長岡市医師会たより No.441 2016.12


もくじ

 表紙絵 「浅間新雪(嬬恋村にて)」 丸岡稔(丸岡医院)
 「認知症地域支援体制を構築する“ちょっとヘルプシステム”の提案」直井孝二(悠遊健康村病院)
 「天地人のはざまで」 三宅仁(長岡技術科学大学)
 「長岡今昔〜その4」 江部達夫(江部医院)
 「蛍の瓦版〜27」 理事 児玉伸子(こしじ医院)
 「巻末エッセイ〜サグラダ・ファミリア」 富樫賢一(悠遊健康村病院)



「浅間新雪(嬬恋村にて)」   丸岡 稔(丸岡医院)


認知症地域支援体制を構築する「ちょっとヘルプシステム」の提案  直井孝二(悠遊健康村病院)

 左は新オレンジプランの概要図であるが、支援関係者の方々は、しばしばこれをイメージしながら活動されているものと思う。そしてプランの一歩目である認知症サポーター養成等の人材育成は順調に進み、認知症カフェなど地域の中で多様な支援を提供する場も増えてきた。しかし、では次に地域の中でどのように対象者と出会いどのような支援経験を積むのかという二歩目(イコール、認知症者は実際に、必要とする生活場面において、適切な支援を適宜受けているのかということ)の体制は未だ甚だしく貧弱であり、知識を活かせずスキルを磨けない800万人ものサポーターのジレンマが伝わってくる。実際、図中の男性が症状の目立たない認知症者である場合、「周囲の者は認識し難い」が本人は支援を欲しているのであるし、逆に杖を振りかざしたことで突然に支援を要請されても、「初めて会う相手の BPSD ※1(行動・心理症状)を前にして、ただ戸惑うばかり」であろう。互いに出会おうとしても相手の姿が見えずスキルも磨けない現状のままで、果たして9年後を穏便に迎えることができるのであろうか。
 実はこの状況は、人力が限界に達していることを意味する。そこで“ヒトが持つ柔軟性と機器が持つ迅速性・確実性の融和”が、地域の支援体制構築にとって不可欠な存在となるはずである。ただ、ここで間違えてはいけない。確かに認知症を支援する機器として、図中には家電製品に組み込んだ安否確認システムが描かれ、GPS を用いた徘徊検知システムは既に稼働している。しかし、そもそもこれらは“事故防止を目的として機能と対象を限定したシステム”なのであって、日常の営みの中で地域住民が認知症者と共に歩むことを目的とする、真の“ヒトと機器の融和”とは質を異にするものである。
 一方、認知症初期集中支援においては、認知症の初期段階で介入し BPSD の発現を予防することを目標に掲げている。この概念は、私が認知症医療に携わってきて強く感じているところの、「認知症の初期できれば MCI ※2(軽度認知障害)の時点において『一言のさり気ない声掛け支援』から始め、それを継続するうちに支援者と対象者の信頼関係が醸成され、的を射た支援が提供される結果、対象者の生活不安や不信が軽減し、物盗られ妄想など BPSD の多くが回避できる。できなかった場合でも、より円滑に対処できる。」という経験則と全く合致している。しかし考えてみると初期集中支援もその名の通り、徘徊検知や徘徊者捜索と同様にごく短期的な関わりであるうえ、事例数も少ない。にもかかわらず、これがもたらす成果ばかりに目を奪われていたこと(それは無論大事な役割だが、概要図をイメージする多くの関係者がはまっている落とし穴であり、もがきではないだろうか)に私自身ハタと気付いたときには、目の前の霧が晴れる思いがした。つまり、私の経験則は5年10年の長い関わりの中で染み付いたものであり、上の概要図を正しくイメージするためには、認知症になりつつある者が地域生活を維持しようと努力し始める時点にまで遡り、そこから支援を始めつつ、「共に交じり合いながら歩んでゆく縦断図」こそが必要かつ重要なのだということに、やっと気付いたのである。
