長岡市医師会たより No.426 2015.9


もくじ

 表紙絵 「ストラスブールの古民家」 木村清治(いまい皮膚科医院)
 「長岡保養園について」 荒川太郎(長岡保養園)
 「退職の御挨拶とこれから」 森下英夫(悠遊健康村医院)
 「宝塚歌劇 白夜の誓い:スウェーデン国王 グスタフIII世〜その2」福本一朗(長岡市小国診療所)
 「蛍の瓦版~その15」 理事 児玉伸子(こしじ医院)
 「巻末エッセイ~クマ除けの鈴音」 郡司哲己(長岡中央綜合病院)



「ストラスブールの古民家」 木村清治(いまい皮膚科医院)


長岡保養園について  荒川太郎(長岡保養園)

 日頃より、長岡市医師会の先生方には大変お世話になり感謝申し上げます。このたび、長岡保養園が属する医療法人至誠会の理事長に就任いたしましたのでご挨拶を申し上げますと共に、病院の紹介をさせていただきます。長岡保養園も今年で創立49年を迎えました。振り返りますと、昭和39年に長岡市より宮内病院を引き継ぎ、昭和42年に長岡保養園を精神科100床の病院として開設。その後地域のニーズに応える為、徐々に増改築や施設整備を行うと共に、急速に進行する高齢化社会にも対応する為、老人病棟も昭和55年から整備を始めました。昭和63年に老人保健施設やすらぎ園を併設、平成4年には病院の敷地を提供し、特別養護老人ホームまちだ園を誘致。平成7年には老人病棟を療養型医療施設に転換。精神病床も全て開放の精神療養病棟に転換し、同一敷地内に3施設が一体となり医療・保健・福祉の、在宅から入院まで一貫したサービスが提供できるようになりました。平成25年精神科病棟の療養環境整備工事を行うと共に精神病床を123床(精神療養病床)に削減し、介護療養病床240床、医療療養病床50床と合わせて計413床という現在の形になりました。
 救急診療はしておらず外来は認知症高齢者が主体ですが、それに加えて要介護の高齢者を抱え、家族というシステムが色々な意味で破綻をきたしてしまった方々の相談や治療も行っています。もちろん精神科一般の眠れない、意欲が出ないといった患者さんや開業医の先生方から精神科の診察依頼を受けた患者さんも来院されます。また、入院医療においてはしっかりとご利用者、ご家族の希望をお聞きしながら、慢性疾患管理からリハビリテーション、ターミナルケアまで在宅、介護施設、医療機関等から受け入れをさせて頂いています。特に要介護の高齢者において、脱水、腰痛、骨折後等一般救急病院に入院する程で無いものの、介護力の無い家庭で廃用が進んでしまうリスクが高い方。認知症によるBPSDで見守りが困難かつ、服薬調整も必要と考えられる方。また、大腿骨頸部骨折や脳卒中の地域連携パスにも参加させて頂いておりますが、回復期あるいは回復期以後のリハビリを当院でご希望される方。難病の進行や急性疾患発症後に重度の障害が残り、あるいは癌の進行等により継続的な体調管理が必要であるが在宅での介護が困難な方。介護施設等で過ごされてきたけれども、体調が安定せず入退院を繰り返されている方。など様々な方からご利用頂いています。ただ、その後に在宅復帰も可能な限り進めていますが、困難なケースも少なくないのが実状です。マンパワー不足もあり、地域のニーズに十分応えられているかというとまだまだ不十分な面もあり今後の課題と考えます。
 これから持続可能な社会保障制度とする為に「団塊の世代が後期高齢者を迎える2025年モデルへ」をスローガンとし、入院医療から在宅を中心とした地域包括ケアシステムの構築という地域連携が提唱されています。また改正医療法において病床機能報告とそれに基づく地域医療構想の策定がこれから進められますが、今迄以上に都道府県の権限が強化され、地域に合った形が協議の下に作られていくことは大きな前進と考えます。ただ、国全体での財政主導による適正化の目標も掲げられ、病床削減も言われている中、各医療機関、各病床の意義が益々問われる時代に入りました。最近の国のデータ管理に基づく効率化・能率化重視の政策は経済面では一定の成果を収める事が出来ても、医療や福祉の分野に競争原理を導入する事はどうしても違和感を感じずにはいられません。大切な事は、前理事長も言っておりましたが、「常にひとりひとりが祖国を愛し、人類愛を持ち続けることがより良い社会に繋がる」、そのような議論もこれから必ず必要になってくると思います。
 不易流行という言葉がありますが、今まで繋がれてきた精神と歴史を大事にしながらも、時代の変化に対応すべくサービスの改善や専門性の向上に努め、地域の中で求められる役割を他の組織との調和を図りながら未来へ繋げていきたいと考えます。特に、地域包括ケアシステムの中でも在宅での開業医の先生方と病院での救急医療を後方支援する一つの拠点として、あるいは他施設(介護施設群)も含めた連携を支える施設として、地域医療に貢献していきたいと考えます。医師会の先生方には、当法人へのご理解を頂き、これからも有効に活用して頂ければ幸いです。今後共お世話になるばかりでありますがご指導ご鞭撻の程よろしくお願い申し上げます。

