長岡市医師会たより No.435 2016.6


もくじ

 表紙絵 「水辺公園(妙見)」 丸岡稔(丸岡医院)
 「私の開業物語」 中垣内正和(ながおか心のクリニック)
 「中越地区リウマチ事情」 佐伯敬子(長岡赤十字病院)
 「はじめまして」 田村真麻(長岡赤十字病院)
 「救命処置を学ぶ半日コース」 齋藤修(耳鼻咽喉科斎藤医院)
 「救命処置半日コースを受講して」 米山隆一(長岡ナーシングホームクリニック)
 「新しい救命処置を学ぶ半日コースを受講して」 星野弘之(見附市:星野医院)
 「蛍の瓦版〜22」 理事 児玉伸子(こしじ医院)
 「巻末エッセイ〜バルセロナ」 富樫賢一(悠遊健康村病院)



「水辺公園(妙見)」 丸岡稔(丸岡医院)


私の開業物語  中垣内正和(ながおか心のクリニック)

 2003年に「日本嗜癖行動学会」長岡大会をリリックホールで開催したことがきっかけになり、10年間車で新潟市の病院に通勤しておりました。精神科の会合で長岡と新潟の双方の院長が私の移動について話し合った瞬間に大地が「ぐらりと揺れ」、中越大地震が発生したことは大地の意志に反したのではという想いとして強く残りました。新潟市の病院では、産業カウンセラーなどマイスタッフ4名を併せてバイト採用していただき、「ひきこもり外来」「アルコール外来」「摂食外来」の試みが開始されました。柏崎監禁事件以来、「KHJ全国ひきこもり家族会」の支援活動を続けてまいりましたが、同会が国の評価(実質認証)を得るところまで来た2013年、かつて20年近く勤務した県立精神科病院の医師の大量引き上げ、病棟縮小、外来閉鎖という思わぬ事態が発生しまして、私の気持ちは再び「ぐらりと揺れ」、地震の際の記憶が蘇ってまいりました。長岡市を中心とする中越地域からアルコール依存症を診る医師がいなくなり、また10代の患者を診る医師も転出いたしました。山形の知人の話では、人口8万人の米沢市民病院の精神科閉鎖に伴い、1400名の患者さんが行き場を失ったということですから、長岡では数千人の外来患者さんに影響が出たと推測され、新潟市までも患者さんは拡散して、長岡市内の病院やクリニックでは三か月の予約待ちという話も伝わってきました。
 市内坂之上町に居を構えながら、雨の日も風の日も地吹雪のホワイトアウトの日も(出稼ぎ)通勤していた私は、いつしか長岡に骨を埋める気持ちになっておりましたので、この「二度目のぐらり」によって私の「地元」へ戻る決意は固まりました。新潟市の10年間で、勤務先は「ひきこもり問題の一大拠点」として知られるようになっていて、患者さんやスタッフとの別れ、家族会や居場所の移動に関して散々悩みましたが、ひきこもり家族会「KHJ長岡フェニックスの会」の立ち上げ、続いていた「AA」、「断酒会」との交流、新潟大学の染矢教授のご理解や長岡市医師会の諸先生方のご賛同、長岡市の事態を憂慮する経済界の知人の支援、「病院から地域へ」という精神医療の流れ(国の方針)が私を後押ししてくれました。
 新クリニックは、旧来の心療内科・精神科のイメージとはまったく異なる様相を呈しています。かつてJR貨物の地であり、中越地震後に仮設住宅地域となった広大な一帯は、再開発によって「シビックコア」地区として生まれ変わりました。そこには、市民防災公園、消防署、「子育ての駅ぐんぐん」、合同庁舎(ハローワーク、税務署)、マスコミ支社、駐車場などが配置され、最後の一角にクリニックを入れていただきました。部屋からは、東山の峰々、走行する新幹線、ゴルフ場、スキー場を望むことができます。