長岡市医師会たより No.425 2015.8


もくじ

 表紙絵 「渓流を描きに〜信州 佐久穂」 丸岡稔(丸岡医院)
 「関根先生の御逝去をいたむ」 一橋一郎(長岡西病院)
 「関根先生と酔釣会」 神谷岳太郎(神谷医院)
 「故関根光雄先生のこと〜囲碁編」斎藤古志(さいとう医院)
 「理想の精神医療実現を目指して」渡部和成(田宮医院)
 「長岡赤十字病院院長就任のご挨拶」 川嶋禎之 (長岡赤十字病院)
 「オー、ヤッタァー」 廣田雅行 (長岡赤十字病院)
 「巻末エッセイ~信濃川の川下り」 星榮一



「渓流を描きに〜信州 佐久穂」 丸岡 稔(丸岡医院)


関根先生の御逝去をいたむ  一橋一郎(長岡西病院)

 この度、関根光雄先生が御逝去なされたとの御報に接し、心から哀悼の意を御霊に捧げたてまつります。
 実は、先生の御逝去を報じる回覧状を現在在職中の長岡西病院医局休憩室の卓上に見付けた時、眼を疑ったのです。と言うのも小生は昨年3月末をもって、平成2年8月初めからの開業医生活に終止符を打ち、現在の病院で改めて又、勤務医として奉職して以来もう久しく関根先生にお目もじする機会も無くなっており、ましてや先生が御病床に臥しておられることすら露知らぬことでした。
 思えば先生と初めてお会い致したのは、昭和40年、小生が新潟大学医学部を卒業した年でした。その頃は医師資格取得に必須のインターン制度に則っての一年間の病院勤務修行のために希望したのが長岡赤十字病院で、一応そこで各科を短期間ずつ区切って実務修練するのでした。巡りめぐって整形外科に配属された初日に、同院の整形外科部長であられた関根光雄先生に御挨拶に上がりました。唯その時代には直接に部長先生にお教えを乞うには当方は知識不足であり、まず先生に拝謁した際の先生の第一声が「君が一橋君か。わたしが関根です。しっかり頑張りたまえ!直接に指導して呉れるのは此の長谷川愫君だから、しっかり勉強しなさい。」と仰られた言葉が印象的でした。
 その後、わたしも医師となることが出来、ひょんなことからずっと憧れていた整形外科医に仲間入りが叶って、まず厚生連長岡中央綜合病院に就職させて頂くことが出来ました。以後同系列の村上病院や糸魚川病院を転勤してまわり、何とか一人前?の整形外科医になれたと自負するに至りました。再び初任地だった長岡中央綜合病院に戻ることが出来て、今回本文を寄稿する当長岡市医師会の“ぼん・じゅ〜る”の編集にたずさわるお役目を仰せつかった時に、関根先生がその編集委員長でおられたのでした。たしか毎月第三水曜日の晩に、本誌の編集委員会があり、当市医師会館に数人の委員が集まって協議するのでしたが、大抵、先生と小生が早々に出勤していることが多く、皆の揃う前の時間の雑談に先生がお好きという海釣りのお話しを拝聴したものでした。先生は小型船舶操縦士の免許をお持ちの上、更に船外機付のレジャーボートをお持ちとかで折々の海釣りの釣果を淡々と語って下さったのも今もって忘れ難い想い出です。
 その後、先生は御都合で編集委員長を辞され、丸岡稔先生に引き継がれたと記憶しています。以後、再び関根先生に頻回にお会いする機会を得たのは、平成2年に、それまでの病院勤務を辞して開業医となった後の整形外科開業医会に入会した会合の時で、無論先生が先に御開業されておられました。
 そして或秋の一と日、まだ数少なかった長岡の整形外科開業医の会合(後の蒼整会)の座敷で、主要な談合が一段落した処で、「今日は私めが日頃手なぐさみに吹いている尺八を奏して進ぜよう。」と仰って、一曲お聞きかせ下さった一節の蕭々としてうら悲しい、風の戦ぎにも似た音色が今改めて脳裡によみがえります。
 とまれ、先生の御逝去に際し、衷心より哀悼の意を表したてまつりまして拙文を閉じさせて頂きます。合掌

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関根先生と酔釣会  神谷岳太郎(神谷医院)

