長岡市医師会たより No.427 2015.10


もくじ

 表紙絵 「夕暮の越後川口」 丸岡稔(丸岡医院)
 「茂野良一先生のご逝去を悼んで」 渡部和成(田宮病院)
 「永遠に刻まれた悲劇の出来事」 磯部賢諭(生協こどもクリニック)
 「老いては益々壮なるべし、老年医学の目指すところ〜その3」田村康二(老人保健施設ぶんすい)
 「蛍の瓦版~その16」 理事 児玉伸子(こしじ医院)
 「第45回長岡市医師会会員ゴルフ大会初優勝」加藤政美(長岡中央綜合病院)
 「巻末エッセイ~ヌケオチはまたぎの味」 江部達夫(江部医院)



「夕暮の越後川口」 丸岡稔(丸岡医院)


茂野良一先生のご逝去を悼んで  渡部和成(田宮病院)

 る10月5日、かねてより病気療養中であられた茂野良一先生が亡くなられました。享年60歳でした。あまりにも早すぎるご最期に言葉もありません。先生は、誰もが認める優秀な精神科医として長年ご活躍をされていました。先生を偲びつつ、ここにその一端をご紹介させていただきたいと思います。
 先生は、昭和56年に新潟大学を卒業後、同大学精神科に入局されました。その後は、大学病院での仕事を長くされ、その間助手、医局長など重要な任に就いておられました。平成10年には大学から村上はまなす病院にお移りになり、17年からは院長をされていました。22年4月、縁あって田宮病院の副院長に就任され、在職中は診療部の要として力を存分に発揮されていました。
 我が国の精神医療には暗い歴史がありましたが、近年は精神保健福祉法が整えられ患者の権利を守った上での精神医療が行われるようになっています。そのような精神医療を各精神科病院で実施していくうえで、設置が必須とされている委員会はいくつかありますが、最も重要なものの一つとして行動制限最小化委員会があります。興奮したり意識の変容があったり希死念慮が強まったりしている入院患者自身が危険に陥るのを防ぐためには、どうしても患者の病棟内での行動を隔離拘束などの手段によって制限する必要が生じますが、そのような行動制限の妥当性を吟味したり、行動制限が必要以上に長期化することのないように目を光らせたりするのが行動制限最小化委員会の役割です。先生は、副院長としてこの委員会の長を長い間なさって、行動制限に関わる数々の手引きや書類の作成で手腕を大いに振るわれ、田宮病院の診療の質を高く維持するのに貢献されました。また、23年7月には、新潟県からの派遣要請を受ける形で、同年3月に発生した東日本大震災による心のケアに従事すべく田宮病院チームを率いて福島県に赴かれました。4日間の活動でしたが、先生は、被災したお年寄りの話に耳を傾けじっくりと聴いておられたり、引きこもっている患者宅を一軒一軒訪ねられたりしたそうです。そういうことからでしょう、支援最終日には、福島県の方から、痒いところに手が届くような最高の支援に感謝する旨の言葉をいただかれたそうです。
 しかし、24年8月ころ、突然食道癌という病魔に襲われ、その後は治療を受けながら診療を続けるという過酷な状況となってしまいました。後年、少しでもお元気なときには出勤しておられましたが、先生はご自身の痛みによる辛さを周りには寸分もお見せになることなく、しっかりと病棟患者を診ておられました。その姿には本当に頭が下がりました。27年7月からは3ヵ月間の予定で治療に専念するためにお休みになることになりましたが、その後は残念ながら仕事に復帰されることは叶いませんでした。先生の無念さはいかばかりであったことでしょう。
 ここで話を変えさせていただいて、仕事以外の場面で垣間見られた先生の人となりに触れられるエピソードについても紹介させていただこうと思います。先生は、多読家で文才豊かな方でしたが、多趣味の方でもありました。
 先生の多読家の片鱗は、医局会での議論の中でも見られました。それは、先生がまだ元気でおられた今年の春ころのある医局会で、似通った言葉の使い方で議論が紛糾したときのことです。先生はその似通った言葉の使い方の相違をきちっと説明されましたので、医局の先生方はその博識ぶりに感心するとともに納得して議論は速やかに収束しました。お陰で、進行役であった院長の私は、次の医局会議題に進めることができました。
 趣味については、先生は、麻雀、魚釣り、酒が大好きであったとお聞きしております。先生は麻雀好きとして知られていましたが、麻雀仲間の方から伺った話では、驚くことに亡くなる寸前においても麻雀の誘いをご自分から友人の方にされていたほど麻雀好きだったそうです。本当にお好きだったのだろうと思いますが、実はこういうことだったのであろうということです。先生には淋しがり屋の一面があって、それで麻雀好きになられたのだろうということでした。先生は、麻雀をしながら酒を飲みつつ楽しい話を仲間とすることが大好きだったのだそうです。
 また、釣りについては、田宮病院の釣り部に所属され、釣りに慣れない職員がいると釣った魚の針を取るのを優しく手助けされたりしたそうです。このことは、先生の優しさの一面をよく表していると思います。
 先生は、本当に仕事上の厳しさとともにたくさんのエピソードから知られる優しい心根をもたれた素晴らしい方でした。まだまだ書きたいこともたくさんありますが、このあたりで筆を置かさせていただきます。
 誠実で心優しい茂野先生、大変お世話になりました。有難うございました。心より御礼申し上げますとともに、ご冥福をお祈り申し上げます。合掌

