長岡市医師会たより No.431 2016.2


もくじ

 表紙絵 「いもり池の畔にて」 丸岡 稔(丸岡医院)
 「台湾の魅力について」 佐藤眞帆(長岡中央綜合病院)
 「困りましたねェ」 廣田雅行(長岡赤十字病院)
 「新年ボウリング大会優勝記〜開業20年目の雑感」 田村隆美(田村クリニック)
 「新年麻雀大会優勝記」 田中宏明(長岡中央綜合病院)
 「新年囲碁大会の報告」 齋藤古志(さいとう医院)
 「巻末エッセイ〜長岡中央綜合病院八十年のあゆみのこと」 星榮一



「いもり池の畔にて」 丸岡 稔(丸岡医院)


台湾の魅力について  佐藤眞帆(長岡中央綜合病院)

 初めまして。長岡中央綜合病院研修医2年目の佐藤眞帆と申します。出身は愛知県名古屋市で、大学から新潟に参りました。長岡は2年目ですがすでに大好きな街となり、合計8年目になる雪国新潟での暮らしもすっかり慣れ、大好きな第二の故郷となっています。
 趣味はスキーと映画鑑賞と旅行です。今回、この原稿を書く機会をいただき、何を書くか迷いましたが、大学4年生の時に研修で2か月滞在して大好きになった台湾について書こうと思います。
 まず私の台湾の第一印象は、初めて日本以外のアジアの国を訪れたということもありますが、決して良いものではありませんでした。セブンイレブンやファミリーマートがあり、コンビニや会社、車など、日本の文化が垣間見えるのに日本ではない、道路状況も整えられてはいるけれども、少し前の時代の日本はこんな感じだったのかな、と思いました。しかし、2か月生活していくうちに日本とは違う、どんどん素敵なところが見えてきました。
 まず、台湾に行かれたことがある方はお気づきかと思いますが、台湾人は非常に親日的です。道がわからずキョロキョロしていると、何か困っているかと声をかけてくれます。自分の乗る予定であったバスを乗り過ごしてでも付き合ってくれます。友人の紹介で訪れたマッサージ店では、翌日に観光にも連れて行ってくれ、その後に台湾を訪れた際にも必ず顔を出しています。お世話になった台湾大学の研究室のメンバーは、研究においても日常生活においても、観光においても私に不自由がないかを常に気にかけてくれました。あまりの親切さに驚いて、何でこんなに親切にしてくれるのかと尋ねたことがあります。当然でしょという驚いた顔で、「だってあなた外国人じゃない」と言われました。外国人にこんなにも優しいのが当たり前という姿勢に脱帽しました。また、国レベルでも、東日本大震災の際には、すぐに救援隊を派遣しようとしてくれたり、記録に残っているだけでも200億円以上の義援金を寄付してくれたそうです。年収は日本の三分の一から二分の一と言われている台湾でこれだけの金額の寄付はとてもすごいことです。
 他にも台湾の魅力としては、ご飯が美味しいことが挙げられます。屋台が多く、朝ごはんから、ランチ、夕食まで屋台で食べられます。朝ごはんとしておかゆや、麺線というかつおだしのとろみのついた麺や、クレープ生地のようなもので豚肉やチーズなどを包んだものを買って、研究室で食べるのが日課でした。普通のご飯屋さんも麺類や餃子、小籠包、野菜の炒めもの、チャーハン、書き出したらきりのないくらい安くて美味しいものがたくさんあります。これらは決して観光客向けではなく、台湾の人もこういった屋台や店を利用しています。基本的に味付けが日本人の口に合うようなものなので、台湾に長期間滞在していても食の点では全く不自由しないと思います。むしろ日本に帰ってきてから台湾の食べ物が食べたくて恋しくなります。夜には夜市もたくさんあり、それぞれの夜市で名物の食べ物や特色があり、いろんな夜市に行ってもそれぞれ楽しめます。一番有名なのは士林夜市です。とても大きい夜市で、ここの名物は顔よりはるかに大きいフライドチキンや、ふわふわのカキ氷などです。甘すぎるものが苦手な方にはコーヒー味がオススメです。
 台湾は、いろんな店が、屋内だけど扉は開け放たれていて外から店の様子がよく見えて入りやすかったり、特に大都会の台北でも人々の生活が、いい意味でよく見えるホッとできる暖かい場所です。暖かいが故に、台湾にはリピーターがとても多いです。私は二ヶ月ゲストハウスに滞在し、世界一周中の人や、ワーホリ中の人やその他たくさんの人に出会いましたが、やはりリピーターは多く、10回以上来ている人、その年3回目の台湾、などというリピーターが何人もいました。私もあの研修の後、2回台湾を訪れており、働きだしてからはまだ行けておりませんが、いつ行けるかいつ行けるかと楽しみにしています。みなさまも機会があれば是非台湾に行ってみてください、ここには全く書ききれていない台湾の魅力がもっともっとあります、オススメです。

