長岡市医師会たより No.440 2016.11


もくじ

 表紙絵 「縄文復活」 福居憲和(福居皮フ科医院)
 「医療保険と介護保険〜その1」森下英夫(悠遊健康村病院)
 「片付けの極意について」 杉田萌乃(長岡中央綜合病院)
 「長岡今昔〜その3」 江部達夫(江部医院)
 「蛍の瓦版〜26」 理事 児玉伸子(こしじ医院)
 「巻末エッセイ〜女子のメダル・パワーでおなら炸裂」 郡司哲己(長岡中央綜合病院)



「縄文復活」   福居憲和(福居皮フ医院)

勾玉は、人生を経験するために宿った魂の3次元的表現形なのです。


医療保険と介護保険〜その1  森下英夫(悠遊健康村病院)

 平成27年7月より、パーキンソン病とラクナ梗塞のためリハビリを受けながら悠遊健康村病院・老健施設に勤めさせてもらっているが、ここで使っている介護保険については全く無知だった。
 最初に行った時「新入院の患者さんいらっしゃいませんか」と尋ねたところ「老健の入所者は入院ではなく入所です」と、訂正を受けた。これはなかなか難しいと自覚し、少しずつ勉強を始めることとした。今現在わかってきたことを、述べてみたいと思う。
 医療保険はお金持ちでなくても高度な医療を受けられる画期的なものであった。最初にできた医療保険は、昭和36年で国民皆保険が始まり、昭和48年には65歳以上の老人の医療費無料と画期的なものとなった。革新行政だった東京都と秋田県がその2年前から始めたものであり、全国に広がった。よって、今まで高度な病院医療を受けれなかった高齢者もその恩恵に預かれるようになった。僕が医学部を卒業したのはオイルショックのあった昭和49年で、その頃の人達は感謝の念にあふれ、手術・検査の説明も形ばかりで楽をさせてもらったと思う。これ以前に看取る所はほぼ自宅に限られていて、開業医が夜間もみていたが、徐々に病院で亡くなる人が増えてきた。
 国は医療費負担に耐えかね少しずつ庶民の負担を増していった。時代は変化し高額所得者の数割を医療者が占めるようになってきており、医師に対する不満も高まり、医療訴訟も増えてきた。昭和40年理学療法(PT)、作業療法(OT)の法律が定まり、平成9年言語聴覚療法(ST)が決まった。そして平成12年に高齢者の暮らしを社会みんなで支えること(40〜64歳特定疾病、65歳以上で要介護)を目的とした介護保険制度ができた。40歳以上は給料から、65歳以上は年金から天引きする制度設計で始まった。なお介護保険では、3年と5年ごとに制度改正がある。
 この大事な法を僕は知らなかった。この新しい制度を支えるのは介護士だが、長岡赤十字病院から悠遊健康村病院へ移る前はあまり良く知らなかった。彼らは例えば高校を出て、3年間老健施設などで実務経験を積んで、4年目に介護福祉士の国家試験に合格したりした。これは以前の補助看護婦にそっくりであった。その他に、専門学校や大学があるようである。以前は後2者は無試験で介護福祉士になれたが、今は看護師や医師と同様に国家試験合格が必要である。その他に10年以上実務を積んだり、法定資格を持ち介護等業務を5年以上従事し、都道府県別の試験を受かった者だけがなれるような介護支援専門員(ケアマネジャー)という制度もある。そして更に平成18年訪問診療などに力を入れる診療所を手厚く評価した在宅療養支援診療所などが開設され、医療と介護報酬との同時改定が進んできた。病院は長く置いておけないため本来は入院させておかなればいけないないような症例でも、無理やりにでも老健施設に入所させざるを得ない症例が増えてきている。また認知症、ロコモティブ症候群(運動器症候群)、老老介護、独居老人の増加から介護保険も医療保険と同様な大きさになるかもしれない。