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退職の御挨拶とこれから  森下英夫(悠遊健康村医院)

 この度、平成27年6月末を持って長岡赤十字病院の院長職を辞職しました。昭和62年8月より28年11か月の期間の勤務となりました。その間多数の皆さんに支えられ、助けられ、何とかやって参りました。特に最近は病気(ラクナ梗塞、パーキンソン病)もあって、関係の職員には大変御世話になりました。頭は元々あまり良くないので大きな変わりはありませんでしたが、歩行障害は適切なリハビリにも拘わらず進行し、構語障害もみられてきました。家人とも相談し、重責を担っていて、本当は先頭に立って引っ張っていかねばならない時に、これ以上病院、職員、患者さんに御迷惑をかけられないと判断し、身を引くことを決めました。また東京や新潟市で開かれる会議にも、転倒・骨折などの恐れのため出席し難くなったことも、大きなマイナスでした。私の卒業した昭和49年は今から思えば、医者にとって最も良い時期だったかもしれません。昭和36年に国民皆保険になり、昭和48年に老人医療無料になり、それまで医療や手術を受けられなかった人たちが、お金の心配もせずに受診できるようになった時代でした。今では当然のCTやエコーもありませんでしたが、それなりの検査があり、診断が何とかできた時代でした。また内視鏡手術も少しずつ進化していきました。そして麻酔の研修、細菌学教室での研究、県立新発田病院での臨床経験、大学泌尿器科学教室での大きな経験などを経て、長岡赤十字病院に就職することになりました。
 良し悪しは別にして、昭和62年8月に長岡赤十字病院に就職してから私のやってきたことを簡単に述べてみたいと思います。元医師会長の斎藤先生の後に就職しましたが、先生が進めていた前立腺への内視鏡的切除術を進めるとともに、尿道狭窄などの合併症にも注目しました。コードとループの間の電気抵抗を実測し、その結果を国際泌尿器科学会で発表しました。これは注目され、口演の他ポスターでも採択されました。またこれを「European Journal of Urology」にも至急掲載されたことは大きな喜びでした。腎癌に対する経腹的手術を新潟では始めたばかりで、その腎動静脈の処理・リンパ節郭清はほぼ克服できました。また大学では教授しかしてこなかった手術(尿道下裂、膀胱尿管逆流など)にもチャレンジしました。生体腎移植も院内スタッフのみで2例行いました。その後神戸から来られた小池先生(現新潟労災病院副院長)には複雑な尿路変更などを教えてもらいました。腹腔鏡手術も始めましたが、この頃より難しい手術などは優秀な後輩に譲ってしまい、外科医としての進歩は止まったようです。平成20年に副院長になりましたが、地震などで出遅れたDPC制度の院内導入に頑張りました。またクリニカルパスも外山元副院長の後を継いで果たしてまいりました。
 平成22年4月に院長になってからは地域医療支援病院の指定を受けました。これは紹介率60%、逆紹介率30%以上が必要で、前者が難物でした。紹介状のない新患に対する問題もありましたが、羽生先生等の頑張りもあって何とかクリアできました。また一時常勤一人となった麻酔科も5人以上となり、非常に協力的で手術も順調にできるようになりました。各種のクレーム、訴え、などにも対処していきました。また人を集中化し、効率良い運営を心掛けるために病棟縮小を行いました。周りと必ずしもうまくいかない医師との調整や、それを伝えることはかって経験したことがないことであり、苦労しました。赤字体質の病院を黒字化しようと頑張りましたが、5年間で二勝三敗でした。特に最後の年はかなり大きな赤字となりましたが、補填のない消費増税や人件費増、関東厚生局の視察などには注意が必要です。そして自分の医師としての経験をまとめたものを論文集としてだしました。新潟県にとっても貴重な唯一の赤十字病院です。ひと度どこかに災害があれば、何をおいても出動し、三条で、長岡で、能登で、柏崎で、東北で、御嶽山で活躍しております。また必ずしも収益性の高くない器械(高圧酸素療法、PET-CTなど)も、中越地区でどうしても必要であれば購入しております。また新規感染症が出れば保健所と協力しながら対処し、当初は採算に合わないかもしれませんが、救急の切り札になりえるドクターヘリには名乗りを挙げています。医療行政は革命的とも言える変化で、昭和36年の国民皆保険、昭和48年の老人医療費無料化の果実を無意味化しようとする大改に感じます。ただこれも国・地方自治体の大借金を考えると避けては通れない道かもしれません。こんな時代こそ有能で、馬力があり、心優しい川嶋先生をトップとして、病院完結型ではなく地域完結型で、治すだけでなく癒す時代を頑張って乗り切って欲しいと期待しております。今後とも、赤十字はますます患者さん・診療所に信頼され、職員も仕事をする喜びと内なる誇りに満ちた笑顔でいられる病院になってほしいと、心より念じております。
 今回退職後は先ずリハビリテーションを受けて、体調の改善を計る考えでしたが、退職の10日前に突然悠遊健康村病院から、リハだけでなく就職もして負担の少ない形で働きながらリハをしたらどうかという話をいただきました。妻も働いており、家での時間を過ごすのも大変なため、自信はありませんでしたが受けさせていただきました。7月6日より出勤し、PT(理学療法)、OT(作業療法)、ST(言語療法)各々2単位ずつを日々受けると共に、老健施設を中心に入所されている方を主に診させて(担当75床)もらっています。看護師、リハ技師、介護福祉士さん方には大変お世話になっております。入所者はほとんどが自分より高齢な方で、私に歩行不全があって車椅子や歩行器を使っても、気にされる方が少ないのも気楽なところです。いつか障害があっても働けるという希望の星になりたいという気持ちもあります。またチャンスを与えていただいた、立川グループ吉井理事長、悠遊健康村病院立川院長、悠遊苑の同僚に深謝いたします。また家人にも大変迷惑をかけて申し訳ありません。その他の方にも温かい話をいただき、身に余ることと感謝しております。慢性疾患はありますが、体を大事にして少しでも病院に施設に患者さんに貢献できればと思っています。