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困りましたねェ  廣田雅行(長岡赤十字病院)

 イヤー全く、去年の夏は猛暑と成るかと思わせる様な始まり方をしたものの、実際は左程では無く過ぎ去ってしまい、冬は冬で長期予報の当たった様な当たって無い様な、全く積雪の無い新春を迎える事と成ったりで、如何成って居るんで御座いましょうかなァ。あ、どうも、こんな書き始めと成りましたのにも一寸、訳が御座いましてな。先生方の中には、昨年の当会報の八月号で、「グズグズ」のジャコウアゲハの越冬顛末記を載せさせて頂いた物を御読み頂き、記憶の片隅にチョコッとでも引っ掛かっておいでの方も御有りかも知れませんが、今度は更にそれを上回る強者が出て参りましたもので、こんな天候の不安定さ等も影響するのではと思う事も有ったり致しまして、ついつい愚痴の様になって行ったと言う事では御座いました。
 さて、そもそもの事の始まりは、五月に生まれたジャコウアゲハの幼虫なので御座います。他の仲間達と同様に順調に蛹に成った筈なので御座いますが、他の皆が次から次へと空へ飛び立って行って居ると言うのに、この蛹だけが「我、関せず」を決め込んで、平然として居るので御座います。そうこうして居ります内に、他の仲間は三回目の羽化期の九月を迎えて、これも次々と空へ。しかし、この子は平然として其の儘。もしかしたら、君は例の「グズグズ」君の二代目かな?と思わずには居られませんでナ、そこで「グズグズ二号」と名付けたのでは御座いました。「平然として」と、書きましたのには裏付けが御座います。大体、蛹の中で上手く成長、変態が進まなく成った者は黒く変色してしまうものなので御座いますが、この「グズグズ二号」君にはそう言った変化が見られ無いので御座います。とうとう最後の最後、他の遅い者の内で少しでは有りますが、時期的には有り得る十月半ばの羽化期も過ぎてしまいましたが、如何もその気は無い様で、一向に羽化の気配が見えて参らないので御座います。
 偶々では御座いますが、自宅のポット植えの食草、「ウマノスズクサ」も、昨秋は何故か元気が無く成って仕舞い、他から採って来た餌で最後の越冬態勢に入った幼虫達を何とか蛹に迄育て上げ、冬越しに入りました。数を数えて見ますと四十六頭、何と、この「グズグズ二号」君を入れますと、四十七頭。春を待って一体何所へ討ち入ろうと言うのでしょうかねェ?。冗談の様な数では御座いました。
 普通のアゲハ蝶の大型腫は年二回、春と夏に羽化し、それぞれ春型、夏型と呼ばれる特徴の有る羽紋を持って居ます。このジャコウアゲハの場合は三回目の秋型とも言える者が羽化します。一方で、アゲハ蝶らしくないタイプの内では、ギフチョウは年一回、「春の女神」として羽化するのみです。又、氷河期からの生き残りともされるウスバシロチョウもこれ又年一回、ギフチョウに少し遅れて五月から六月に掛けて羽化します。そして、この仲間で北海道の大雪山系で見られるウスバキチョウは、丸二年、足掛け三年に一度羽化する事が知られて居ます。ジャコウアゲハは「ウマ」ノスズクサ、ウスバキチョウは「コマ」クサ、食草が「馬」繋がりとは申し乍ら、年三回羽化する者が「越冬」迄行ってしまいそうと言うのは、矢張り勘違いも甚だしいと言うべきでは御座いませんでしょうかねェ。
 さて、何時もの干物籠の中で四十七士は来たるべき春を待って居るので御座います。どの位の数がしっかり羽化出来るものか?それ以上にこの「グズグズ二号」君がチャンと羽化出来るのか?心配なのでは御座いますが、実は私、年で御座いまして、この春、弥生一杯を持ちまして定年退職、長岡を後に実家の方へ戻る運びとは成ったので御座います。私事を書きまして申し訳御座いませんが、その実家の周辺には、この様にウマノスズクサの有る環境が御座いません為、この四十七士達を連れて行く訳には参らないので御座います。そこで、「ハタ」と、本当に「ハタ」と思い当たりましたのが、誰有ろう、以前から何度かこの紙面に御登場頂いて居ります「K」先生で御座います。「困った時の『K』頼み」、そうだ、矢張りそれが良い、否それしか無い。何せ先生の医院の庭にはウマノスズクサが植えられて居るので御座います。と言う事で、御本人に御願い申し上げる以前に紙面に書いてしまえば、もうこちらの勝ちは確実。しっかり事の成り行きを見定めて下さると御信頼申し上げて居ります、ネ、「K」先生、宜しく御願い申し上げる次第で御座います。
 こんな風に事が進んでいる事に気付きもせずに、件の「グズグズ二号」君、一体どんな夢を見ているんで御座いましょうかねェ?。
 さて、改めまして、長年皆様どうも有難う御座いました。又、御会い出来る日迄、ビール片手に「グズグズ」と過ごして参ろうかと……。
 では、皆様、御先に御休みなさいませ。