 関根先生との海釣りのお付き合いは25年になりました。私が長岡赤十字病院を辞めて、神谷病院に戻って数年たってからになります。先生が開業された時に、神谷病院の余裕のあった手術室や病室を使っていただいておりました。こうしたことから新年会やビールパーティなどを合同でやっておりましたが、そんな席で医師会の仕事や魚釣りに誘っていただきました。
 私の釣りは、子どもの頃から専ら神谷病院の前の柿川での雑魚釣りでした。大学を卒業して外科医局からの出張の時に佐渡や秋田の男鹿で海釣りの楽しさを体験していましたので、先生のお誘いに二つ返事で参加させていただきました。
 関根先生の釣りのグループの名前は酔釣会と申します。私が入会した時にはまだ無名の会でしたが、ある時先生が、「この会に名前を付けよう。」と仰って、酔釣会と提案され、一同お酒と釣りのお好きな先生らしい名前だと賛成したのでした。
 メンバーは先生を中心に十数名というところで、固定しているのは、先生の尺八仲間で三条の神保信夫先生と弟さん、小林徹先生、高木正人先生と私で、他に出入の薬屋さんで釣り好きの人、興味のある人を引っ張り込んでいます。彼らは全国区で転勤しますので、いろいろな所で釣りをしてきた猛者もいますし、元気の良い女性が「私も行きたーい。」と参加し、ビギナーズラックでケロッと大物を釣り上げたりもしてくれます。
 このような仲間達が、春のシーズン突入の宴会に始まり、寺泊の「なかくに丸」を借りきって、佐渡小木沖の深海釣り、初夏のイカ釣り、盛夏の夜のアジ釣り、秋の夜のイナダ、カンパチの強い引きを楽しむ釣りと、平均4回の釣行を行い、年末の納竿の宴会で一年の行事を終わります。気心の知れた仲間が同じ舟に乗って釣果を競うのはとても楽しいもので、各人の個性がその釣りのスタイルに顕れます。先生はその中で、ベテランらしく静かにコンスタントに釣果をあげていらっしゃいました。私は何とか先生に追いつきたいと、釣り道具や仕掛け、餌、船の座る場所等を工夫してみましたが、いつも先生には適いませんでした。
 先生は新潟市の海の近くで生まれ育ち、子供の頃から海釣りに親しまれていたようですが、開業されてからは、マイボートを購入され、一級小型船舶操縦士の免許もとられて、本格的に釣りにはまっておられたようです。告別式でお嬢様は「マイボートに魚群探知機を備え随分高いお魚でした。」とお話しされていました。残念ながら私が入会した時には、既に舟を手放されており、乗せていただくことはできませんでした。
 先生と同行した釣行で記憶に残っているのは、深海釣りで先生が大きな真鱈を釣られた時のことです。体長1m位はあったと思います。大きな魚体が海面に浮いてきた時には、経験の浅かった私は本当にビックリしました。あまり大騒ぎされない先生も、さすがにうれしそうでした。その日は偶然カメラを持って行ったので、一枚撮ってさしあげました。大きな鱈を抱いた先生は、鯉を抱いた金太郎(?)のようでした。あの写真をこの原稿と一緒に出したかったのですが。そういえば葬儀の会場にありし日の先生の写真が出ておりましたが、あれだけお好きだった釣りの写真が無かったことが大変残念です。
 もう一つ、海についての先生のエピソードを書きたいと思います。
 平成9年1月ロシアのタンカー、ナホトカ号が島根県沖で沈没し、流失した重油が新潟県の海岸にも漂着しました。この時先生は、ボランティアとして重油の処理に参加されたのです。単に、一時魚釣りを楽しむ場所として海を見るのではなく、海の環境を守ることの大切さを示されたこととして頭が下がりました。
 7月25日の夜、酔釣会の有志が、寺泊からアジ釣りに出ました。この釣行には先生も参加される予定でしたが、直前に体調を崩されてキャンセルとなりました。釣果は久しぶりの大漁で、たくさんのアジの他にサバ、タイ、メバル、赤イカなどが釣れ、皆大満足で「今夜は関根先生が応援してくれたんだね。」と話し合いました。釣りが大好きだった先生の良い追悼になった釣行でした。これからも楽しかった先生との釣りの思い出を大切にしながら酔釣会を続けていきたいと思います。医師会員の先生方で参加の御希望があれば大歓迎です。
 先生は屹度、天気の良い日にはお酒を飲みながら、はるか高い所から日本海に釣り糸を垂れていらっしゃることと思います。良い釣り情報がありましたら是非私達に教えて下さい。合掌