(1)病院機能は大きく4つの病期に分かれる。時期的には超急性期、急性期、回復期、慢性期がある。病床別には一般型、療養型、結核、感染、精神の5つに分かれる。

(2)病院は長年培ってきた病院完結型から地域完結型へ—これがだんだんと重い意味がある事がわかってきた。—急性期病院は2年おきに入院の短期化を迫られ、現場では大変な苦労がある。もともと回復型、慢性型でやってきた病院は良いが、急性期型は病床利用率が減少し経営的に苦しくなる。ただしどんどん新しい患者さんが来れば別だが、パイは限られているのだ。また患者さんに対し在宅介護支援チームを形成していかねばならない。ケアマネジャーが鍵となってくる。

(3)医療保険は入院期間が長くなるほど、現行のDPC制度では3段階に一日当たりの入院費が安くなる。入院時の状況により入院費は変わるが救急113,930円/日から、一般15,910円/日まで差がある。なお救急病院の一日当たりの入院平均額を6万円、外来1万8千円位を目標としている所も多いようだ。このような高額のために国は真の救急以外は、自宅での往診や診療所での診察を求めているようだ。また7:1の厳格化により地域包括ケア病棟や回復期リハビリ病棟に移ることも多いが、ここでも在宅を含めた介護保険施設へのサービス移行を進めていかなくてはならない。(つづく)

参考文献
1.杉山孝博、利根川恵子:病院・医療の仕組み、中央法規。2015.

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片付けの極意について〜お掃除すぎちゃんと同期から慕われるまで  杉田萌乃(長岡中央綜合病院)

 私たちの研修医室はとても広い。ソファーが二つ、腹筋ワンダーコアーが一台、それぞれの机が一つずつ。机の景色はその人のキャラクターをよく反映する。その中で一番綺麗なのはもちろん私の机だ。というのは冗談で、私もまた片付けができない人種である。むしろ片付けられる人の方が少ない気すらしてくる。なぜ片付けられないのだろう。
 まずは定義から。コトバンクによれば、「散らばっているものをきちんとした状態にすること。また、ごたごたしている物事を整理すること。」とのこと。ネットでさらに調べてみる。片付けのプロセスには、場所を認識する → 分類する → 収納場所を考える → 物の形や使用頻度に応じて収納する。という何段階かの思考回路が必要とのこと。なるほど。片付けとは体を動かしているようで、もっとインテリジェンスな行動だったようだ。
 一つ目のプロセス、「場所を認識する」これは余裕だろう。片付けできない族もナメラレタものである。二つ目「分類する」いきなり難関だ。そもそもどう分類すればいいのかがわからない。いるものといらないもの? 手紙、写真、プレゼントとか、日常では使わないけれども捨てられないもの、サマリーとか参考論文とか、もしかしたら見返すかもしれないもの。有事の際のお茶や五苓散とか。いる or いらないで分類するとグレーゾーンのほとんどがドヤ顔で必要エリアに属してしまう。「あとで」がないことくらい百も承知なのだが、思い出だとか感情が入ると判断が鈍ってしまう。ありがとうの一言の付箋だと捨てられるのに、たった一行でもエピソードが加えられているとウルっときちゃってなかなか捨てられないなんてことも共感頂けるのではないだろうか。片付けのできる人はいい意味でドライというか客観的に判断できる人なのだろう。物を捨てるとは情を捨てるということかもしれない。
 さて、三つ目のプロセス「収納場所を考える」へ。今度は入れものに目を向けよということだろうか。このとき大事なのは、スペースを作らないこと、掛ける収納、見せる収納をすることだそうだ。人は空いているスペースを見つけると何かで埋めたくなるそうで、空間を箱などで区切るのがベストらしい。掛ける収納、空間を縦に使うことで散らばりにくくなるそうな。見せる収納、初心者にはハードルが高い。大前提としてモノが少なくなくてはいけないから。うまく「分類できた」あかつきには Try してみようと思う。
 そして、最終段階。「物の形や使用頻度に応じて収納する」。女子にとって最難関はやはり衣類だろう。衣類は頻度を軸に収納するといいとのこと。服を一〜三軍にわけ、取り出しやすい位置から納めていく。この時、もしこの洋服が盗まれたら……と考えて場所を決めるといいと書いてあった。いまいちピンとこない。もし、なぜか服が泥まみれになってしまった時、手洗いまたはクリーニングに出してまでもう一度着たいと思うかどうか、自分なりの解釈に変えてみる。ほとんどが No、いや全部 No だ。解釈が極端すぎたか。と、とにかく、自分なりの判断基準をもうけて決めていくと上手くいくみたいだ。
 ここまでステップごとに考えてきたが、分類するというのが一番大切な気がする。第四段階においても、分類されたものをさらに細分化する作業が必要だ。片付けをすることはものを階層的にわけていく作業なのかもしれない。日常生活でも de escalation が大切ということ。分類している時にブレが生じてものを捨てられなくなったり、細分化の作業を止めて一緒くたに収納しようとしたりするから、人は片付けられないのだと思った。