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永遠に刻まれた悲劇の出来事  磯部賢諭(生協こどもクリニック)

 2015年6月にポーランド、クラクフで国際小児呼吸器学会(CIPP)があるのは知っていた。クラクフといえば、解放周年ビルケナウだ。これ70は行かねばと心に決めた。落ち着かない性分ですぐにアブストラクトを書き上げてエントリーをした。
 Congratulations! とメールが来てから原稿づくり、そしてアウシュビッツの本を熟読。CIPPは世界の小児科医が集まり呼吸器について議論する楽しいお祭りと認識している。CIPP発表は4年ぶり、前回の発表は4年前のフランス、ベルサイユだった。僕はといえばその後インドに行ったり、岩手に行ったり、船医になったり、落ち着かない日々であった。
 英語論文を投稿してから成田を出発した。白夜のヘルシンキを経てワルシャワではウォッカで乾杯した。上越総合病院の土谷修一先生を引き連れて、至福の夜であった。昔はよく土谷君を引き連れて成育医療センター病院まで日帰りで小児内視鏡研修をしたものだ。
 さてアウシュビッツ(1940-1945)はポーランドの古都クラクフの西54kmにある。アウシュビッツ強制収容所は最初1940年、ポーランド人の政治犯を収容するために作られ(町の名はオシフィエンチムからアウシュビッツに変えられた)、次第にユダヤ人やロマ、ソ連軍捕虜も収容するようになった。第1アウシュビッツ強制収容所と第2アウシュビッツ強制収容所(=ビルケナウ)、第3アウシュビッツ強制収容所(=モノビッツ)がある。公開されているのは第1アウシュビッツと第2のビルケナウである。1942年からは主にヒトラーのユダヤ民族抹殺計画により、ヨーロッパ在住ユダヤ人に対して大量殺戮の場所になった。
 『アンネの日記』のアンネ・フランクも1944年にアウシュビッツに収容されている。(その後1945年、ベルゲン・ベルゼン収容所で死亡している。)日本のテレビドラマでは『白い巨塔』でのシーンが有名でしょう。財前吾郎教授がポーランドでの学会の際にアウシュビッツを訪れるシーン。煙突以外の出口はないとされる一方通行の鉄道荷卸し場(ランぺ)で佇むシーンが印象に残る。
 丸1日がかりのガイドツアーに引き連れられ、第1アウシュビッツと第2のビルケナウと視て回った。

第1アウシュビッツ
  「ARBEIT MACHT FREI」(働けば自由になる)と書いてある正門をくぐる。強制労働の行き帰りに収容所の楽団が行進曲を演奏したという。以下、印象に残った部分を記載する。

第4ブロック:ガス室、殲滅
 ガス室・焼却炉の模型があって説明を受ける。入浴と称して地下の脱衣所で服を脱ぐように命令されるとガス室へ誘導される。扉を閉めると天井の穴から毒ガス・チクロンBを投入された。死体から金歯が抜かれ、髪を刈り、指輪やピアスを取り去ると、焼却炉で焼いた。刈り取られた髪の毛がたくさん展示されていたり、髪の毛で造られ販売されていた生地が展示されている。

第5ブロック:犯罪証拠
 被収容者から没収した遺品が展示されている。衣服からトランク、靴、こども用のものもあり、おもちゃなどがたくさんあって悲しくなる。義手や義足もある。