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故関根光雄先生のこと〜囲碁編 斎藤古志(さいとう医院)

 去る7月23日、関根先生が逝去されました。今年1月、医師会の新年囲碁大会では、お元気に対局されておられましたのに信じられない思いです。長岡市医師会の囲碁愛好家の重鎮が、またひとり減って淋しいかぎりです。
 もうずい分昔のことですが、私はこの“ぼん・じゅ〜る”誌に「中越医碁会」を紹介したことがありますが、会の発足の時関根先生も発起人のおひとりでした。私は数年遅れて仲間に入れてもらいましたので、その時の詳細は知りません。もう40年も昔のことです。常連の先生方が30名に近い盛大なものでした。年2回、定例大会がありました。この会の魅力のひとつは、毎回必ず日本棋院のプロ棋士、大枝雄介九段が内弟子を何人か連れて指導に来て下さることでした。大枝九段も既に故人になられましたが、そのご縁に依りまして今でも門下生の何人かと深い交流が続いています。当初はプロの卵だった青少年達も、全員が高段に達しています。
 私が入会した当時、当会の実力ナンバーワンは故太田茂先生(五段)でした。関根先生は確か三段で打っておられたと記憶しています。私は二段でデビューしました。あの頃の個性豊かな大勢の楽しい先生方も、おひとり、またおひとりと他界されて約15年前に中越医碁会は解散やむなしに至りました。
 対局中の関根先生は実に楽しそうでした。密かに習得したらしい『村正の妖刀』とよばれる難解定石を駆使して相手が面喰らうのを楽しんだりしていました。勝敗については記憶していません。また、関根先生は時々、大声で独り言を発して、石音だけの静まりかえった対局場に笑いを作るのがお上手でした。例えは、大石が危うくなると突然『ゲシュトルベン・ヘッテッテ』などと叫ぶのです。独語!!
 関根先生は大枚をはたいて立派な盤石を入手されたとのこと、先生は『門外不出』と言われて中越医碁会にお持ちになることはありませんでした。大会に貸し出すと石が足りなくなったり混ざったりする恐れがありますので、そのお気持ち良く分かりました。
 後年、長岡市で開催されたプロのタイトル戦に提供されたということを誰かから聞きました。もしも、プロ棋士の揮毫がもらえたのなら、是非一度拝見させていただきたい。
 晩年の関根先生は、碁を打つために外出されることは殆どなかったようですが、ご自宅で人知れず勉強しておられたらしく、日本棋院、関西棋院などの高段の免状をお持ちだったようです。
 今頃関根先生は、大勢の懐かしい碁敵の先生方と再会されて、持ち前のジョークで笑わせながら楽しく盤を囲んでおられるのでしょうか。
 慎んで関根光雄先生のご冥福をお祈り申し上げます。合掌

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理想の精神医療実現を目指して 渡部和成(田宮医院)