 そんなことをふと思ったこの頃でした。

 同期から慕われる日までは遠いなぁ……。

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長岡今昔〜その3  江部達夫(江部医院)

鋸山登りは険し老いの身に 駈けて登りし若き日思う

 平成十三年高齢者の仲間に入った。胃全摘術を受け三年、体重も増え出し、体力テストのつもりで五月初めに鋸山に登った。
 鋸山は長岡の東山連峰の最高峰、七六五メートルの高さだ。栖吉町に花立峠経由で登る登山口がある。距離は短いが急な上り坂の連続、息が切れないように景色を眺めたり、山菜のコシアブラを摘んだり、春の女神のギフチョウの舞いを楽しんだりして、三時間もかかって峠に辿り着いた。峠から山頂まではなだらかな尾根道だ。
 頂上で一休みしながら五十年前の中学生の頃を思い出していた。三年生になった時、山岳スキー部がクラブ活動として発足、担当の教師に誘われ入部した。
 足腰を鍛えるため、秋になると土曜の午後は花立峠まで駆け足登山、それもスキーのストックを突きながら。その訓練の甲斐あって、翌年一月に開かれた市内の中学生のスキー大会、十キロの距離競技で優勝した。
 懐古に耽っている中に疲れもとれ下山に。下りは今では車も通るゆるやかな山道で帰ってきた。

今もなお流れは早し福島江 学校帰りに泳ぎし日あり

 福島江は長岡市街地の東側を流れる農業用水、人工的に造られた水路。春から秋までは滔々と流れ、七千ヘクタールの田に水を供給している。
 中学生の頃、夏休みは信濃川の流れで遊んでいた河童四、五匹で、放課後福島江の流れに飛び込んでいた。早い流れに逆らって泳ぐのが面白かったが、学校では遊泳禁止になっていた。ある日教師に見つかり、強く叱られ、福島江での川遊びは止めてしまった。
 さてこの福島江、何時頃出来たかご存知だろうか。この文を書くに当たり福島江誕生の歴史を知りたく、信濃川妙見堰にある妙見記念館に行って来た。参考になる資料があった。
 正保年間(一六四四年〜一六四八年)、十二潟福島村の庄屋桑原久右衛門が、長岡東側の水不足解消のため、四年の歳月をかけ調査し、古志十日町から猿橋川まで三十キロの水路を造る事を長岡藩に提案した。藩は即採用し、直に着工した。
 完成には三年の歳月を費やし、一六五一年に竣工、長岡藩は福島村庄屋桑原久右衛門の功績を称え、この水路を福島江と命名した。藩は新田開発を勧め、従事した農民には三年間の免税をしたと言う。
 その後も改修はくり返され、現在の妙見堰から刈谷田川までの水路になっている。

サザエ捕り潜りし海や蝶を追い 登りし岳は今や長岡

 昭和三十四年大学生の頃、吾が家に自家用車が入った。父が往診用に買ったドイツ製の中古車、早速免許を取った。
 夏休みには兄弟達でよく故障する車に乗り、寺泊や出雲崎の海に出かけた。エンストに悩まされながら。
 兄弟四人、皆河童なみに潜りが得意、海遊びの目的は岩場で潜ってのサザエや岩ガキ捕り。四人で捕るのでたちまち山程の収穫に。夜は庭で七輪二台に炭火を焚き、焼いて食べていた。十数人の胃袋を満足させた。
 昆虫少年だった私、中学生の頃、春、夏、秋と年三回は守門岳に蝶を採りに出かけていた。自然豊かな所、六十種の蝶を記録した。
 平成十八年の市町村の大合併時、海の寺泊町、山の栃尾市が長岡と合併、今や長岡市には海から亜高山帯の山岳地まであるのだ。