追記
 これを書き乍ら、確認の為、干物籠を覗いて見ますと、残念乍ら二頭が黒化して駄目に成って居りました。しかしながら、例の「グズグズ二号」君は籠の最下段で只一頭、相も変わらず「平然」として居りました。サテハテ、誠に如何相成りまするやら。そうそう、今回は全く写真を使わずにと思って居りましたが、「グズグズ二号」君とその仲間の「勇姿」?を御覧頂こうかと、……駄目ですねェ、申し訳御座いません。

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新年ボウリング大会優勝記〜開業20年目の雑感   田村隆美(田村クリニック)

 このたび“ぼん・じゅ〜る”に私の拙文を掲載して頂くこととなり、厚く御礼申し上げます。
 平成7年に田村クリニックを開業して以来、昨年開院20周年を迎えることができました。ひとえに日赤病院、中央病院、立川病院、長岡西病院の各勤務医の先生方、また長岡市医師会の開業医の先生方のお力添えの賜物と、改めてこの場をお借りして感謝の気持ちをお伝えしたいと思います。本当にありがとうございました。また、今後ともよろしくお願い申し上げます。
 開業して20年も経ちますと勤務医の先生方の中には「田村クリニック」についてご存じない方も多いかと思いますので、簡単に自己紹介をさせて頂きます。
 私は昭和30年広島県呉市で生まれ、高校卒業まで瀬戸内海の気候温暖な地域で生活しておりました。雪も滅多に降らないため、一度雪国で過ごしてみたいな、との軽い気持ちで選んだのが新潟の地でした。慶応大学工学部を中退後、新潟大学医学部に入学した動機は本当に些細なものでした。
 昭和58年に新潟大学を卒業し地元の広島大学の泌尿器科に入局しましたが、縁あって昭和62年より新潟大学泌尿器科の医局員となりました。関連病院の中央病院、日赤病院に勤務後、昭和63年から約8年間立川病院で泌尿器科医として上原徹先生と一緒に仕事をさせて頂き、平成7年9月1日田村クリニックを開業し現在に至っております。今では、「雪国で過ごしてみたい」という愚かな思いは全くありません。
 この20年間で研修医制度を含め医療環境は激変しました。病院地図も平成9年に日赤病院が新病院に移転、平成17年には中央病院も移転し、いよいよ今年立川病院が移転することになり時代の流れを痛感しております。今後も現代医療に取り残されないよう誠意努力を惜しまない覚悟です。
 私生活では、昨年還暦を迎えました。子供たち3人も親元を離れ、現在は室内犬としてゴールデンレトリーバー1匹(約27kg男ロミちゃん)、猫4匹(マンチカン1匹風太君、スコティッシュホールド1匹華ちゃん、キジトラ2匹モモちゃんとココちゃん)ウサギ1匹(コロスケ)の動物たちの計6匹と、家人と2人の生活を楽しんでおります。また、時折孫の面倒を見る事が心の安らぎです。
 さて、前置きが大変長くなりましたが、今回新年ボウリング大会に約10年ぶりに参加しました。きっかけは、「田村君たまにはボウリング大会出ない? おもしろいよ〜」と明石明夫先生から某スポーツクラブでお声をかけて頂いたことでした。「久しぶりに投げてみるか」との思いで参加した次第です。
 実は私、平成9年から平成16年まで長岡市医師会ボウリングクラブに所属し、月1回の例会ではそれなりのスコアを出すメンバーでした。しかし、中越地震後全くボールを触っていません。クラブ退会後は下手ですがゴルフに力を入れ、また4年前からはジョギングに嵌まり、走り過ぎて(月300km以上のラン)2年前右足踵骨を疲労骨折。杖歩行の期間もあり6か月間全く走れず、中村敬彦先生に「こんなケース初めて!」と言わしめたくらいです。
 話は戻りますが投球開始前、市川健太郎先生から「以前のハンディキャップ(HC)いくつでしたか?」と聞かれましたが全く覚えていませんでした。そこで「HCは2ゲームの平均スコアをみてから決めます」とのことでゲーム開始。1ゲーム目145、2ゲーム目134の2ゲーム合計スコア279と、ど素人の内容です。窪田久プロ、三上理プロなら1ゲームで出せるスコアでしょう。この時点でHC48と決めて頂き、残り3ゲーム目194、4ゲーム目183とやや昔の感じを思い出しグロス656、ネット848で優勝とのことでした。
 ゴルフに例えるなら、HC36を貰って優勝したようなものです。大人げないHCを頂き大変申し訳ありませんでした。因みに、ボウリングクラブ所属時のアベレージは170位だったようですので、HC24が適切だったと深く反省しております。
 還暦を過ぎ今年から第2の人生の始まりです。今後も泌尿器科専門医として社会貢献しながら、様々なことに再挑戦していきたいと思います。ボウリング大会の優勝も自分への激励と考えております。各先生方、今後ともよろしくご指導の程お願い申し上げます。

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新年麻雀大会優勝記   田中宏明(長岡中央綜合病院)