第6ブロック:被収容者の生活
 食事は粗末なスープとパンだけだった。痩せ細った被収容者の写真もある。23kgまで痩せたという裸の女性の写真やスキニーな子供達の写真の展示がある。子供達の中で双生児などは医学実験の材料に使われた。

「死の壁」
 この壁の前で数千人にも及ぶ銃殺が行われた。銃痕が生々しい。献花が絶えない。

第10ブロック:断種実験棟
 ドイツ人医師カール教授の人体実験棟がある。ユダヤ人女性囚に不妊処置の人体実験などを行った。メンゲレ博士は遺伝子研究という名目で障害児や双生児を実験材料にした。

第11ブロック:死のブロック
 刑務所である。鞭打ち台や絞首台、餓死牢、窒息牢、立ち牢がある。他の囚人の身代わりとなった、日本に布教にきたこともあるコルベ神父の餓死牢もある。

第19、20、21、28ブロック:
被収容者用病院
 回復の見込めない人をフェノールの心臓注射で殺した。病院は「焼却炉の玄関口」と言われた。
点呼広場・集団絞首台
 公開集団処刑を行った。

第2アウシュビッツ:ビルケナウ
 第1アウシュビッツ強制収容所から2km離れたところに第2アウシュビッツ強制収容所=ビルケナウ(ポーランド名ブジェジンカ)がある。(1941-1945)
 『死の門』というゲートをくぐって中に入る。列車で箱詰めにされた囚人をおろすとすぐに男性と女性・子供にわけられた。そしてナチス親衛隊(SS)医師が死の選別をした鉄道引き込み線。労働可能な人は収容所へ、不可能な人はガス室に直行した。電流付有刺鉄線柵が二重にはりめぐらされて逃亡不可能であった。感電自殺は可能であった。
  戦争末期、ナチス親衛隊は犯罪の証拠隠滅のため、書類を焼却し、ガス室や焼却炉を爆破し、撤退した。1979年、世界遺産に登録された。

 以上、まだ書き足りない部分も多いが紙面の都合上、この程度にさせていただく。丸一日のアウシュビッツツアーに圧倒された。重いストーリーだ。他には世界遺産のバベル城やらベリチカ岩塩鉱にも行ったのだが記憶にない。リセットされてしまったのだ。重い足取りで帰国した。アウシュビッツでは130〜150万人が殺され、死の灰が降り続けたという。何かに囚われた感のまま帰国、現在に至る。1944年に自分がドイツ人医師であったならば、どうしただろうか?
 成田までの機内では眠れず、帰りの新幹線内では鼻血がなぜか止まらなかった。

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老いては益々壮なるべし、老年医学の目指すところ〜その3 田村康二(老人保健施設ぶんすい)

第3部 年寄よ、不老不死を望みたい
 「なおりますわ、きっとなおりますわ、—あああ、人間はなぜ死ぬのでしょう! 生きたいわ! 千年も万年も生きたいわ! 死ぬなら二人で! ねエ、二人で!」 明治31年(1898年)から翌年にかけて、「國民新聞」に連載された徳富蘆花の小説「不如帰」

1.年寄が不老不死に近づく時代だ
 医学の進歩は、千年も万年も生きるという不死の実現に近づきつつある。二桁にわたる病名をもっていてもなお生きている患者を診ていると、なかなか死ぬに死ねない時代になってきたと感心する。私の施設にも100歳を超えている入所者が複数いる。だから今や死に場所を探すのが難しくなっているのだ。
 寿命は天命だろう。もって生まれた遺伝子のテロメアの長さで寿命は決められているらしいからだ。そこで Apoptosis は必然である。しかし誰もが一度は不老不死について考えたことがあるだろう。不老不死について考えた時、限りある人生を有意義なものにしたいと考えるのだろう。歴史上でも不老不死を求めた人物は多く存在する。その中でも聖杯伝説、秦の始皇帝、錬金術などはよく知られている。しかし、彼らの夢は実際には見果てぬ夢であった。
 もしも願いどおりに千年も万年も生きたら、人はどうなるんだろうか?ガリヴァー旅行記は、アイルランドの風刺作家ジョナサン・スウィフトにより、仮名で執筆された風刺小説である。1735年に完全な版が出版された。正式な題名は、『船医から始まり後に複数の船の船長となったレミュエル・ガリヴァーによる、世界の諸僻地への旅行記四篇』。
 その中で東洋の大きな島国であるラグナグ王国に着いたガリヴァーは不死人間ストラルドブラグの噂を聞かされ、最初は自分がストラルドブラグであったならいかに輝かしい人生を送れるであろうかと考えた。しかし、ストラルドブラグは不死ではあるが不老ではないため老衰から逃れることはできず、80歳で法的に死者とされてしまい、以後どこまでも老いさらばえたまま世間から厄介者扱いされている悲惨な境涯を知らされて、むしろ死とは人間に与えられた救済なのだと考えるようになる。(スウィフト著、平井正徳訳、ガリヴァー旅行記、岩波書店)
 私の施設でも認知症で10年以上も入所していて、ストラルドブラグさながらの人々がいる。しかし病んでの不死は避けたいものだ。そこで老年医学ではライフデザイン・ノートやエンディング・ノートを心身の確りとしているうちから記載し、それを近親者に開示しておくことを勧めている。