シャッター街昭和の頃の繁華街 人のなきまま日暮は淋し

 大手通り商店街、昭和には長岡駅前大通りの長岡で最もにぎやかだった通りであった。デパートも二つあり、裏通りは飲食店が軒を連ねていた。
 平成の世になると、昭和四十年代にマスコミを賑わせた河川敷を中心に、信濃川西岸地区が開発され、今では広い駐車場を持つ大型の商業施設が建ち並ぶ一大繁華街に生れ変った。車社会の今日、不便な市街地での買物を避け、多くの人達が新繁華街に出かけている。
 私のような旧人はそれでも古い所が懐かしく、時々大手通りに出かけているが、夕暮れになると日中開いていた店も早々にシャッターを下ろしてしまう。日が短くなって行く秋の夕暮れは、平家物語の冒頭の文の様な淋しさが湧いてくる。
 この現象、都会地を除く全国各地の繁華街で起こっている。シャッター街は時代の流れで止むを得ない事なのだろう。年末に大手通りでタクシー待ちの行列に並んだ昭和の時代が懐かしく思えて来る。

赤トンボ群れて舞い飛ぶ昭和には その姿なき平成の空

 赤トンボ(多くはアキアカネ)は童謡で日本中の子供達に親しまれて来たトンボ、平成の世になりその姿は激減しており、他のトンボ同様、絶滅危惧種の恐れがある。
 昭和の頃までは九月、十月になると街の空を赤トンボの大群が飛び交う光景が見られた。六月に田で発生し、夏の間は山で過し、秋になると産卵のため田に戻って来る。その通り道に街の空を飛んでいた。清流で育つヤンマの類や沼で育つイトトンボはまだよく目にするが、町の川にたくさん発生したシオカラトンボは殆んど姿を見なくなった。
 絶滅してゆくトンボ達、その原因として田に撒く農薬、特に除草剤が関係しているらしい。今日では稲刈りが終わった田は用水を止め乾田にしてしまうため、水田に産卵する習性のある赤トンボはその場を失った。トンボは水中に産卵するのだ。
 赤トンボ、まだ絶滅したわけではない。せめて長岡の地で秋の田に水を残し、産卵場所を造ってやれないか。佐渡のトキの餌場の様な田を。

晩秋になりて法師はなおも鳴き 昭和の頃にありしことかな

 私のよく出かけるゴルフ場長岡カントリーは、長岡市街の西方に広がる丘陵地の赤松、水楢、櫟などの雑くぬぎ木林を切り開いて造られたゴルフコース。コースの回りは自然がいっぱい、野鳥や昆虫が多く、野鳥の鳴き声や虫の音がよい。
 春は四月末頃からハルゼミが鳴き始め、盛夏になるとアブラゼミ、ヒグラシ、ミンミンゼミ、ニイニイゼミ、夏の終り頃からツクツクホウシと六種類の蝉の声が聴かれる。立秋の頃から秋の虫の音も楽しめる。
 平成になり地球温暖化が現実に進み出すと、自然界にその影響が目に見えて来ている。気温の上昇は、昭和には長岡では体験したことのない三十五度を越す暑さ、国内では四十度を越す所も出ている。
 十月になっても夏日があり、紅葉の始まりも遅れ、雪国の長岡で十二月初め頃までもみじ葉が枝に残っている。
 昭和の時代、法師蝉は九月末には鳴き止んでいたが、今では十月二十日頃までツクツクホーシの音がゴルフ場で聴かれる。