長岡駅から0.9kmの地にあり、田園地帯にあった前勤務病院より「都会」などといわれました。心療内科・精神科は奥まっていた方がよいとする通念に反するロケーションに「新時代のクリニック」として、地域精神医療を長岡駅前通りという大通りに位置させる意義と使命を感じております。外来待合、二階ミーティングルームを広く取り、ひきこもり家族と当事者、摂食障害などの若い女性、アルコール問題を抱えた人の会合ができるよう設計いたしました。赤ちゃんや幼児連れで来院するお母さんたちや「じゃちょっと(裏の)ハローワークに行ってきます」という患者さんには、勤務医時代にはなかった新鮮味があり、何となく嬉しい気持ちが沸きます。
 クリニックでは、10代、20代の進路に悩む方に対して「ひきこもり予防」の対応を行っております。本邦では、中学生10万人に3人、高校生10万人に7人と、自殺率が増加して過去最高を記録しました。摂食障害などの形で女性の生き方に悩む代10〜30代の若い女性も増えています。「大学、会社、結婚」はセイフティネットではなくなったのです。15歳〜35歳の若い世代の死因のトップになった自殺は、統計表で高齢層、50・60代の中年層とともに、第三のピークを形成するようになりました。このデータのパターンは、戦後の昭和25年にも比すべき「若者が不幸な時代」を象徴しているといえます。労働のブラック化(低賃金、残業過剰)が進み、30代を中心にストレス過剰からうつ状態になる人が増えています。いわゆる「新型うつ病」はマスコミ用語ですが、労働状況の劣悪化から生じた当たり前の反応といえるのです。
 大人のADHD(注意欠如障害)への対応は特効薬の開発を得て開始されていますが、これは今まで対応されていなかった領域です。40代にはそれまでの生き方の可否を問い詰めてうつ病に陥る方が多く、人生の転換期「中年期」の危機は時代を超えた様相で見えてきます。50代前後は会社や家庭、地域社会への過剰適応からのうつ病が多く見受けられます。60代から80代までは仕事人間・会社人間の定年後アルコール依存症が目立っています。かつてはなす術がないと放置される傾向にありましたが、彼らにも断酒と穏やかな生活への移行は可能となっています。認知症の軽い方には家族と楽しむ生活療法をお勧めしております。
 うつ・アルコールの合併や3大身体疾患による健康問題は自殺の大きな要因となります。幸福度の高い国々、例えばフィンランドなどが自殺の減少に成功しており、家族生活重視が行き届いていますが、日本は残念ながらOECD加盟国でも下位にある「不幸国」です。クリニックでは、「疾患を治す」というより、「病とともに社会参加する生き方」や「もっともっと家族生活」を求める医療的・非医療的な支援を目指しています。様々な機関と連携して、若者も女性も高齢者も障害者も共に生きる「共生社会」の創出に一翼を担ってまいりたいと考えております。
 長岡の心療内科・精神科の医療機関は満杯傾向にあり、予約待ちが未だに多いのですが、「具合が悪い時」にすぐ見てもらえないとしたら、患者さんや家族にとって、深刻です。今のところ、「待てない」困難さを訴える方への早めの対応を行えてはいますが、この体制をいつまで維持できるかは悩ましいところです。
 30年間勤務医だった私には、地域開業はまったく勝手が違い、当惑ばかりで、医師会の皆様にはご迷惑をかけております。おかげ様で、どうにか1周年を迎えることができました。この場をお借りしまして、皆様のご厚意とご配慮への心からの感謝と御礼を申し上げます。今後ともよろしくご指導お願い申し上げます。