 恐らくこれを目にする多くの先生方が「誰だ、この田中ってのは?」と思われると思いますので、まずは自己紹介からさせていただきます。長岡中央綜合病院で二年目の研修医として勉強させていただいております田中と申します。新潟市に生まれまして2014年に新潟大学を卒業し、縁もゆかりもない長岡の地で雪に翻弄されながら、日々指導医の先生方から熱心なご指導をいただいております。
 昨年に引き続き、新春麻雀大会へ参加させていただくのは二回目となります。私がこの大会に参加させていただいたきっかけはといえば、大学在学中に受けた中央病院の面接がきっかけでした。真面目な振りして受けた面接会場には吉川院長と富所副院長、看護部長の奥村さんと事務長の高橋さんがいらっしゃったと記憶しております。そこでこんなやりとりがありました。
 吉川先生「先生はなんか趣味とかないの?」
 私「読書を少々……」
 吉川先生「そういんじゃなくてさ、囲碁とか麻雀とかやらないわけ?」
 私「(あ、そういうこと言ってもいいのか)麻雀は仲間とはよくやります」
 富所先生「おお、じゃあお前、研修始まったら一月の第四土曜は開けといてくれ。医師会の麻雀大会あるから」
 ……そんなこんなで、フランクな院長、副院長の軽快なトークのおかげで肩の力が抜けたと同時に、まだ国家試験に合格もしておらず、ましてや長岡への赴任も決まっていない中で、大会への参加はいち早く決定していたのでした。
 昨年の大会ではそこそこ調子よかったものの、三半荘目の後半に病院に呼ばれてしまいましたため、不完全燃焼で終わった感があり、今年は是が非でもリベンジを果たしたいと心に決めておりました。そのため、一年目研修医を(半ば無理やり)連れ出して図々しくも再挑戦させていただいた次第です。昨年に引き続きお見掛けする先生方もいらっしゃれば初めてお目にかかる先生方もいらっしゃり、緊張の中で始まりました麻雀大会でした。立ち上がりはリーチ合戦に負けて凹みのスタートでしたが、最終的な結果は意気込みの甲斐あってか、三連トップでダントツの優勝をさせていただくことができました。その裏には、一半荘目でメンピン三色一盃口ドラドラのインパチを打ってくれた後輩の秋山君と、消化器内科ローテート中だったためか、二半荘目で役役ドラ四の跳満をプレゼントしてくださった渡辺庄治先生のアシストもあってのことだと思います。言わば中央病院の総力を挙げて獲得した優勝だと感じております(などと書くと、なんだコンビ打ちでもしてんのかと思われそうですが、真面目に打った結果ですのでご安心ください!)。なお、余談ですが、優勝者がこのように原稿の執筆を課せられるなどということは三半荘目の途中までまったく知らされることはなく、二半荘合わせて四一八○○点の浮きで迎えた三半荘目、東パツでリーチ發ドラ三裏三の倍満を和了して、またもやトップに躍り出た後ようやく小林先生から知らされることになるのでした。更に余談ですが、昨年の優勝賞品は確か酒だったように記憶していたため、今回大き目の箱を頂いたときは少し肩透かしを食らったような思いもありましたが、浅草今半の佃煮は大変美味でした。酒の肴としてちびちびと楽しませて頂いています。
