れているのに香りを送り届けている。
ウワミズザクラ(上溝桜)はバラ科の高木、白い小さな花が泡立つように、長岡の里山では5月上旬、雪深い山里では5月下旬に咲く。
 開花時にアンニンのような芳香を放つ。中越地区ではアンニンゴと呼んで、蕾や若い果実を塩漬けや焼酎漬けにし、酒の友としている。私は蕾をてんぷらにし、初夏の香りを楽しんでいる。

 さて午前のハーフ、初夏の自然を楽しみながら句を作り、食材を集めて廻ったが、多少の出入りはあったものの傘寿の初打ちにしては出来過ぎの47であった。
 改めて身近な里山の自然を観察してみると、昭和に比べ季節の動きが明らかに早まっている。地球温暖化の影響なのだろう。
 昼食をとっての午後のハーフは東コース。今度はゴルフに専念しようとスタートした。

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蛍の瓦版〜その14 理事 児玉伸子(こしじ医院)

1.新潟県医師会による嘆願書
 新潟県医師会は、国立国際医療研究センター造影剤医療事故事件において寛大な判決をお願いする嘆願書を6月25日に東京地方裁判所へ提出しました。嘆願書の詳細は、新潟県医師会報7月号に掲載される予定です。6月29日までに、9団体から新潟県医師会と同様の嘆願書が提出されていますが、医師会としては諫早市医師会と新潟県だけでした。
 事故は、昨年の4月に78歳の女性が、脊髄腔内へは禁忌であるウログラフィンを誤投与され、死亡されたものです。投与した整形外科の後期研修医は業務上過失致死罪に問われ、7月14日に東京地方裁判所で、判決が言い渡されました。個人の責任を追及する検察側の求刑通り、禁錮1年執行猶予3年と今までの判例に比べ重い量刑でした。
 WHOは医療事故防止のためには、事故を未然に防ぐシステムの構築の重要性を強調しています。そして、個人の責任を追求することでは、医療事故を防ぐことはできませんし、医療現場の疲弊を招くとしています。
 ウログラフィンの誤投与による死亡事故は今までに7件が判明し、5人の医師が有罪となっています。国際医療研究センターのマニュアルには、ウログラフィンの危険性についての記載はなく、今回検査に立ち会った他のメンバーにも危険性の認識はなかったそうです。
 なお、本件直前まで国際医療研究センターの病院長であった木村壮介氏(現名誉病院長)は、厚労省が主導する日本医療安全調査機構モデル事業の中央事務局長で、10月からの医療事故調査制度の医療事故調査・支援センター長に立候補されています。

2.研修医の医師会費無料化
 長岡市医師会会員の皆様は、日本医師会・新潟県医師会・長岡市医師会の三団体に加入されています。長岡市同様に郡市の医師会では、原則として会長以下の役員は会員の直接選挙で選ばれます。一方、県の医師会の役員は郡市医師会から選ばれた代議員によって間接的に選出されます。日本医師会は県選出の代議員によって役員が選ばれます。このように、日本医師会・新潟県医師会・長岡市医師会は三層構造となっており、それぞれ分担して業務を行っています。
 このため、各会員は日医・県医師会・市医師会にそれぞれの会費を納入しています。会費はA会員(開設者や法人の代表者)とB会員(勤務医)では異なり、新潟県と長岡市医師会費は収入に応じても増減します。長岡市医師会では独自に平成年25度から研修医の会費を無料化し、長岡市医師会への加入をお願いしてきました。今年の4月からは日医と県医も会費を無料化しています。医師会への加入のハードルを下げて医師会活動へ興味を持って頂くことが目的です。
 現在全国の医師総数30万3千人のうち日医の加入者は16万6千人(組織率55%)です。新潟県では医師4千6百人中会員3千2百人(70%)あり、長岡市医師会は572人中450人(79%)です。会員の形態に拠る加入率をみると、A会員はほぼ100%加入されていますが、勤務医の加入率は長岡市医師会74%・新潟県医師会57%・日医37%と低くなっています。全国的にも都市部程勤務医の割合が高く、医師会への加入率が下がっています。
 医師の団体としては保険医会が、日本医師会に次ぐ規模があり、全国では医科6万5千人と歯科3万9千人が加入しています。新潟県の保険医会加入者は医科725人歯科342人です。