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中越地区リウマチ事情〜新たな連携の会のお知らせ 佐伯敬子(長岡赤十字病院)

 長岡市医師会の皆さまにおかれましては平素よりリウマチ診療に対し、多大なるご理解とご協力を頂きまして心より感謝申し上げます。このたび編集委員の児玉先生より「リウマチ診療事情について書きませんか?」とのお誘いをうけましたので長岡のリウマチ診療事情についてご紹介させていただきます。
 新潟県のリウマチ診療の特徴は、各地域のセンターとなる病院がすべて整形外科と内科、各々のリウマチ専門医が協力して診療にあたっているという点です。このような県はあまりなく、非常にめぐまれた環境です。このような体制ができたのも新潟大学整形外科と第二内科膠原病班、そして瀬波病院(現:県立リウマチセンター)がリウマチ診療は整形外科と内科一緒で、というコンセプトでやってきたからだと思います。今も会のたびに整形外科、内科を問わずリウマチ医として皆和気あいあいと意見交換をさせていただいております。さて、そのような環境の新潟県ですが、現在リウマチ診療の核となる施設としては、県立リウマチセンター(新発田市)、新潟大学附属病院(新潟市)、県立中央病院(上越市)そして長岡赤十字病院(長岡市)があり、そこを中心として開業の先生、周辺の病院と連携でリウマチ診療を行っています。長岡地区の取り組みですが、長岡赤十字病院にリウマチ科が開設されたのをきっかけに、2003年に『中越リウマチを診る』が発足しました。当初は関節リウマチ(RA)について合併症を含めて整形外科、内科で一緒に勉強を、というコンセプトでした。しかし、RAの治療は劇的に進歩しました。それまでは痛み止めや副作用の少ない抗リウマチ薬、ステロイド剤で様子をみて、だめなら強い薬を、という考えでしたが、新薬の登場、治療法の進歩とともに、RAはとにかく早期に正しく診断し、早い時期からメトトレキサート(MTX)や生物学的製剤を積極的に使用して寛解をめざそう、という、いわゆる“治療のパラダイムシフト”が起こったのです。そのためには、(1)早期での正しい診断、(2)治療のタイミングを逃さずに専門医が診療できる体制づくり、(3)RAの治療目標(TreattoTarget)の理解、(4)抗リウマチ薬や生物学的製剤、ステロイド剤の有効で安全な使い方、(5)有害事象が起きた時の対応などについて、実地医家、周辺の病院の先生方と勉強、連携をより深めることが重要となってきました。そこで2007年から、春は病診連携、秋はRAの診断学(臨床研修医中心)を中心としたプログラムに内容を変更しました。おかげさまで昨年4月までに27回開催され、以前に比べステロイド剤の使用量は減り、MTX他抗リウマチ薬で治療することが基本となってきました。よいタイミングで専門医にご紹介をいただき、生物学的製剤の連携例も増えています。
 このようにRA診療体制の基本は整ってまいりましたので、今後はRAの新しい診断法、治療薬を日常診療に生かすための、“症例検討会”的な意見交換会形式の会が望ましいと思われ、現体制の『中越リウマチを診る会』はいったん終了とし、今年度から長岡赤十字病院リウマチセンター主催の新たな勉強会『中越リウマチ連携の会』を発足させる運びとなりました。内科、整形外科の先生方を中心に、実臨床に役立つ連携の会にしたいと考えておりますのでぜひ気軽に足をお運びいただければ幸いです。(第1回は6月23日に長岡赤十字病院で開催)また、もうひとつ嬉しいお知らせがございます。今まで当院リウマチセンターは羽生リウマチセンター長(整形)、佐伯(内科)、伊藤(内科)、根津(整形)の4人のリウマチ専門医がおりましたが、この4月から新たにリウマチ・膠原病専門の田村真麻医師が赴任してくれました。所属は総合診療科ですが、リウマチ学会の専門医、指導医で、関節エコーにも長けており、もちろんRA以外の膠原病診療もばりばりです。長岡のRA・膠原病診療の大きな力となってくれるものと確信しております。合わせてよろしくお願いいたします。

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はじめまして  田村真麻(長岡赤十字病院)

 はじめまして。長岡赤十字病院総合診療科の田村と申します。専門はリウマチ膠原病内科です。趣味は、バイオリン弾きを細々と続けていて、大学や社会人のアマチュアオーケストラに所属して弾いていました。小難しい曲よりも、モーツァルトなど耳心地よい明るい音楽が好きです。この度、結婚を機に長岡市に転居し、4月より長岡赤十字病院に勤めさせていただいております。平成16年に横浜市立大学を卒業後、同大学附属の二つの病院で研修し、その後同大学旧第一内科医局(当時は、呼吸器内科、血液内科、リウマチ科、感染症内科で構成されていました)に所属、大学院進学もしたため、今年3月までほとんどを横浜市大附属病院で過ごしました。恥ずかしながら生まれてから今まで東京(の田舎)・神奈川から出たことがなく、新潟は、お米と舞茸でいつもお世話になっている所、スキーと温泉とお酒を楽しみに出かける所というイメージでした。他は、新潟市で開催された東医体(バドミントン部)の後に部活の先輩・同期と朱鷺に会いに佐渡に渡ったのが想い出です。そんな訳で、結婚を考えるにあたり、転居できるか(ニアリーイコール、働けるか)が問題であり、早速昨年夏に長岡赤十字病院に見学にお邪魔しました。(夫にはプロポーズもしていないうちにフライングだと言われましたが……)。そしてこの度、ばりばり活躍されている総合診療科部長の山崎先生、リウマチ科羽生先生、佐伯先生のもとで、リウマチ・膠原病の豊富な症例のある中核病院で働く機会をいただけたことはとても幸運なことです。当院の研修医の先生は、長岡出身、新潟大学出身でぜひ当院で研修したいと地元愛溢れた志の高い先生が集まっていると感じますし、市内在住の義父からは、“長岡市は3つの救急病院が持ち回りで対応し県内で一番うまく機能している、周囲に医院もたくさんあり便利だ”と、最初のご挨拶の時に説明を受けました。市民から信頼される長岡の医療に一員として携わっていけるよう、診療に励みたいと思います。
 以前の職場は、横浜と言っても、皆様が想像される都会的なみなとみらいとはだいぶ離れた場所にあり、病院からは夏はヨットが浮かぶ海を眺め、冬は澄んだ空に雪の積もった富士山を眺め、日々癒やされつつ働いていました。今は、越後三山はじめとする山々と信濃川に癒やされています。ただ、寒がりで、まだ見ぬ冬の雪への不安は大きく、皆様、雪対策と冬の快適な過ごし方についてご教授いただければと思います。
 今後ともよろしくお願い申し上げます。