 そこで今一度、対象者の主な生活圏である商店や金融機関で必要となる支援を想像しながら思案した結果、地域に根ざす支援体制を強化発展させる要件として、
(1)対象者であることが、支援者以外の者に安易に知られる危険性が少ないこと
(2)支援者が、対象者を面前で認識して、即時に支援を実施できること
(3)対象者のニーズは各々異なるが、それに応じられる柔軟性を有すること
(4)支援者が安心して自発性を発揮できるような、精神的・物理的負担が少ない支援内容であること
(5)支援は対象者にとどまらず、地域の互助意識を発揚し支援体制構築にまで至らしめる内容であること
(6)(1)〜(5)の実践に当たっては、「支援者が対象者を確実に認識しニーズを把握する」段階が一番の障壁であり人力の限界でもあるため、ここに仲介役を担う機器を導入し、支援の円滑化を図る必要があること
(7)9年後の支援体制確立に向けて、(1)〜(6)を至急かつ広域の場で実施するためには、その機器は極めて安価に作製できる仕組みのもので、設置も極めて容易でなければならないこと
 以上の項目が浮かび上がった。つまり、周囲に知られずに支援者がその場で対象者を把握し、即座に適切な支援を提供するシステムが稼働していることが必須の環境となる。このシステムの中で、対象者は要望する支援を何らかの形で支援者に伝え、支援者はこれを受けて対象者に合った支援を提供する。何のことはない。実は同様の方法は、対象者が行く商店に家族があらかじめ事情を説明して協力を仰ぐなど、互助意識が高い地域では以前からごく普通に行われている。本来はそのようにヒトが仲介するのが理想だが、街中のスーパーでは規模が大きすぎて不可能であると皆が信じ込み、置き去りにしてきただけのことである。そこで筆者は、両者の仲介役として家族の代わりに機器を導入し、対象者を確実に認識して支援を実施する方法を考えた。重要なのは、「機器が“思いやり”を超える正式な支援関係の成立を仲介」し、それによって初めて「ヒトが適切で積極的な支援へと動き出す」点であり、この過程を踏むシステムこそが必須なのである。さらに、このシステムにより支援実践者が急速に増えることで、支援者同士や地域内連携も自ずと密になり、対象者への支援のみならず地域全体に求められる互助・支援体制も飛躍的に進展し、やがて目標に到達する。これこそ真の“ヒトと機器の融和”といえまいか。
 もしも今の時点で、800万人のサポーターが対象者の姿を確実に見分け、早期からなじみの関係を築き始めたならば、長期的には計り知れないほど莫大な成果が得られる。しかも BPSD が目立たない者への「一言のさり気ない声掛け支援」から始まるので、サポーターへの精神的・物理的負担は極めて少ない。また認知症初期集中支援チームが指導役になるのも、適任でよいだろう。このように考えていくと、私には、この「ちょっとヘルプシステム」の発想こそが、9年後に“認知症者が住み慣れた地域で安心して暮らせる社会”の実現を可能にする、数少ない決め手であるように思えてならない。さらにこのシステムは、対象を他の要支援者と精神・知的障害者に広げても何の手間もコストも加算されないという、多大なメリットも有しているのである。
 尚、このシステムを実施するためには、支援の要所々々に「極めて安価で容易に設置でき、対象者のニーズを識別する装置」を設置する必要があるが、例えば1万円以内で製品化して設置を義務付ければ、僅かな補助金で速やかに普及させることができるだろう。よって今後は当該企業が参加して至急、装置を開発する必要がある。そしてこのシステムが稼働すれば、長岡市が初のモデルとなって全国に広めてゆくことが期待できるのである。未来は明るい。
 幻想? 否、装置は案外容易に作れるし、その気になればすぐにでも検証段階に入れる、と筆者は考え、毎日合掌しながら実現を願っている。