2.不老はまばらにやって来る
 寿命を延ばすには、臓器で違う老化の兆候(表1)をいち早く察知してケア対策を講じておくにかぎる。健康寿命を延ばすには、日頃の暮らし方次第だ。日頃の暮らし方とは、まず1日を医学的に有用に生きることからはじまる。これが揺りかごから墓場までケアしてゆく Life Style Medicine だ。
 表1に加齢の時計を臓器別に示した。各々の臓器の曲がり角から予防を講じて行けば、健康寿命は延びてゆく。

表1 加齢の時計は臓器別で違う。そこで予防も臓器別に必要になる

皮膚 18歳からエラスチンやコラーゲンは1年ごとに約1%減少する。これが顔やお肌の曲り角だ。歳より若く見える人は長命だ。
30歳から肺機能は1年に1%毎に減少する。
骨・関節 35歳から骨総量は年1%の割で減少する。これが骨年齢だ。これ以前からの運動が予防には大切だ。
筋肉 40歳から筋肉量は減少し脂肪が蓄積される。だから常に全身運動が必要になる。
40歳から視力は低下し始める。
腎臓 50歳から腎機能は低下し始める。だから水分摂取量を増やそう。
60歳から聴力は減少する。3人に1人は65〜74歳から減少す6574る。難聴は脳動脈硬化の良い兆候だ。
胃腸 60歳から腸の繊毛は平たん化し始める。そこで腸管の吸収率は低下する。咀嚼から排泄まで身体の時計で老いて行く。
心臓 65歳から心機能は減弱する。この年齢で心臓病は多発する。
70歳から認知症は加速して生70じる。

Time, The longevity report, 2015 および John J. Medina, The clock of Ages, Cambridge より引用。

 加齢の最初の徴候は足腰の筋骨格系に現れる。長岡花火を今年イオンの屋上から鑑賞した。帰路イオンから旭町の自宅まで、渋滞の中を2時間以上かけて歩いて帰った。足に豆を造りながら、遅い歩行でへとへとになり膝はがくがくしながらの歩きで、老化を痛感させられた。眼、続いて耳が中年期の初期に変化しはじめる。ほとんどの身体機能は歳手30前でピークに達し、その後、徐々にだが連続的に衰退しはじめる。ほとんどの臓器には最初、体が必要とするよりもずっと多くの余力があるので、残りの組織で十分に正常な機能が維持できる。したがって、高齢期に大半の機能低下をもたらすのは、ノーマルエイジングではなく病気なのである。
 加齢とともに、筋肉組織の量(筋肉量)と筋力が減少する。この過程を筋肉減少症といい、文字通り筋肉の喪失を意味する。筋肉量の減少は30歳前後から始まり、生涯続くのだが、75歳までに、筋肉量は一般に若い頃の半分になるのだ。筋肉量の減少は、おそらく筋肉をあまり使わなくなり、筋肉が縮んでいくために起こる。また、筋肉の発達を刺激する成長ホルモンとテストステロンの量が減少する。速筋線維の方が遅筋線維より多く失われるため、筋肉は素早く収縮できなくなる。年寄が1日ベッドで安静にしたときの筋肉量の減少を補うためには、最大2週間の運動が必要だとされている。その為スポーツ・クラブで日頃鍛えているのだが、やはり限界があるのだ。ほとんどの高齢の医師には、必要な医療行為をするのに十分な筋肉量と筋力がある。ただ高齢者にも優れた運動能力を維持している人は多くいる。こうした人々はスポーツで競い合い、元気に運動を楽しんでいる。しかし、どれほど元気な丈夫な人でも、加齢による衰えは時に痛感するものだ。それを弁えた上で働くことが健康長寿の秘訣であろう。その他の老化についての詳細は膨大な成績になるのでここでは割愛したい。