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救命処置を学ぶ半日コース 齋藤修(耳鼻咽喉科斎藤医院)

 この度、3月6日に「救命処置を学ぶ半日コース」が長岡市医師会主催で長岡赤十字看護専門学校で行われ、多くの参加がありました。私の開業した平成18年と比べAEDの設置場所は増え身近な存在です。AEDを正しく使えるようにしておきたい気持ちからこの半日コースに参加しました。午前9時から12時までの3時間、3人1組のチーム編成で、患者モデルの人形を前に、中村裕一先生による「CPRとAED」の講義の後、実技がベテランインストラクターのもとに行われました。チームの3人で役割分担を決め心臓マッサージ、人工呼吸、AEDの手技を基本よりマスターする事ができました。心臓マッサージでは、肘を曲げないで前傾姿勢で体重をかけて胸が5cm沈むように押す。簡単な様でいざ行ってみると出来ていなかった事に気付かされ勉強になった一面でした。リザーバーマスク下で多く送気しすぎると静脈還流が悪くなる事も再確認できました。
 また、大人と赤ちゃんで窒息の解除法を学びました。赤ちゃんでは、頬を手で支え下向き姿勢にして肩甲骨と肩甲骨の間を5回たたいた後で胸骨下を指2本で5回押すなど新しい知識となりました。
 AEDは電極の場所を正しくつければ心電図を自動解析し必要により音声で知らせてくれる為、操作は思っていた以上に簡便である事を理解出来よかったです。
 繰り返しの実技がとても勉強になりましたし、身体を通して覚える事が出来た事は、かなりの達成感がありました。チームの3人で役割を交代しながら声をかけあい行った事も実際に即した経験となりました。
 最後に立派な受講証をもらえた事、携帯のフェイスマスクももらえた事は、今後の一次救命処置に対する励みになりました。毎年行っているとのお話でしたので、また是非参加するつもりです。
 休日にも関わらずとても為になる講習会を企画していただいた長岡市医師会、消防、それぞれのスタッフの方々に厚くお礼申し上げます。本当にありがとうございました。

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救命救急半日コースを受講して 米山隆一(長岡ナーシングホームクリニック)

 先般、長岡市医師会主催の「救命救急処置を学ぶ半日コース」を受講させていただきました。私は実のところ人間を相手に救命救急処置をしたことは数えるほどしかないのですが、留学中大型動物実験で豚の心臓に心筋梗塞を作っていた為、貴重な実験動物の命を救うべく心臓マッサージをはじめ豚の救命救急はかなりやった経験がありました。
 豚で鍛えたテクニックが通用するかドキドキしながら参加させていただいたのですが、人形のシミュレーターを用いた実習では、担当の看護師さんから、「しっかり力の入ったよい心臓マッサージですね。」とほめていただき、とはいえ、まさか「豚で鍛えましたから。」とも言えず、照れくさい思いを致しました。
 そんな話はさておき、講義内容は実技中心で非常に実践的で、分かっているつもりで間違って記憶していたことや、手技がいい加減だったところなどを確認・訂正していただき、大変勉強になりました。
 今後の診療で不幸にしてCPRを要する事態に直面した時は、かつてのように「人間に通用するだろうか?」とドキドキすることなく、自信をもって対処できるものと思います。
 また講義は非常にわかりやすく、コメディカルの方々でも十分に理解・習得できる内容でしたので、今後は、順次お付き合いのある施設の看護師さんや介護士さんにも受講を勧めて、医師のみならず、介護・看護全体での救命率の向上に努めたいと思います。
 同プログラムを計画・実施していただいた、長岡市医師会のスタッフの皆様、長岡市消防署救急隊の皆様、長岡赤十字病院の皆様に心から御礼申し上げます。