※1 BPSD:Behavioral and Psychological Symptoms of Dementia:認知症の周辺症状
※2 MCI( Mild Cognitive Impairment ):軽度認知障害

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天地人のはざまで  三宅 仁(長岡技術科学大学)

 失礼ながら、この二次元バーコードをすぐにも読み取れる方がどのくらいおられるであろうか。しかも年賀状にこれしか印刷していないとして。
 これは四月に数え百歳で旅立った母の今年の年賀状であり、作成時は満九八歳ということになる。この歳で、同年齢の友人はほとんどいないので、大半はかなり若い世代となる。といっても一世代下の六十から七十の方が多いはずで、読める方はわずかであろう。ここ十年くらい同じ趣向の年賀状を出していた母も、さすがに最近はこの画像に「吹き出し」をつけることにしたらしい。下がこのバーコードの中身である。

一月十五日が来れば白寿となります。先祖の墓碑銘の中にも白寿は見当たりませんので、あの世でも大威張りが出来ます。ついでに百歳も目指してみたいと思っておりますので、皆様よろしく応援して下さい。

 二十数年前、夏休みで実家に帰る直前、電話で土産にパソコンを買ってこいといわれ、ウィンドウズ95を選んだ。すぐにインターネット回線を引き、翌年にはホームページを作っていた。このような母であるので、年賀状の二次元バーコードもまさに朝飯前のことであったのであろう。是非、次のURLをご覧戴きたい。http://tmmiyake.sakura.ne.jp/
 さて、大正六年生まれの昭和一桁で青春を謳歌した母は、当時は高尚な趣味であったらしい麻雀が得意であった。麻雀がお分かりになる方は写真を見ただけでお分かりになると思うが、三九歳になる昭和三一年に第一局で天和(てんほー)という非常に珍しい手(配牌)をつもった(牌の役が揃うということ)。すなわち、親として牌が配られたときに役が揃っていることであり、三三万分の一の確率とのこと(ちなみに第一局の天和は二兆回に一回の確率)毎日半荘(八局)を一回するとして百年以上掛かることになる。しかも、子役の時に他人の振り込んだ牌で上がる人和(れんほー)という役も父が亡くなる直前の八八歳の誕生日に上がっている。(子が配牌テンパイで自分の第一自模で上がれば地和(ちーほー)、第一自模より前に他人から出れば人和。)何という強運の持ち主であったか。(この項の詳細は前記HPにある。)
 それまでほとんど病気らしい病気をしなかったが、数年前から時々入院するようになった。ある年の秋、ちょうど三連休か四連休で関西での学会が前後して開催され、久し振りに岡山に見舞いに立ち寄った時の話である。休日なので主治医は出勤しておらず直接話を聞くことができなかった。それを告げると「最近の医者は休み過ぎる。お父さんは土日も休んだことがなかった。ある時、医師会で医師にも休日をと会長に訴えたら、即座に却下されたという。『医者は夜も含めて休むものではない』と。」その言葉に反発したのか、父は一生懸命に休日急患制度に取り組み、実現させたものだという。その経緯を調べてこいというので日医の図書館で調べてもらったら、ちょうど昭和四三年頃には各地でこの制度ができたとのことで、父の力ではなかったらしい。さらに父は救急制度にも取り組み、最後はその救急車で臨終の世話になった。(この項も詳細は前記HPにある。)実はこの人和は父が振り込んだものであったとのこと。
 強運の持ち主の最後の願いであった地和は天国でゆっくりつもって欲しいものだ。

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長岡今昔〜その4  江部達夫(江部医院)

●(も)ぐ人のなきまま柿は冬景色 干し柿造り今や少なし

 私の見ている患者さんに、十二月になると自家製の干し柿を届けてくれる方がいる。庭に大きな柿の木があり、渋柿なので干し柿にしている。
 干し柿は干し上がる過程で果糖とブドウ糖が出来、白い粉をふいてくる。昭和の時代は農家には、晩秋から初冬、軒下に干し柿がたくさん吊るしてあった。街の家でも干し柿を造っている人もいた。
 今では赤く実った柿が●がれることもなく放置され、たわわに実っており、十二月中頃までには鳥に食べられたり、落果してしまう。雪をかぶって新年を迎えるものもある。
 スーパーには各地の名物の甘柿やさらし柿、干し柿が並んでいる。地元の柿で並ぶのは佐渡のおけさ柿だけだ。
 柑橘類がたくさん出回る冬は柿を食べる人がだんだん少なくなっているのだろうか。柿の木は切られ、街の中では柿が実っている光景はなくなってきている。

※ ●は、「てへん」に宛

昭和には年夜の鐘の音四方から 聴えし吾が町今テレビのみ

 各地の名刹や古くからあるお寺には梵鐘があり、時報を告げていた。年の暮れ新年を迎える時、お寺では一斉に鐘を打っていた。窓を開けると四方から鐘の音が聞こえて来たものだが、これは昭和の頃までだったろうか。
 この頃は近くの人々からうるさいとの苦情があって止めているとも言う。そればかりでなく、鐘そのものが無くなっていると。青銅製の吊り鐘、大変高価なもので、夜間に盗難に遭っていると。三〇〇キロもある大きな鐘が持ち去られたお寺もあると言う。
 関川村の渓流でヤマメ釣りをしていると、夕方六時になると山寺の鐘の音が聴えて来る。私にそろそろ釣りを止める時間ですよと教えてくれる鐘の音だ。その鐘の音が数年前から聴かれなくなった。鐘を打つ坊さんが高令になったためらしい。
 夕暮れの静かな山村で聴く鐘は、私には除夜の鐘の音よりも心に響くものがあったが、今では除夜の鐘さえもテレビで聴くだけとなった。