来年は新潟市に戻り形成外科医として大学勤務することに決まっておりますが、麻雀は生涯の趣味として続けていくつもりでおります。今回卓を囲めなかった先生方ともいつか同卓できたらいいなと夢見ております。今回は楽しい場を提供してくださった長岡市医師会の皆様、同卓してくださった先生方、裏方として助けていただいたMRの方々、大変ありがとうございました。

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新年囲碁大会の報告   齋藤古志(さいとう医院)

 今回は次の10名の先生方が参加されました。(五十音順・敬称略)
  太田裕、大塚武司、小林矩明、齋藤古志、齋藤良司、新保俊光、三間孝雄、柳京三、山本和男、吉田正弘
 三勝者が二名になりましたが、幹事太田先生の変則?スイスルールにより、私に優勝と共に感想文を書く義務が転がり込みました。気の利いた話題も持ち合わせず、あれこれと悩んだあげく他人の力を拝借することにしました。
 二十数年前に購読していた月刊誌『囲碁研究』に今は亡き文人棋士、中山典之氏(追贈七段)が担当する『碁裡夢中囲碁いろは川柳』という一ページがありました。読者からの投句(毎月五千句とか)から秀逸なもの約三十句を選び、それに中山氏があいの手として下の句を付けて笑いを増幅させるという趣向です。
 その七年分(総数三十万句とか)から選りすぐりを一冊の本にしたものが出されました。(平成五年)
 それぞれが機知に富んだ作品で、碁打ちの心情やその場の情景を上手うまく捉えています。あいの手がまた面白い。その中からいくつか拝借しようという寸法です。勿論、作者の氏名は明記させていただきます。

色々と 事情があって とれぬ石  枚方市 平野清さん (親父 上役 師匠 恋人)
老妻が こちらもオワと 徳利下げ  大宮市 杉本喜一郎さん (もう一本とねばる ヨセコウ)
保険とは 碁にもかけると 露知らず  川崎市 天野旭子さん (殺したくても 死なぬ碁がたき)
落書も 詰碁とあれば 消さずおき  富山市 羽根残心さん(生徒六段 教師三級)
不可解な 石よと見やる 眼鏡ごし  愛媛県 福田哲秋さん(よほど強いか よほど弱いか)
目を求め 逃げて追われて 大往生  紋別市 成田賢一さん(メーメー子やぎ どこへ行くやら)
父上が 二つ置くぞと さみしそう  川崎市 天野旭子さん(お相手するも 幸か不幸か)
内科外科 ともにさじ投げた 筋悪で  北海道 金子力男さん(精神科なら どう治療する)