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新しい救命処置を学ぶ半日コースを受講して 星野弘之(見附市:星野医院)

 今まさに長岡赤十字病院講堂で、意識なし、心停止、呼吸停止の見知らぬ人(ダミー)が横たわっている。その時私は、無我夢中で心肺蘇生をしていた。時刻はH年3月6日日28午前9時30分頃だと記憶している。
 これは、長岡市医師会BLSの講習会の様子です。今回、当院から私とスタッフ3名が参加させて頂きました。約3時間の短い講習会でしたがBLSの対応の仕方に自信が持てるようになる程、有意義な講習会でした。
 今でも思い出します。私が開業した約2年後に新患の患者さんが待合室で急変しました。心肺停止状態となり我流で心肺蘇生を施行し、救急隊が到着するまでは内心心細く蘇生を行っていたことがありました。病院勤務時代は、即スタッフが駆けつけてくれるため何事もなかったかのように終わっていました。しかし開業してからは、スタッフの人数も少なく、救急に対してはスキルが未熟な点があります。今回の講習は、良い機会だと思い、私は看護師、管理栄養士、事務員と参加することにしました。
 講習会の流れは、初めに佐伯先生から「G2010の重要ポイント」と「コース概要の説明」の講義を受けてから、実技を行います。3名の受講者と一名のベテランインストラクターの4名がグループとなります。当方のインストラクターは、長岡西病院の金内さん、受講者は私と当院看護師と他の耳鼻科開業医の看護師の3名でした。概要は、(1)胸骨圧迫、(2)気道確保と人工呼吸、(3)胸骨圧迫と人工呼吸、(4)1人法CPRここで休憩を挟み、(5)バッグバルブマスクを用いた人工呼吸、(6)AEDの使用方法、(7)CPRとAED、(8)窒息の解除の順で、3人で反復施行します。重要なのは、3人の意気が合うことで、技術的には心マッサージをしっかり行うことです。
 最初は動作がぎこちなかったですが、インストラクターの優しいご指導の下で、回数を重ねていくうちに自然と体が勝手に動くようになっていました。また汗も、冷や汗から気持ちのよい汗にいつの間にか変わっていました。シナリオ練習では、例えばデパートで買い物している時、ランニングの最中など、日常生活での場を想定し講習するのでとても実践的でした。その頃にはチームワークも良くなり連帯感も生まれていました。
 最後に消防署隊員によるJPTEC(主に救急隊員が病院前で行う、外傷患者に対する標準的観察)の実技をもって約3時間のコースが終了となります。終了後にはこの講習に対しての充実感、達成感が湧き出ていました。
 今回、貴重な休日に我々にご指導して下さった各スタッフの方々には心より深く感謝いたします。尚、詳しい内容が知りたければぜひ参加してください!きっと参加して良かったと満足するでしょう!!
<参加したスタッフの一言>
看護師→今回、講習会に参加して、「昔よく現場でやっていたから」という考えは変わり、色々な場を想定しての講習は有意義でした。この実技を院内でも定期的に行いチームワークを高めていきたいです。
管理栄養士→今やAEDは色んな所で見かける事が多かったので、出来るようになりたいと思っていました。今回の講習会は実技が多かったので、とても充実しました。
事務員→実技が多く、とても勉強になる講習会でした。同じ職場のスタッフとグループが同じだったので、「もし医院で起きたら」とイメージしながら頑張りました。

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蛍の瓦版〜22   理事 児玉伸子(こしじ医院)

1.長岡市医師会の役員改選
 平成26年4月の一般社団法人への移行に伴い、長岡市医師会の役員の任期は総会を起点としております。定時総会に先立って3月23日の平成27年度臨時総会終了後に、役員選挙が行われ最終候補者が選出されていました。6月1日に開催された平成28年度定時総会において、改めて会員の承認を得て新役員が着任しました。
新会長には前副会長の長尾政之助先生が就任されています。副会長は荒井義彦先生と草間昭夫先生が新たに就任され、その他の理事とそれぞれの担当は表(略)をご参照ください。