信濃川流れは同じ去年今年 流るる水は常に変われど

 私の住宅は診療所とは信濃川を隔てている。父の跡江部医院を継いで早二十年、毎日長生橋を渡り通勤している。
 子供の頃に比べて流れは大きく変わっているが、日々見ていると川は流れを変えていない。橋を渡りながら、方丈記の冒頭の文が何時も浮かんで来るのだ。
 流れる水の量は上流の雨により変わる。長野県や山梨県の水源で大雨が降ると、新潟県には降水はなくても増水して来る。昭和三十八年七月、長岡には一滴の雨も降らなかったのに川は大増水、長生橋上流二キロの所で堤防が半分決壊したが、自衛隊の出動で長岡市の洪水は避けられた。
 元旦の朝は休みではあるが、郵便物を受け取りに診療所に出かけている。年の暮れと流れは変わっていないが、そこを流れる水は変わっているのだ。流れに浮かぶ泡抹は橋の上うたかたからは見えないが。
 元旦の朝は、何時も混み合っている橋も、通行する車は少なく、実に静かな橋になる。

昭和には大雪多し二十年 雪のトンネル遊び場となり

 長岡は豪雪の町というイメージがあった。昭和三十年代までは冬は大通りでも車の交通は途絶え、小路は道路に積もった雪と屋根から投げ捨てられた雪で、住民は小屋根より高い所を歩いていた。
 冬の交通の主役は馬橇と人力の橇であった。大通りの町並みでは雁木が大切な歩行者の通行の場であったが、小路には雁木はなかった。
 昭和二十二年国民体育大会が始まった。それに合わせてか、湯沢から長岡までの百キロのスキー駅伝競技が開かれた。車の交通が途絶えた国道十七号線を滑走する競技、楽しみの少なかった時代、ゴールの駅前の大通りは黒山の人だかりとなった。沿道にも大勢の人達が出て声援を送っていた。中学生の頃スキーの距離競技の選手だった私は、この大会に出場するのが夢であったが、国道の除雪が始まった昭和三十年頃には中止となった。
 私が覚えている大雪は、昭和十九年暮から二十年にかけての大雪だ。私の家の前の道路は国道であったが、積もった雪は雁木より高くなり、馬橇や人力の橇は小屋根より高い所を通っていた。
 住民は向かい側との通行に、雪の道路下にトンネルを掘り行き来した。トンネルは子供達の遊び場でもあった。十日町小唄の世界なのだ。
 三月気温が上がり雪が緩み出すと崩落の恐れがあってトンネルは塞がれてしまった。トンネルが作られたのは私の記憶ではこの年だけだった。

大寒に入りて庭の木雨に濡れ 昭和の頃にありし景色か

 昭和の頃は十二月降雪期に入ると二月中頃までは降っても雪で、雨が降る日は少なかった。寒に入ると屋根の軒先に出来た氷柱は日々大きくなり、その重さで屋根が傷むので、棒で叩いて崩したりしていた。
 温暖化が顕らかになってきた平成、寒に入っても雪が雨に変わる日が度々あり、寒さ厳しくなる大寒の候にも雨の日がある。
 診療所の庭に椎の木がある。昭和四十年頃植えた木、今では大きく枝を広げて診察室を覆い隠すほどに。常緑の葉は冬には深い緑になり、雪をかぶった葉裏や枝に空蝉(うつせみ)が付いている。夏には蝉の大合唱が聴かれた。
 椎の木は枝がしなやかで、雪が積もっても折れることはない。大きくなった椿は枝を縄で吊られ雪に耐え、緑の葉を広げ、蕾を膨らませている。庭の木々、大寒の雨に濡れて冬の薄陽の中で葉を輝かせている。
 昭和には大寒の候に、庭の木々が雨に濡れている光景はあっただろうか。破壊されつつある地球の環境、何とかしなければと思いながら、ガソリン車に乗り、暖房や冷房の効いた部屋で深夜まで起きている。石の下に入る日も近いからとエネルギーの消費には関心が薄い。子や孫達がいるんだぞ!