2.「命長ければ蓬莱に会う」と云う。
 人を知る者は智、自ら知る者は明なり。人に勝つ者は力有り、自ら勝つ者は強し。足るを知る者は富み、強めて行なう者は志有り。その所を失わざる者は久し。死して而(しか)も亡びざる者はいのちながし(健康長寿になれる)。(老子 第三十三章)
 長生きをすると幸運に出会うこともあるから、長生きを心がけようという教えである。「蓬莱」とは中国の伝説で仙人が住んでいるといわれる不老不死の霊山をいう。一方では荘子に「男子多ければ則ち懼れ多し。富めば則ち事多し。寿ければ辱め多し(男の子が多ければ心配事が多い。金持ちになれば面倒事が多い。長生きすれば恥をかくことが多い)」とある。長生きの良さも人さまざまだ。
 健康長寿は誰しも望むことだ。それが人生の勝者となるからだ。勝者とは出世したり金持ちになったりすることではないだろう。「自分にふさわしい生活を長くおくること」「自分らしく生きながらえること」だろう。自分に打ち勝って自分自らが望んだ生活を出来るだけ長く享受できたら、人生の勝利者となるのではないか。

3.健康寿命を延ばす秘訣
 心が変われば、態度が変わる。
 態度が変われば、行動が変わる。
 行動が変われば、習慣が変わる。
 習慣が変われば、人格が変わる。
 人格が変われば、運命が変わる。
 運命が変われば、人生が変わる』 ヒンズー教の教え

 Super Agers という英語をご存知でしょうか。これに相当する日本語は知らない。80代、90代の方で脳年齢が50〜60代という方たちです。私もその一人だと自認している。Super Agers の健康長寿への強い心がけが、生活習慣を良い方向にかえてゆき、それがやがて人生を変え健康長寿へとなるのだ。
 老年医学の研究テーマの一つは、健康長寿の秘訣を見つけだすことである。特に100歳を超えた方々、百寿者、の研究はその秘訣の解明に役立っている。既に様々な観点からの解析がなされている。しかしこれらの調査成績によると、実は高齢者の多くは特別な健康法を実践してはいない。「自分にふさわしい生活を送っている」「自分の本来にあった分相応の生活をしてきた」というのが百寿者の答えている秘訣なのである。年寄は多様であり、共通した長寿の秘訣を解き明かすことは難しい。しいて共通点を探すと次の事項が浮かび上がるだろう。

 のんびり、気楽な暮らしでは短命になる
 「長年お勤めごくろうさまでした。今後は新しい職場で一層ご活躍ください」或いは「今後はのんびりと気ままに暮らしては如何ですか?」……定年退職時の決まり文句である。
 「くよくよ悩まず、陽気に過ごし、あまり働きすぎない」これが長寿の秘訣なようだ。2015年のカリフォルニア大学・Haward S Friedman 教授とシエラ大学の Leslie R Martin 教授は性格が長寿の予測因子になることを Longevity Project として報告した。1500人以上を生涯にわたり追跡調査した。その結果、(1)小児期から陽気でユーモアのセンスがある人は、逆な人より短命だった。(2)幸福は健康の源ではなくて、両者は両立する。(3)結婚は男性の健康にはプラス。だが女性にはさほど関係ない。(4)生産的な生涯を送った人は、長生きする。この研究成績から長寿の秘訣には暮らし方で意外な落とし穴があることに、注意する必要がある。(つづく)

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蛍の瓦版~その16 理事 児玉伸子(こしじ医院)