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巻末エッセイ〜アンダルシア(続き) 富樫賢一(長岡赤十字病院)

 セビーリャはスペイン第4の、そしてアンダルシア最大の都市。ビゼーのオペラ「カルメン」、「セビリアの理髪師」の舞台。711年アフリカから渡って来たモーロ人がこの地を占領し、イシュビリヤと呼んだのが始まり。
 セビーリャの大聖堂は、スペイン最大、世界では3番目の規模。ローマのサン・ピエトロ大聖堂、ロンドンのセント・ポール寺院に次ぐ。西側にある正面入口は国王が来る時にだけ開く。我々は南側のサン・クリストバルの扉(勝手口のようなもの)から入った。入ってすぐコロンブスの墓がある。スペインには3ヶ所あり、どれが本物か分らない。右手に宝物庫の展示品が並べてある。その奥に、世界最大の金製宝飾品がある。有料だったが、女性の多くは見学に参加した。どうせ大航海時代に盗んできたものだ。よせと言うのに、トミイも行ってしまった。男性陣は、やることもなく、しばらく立っていた。
 正面奥の王室礼拝堂の、向かって左側にヒラルダの塔の入口がある。12世紀末にモスクのミナレットとして建設されたもの。イスラム教信者に1日5回、塔上から礼拝を勧めるアザーンを唱えるのが本来の目的。16世紀になって、キリスト教の鐘楼に転用された。97メートルの下から3分の2はイスラム建築のまま。その上は1568年地震で崩れ、ルネサンス様式で改築されている。先端には信仰の勝利を表す青銅像があり、風で回転する。ヒラルダ(人物や動物の形をした風見鶏)と呼ばれる所以。緩やかな螺旋状の斜路を上って行き、70メートルあたりの展望台から絶景を楽しんだ。
 大建築もいいが、息が詰まるようだ。スペイン広場は、マリア・ルイサ公園内にあり、1929年のイベロ・アメリカ博覧会の会場。大きな池の周りを囲むように、58のベンチが置かれている。ベンチは前開きの小部屋の奥にあり、その壁にスペイン各県の特徴や歴史的場面がタイルで描かれている。気に入ったところで写真を撮りながら一周すると少し気分も良くなった。
 セビーリャの小食堂で名物?メルルーサ(魚料理)の昼食。テーブルに、「セビーリャ以外では売っていない」と日本語で書かれたオリーブオイルが置いてあった。パンに付けて食べるとまずまず。1本5ユーロ、お土産に2本買った。それを見た他の人達も我も我もと買出したのが、悲劇の始まり。ミハスに向かう途中で寄った休憩所では、同じものが4ユーロで売っていた。皆で「梱包してくれないし」と言い合った。
 バスに揺られて3時間、最も有名な「白い村」ミハス着。地中海を見晴らす山の中腹にあり、金持ちの別荘地だ。バスは街中には入れず、添乗員もガイド出来ない。地図を片手に2人で出かける。目指すはコンスティトゥシオン広場。少し迷ったが何とかたどり着き、展望台から初めてアフリカ大陸を見た。お土産屋が並ぶ分りにくい路地をさまよっていると、客引きの男が「これを買え」としつこく付きまとって来た。「いらない」と、何度も言うと、「貧乏人」と罵倒してきた。確かに、この辺に住んでいる人は金持ちのようだ。気にせず先を急ぐ。
 バスの発車時刻になっても全員揃わない。一人足らない。お一人様の中年男性だ。帰り道で、迷ってあちこちさまよっていた時、やはりさまよっていた人だ。やっぱり迷ったか。添乗員が探しに行って無事身柄を拘束。アルハンブラ宮殿のあるグラナダに向かうバスでは、疲労困憊と気分不快が頂点に達した。

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