 昨年8月、名古屋から長岡に移り住み精神科病院である田宮病院の院長に就任して、丁度1年が過ぎたところです。この度、医師会報編集委員会から寄稿を求められましたので、小文を記させていただきます。
 私は、院長方針として「『急性期からの人間的治療』と『計画的医療』による『健全な病院経営』」を掲げ、患者と家族のための日々の臨床が実践されるよう指導してきています。まず、このスローガンの意味するところを紹介させていただこうと思います。
 一つは、たとえ不穏な急性期の入院患者であっても、病院スタッフは目の前の華々しい精神症状の終息のみに注意を払い治療を行うのではなく、そのような時であっても、患者の人としての尊厳に配慮し、患者の将来の人生を保障するための医療となっているべきであることを意識しながら、今ここの治療を行うようにしようということです。今一つは、一般的なクリニカルパスとは180度視点が異なる患者自身による治療経過の評価媒体としての当院独自のパスを利用した計画的医療を入院治療全経過を通して患者の目線で行っていこうというものです。これらの結果として、病院の質は向上し、病院経営は自然と安定したものになり、更なる発展拡大が望めるだろうと考えられます。
 田宮病院で行っているパスは6つあります。私がこれまでいくつかの病院で実施してきた統合失調症の教育入院用の「クライアント・パス」と教育入院終了後の通院患者用の「リカバリー・パス」を始め、田宮病院赴任後に職員と一緒に作成した急性期治療用の「あなたの治療パス(統合失調症編)」と「あなたの治療パス(気分障害編)」、認知症用の「あなたの治療パス(認知症編)」、更に認知症以外のすべての入院患者を対象としパスを実施したか否かに関わらず退院に備えて行う「再入院防止・社会復帰プログラム」があります。これらのパスに共通し最も大事なところは、患者(認知症のパスでは家族)を中心に多職種のスタッフが参加し、常にスタッフとコミュニケーションをしつつ患者(家族)が治療経過を評価しながらパス(治療)を進めていくという姿勢です。いつでも患者が治療の主人公です。こころの病気は多くの場合慢性疾患ですので、患者が病識を持ち患者が主体的に治療を継続できるようになることが肝心です。ですから、通院時はもとより入院中から患者が治療の主人公となっていることが治療を成功させるうえで重要であることは、自明の理であろうと思います。
 このような患者の人生に寄り添う医療により、多くの患者と家族が病気に負けることなく症状を管理し社会に参加し自分らしい人生を送れるようになることの手助けができればと思います。田宮病院を人生の基地として利用していけば社会参加・復帰は大丈夫で自立に向かって歩むことができると患者に感じてもらえるようになれば、患者と家族のための精神医療として成功だろうと思います。
 ところで、私は病院の地域医療連携室長も兼務しています。精神医療はひとり病院の中にとどまらず地域社会と手を携えて行えてこそ真の精神医療足り得るだろうと思います。そこで、長岡を中心とした中越地区での病-病連携、病-診連携、行政福祉との連携の向上に力を入れ、信頼される地域精神医療を推進したいと考えています。その手段として、従来の主治医や看護からの紹介状に加え「再入院防止・社会復帰プログラム」委員会から、退院していく患者の療養上のニーズや不安・心配に関して患者と一緒にまとめたものを病院・クリニック・施設へ情報提供するようにしています。これにより、患者が医療・行政・福祉の場でうまく相談できる人、援助してもらえる人を増やすことができ、病状を安定させ社会参加しやすくなることが期待できると考えています。
 田宮病院では、私が、これまで積み上げ形作ってきた治療法を発展完成させ理想の精神科病院作りをしたいという私の夢の実現に向かえるよう、職員全員が一丸となって日々努力してくれています。院長として有り難いことです。
 田宮病院は、来年2月から県南部圏域を医療圏とする新潟県初の精神科スーパー救急に対応する病棟を始めます。それに備え、現在長岡地域を中心とした休日・時間外診療、救急医療などを積極的に行っています。長岡市医師会の皆さま、精神疾患に関する地域連携や救急につき引き続きご指導くださいますようよろしくお願い致します。
 私は、心有る優秀な職員に助けられて、心からの連帯感を感じつつ、人間性豊かな長岡という素晴らしい土地で、今後も頑張っていけそうです。長岡に感謝。

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長岡赤十字病院院長就任のご挨拶 川嶋禎之(長岡赤十字病院)

 森下前院長の退職を受けまして、7月1日より院長職を引き継ぐこととなりました川嶋と申します。
 長岡市医師会の多くの先生方は今回の人事で、Kawashima? who? と思われたことと想像しております。昨年6月に医師会理事就任の際、“ぼん・じゅ〜る”に自己紹介させていただきました通り、私は、平成5年より長岡赤十字病院の整形外科に勤務しており、この夏で長岡も22年になりますが、人見知りの出不精です。昨年より、医師会理事、院内においては地域連携サポートセンター長、副院長という立場になりましたが、これまでどおり臨床中心で手術室に籠もりがちでした。皆様から、“日赤病院は大丈夫か?”と先行きを不安視されても致し方ない、人脈に乏しい、経営についてはまだほんのわずかのキャリアしかない新米院長です。私を後継に指名された森下前院長の顔に泥をぬらないよう、1300人の職員と家族を路頭に迷わせないよう、そして何より長岡・中越二次医療圏の患者さんが安心して医療を受けられるように、できることから一歩一歩頑張らなければという気持ちで7月から院長職を勤めさせていただいております。
 正直なところ、社会の少子高齢化に伴う、医療介護福祉制度激変の時代に、“長岡、中越二次医療圏の医療を守るのみならず、赤十字病院の経営改善も図る”ためのとっておきのプランなどは今のところ手元にございません。当面、院内で年頭に掲げました目標のとおり、関係各位のお力添えを頂きながら、誠実・地道に3つの連携(病院・病院間の連携、病院・診療所間の連携、院内外での多職種間の連携)の強化を進め、3つの満足度(患者満足度、地域の医療・介護関係者の満足度、職員満足度)の向上を目指しつつ、3つの領域(救命救急、がん、周産期)に高いレベルで対応する能力を維持向上していくことができればと考えております。
 今後、ますますのご指導ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げます。