炭焼きの煙は山のあちこちに 立つ秋の暮昭和懐かし

 子供の頃、秋の終りに長岡の郊外の里山に青白い煙があちこちに立ち登っていた。炭焼きの煙だった。農作業が一段落すると農家は副業に炭を焼いていた。
 昭和三十年代まで炭は一般家庭で、炊事や暖房用に広く使われており、日本全国で炭焼きの煙は秋から初冬にかけての風物詩であった。
 家庭でのエネルギー源がガスや電気にすっかり変わってしまった昭和四十年代に入ると、炭の需要は少なくなり、炭焼きの煙は消えてしまった。
 里山にキノコ狩りに出かけると、今でも雑木林の中で昭和の名残りの炭窯の跡に出会える。農家の古老達、炭焼きをしていた頃は雑木林の手入れもよく、キノコがたくさん出たものだと。
 風のない日には空高く立ち登ってゆく煙、あの光景は五十年経った今でも残像として留まっている。

昭和には冬に入る頃虫音絶え 今や温暖小雪に鳴き

 地球温暖化が心配され始めて早三十年。昭和五十年代終りの三年間、長岡は大雪と強い寒さに見舞われた。この年を最後に積雪二メートルを越すような大雪はない。
 温暖化の影響は雪が少ないだけではない。桜の開花が早くなった、四月から夏日が始まる、三十五度を越す猛暑日も盛夏にある、紅葉の始まりが遅くなる、秋の虫の音が遅くまで聴かれる、猪や鹿が新潟県内の里山に棲み出したなどなど。今やコシヒカリより旨い米が北海道で穫れていると云う。
 海水温の上昇は、かつては新潟県が北限であったノドグロが北海道で捕れ、最近はブリが鮭の定置網にかかっている。温暖化が大自然に与える影響は大きく、生物の生態に異変を起こしている。
 秋の虫の音、コオロギは立秋の頃から街中でも鳴き始めるが、昭和の頃は立冬には鳴き止んでいた。冬が温かくなった今日、小雪(十一月二十三日)の頃まで、番う相手を見つけられなかった雄は命の限りと鳴いている。もう三十年も経つと、お正月に虫の音が聴かれるのでは。

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蛍の瓦版〜その26   理事 児玉伸子(こしじ医院)

 地域包括ケアシステム推進事業
 長岡市が主催する地域包括ケア推進協議会では、認知症カフェを3か所増やして7か所で開設する等、今年度も様々な事業を準備されています。

1.長岡在宅フェニックスネットワーク登録状況
 登録医療機関は29機関あり、そこからの登録患者数は1000名を超え、少しずつ増加しています。登録医療機関には立川綜合病院、吉田病院、三島病院の3病院も含まれ、いずれ二次病院として救急患者の情報確認等にフェニックスネットが活用される予定です。
 14か所の訪問看護ステーションからは1500人弱が登録され、多くが日々の記録にもこのシステムを利用されています。ステーションにとっての利点は、主治医との連絡が容易にとれることが第一ですが、無料で端末機が配布されることもあるようです。残念ながら、現在のシステムでは直接介護保険等へ請求することは困難で、市販されている介護請求用のソフトを経由する必要があります。
 薬局も7機関の登録があり、積極的に登録を増やされている処があります。
 その他に介護保険関連の多岐にわたる事業所機関が登録されています。その内訳はケアマネの所属先である居宅支援事業所が最も多く37中15機関あります。ケアマネ協議会は5月にフェニックスネットに参加し、8月には説明会も終了しています。その他にデイサービス7機関、訪問介護4、ショートステイ3、包括支援センター2機関等があります。
 さらに10月からは長岡市消防本部救急隊にも端末機を配布し、11月には説明会を開催し、救急隊も加わった体制で始動予定です。

2.地域別の多職種交流会
 各地の包括支援センターが中心となって、年2回程度の頻度で、地域別に勉強会や交流会を開催しています。7月には地域に先立って多職種の全体交流会が開かれました。皆様もご都合が付けば、地域の交流会へ是非ご参加下さい。医療系の参加は大歓迎で、日々の診療に限らず、いろいろ愉しい情報が溢れていると存じます。