 他人の作品ばかりでは何ですので、ひと晩苦しんでヒリ出した自作を恥を忍んで披露します。よせばいいのに嘲笑は覚悟の上の大冒険です。

もうアカン プロが始めた 店じまい
うろ覚え 新定石が 命とり
さあ来いと 鼻高々に 五つ置く
筋が良い ほめられながら いつも負け
何十番 負け越しだけど 白を持つ
やっとこさ 渡って皆で 冥土行き
なぜ勝てぬ メンツを捨てて もっと置け
この道は いつか来た道 おそれ山
ごくたまに 勝てるので 碁はやめられず

 どこかで見たような気がして盗作ではないか少し心配です。一応は確認したつもりですが。お粗末でした。

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巻末エッセイ〜「長岡中央綜合病院八十年のあゆみ」のこと 星榮一

 昨年の12月3日に「長岡中央綜合病院八十年のあゆみ」が上梓された。
 平成八年に長岡中央病院に赴任してきて、病院の歴史を調べようとしたら、きちんと纏めたものはないという。創立以来一度も病院史らしきものは作られていない。
 平成17年に福住から川崎町に移転するときに、記録史を作るのかと思っていたが、その気配もなかった。常々、富所隆副院長には病院の記録史の必要性を話していた。平成23年9月の病院管理者会議で、平成26年が病院創立80年になるので、それまでに「病院八十年史」を発行することになった。
 僕は少しずつ資料を集めておいたので、創立から終戦までを執筆することにした。断片的な二次資料はあるが、一次資料はまったくない。昭和初期から終戦頃までの、長岡の地方新聞を探した。長岡市の図書館は戦災で資料がまったくない。幸い柏崎市立図書館に「越佐新報」と「新潟県中央新聞」があることがわかった。
 それによると、長岡中央綜合病院の前身の「中越医療組合病院」の開院は、昭和9年10月ではなく、昭和10年10月に新聞一面に大きく開院の様子が記録されていた。これは意外な発見であったが、記念誌の発行が平成27年になったことで、編集に一年の余裕ができた。新聞を調べて行くうちに、それまで言われていた病院の歴史も、訂正しなければならない事実がいくつか判明した。
 病院の歴代院長の顔写真にしても、美しいポートレートを入手できたものは数名で、集合写真から処理して作成したものや、院長時代以降の写真が全くなく、医学部の卒業アルバムから、若いころの写真を採用せざるを得なかった方もいた。
 診療各科、各部門の歴史を各々のチーフに執筆してもらったことはよかった。各チーフが自分の科の歴史を勉強する機会ができたことになる。
 労働組合、図書室、売店、古い病院の玄関脇の下足係、インターン、研修医などの記録も掲載したかった。
 編集にあたっては、総務課の藤田史彦君が資料の整理、保存、写真の引用の交渉、印刷屋との折衝と細々したことを担当してくれたので助かった。彼がいなければ発刊できなかったかもしれない。
 本年1月に総務課の倉庫の奥に、中身の記載のないダンボール箱が見つかり、「永久保存」と書かれた封筒が入っていた。封筒の中には杉山一教院長時代のスナップ写真や、病院創設当時の未見の写真や資料もあった。もう半年早くこの箱を発見していれば、「八十年のあゆみ」に収録できたのにと残念である。
 平成27年10月が長岡中央綜合病院が創立八十年になったので、何とか年内に発行が間に合った。振り返ると、もう20年早く編集を開始していれば、生存している関係者も多く、もっと内容の濃い病院史になっただろうと思う。
 市内の各図書館、医師会、各病院には本誌を寄贈するので、本院以外の方々にも読んでいただけるだろう。それにしても、OB、現役が一致団結して、よいものをつくろうと努力した甲斐があって立派な「八十年のあゆみ」ができたと自負している。20年後の百年目には、さらに内容の充実した「病院百年史」が出来ることを期待している。

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