2.追記
 3期6年間会長を務められた太田裕先生は監事に、副会長を務められた大塚武司先生は議長にそれぞれ就任されました。
 太田・大塚両先生は任期中に会長職としての様々の職務を遂行され、長岡市医師会は一般社団法人へ無事移行しました。その他沢山の特記すべき業績がありますが、代表的なものとして、昨秋から本格運用を開始した長岡版ICT(Information and Communication Technology)である長岡在宅フェニックスネットの構築が挙げられます。フェニックスネットは今年度から救急現場でも実用化され、さらに医療に留まらず広範囲での活用を目指しています。
 また一昨年から胃がん発症のリスクをチェックするABC検診が、40歳以上を対象に新規に開始され順調に推移しております。さらに今年から中学2年生を対象にピロリ菌感染の有無を調べ、その後の除菌まで公費で行われることとなりました。これは先進的な対応で、全国的にも珍しく佐賀県に次ぐものです。
 小児科が御専門である太田・大塚両先生は、供中越こども急患センター僑の設立運営にも尽力されてこられました。今後も監事及び議長として御活躍されることと存じます。

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巻末エッセイ〜バルセロナ 富樫賢一(悠遊健康村病院)

 「アルハンブラの思い出」を聞きながらグラナダを後に。ラ・マンチャに向かう。セルバンテス「ドン・キホーテ」の舞台。アラビア語で乾いた大地を意味するマンシャが語源。内陸部にあって海抜数百メートル台の高原が続く。夏、雨は降らず、川も無く、赤茶けた大地が広がる。コンスエグラの丘に行き、風車の前で写真を撮る。レストランの前ではブリキ製ドン・キホーテと並んで写真。
 プエルト・ラピセの村に行く。セルバンテスが泊まったと言うベンタ・デ・ドン・キホーテ(ドン・キホーテの旅籠)で昼食。ラ・マンチャ名物?「ドン・キホーテメニュー」は最悪。ごつい鶏肉?のシチューのようなものがメイン。大きい、固い、まずい。いつも食べ残す女房だけでなく、私も半分以上食べ残した。周りを見ると、ほぼ全員食べ残していた。どうも七面鳥の肉だったようだ。庭に出ると、昔の農具や武具が置いてあった。
 グラナダからラ・マンチャまで4時間半、ラ・マンチャからバレンシアまで4時間、バスの旅も楽でない。昼食で落ち込んでいたが、ホテル(バレンシア・パーク)の夕食で多少アップ。久々のコース料理、ワイン付き。ヨーロッパではどこでもそうだが、コース料理と言っても、前菜(スープが多い)、メイン、デザートで終わり。コーヒーも紅茶もなし。水を含めて飲み物は全て有料。中ではワインが一番安い。
 バレンシアは地中海に面し、一帯は、コスタ・デル・アサアル(オレンジの花の海岸)と呼ばれている。スペイン第3の都市。バレンシアオレンジで有名。パエリアは郷土料理。大小のパエリア専用鍋がお土産屋の軒先に吊るしてある。女房が欲しそうにしていたが、買っても持ち帰るのが大変だ。
 八角形の鐘楼、ミゲレテを見上げながら、ラ・ロンハ(商品取引所)に行く。後期ゴシック式の建物で世界遺産。早すぎたのか、中に入れない。向かい合っている中央市場をぶらぶらする。世界遺産より市場の方が興味深い。しかもスペインは物価が安い。女房はボディランゲージを駆使して、好きなものを買い込んでいた。パエリアには欠かせないサフランも買った。
 バレンシアから地中海沿いにバルセロナに向かう。途中、タラゴナ(ローマ時代にはタラコと呼ばれていた)に寄る。市街には入らず、ラス・ファレラス水道橋を見学。「悪魔の橋」とも言われ、高さ26メートル、全長217メートル。橋の途中まで歩くとめまいがした。
 バレンシアから5時間、バルセロナに着いた時には2時を過ぎていた。地元で人気?のレストラン「マリーナ・モンチョ」で昼食。魚介類のリゾット(洋風おじや)はまずまず。地中海の風が迎えてくれ、疲れも運び去った。バルセロナはスペイン第2の都市で、カタルーニャの首都。今までとは街の雰囲気が全然違う。言葉も違う。カタルーニャ語は、スペイン語とは別の言語。以前来た時、市庁舎前広場でカタルーニャ独立を目指す集会に出くわしたことがあった。
 バルセロナ発祥の地、ゴシック地区へ行く。サン・ジャウマ広場を挟んで、市庁舎と自治政府庁があり、すぐ近くに大聖堂や王の広場もある。いつも世界中の観光客で込み合っている場所。ベンチでゆったりしているのは地元の人。歩いてピカソ美術館に向かう。ピカソの家族が寄贈した作品を展示している。年に開館。1963日本人ガイドの説明を聞きながら、9歳の時から「青の時代」までの作品を年代順に見て回った。やはりピカソは天才だ。

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