1.ストレスチェック制度
 平成26年6月に労働安全衛生法が改定され、今年の12月1日から労働者数50人以上の事業場では、ストレスチェック制度の実施が義務付けられました(50人未満の事業場は努力義務)。この制度は労働者のメンタルヘルス不調を未然に防止する一次予防を目的としています。事業者は、労働者の心理的負担の程度を把握するための検査(ストレスチェック)を行い、該当者には希望に応じて医師による面接指導を実施しなければなりません。これらに係る費用は全て事業者の負担とされています。
 ストレスチェックに用いる調査票は、厚労省から“職業性ストレス簡易調査票”が示され、その使用が推奨されています。調査票は職場での心理的負担の原因や、心身の自覚症状および他者からの支援について、その状況を4段階で回答するようになっています。面接指導は産業医以外の医師でも実施可能ですが、当該事業場の産業医は共同実施者であることが望ましいとされています。
 この制度は新しいもので、昨年の法律公布後専門委員会による検討やマニュアル作成を経て、今年の9月から実務を担う産業医への周知が始まっています。労働者の不利益にならないように、個人情報の扱い等も今までの身体の健診結果とは異なります。今後も各地の医師会や産業保健総合支援センター等の主催で、ストレスチェックに関する講習会が予定されています。産業医や関心のある方は、是非一度受講されることをお薦めします。

2.介護保険自己負担金
 今年の7月まで介護保険の利用料は収入の多寡に関わらず、1割負担でした。昨年6月に成立した供医療介護総合推進法僑に基づき、今年の8月から前年度の所得が一定以上ある者は、介護保険の利用料が1割から2割へ値上がりします。これには介護保険に拠る訪問系の利用料だけではなく、居宅療養管理指導費も対象となります。
 2割負担導入に伴い、介護保険負担割合証が交付されていますが、8月1日からの1年間の適用期間内でも負担割合が変更になる場合もあるのでご注意ください。

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第45回長岡市医師会会員ゴルフ大会初優勝 加藤政美(長岡中央綜合病院)

 平成27年9月6日、6回目の挑戦で念願の長岡市医師会会員ゴルフ大会(長岡市医師会コンペ)に初優勝することが出来ました。当日の天候は朝から小雨でありましたが、次第に雨脚が強くなり、多くの先生方は雨具を着込みましたが、私は蒸れるのが嫌で雨に濡れながら頑張ったのが良かったのかも知れません。
 当日の組合せは、第1組は日赤と中央の病院長(川嶋・吉川)と太田会長・野々村先生。第2組は渡辺修一・玲親子対決に吉田・河路先生。第3組は荒井・田村・田辺先生の3名。第4組は産婦人科(明石・加藤・西村)と前年優勝の大塚副会長という15名の参加であり、内科・産婦人科各3名、整形外科・小児科各2名、外科・耳鼻科・皮膚科・泌尿器科・形成外科各1名でありました。
 この大会は例年長岡カントリー倶楽部の東西コースで開催されておりましたが、連絡ミスにより、当日朝になって南コーススタートと判明し、皆が嫌がる南コースは私にとっては好都合のコース変更でした。
 いつものように南コースでもOBはゼロ、パー5ケ・ボギー2ケ・ダボ2ケのグロス42で、ダボ2ケとボギー1ケが隠しホールに当りHDCP5点確保。昼食後、雨は降り止む気配なく東コースをスタート、身体は冷え、コースの草は元気になり、厳しい勝負となり、パーは2ケしか取れず、ボギー4ケ、ダボ3ケのグロス46。ダボの3ケともが隠しホールに当り、HDCP7点確保。グロス88、HDCP14.4(新ペリア方式)で、NET73.6、河路先生と同NETながら、年齢の高い私の優勝ということになりました。
 私の場合、昭和51年秋の初ラウンドから今回の第472回目(40年間)の全ラウンドのスコアと使用クラブ、ショットの内容の記録が残っておりますので、この機会に長岡市医師会コンペの全6回の成績を振り返ってみました。
 第1回目参加は平成15年、東42・西43・グロス85で準優勝、優勝は外山孚先生。
 第2回目が平成18年で東46・西43・グロス89で準優勝、優勝は太田裕先生。
 第3回目が平成20年で東45・西42・グロス87、同期仲間の奥様の見舞いで表彰式欠席。
 第4回目が平成22年で東43・西47・グロス90で11位、優勝吉川明院長。
 第5回目が平成26年で東42・西40・グロス82と久し振りの好スコアながら5位、優勝は大塚武司先生。
 そして今回6回目の参加で初優勝することができました。
 全6ラウンドのフェアウェイキープは49/84で58.3%、ショートホール1オンは7/24で29.2%、パット数は0が0回、1が21回、2が74回、3が12回、4が1回、9ホール平均17.5パットという成績でした。予想以上にショートホールの1オン率が低いことは、今後の課題になりました。2日後からアイアンの方向性を良くするべく練習を再開いたしました。
 優勝の医師会長杯を眺めてみると、第35回から第44回までの優勝者の氏名が刻印されておりました。大塚武司先生が3回も優勝されており、賭け事に強い大塚先生の面目躍如というところです。
 第46回大会は、好天の元で連覇を目指したいと思っておりますが、医師会コンペ参加者の高齢化も進んでおりますので、もう少し若い会員の皆様にも参加頂き、この大会が末永く続くことを願っております。