3.管理栄養士の派遣事業
 平成19年糖尿病対策事業として開始されましたが、その活用は不十分な状況でした。今回、長岡地域糖尿病対策推進会議の長岡市医師会と栄養士会長岡支部が主体となってこの事業の見直しが行われました。
 以前のものに比べ、簡単な手続きで管理栄養士の派遣をお願いできるようになりました。また派遣先も診療所だけではなく、患者さんの自宅へ管理栄養士が出向くことも可能となっています。
 栄養指導後に診療所は管理栄養士に所定の報酬を支払いますが、診療報酬上の栄養食事指導料の算定に該当する患者さん*では、保険診療の報酬としての指導料を請求することができます。ただし介護認定を受けている方が在宅にて指導を受けた場合は、医療保険より介護保険が優先するため、ケアマネに連絡し居宅療養管理指導費として介護保険へ請求して下さい。
 詳細は別途お知らせしますが、不明な点は長岡市医師会事務局へお尋ね下さい。ご利用お待ちしております。

 *特別食(糖尿病食や腎臓病食等)の対象者およびがん患者・低栄養状態・摂食嚥下機能低下の方

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巻末エッセイ〜女子のメダル・パワーでおなら炸裂 郡司哲己(長岡中央綜合病院)

 金銀銅の三種メダルのラッシュだったこの夏のリオ・オリンピックでした。その後もあれこれと話題豊富な日々です。女子レスリングや柔道選手らのバラエティ番組への出演が多く、それはそれは賑やかでもあり、華やかでもあります。

 有名女子選手の結婚報道で意外感のあったのは、「野獣」こと女子柔道の松本薫選手の結婚。ロンドンでは金メダル、今回リオは惜しくも銅メダルでした。
 彼女が秋のバラエティー番組で吉田沙保里、浜口京子らの「彼氏いない歴」を誇る他の多くの女子選手を尻目にこんなしれっとした発言。
  「わたしは、彼氏います。もう8年交際しています。」
 これには出演者一同驚きでした。そして十一月一日に入籍と結婚発表となりました。ほんとだったんだ。
  「妻でも野獣。ママでも野獣。」
 記者会見ではこんな彼女らしい名言もありました。

 ある番組では、吉田沙保里が妹分の登坂絵莉らと出演し、自分もみんなも日頃からおならが沢山出るのだと、ぶっちゃけ話。今回リオ滞在では登坂と同室だったが、「なんかいつものようにおならがすっきりと出なかった……それで調子狂って試合負けたかも……。」と笑わせる。
  「とくに試合でタックルした瞬間がプッと出やすい。」
 そうか、おならは格闘技ではエネルギー炸裂のバロメーターなのか。可愛いと評判の登坂絵理も笑顔でうなづき、おならを女子選手がみんな出やすいという件は否定しない。
 吉田はさらに抜け駆けのように結婚した、超新婚の松本薫にも「ねえ、試合でおなら出るよね。」と矛先を向ける。
 松本薫選手も笑いながら「試合場の畳でなく、入場の直前に脇でジャンプしたとき出しときます。」
 一同爆笑。
 これまであの試合直前の数回の激しいジャンプは「野獣」らしい気合いの入れ方のルチン動作と思われていたのです。その合間にガス排出を終えていたとは……。

 ちなみに、おならの蘊蓄です。
 おならは放屁のなかで音を立てるもので、鳴らすの名詞化した「鳴らし」におを付けた、古くからの女房言葉のひとつ。

 つい先日の朝日新聞にこのおならをめぐる興味深い記事が報道されました。要旨は以下です。
 東京医大病院で今年四月、レーザー手術中に出火し三十代女性患者が腰回りや足に大やけどをした事故があった。同病院は、十月に外部の有識者の事故原因の調査報告書を公表した。
 患者の排出した腸内ガスが、子宮頸部の病変部へのレーザー照射中だったが、これで引火して、さらに手術野のドレープに燃え移った可能性が高いとするものだ。

 女性患者が手術中に自分のおならに引火で重症熱傷とは驚きですね。医療面でのおならと言えば、むしろ有名なのは、虫垂炎等の腹部手術後におならが出るのは吉報。これは腸管が再び働き出しためやすです。おならの成分に酸素、水素、メタン、硫化水素などが含まれるため可燃性だそうです。ネット検索で、排ガスをライターの火で引火させる若者の燃焼実験動画がいくつも出てきます。

 柔道やレスリングの格闘技はさいわい火の玉の闘志や熱気に満ちあふれても、おならに引火する火種がない現場なのがさいわいなのでした。

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