水道の凍(い)てつく日あり昭和には 平成の世は凍る日は無し

 新潟県は立春過ぎてから寒さが厳しさを増してくる。現在でも高速の北陸道が猛吹雪で、交通止めになるのは二月が多い。蒲原の水田地帯を通る国道八号線、吹雪の中でも車を通すので、海から吹きよせて来る強風に煽られトラックが横転、軽自動車が田んぼに転落するのも二月だ。これは昭和も今も変わりないが、車社会になっている現在の方が多いか。
 しかし凍てつく寒さは昭和の方が厳しかった。昭和の中頃までは暖房は炭火の火鉢と炬燵。雪にすっぽり埋まった家は夜間の屋内で人気のない部屋は0度以下になり、水気のある所は凍りついていた。二月の最も冷え込む頃は夜間水道水をちょろちょろ流していても、朝には蛇口が凍りつき、母は火鉢にかけておいたヤカンのお湯を、蛇口にタオルをかけ、その上からかけていた。水道水の確保が大切だった。凍結による水道管の破裂と漏水もあった。
 温暖化が叫ばれる平成、私の家では水道の凍結による断水は一度も経験していない。

大雪は道に積み上げ雪の塔 今や思い出消雪の道

 昭和三十八年の大雪、「三八豪雪」と呼ばれ、今でもその名が残る程の大雪であった。昭和三十七年のクリスマスから降り始めた雪、年夜になっても止まず元旦を迎え、更に松の内まで降り続いた。
 十二月三十日の午前に、新潟から上野に向かった急行佐渡が北長岡駅で立ち往生に。運行の見通しがたたず、帰省に乗っていた同級生が二人、吾が家で正月を迎える事になった。
 屋根には二メートル近い雪が積もっており、弟達と雪下ろしを始めていた。同級生の二人は運動部で活躍しており体力はある。早速屋根に上がり助っ人に。高崎と松本の生まれで雪下ろしは初めてであったが、たちまち戦力となり、上越線が通じた一月五日まで毎日屋根に。
 私の家は裏に柿川が流れているので、雪は木製の滑りを使い川に投げていた。捨て場のない家は屋根の雪は道路に投げていた。投げ捨てた雪は四角形の箱形の塔を作り、どんどん積み上げた。「三八豪雪」の年は雪の塔は小屋根よりも高くなっていた。
 地下水利用の道路の消雪装置が昭和四十年代に入ると急速に普及、今では小路にまで付けられ、除雪車と並んで冬の除雪に欠かせぬものになっている。地下水利用の消雪は東北や北海道では使えない。冷え込みが強く撒かれた水で道路が凍結してしまうと言う。新潟県が丁度良い所、長岡が発祥の地なのだ。
 雪国では雪の塔は古くからの屋根の雪の処理方法であったと思う。道路に積み上げられた雪の塔、昭和の時代の良き思い出だ。

米百俵歴史背負いし長岡は その重さには耐え得ぬ平成

 明治維新以降、辞書にその名を留めている長岡生まれの人物は数少ないのでは。大辞林と広辞苑で調べてみた。
 河井継之助、長岡藩の家老、戊辰戦争で総督として維新政府軍と戦い、戦傷のため、明治時代が始まる二か月前に死亡した。中立論で官軍と交渉したが受け入れられなかった。
 小林虎三郎、明治三年支藩三根山藩から贈られた米百俵を国漢学校設立のために用いた。「米百俵」は将来の人材育成の重要性と説いた古事に。
 小山正太郎、藩医小山良運の子で、洋画家として活躍、画塾不同舎を開き、明治美術会を創設。東京高等師範学校教授となった。
 小野塚喜平治、日本の政治学の開拓者、東京大学の政治学の教授、後に東京大学総長になった。
 昭和では山本五十六元帥くらいだ。五十六は軍神として市民に尊敬されている。太平洋戦争で聯合艦隊司令長官として真珠湾攻撃やミッドウェイ海戦を指揮、ブーゲンビル島上空で戦死。国民学校一年生だった私も長岡駅前の通りに並び、遺骨の帰郷を迎えた記憶がある。
 田中角栄、生まれは西山町だが長岡が選挙の大きな地盤、設立した会社越後交通も長岡。日本列島改造論、日本は角栄の示した方向で発展して来た。平成の現在再び脚光を浴びている。石原慎太郎著「天才」などと。
 平成の世に、辞書に名を残す人物が出て来るのか、現在の所思い当たらない。 (完)

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蛍の瓦版〜その27  理事 児玉伸子(こしじ医院)