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巻末エッセイ~ヌケオチはまたぎの味 江部達夫(江部医院)

 秋の味覚の代表はと問えば、中高年者はキノコと答えるのでは。若い人達からキノコは年中スーパーで買えるよと言われそうだが、確かにキノコの栽培技術が進み、今日では色々なキノコが一年中作られている。しかし栽培研究が進んでも作れないキノコもまだまだ多い。その代表はマツタケである。
 ところでヌケオチというキノコをご存知だろうか。キノコ狩り五十年の私も、自然の中で目にしたのは三回だけだ。もちろん栽培はできない。正に幻のキノコなのだ。
 ヌケオチ、正しくはエゾハリタケ。東北地方のブナ林のキノコ、新潟県では下越のブナ林で採れる。立ち枯れしたブナの老木や生木の枯れ枝に生える。三千本のブナを見て回って一株でも見つけられれば運が良い。
  ヌケオチは梅雨明けの頃、まだ樹皮で覆われた幹の窪んだ所に白い菌塊を作る。ゆっくり生長し、晩秋には巾五〜十センチの扇型した菌体が三十から五十段と段重ねになって大きな株となる。驚くことに冬も少しずつ生長し、春先には五キロ程に育ち、木から抜け落ちるように、五メートル以上の高さから雪の上に落ちる。地方名ヌケオチの名の由来だ。春、またぎ達は冬眠から目覚めた熊を求めて残雪の山に入る。熊が捕れなくてもヌケオチは拾ってくるのだ。
 ヌケオチはただ珍しいキノコというだけでなく、その味は絶品。ヌケオチを初めて口にしたのは三十年も前のこと。関川村での山仲間達との酒席、営林署職員で一年中山に入っているS氏、酒の肴にキノコのみそ漬けを持って来た。一ミリにスライスしたべっ甲色のみそ漬け。一切れ口にしてみた。木片を噛んでいるような感、仲間達は旨い旨いと。よく噛んでいると、みそ味の中に今まで味わったことのない旨みが口の中に広がった。これは珍味、旨み成分はイノシン酸に通じる味だ。
 S氏、ヌケオチをみじん切りにし、ごはんにたっぷりかけ、熱い湯をかけた茶漬けを作ってくれた。これ程に旨い茶漬けを食べたことがない。その晩以来私はヌケオチの虜になった。
 ヌケオチは生長すると軟骨質の硬いキノコ、扇形の傘の裏面には五、六ミリの白い絨毛状の突起がぎっしり生えている。九、十月頃の幼菌は軟骨質が軟らかく、スライスにし油炒めにしてもおいしい。すき焼きの具にしたり、酢のものもおいしい。
 何といっても旨いのは生長し硬くなった株のみそ漬けだ。またぎ達は春の雪山で拾って来た表面が傷み、褐色になった株を更に土に埋め、表層部を腐らせてから茹でて塩蔵。これを塩出しして、適当な大きさに切りみそに漬けこむ。一年以上漬けておくと軟骨質がべっ甲色のヌケオチが出来る。我が家には十年ものも。
 またぎ達はおにぎりにヌケオチのみそ漬けを持って、春先は熊を求めて山に入る。山歩きのスタミナ源だ。
 高齢化社会になった日本、東北地方ではまたぎが少なくなり、関川村でも熊を追う元気なまたぎはいなくなった。今年の秋は山ではブナやナラが実をたくさん付け、これが好物の熊たちは里に下りて来ない。またぎのいなくなった村には幸いだが、山の実りの少ない年には里に出没する熊が増えるだろう。若い人達が狩猟免許を取り、銃を持てるように補助金を出してやらないと、またぎは皆無になる。春先のヌケオチが手に入らなくなるのが心配だ。関川村の山仲間も年をとって来たがまだ健脚、この秋も誰かが取って来てくれるだろう。

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