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宝塚歌劇 白夜の誓い:スウェーデン国王グスタフIII世~その2  福本一朗(長岡市小国診療所)

 1780年代に入るとグスタフIII世は、ロシアに対する失地奪還とフィンランドの確保、同時にバルト海におけるバランス・オブ・パワーの再編及び国際的地位の向上を目的とした強国政策を強力に推し進めた。そのために軍備を増強し、フランスと同盟関係を強化した。1788年6月にはロシア帝国に戦争を仕掛けて、陸戦では苦戦を強いられたものの、フィンランド湾の海戦(Battle of Svensksund)でロシアのバルチック艦隊に大勝利を収めた。ロシア艦隊はおよそ150隻の軍艦の内、50隻が撃沈ないし破壊され、死者はおよそ9000人にも及んだ。スウェーデン側の損害は、撃沈6隻、戦死者は僅かに300人程度であった。この海戦は女帝エカチェリーナII世(1729~1796)に北方の強国スウェーデンを再認識させ、戦争の不利を悟った女帝は列強に働きかけてイギリスとプロイセンが仲介に入り、1790年8月にフィンランドのヴァララで和平が締結された(ヴァララの和約)。内容は、両国とも領土変更なしでの和平合意であり、グスタフIII世の絶対王政が容認され、属国フィンランドへのロシアの干渉は停止されたため、瑞露の関係は改善し、1791年10月にストックホルム郊外のドロットニングホルム宮殿でロシアと軍事同盟を締結した(Fig.6)。
 1789年にフランス革命が勃発するとグスタフIII世は、フランス王妃マリー・アントワネット(Marie Antoinette Josepha Jeanne de Lorraine d'Autriche 1755-1793)の愛人となったフェルゼン伯爵(Hans Axel von Fersen 1755-1810)をスパイとしてパリに送り込み(Fig.7)、反革命十字軍を提唱するなど国際的活動を活発に行った。またフェルゼン伯爵が行ったルイ16世一家のヴァレンヌ逃亡事件(1791.6.20)を裏で手引きしたのもグスタフIII世であり、革命に対する反革命への情熱は、並々ならぬものがあったと言われている。
 グスタフIII世の治世は、「グスタフ朝絶対主義」(det gustavianska envaldet)と呼ばれる絶対君主制であったが、啓蒙専制君主の例に漏れず、国民の幸せを願って内政も重視し、拷問の廃止・言論自由の法律化・社会福祉事業・禁酒法制定・コーヒー禁止(!)など国民のための政策を推し進めた。またスウェーデン演劇を奨励し、王自身が脚本家・演出家・俳優でもあったため、ハーガ宮殿や世界遺産ドロットニングホルム宮殿では毎晩の様にオペラや演劇が上演されていたが、後年ノーベル賞授賞式会場となるオペラ座を1782年に王宮の近くに建設し、1786年には後年ノーベル賞選定会議となるスウェーデン・アカデミー(Svenska Akademien)を創設して科学と文芸を奨励し、スウェーデンの啓蒙時代をもたらした。