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オー、ヤッタァー 廣田雅行(長岡赤十字病院)

 それはジャコウアゲハが少しづつ羽化し始めた「昭和の日」の朝の事でした。何時もの様に蛹を並べて越冬させた干物籠の方をちらりと見ますと、一番下の段、一頭だけ入れて置いた場所に何やら影が。(写真1)「おい、出たよ」と、女房殿に声を掛けますと、「何がですか? 朝っぱらから大したものは出ないでしょう」との御返事。「出たんですよ?、大した者がァ!、一寸お出でな。来て見りゃ分かる」と、誘いますと、「はいはい」と、「はい」の二つ並びの気の無い返事と共に玄関に出て来た女房殿も一見して「おやまァ、出ましたねェ。」と、驚くやら喜ぶやら。(写真2)さてここからは、「たかが一頭の蝶々に何をそんなに!」と仰るであろう皆様に、その謎解きを、と言う事で少々お目を拝借。
 さて、事の始まりは去年の8月23日の朝の事でした。その日は5月に生まれた孫娘の「バサ振舞」(燕地方で「婆さん」になった孫親が親戚の女性軍を一堂に集めて会食をして祝う、所謂「百か日の祝い」に当たるのでしょうか。)の日だったのです。車に荷物を運び込んでいた娘が「黒い蝶がプランターの所に飛んでるよ」と申します。しかし、その年は越冬させたジャコウアゲハはおらず、何か他の物かな等と思いながら出てみますと、紛れもないメスのジャコウアゲハではありませんか。この社宅は土手からかなり離れており、今迄ここで羽化した者を離した時以外、産卵に来た事は無かったのです。珍しい事も有るものだ、そんなに食草が土手で刈られているのだろうか等と考える一方で、孫の祝いの日に産卵に来るなんて、と言う思いに「爺さん」の胸は熱くなるのでは有りました。(写真3)そんな成り行きで、久し振りに幼虫を飼い始めたのでした。ほぼ順調に9月中旬には蛹に成り、越冬態勢に成るか、もう一回羽化するかと言う段階に入ったのが9月も20日を過ぎた頃でした。その間にも若干産卵に来たらしく、かなりの数の幼虫が残りました。その頃、丁度夏季鍛錬を利用して和歌山、高野山に旅行に出る予定でした。困ったな、エサも少なくなったし、飼い続けてあげられないし……、と、そこでハタと思い当たったのです。困った時の「神」頼み。彼なら経験も有るし餌も有る。と言う事で、お願いしたのが「K谷」氏なのでは有りました。氏には快く引き受けて頂く事が出来、幼虫達を渡す時には姿に後光が差しておりましたかなァ。(いや、単に逆光だったのか?)
 閑話休題、そんなこんなであわただしく行って参りました高野山。帰って29日、念の為プランターを見てみますと一頭だけ三令位の大きさの幼虫が付いているのが分かりました。季節も季節、ソロソロ食草も枯れかかって乏しくなって来ていました。孫娘の事も有り、高野山帰りも有りで、これも何かの因縁と、取り込んで飼い始めたのでは有りました。しかしながら、中々大きくならず、前蛹状態になったのが10月の中頃。普通であれば一週間迄かからずに蛹化するのに11月になってもそのまま。「駄目かねェ」と、諦めかかった2日の夜、全く期待もせずにふと見ると、何と蛹化しつつあるではありませんか。じっと見ていると時間は掛かったものの、何とか自力で蛹になったのです。(写真4)「良くやった」と言う思いと、!!「大丈夫かいな?」と言う思いが相半ばしてはいましたが、兎に角、仲間のいる干物籠の最下段に入る事となったのでは有りました。(写真5)これが、去年の経緯です。
 そんなこんなで羽化して来たのでは有りました。出て来たのは男の子、昼過ぎにプランターの菫の上に放しますと、(写真6)暫くそこに居りましたが、何時の間にか飛んで行ったようです。5月12日現在、昨年の越冬蛹41頭、其の内、羽化した者26頭、内2頭は十分に羽が伸び切らず、近くの花の上に置いて来ましたが……。未だ如何かなと言う者も無い訳では有りませんが、そんな中での羽化出来た者の中に、この子は入れたのでした。そして今、プランターのウマノスズクサには今年放したジャコウアゲハの子供達が小さな穴を開け始めました。さて、今年は久し振りに又忙しくなりそうです。今夜は軽く一杯やって早寝と致しましょうか、ではお先に、オヤスミなさい。