 向精神薬

 10月14日より、ゾピクロン(アモバン)とエチゾラム(デパス)が第3種向精神薬に指定され、処方日数の上限が30日に制限されました。
 向精神薬とは本来中枢神経に作用する薬剤の総称で、抗精神病薬・睡眠薬・抗不安薬・抗うつ薬・抗けいれん薬等多岐に亘っています。保険診療上の向精神薬は“麻薬及び向精神薬取締法”によって規定された薬剤で、睡眠薬の中にも指定を受けていないものもあります。この法律では当該薬剤の管理や譲渡等について細かい規定があり、保険医療養担当規則でも投与量の制限が設けられています。
 保険医療養担当規則は保険診療を行う上で順守すべきものですが、第10項4(4)には、「投与期間に上限が設けられている麻薬又は向精神薬の処方は、薬物依存症候群の有無等、患者の病状や疾患の兆候に十分注意した上で、病状が安定し、その変化が予見できる患者に限って行うものとする。そのほか、当該医薬品の処方に当たっては、当該患者に既に処方した医薬品の残量及び他の医療機関における同一医薬品の重複処方の有無について患者に確認し、診療録に記載するものとする。」とあります。ご注意下さい。

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巻末エッセイ〜サグラダ・ファミリア 富樫賢一(悠遊健康村病院)

 ドメネク・イ・モンタネールは20世紀初頭のバルセロナでガウディ以上に名声を博した天才建築家だ。その最高傑作、カタルーニャ音楽堂はゴシック地区にある。それは昨日見学してきた。しかし、現在も人気があるのはガウディの建築物だ。その中でも、サグラダ・ファミリア(聖家族教会)が一番人気。1882年に着工、翌年初代責任者ビリャールからガウディに引き継がれ、今も施工中だ。
 2005年にバルセロナで世界肺癌学会があった。その時はトミイと二人でサグラダ・ファミリアに来た。東正面には、降臨をテーマにした受胎告知からイエスの少年期までの物語を描いた彫刻群。西正面には、受難をテーマにした最後の晩餐から十字架の死に至るまでの悲惨な情景の彫刻群がある。2010年に完成した聖堂内は、人だかりで動けないほど。と、現地ガイドと添乗員が悲壮な趣でなにやら話しこんでいる。
 「申し訳ありませんが、鐘楼には上がれません」と添乗員。「バカを言うな」と怖いおばさん連合。「鐘楼に上がれるというから、このツアーにしたのよ」と騒ぎ出す。かくいう我が家もそうなのだ。以前上がらなかったために、ここ何年間もトミイに攻め続けられてきた私としてはとんでもない話だ。勿論トミイも怖い顔をしている。
 ここは前もって予約が出来ない。現地ガイドが並んで当日券を買うしかない。「ガイドさんも頑張ってくれたんですけど」と添乗員。そんなことでおさまるはずがない。しばらくして「なんとか上がれるように日程を調節します」と添乗員。「オー」と勝どきの声。待ち時間が勿体無いから他を見学して午後からまた来ると言う。旅行社としては入場料の2度払いになる。電話で本社の承諾を得たようだ。
 今回は車窓からサン・パウ病院(改築中)、カサ・バトリョ、カサ・ミラなどを見ながらグエル公園に行く。以前見学した時、サン・パウ病院は各科診療棟が分散して建っていて、地下道でつながっていた。カサ・バトリョとカサ・ミラはいずれも日本のマンション風建物で、今でも人が住んでいる。外観も内装も曲線で出来た奇妙な造りで、頭がおかしくなりそうだった。
 グエル公園はカタルーニャ屈指の実業家グエルにより住宅地として設計された跡地。グエルの没後市の公園となった。動物をモチーフにした奇抜な泉を挟むように正面階段があり、歩けないほど混んでいる。階段の上にドーリア式列柱廊。住民の市場として造られたとのこと。ここだけが涼しい。子供の団体が大勢座って係員の説明に聞き入っていた。
 昼食後再びサグラダ・ファミリアへ。時間指定なのですぐに上れるかと思いきや、エレベーターの前は長蛇の列。2機の内1機が故障したらしい。20分位待つ。念願の鐘楼の上からみる景観はというと、既に出来上がった塔や未だに工事中の塔など。完成時はキリストを象徴する170メートルの大塔を中心に、聖母マリア・十二使徒・四福音書記者を象徴する18塔が群立することになっている。
 スペイン旅行最後の夕食に出かけようと全員がホテル前に集合。ん、添乗員が現れない。携帯電話にも応答がない。トミイが代表して、部屋に様子を見に行くことになった。なかなか戻って来ない。何か起きたか。と、20分位して2人が現れ、無事「イベリコ豚のグリルと生ハム」(名前負けしている)にありつけた。飛行機で寝そべっていた例の女が、「寝てたんでしょう」とトミイに何度も聞いてきた。添乗員も楽ではない。

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