 しかしこのような急進的な国民中心的改革は保守貴族勢力の反感を買い、1792年3月16日、オペラ座で開かれた仮面舞踏会の最中、背後から拳銃で撃たれた。その後手術を受けたが2週間しか持たず、合併症を併発して46歳でこの世を去った。暗殺の黒幕としてフレデリック・アクセル・フォン・フェルゼン侯爵(1794~1719:前述のフェルゼン伯爵の父)が1794噂されたが定かではない。実行犯は王により解任された元元帥のヤコブ・ヨハン・アンカーストレム伯爵(1762~1792)で領地と貴族特権剥奪の上、3日間鞭打ちを受け、右手を切断された上で4月27日に斬首刑に処せられた。
 一般市民や農民の熱狂的な支持を受けていたグスタフIII世の死により、スウェーデンの大国復興の夢は消え去り、北欧は列強のパワーゲームにさらされることになる。
 ところで1788年ロシア・スウェーデン戦争勃発時に、宗主国スウェーデンのために戦争に参加することを強いられた112名のフィンランド士官が、無断でロシア皇帝エカチェリーナII世に和平嘆願書を作成したアニアーラ事件(Anjalaföbundet)が発覚して失敗に終わった時、反乱士官17人が死刑の判決を受けたが、グスタフIII世は首謀者1名を除き全て赦免した。その時に「私は祖国を救い、軍事を強化し、文芸を推奨し、また内政にも尽くした。そして祖国は、戦争に勝利する事によってかつての栄光を取り戻すだろう。しかしその時には、私は国民から見捨てられ、裏切られる事になるだろう。」と予言していた。またオペラ座の私室で最後の晩餐を終えた後、暗殺を警告した秘匿の手紙を受けた王は、「彼らが暗殺を行うのだとしたら、今夜ほど良い機会はないだろう」とも語ったという。王は類い希な賢明さと第六感で自らの死を予感し、それを運命として受け容れていたのかもしれない。
 グスタフIII世の私生活は決して幸福なものではなく、お互い気に染まぬ政略結婚をさせられたデンマーク王女のソフィア・マグダレーナ王妃(1743~1813)とは不仲であり(Fig.8)、二人の子をもうけたがそれは彼の実子ではないと噂されていた。二人の性格は正反対ですれ違いも多く諍いも絶えなかった。
 しかし王自身はパリ遊学時代にエグモンド伯爵婦人(1740~1773)と知り合って恋人として終生愛した(Fig.9)。エグモンド伯爵婦人は皇太子グスタフがスウェーデンに戻る時、同行を求められたが、「王となられる貴方の立場を危うくするようなことはできません、ご理解ください。」と辞退したと言われる。しかしグスタフIII世は周囲の反対を押し切って、彼女を後年ストックホルムに招き、その愛に答えたという。
 合理的精神を唯一の国民性とし、血縁より社会的繋がりをより重視する北欧では、原則として個人崇拝の習慣は無い。そのためグスタフIII世のような王様の銅像がスウェーデンの街中にみられることはきわめて稀である。ほとんどのスウェーデン人に尊敬され、親しまれているグスタフIII世は、国民の命を大切に思って戦争よりは和平を望み、仇敵ロシアのエカチェリーナII世とも戦後和解し、その後150年以上も戦争をしない国の実現に貢献した。内政においても言論の自由を保障し、死刑を嫌い、科学芸術で他国の尊敬を得、貴族に課税する反面、一般市民の税を軽減して国民の経済的平等を実現しようとした。その考えの進歩性と民主性は、現在の高福祉国家スウェーデンの礎石となるとともに、スウェーデン人の理想像を示したといえよう。(完)