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巻末エッセイ~信濃川の川下り 星榮一

 医学進学課程(一般教養)のドイツ語の授業で、Luise Rinser 著の “Martins Reise(まるちん君の旅)”を一年かかって読んだ。ドイツのオーストリアに近い山奥の少年が野良犬とともに筏に乗り、ドナウ川の支流のイーザル川を下り、大都市のミュンヘンまで行き、ヘラブルン動物園を見学する冒険物語です。
 昭和35年の秋の連休に級友3名で、われわれも信濃川を筏で下ってみようということになった。早速、東北電力の支店に行き、古い電柱を数本提供してもらうことを交渉し、出発地の川岸まで運んでいただけることになった。
 出発地は、K君の実家の十日町川西町千手の信濃川とした。連休の第1日目に、1日かけて筏を組んだ。途中で崩れると困るので、ワイヤーとロープと鎹を使ってしっかり造った。幅約1.5m、長さ約2.5mの筏ができた。3名で乗るのには十分だった。
 翌朝、川西町千手を出発した。筏には舵がないので、流れに任せるしかない。川口の魚野川との合流地点までは、割合急流であったが、所々に流れがよどんだ淵があり、そこに入ると30分以上もくるくる廻り、脱出するのに苦労した。小千谷の発電所の下までは何度も淵に入り込んだ。発電所では水とともに空気も落下するのか、ぶつぶつぶつぶつと奇妙な音がして恐ろしかった。
 小千谷からの下りは、割合順調に進んだ。川口で魚野川が合流し流量が多くなったことと、平場になり流れが一定してきて、よどんだ淵もなくなった。越路橋や信越線の鉄橋の下をくぐり、越路町中島の左岸の土手の近くでそろそろ岸に上がり、幕営の準備をしようと考えている時に、大変なことが起こった。
 土手から電柱のようなコンクリートの杭が7〜80cm間隔で十本ほど流れを堰き止めるように並んで立っていた。筏は不注意にも、このコンクリートの杭にぶつかってしまった。何とか脱出しようとしている時に、筏の後方が水圧で水中に沈み、筏はコンクリートの杭に縦に完全に押し付けられてしまった。
 荷物を流されないうちに引き上げ、命からがら土手にあがった。履物は流され裸足、水泳パンツ一枚でいたので、リュックの中の物に着替えた。これからどうしようとかと途方にくれていると、土手の上を工事のダンプが通りかかったので、お願いして長岡駅まで送っていただき、裸足で列車に乗り新潟までもどった。
 若気の至りで、簡単に信濃川を流れ下れば新潟市に着くであろうと考えていた。流域の下見もせずに実行した。コンクリートの杭列は、その下流にも沢山あり、そこが本流になっていた。
 例え、無事に越路の左岸の土手を通過できても、大河津分水で信濃川本流には入れなかったと考える。筏の重量は3人で運べるような重さではなく、うまく行っても大河津分水の所までで、新潟市には着けなかっただろう。また、当時はライフジャケットというようなものもなく、裸で筏に乗っていた。
 50数年後の現在、われわれが沈没した場所は、広いクルミ林になっている。あの杭の工作物は「水制」と言って、水流から堤防を守るために設置し、土砂の堆積を促す作用があるそうだ。
 十日町と新潟市は約百km、長岡までの40kmでわれわれの無謀な筏下りは終わってしまった。でも、怪我もなく無事に終わったことは、幸いであった。

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