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蛍の瓦版~その15 理事 児玉伸子(こしじ医院)

1.ABC胃がんリスク検診
 平成26年度から開始された長岡市のABC胃がんリスク検診の結果がまとまりました。胃がんのリスクを周知し、検診の動機づけと発がんの1次予防(除菌)を行い、胃がんによる死亡者数の減少を目的としています。40歳から5歳刻みで70歳までの全市民を対象に受診クーポンを発行し、受託医療機関や特定健診の会場で採血されています。
 この検診は、血液検査に拠ってピロリ菌感染の有無と胃の粘膜の状態を診断し、胃がんを発症するリスクを想定します。対象者を4群に分け、ピロリ菌感染歴が否定的なA群はがん発症のリスクは最も低いと考えられます。感染群のうち粘膜の萎縮の程度が軽いものをB群、萎縮が高度なD群、その中間をC群とし、既に除菌等の治療を受けた者は当検診の対象外(E群)と分類しています。胃粘膜の萎縮が高度なものほど胃がんを発症するリスクは高くなるため、胃カメラによる精査が強く推奨されています。新潟市では平成15年度から胃カメラによる胃がん検診を導入していますが、全国的にはまだ稀で、費用と処理能力が問題とされています。胃がんリスク検診では、比較的容易な採血に拠って胃がん発症のリスクを推定し、胃カメラの対象を絞り込んで、検診の効率化を図ることも目的の一つです。
 平成26年度(平成26年5月12日から翌年3月31日)は、検診対象者2万6千人中受診率は21%で、今までの胃検診の2倍程度の受診率でした。精査の対象となるピロリ菌感染者の割合は加齢に伴って増加し、40歳で20%、70歳で60%ありました。
 表は平成26年度のABCリスク検診と、平成25年のX線による胃集検の結果をまとめたものです。単純な比較はできませんが、要精検者の精検受診率をみると、X線は96.3%に対しABC検診では76.7%と低いことが問題です。またA群の中に、ピロリ菌感染歴があるにも関わらず誤ってA群と判定された偽A群が混在する点も問題視されています。
 今までの胃がん検診は、治癒可能な早期胃がんの発見を目指していました。胃がんによる死亡者数を今後さらに減少するためには、胃がんのリスク因子である、ピロリ菌感染と感染による萎縮性胃炎の予防が重要です。乳児期のピロリ菌感染の予防と、萎縮性胃炎が成立する以前の若年期における除菌が今後の課題です。
 9月号の長岡市の市政だよりでもABC胃がんリスク検診が紹介され、受診を勧めていました。本検診は広く普及したものではなくその評価は今後の課題ですが、まず検診と精検の受診率を上げることが肝要です。皆様のご尽力をお願いします。

  受診者数
(受診率)
要精検者数
(要精検率)
精検受診者数
(精検受診率)
  全胃がん症例
うち、早期がん

エックス線
(平成25年)

11,725名
(9.8%)
305名
(2.6%)
294名
(96.3%)
18例
8例
ABC検診
(平成26年)
5,454名
(20.7%)
2,612名
(47.9%)
2,004名
(76.7%)
22例
12例

2.高齢者インフルエンザ予防接種
 予防接種の委託料が決まりました。先日新潟県と県医師会によって決まったB契約と同額で、長岡市と市医師会によるA契約が結ばれました。県や市から医療機関への支払い額は、消費税分増額等で1人当たり81円増え3,528円です。今まで3価(A型2種B型1種)であったワクチンが、今年から4価(AB2種づつ)となり、2人用のワクチン単価が昨年度の2,160円(税込)から、今年度は3,240円(税込)に値上がりしました。この値上がりに伴い患者さんの自己負担分は、1,080円から1,620円に上昇しました。
 任意接種の料金は、各医療機関の裁量に拠りますが、平成22年に新型インフルエンザ予防接種の際に国が示した接種料金に今年度のワクチン料金を上乗せすると、4,000円(税別)程度となります。

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巻末エッセイ~クマ除けの鈴音 郡司哲己(長岡中央綜合病院)

 8月の下旬に葬儀、法事が相次いであり、あわただしい数日を家人の実家のある佐渡で過ごして、帰宅しました。
 「お疲れさま。水やりお願いしたYさんに、お土産届けてお礼言ってくるね。」と家人。
 「オーケー。」
 わたしは庭の果実や花の鉢植えや野菜畑などの見回りを始めました。鉢植えのバラの枝に巣のみ残し、今年育ったアシナガバチの群れがいなくなっているのに気が付きました。もしかして?とご近所の車庫へ見にゆくと、燕の巣も空っぽ。ツバメも子連れで南方へ去っていました。
 今年は暑くて雨の降らない夏から、一気に秋が深まり、例年より一ヶ月は早い変化だと感じました。
 さて小学校も新学期の始まりです。夏休みに途絶えていた、登校のこどもたちのランドセルに付けた鈴の音が響きはじめました。静かな朝の住宅街です。あたかも交通安全の黄色い旗を持った上級生の男の子が羊飼いで、首の鈴を揺らしながら、その後ろに付き従う子羊の群れを連想させるような朝の光景です。
 先日(5月号本欄)わたしの暮らす高町で(柿小学校すぐそば)クマが5月17日に目撃され、クマ注意の回覧板が回ったことを話題にしました。じつはその後も5月26日再度目撃情報があり、警戒中でした。
 すぐお隣の(少し長岡駅市街寄り)の長倉町の栖吉川の河原についにクマが登場。6月3日未明のことです。住民の通報で駆けつけた警察から連絡を受けて、地元の猟友会のメンバーが、空の明るんだ早朝に、そのクマを猟銃で射殺しました。(報道の表現は「駆除した」)体長1.2メートルの大きな雄のツキノワグマだったそうです。山の野生動物が人里に下りただけなら、殺すのはかわいそうな気もします。しかし全国各地でクマに襲われて死傷者も出る現実ですから、やむをえないことなのだと思います。
 それから小学生の集団登校に変化があり、こどもたちがランドセルに付けた鈴音とともに集まり、並んで通学します。わたしは購入をとどまったクマ除け鈴による安全対策が始まったのです。
 残念ながら、一頭のクマの駆除で一件落着とはなりませんでした。さらに7月9日、近くの柿町の舗装道路で再びクマが目撃されました。つまり6月に昇天したクマとは別の個体も間違いなくいたのです。
 あちこちの目撃情報のあった道路脇には『クマ出没注意!』の立て札が設置されました。絵柄はこの状況的には、クマモン(熊本県のご当地キャラ)ほどかわいくできないけど、クマのカラー・イラスト付き。朝の散歩道だから、すでにデジカメを持参し、この立て札は写真撮影ずみ。早く「クマで大騒ぎの年があってさ。」なんて昔語りできるようになるとよいのですが。逆に村上など県内の一部の山村並に、クマが出て当たり前なんてことになりませんように……。長岡の住宅地区のできごとですよ。
 ご当地の『クマ出没マップ』(長岡市のHP)をネット上に発見してから、ときどき関連情報をチエックしております。このサイトは簡便にクマの目撃地点や情報が一覧できます。9月になってからも、8日にすぐ隣りの村松町でクマが目撃されています。わが家の夫婦の会話です。
 「こどもたち、いつまでクマよけの鈴つけて登校するんでしょうね?」
 「クマが冬眠するまでだろ。」

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