長岡市医師会たより No.448 2017.7


もくじ

 表紙絵 「人魚姫の像」 木村清治(いまい皮膚科医院)
 「豪華寝台列車「四季島」乗車記」 星榮一
 「忠臣蔵異聞〜後編」 福本一朗 (長岡市小国診療所)
 「蛍の瓦版〜その34」 理事 児玉伸子(こしじ医院)
 「巻末エッセイ〜カリブ海クルーズ〜その2」富樫賢一(悠遊健康村病院)



「人魚姫の像」 木村清治(いまい皮膚科医院)


豪華寝台列車「四季島」乗車記  星 榮一

はじめに

 JR東日本は発足30周年を記念して、豪華寝台列車「四季島」を本年5月1日より運行を開始しました。我が国での豪華寝台列車のデビューは、2013年10月からJR九州の「ななつ星」が最初です。乗車申し込みは最高で185倍、平均でも24倍であったそうです。JR西日本でもトワイライト・エクスプレス「瑞風」を本年6月17日から運行を開始しました。

JR東日本の取り組み

 JR東日本では、4年前からこのプロジェクトを準備し、約100億円を投入し、豪華列車10両には10億円をかけて全く新しいコンセプトで車両を建造したそうです。デザインはポルシェやフェラーリをデザインした奥村清行氏で、日本の伝統美と現代アートを融合させたそうです。外観はシャンパン・ゴールドの金色で、周囲の自然にマッチするようにしたそうです。
 「四季島」は10両編成で、客室は1両3室のスイートが5両で15室、7号車のデラックス・スイートは1両に2室で、客室は全部で17室で34名が定員です。バリアーフリーで車椅子で使用できる客室が一つあります。先頭と再後尾の車両は展望車(写真1、2)で、中央の五号車(写真3)はエントランス(出入り口)とラウンジで、ここにバーカウンター(写真4)が付いています。六号車はダイニングです。車両の窓も従来の車両とは全く異なる大きさや配置となっています。電化されていない路線も運行できるように、1号車と10号車にディーゼル発電装置を備えています。また車両の揺れを軽減するための特別な車体支持装置も付いているそうで、デラックス・スイートにはヒノキ風呂もついているとのことです。
  出発・到着の上野駅には、13番線に「プロローグ四季島」という特別な待合室を設け、また「四季島」の乗降車のために、13.5番線(写真5)というプラットホームを新設しました。

我々の乗車

 さて、我々夫婦の乗車ですが、たまたま息子が申し込んで、運良く当選したので乗車することにしました。6月3・4日の1泊2日の塩山、姨捨、会津若松のコースで、会津若松は18歳まで育った地ですが、乗車することにしました。
 6月3日は朝7時20分までに上野駅に行かなければならなかったのですが、東京ステーションホテルに前泊させてくれるというので、同ホテルに前泊しました。皇居を見通せる御幸通りに面した部屋でした(写真6)。ハイヤーが七時に迎えに来て、予定通り7時20分に上野駅の13番線の「プロローグ四季島」に余裕をもって到着しました。
 出発前のセレモニーをして、上野駅を9時15分に出発し、10号車を先頭に大宮に向かい、そこで1号車を先頭に旅客列車には普段使用していない武蔵野貨物線のトンネルを潜り中央線に出ました。ノンストップで11時50分に塩山に着き歓迎を受け、「四季島」用の特注のバスに乗り、笛吹川温泉の「別邸座望」で茶会席の昼食をとりました。その後ワイン博物館やワイナリーを見学して、16時27分塩山を出発して姨捨駅に向かいます。その間に車内のダイニングでフルコースのフランス料理のディナーを、前後二組にわけて一時間半ずつかけて振る舞われました。篠ノ井線の姨捨駅では、このためにホームに新設したラウンジ「更級の月」で眼下に広がる善光寺平の日本三大夜景を眺めながら、オードブルや地酒を楽しみました。
 姨捨からは夜行になり、途中第三セクターの「しなの鉄道」や「えちごトキめき鉄道」を通り信越線・直江津を通過し、長岡駅には0時57分から15分間停車しました。駅のホームは5番線まで全部明かりが点いていましたが、誰一人居ませんでした。新津駅で10号車が先頭になり、喜多方までディーゼル発電により運行しました。
 喜多方で約1時間停車し、会津若松駅には7時半に着き、歓迎を受けて、「四季島」用に特注したバスに乗り、朝食会場の会津料理「田季野」に向かい、輪箱飯や會津料理を楽しみました。その後、鈴善漆器店で「蒔絵体験」をして11時22分1号車を先頭に郡山、上野に向かい、上野に着くまでにフルコースのフランス料理の昼食を楽しみました。
 お一人で参加された女性が2組あり、乗客は32名でした。

スイート客室の様子

 15室ある「スイート」の広さは9平方mで、2m幅で3mの長さの居間兼寝室と、それに2m幅で1m半のトイレとシャワールーム、洗面がついています。居間にはクローゼット、トランクルーム、冷蔵庫がついていて、ベッドは75cm幅で195cm長が2つで、3千個の繭で作った真綿をシルクサテン生地でくるんだ極上真綿布団でぐっすり安眠できました。日中はベッドを畳んでソファーにします(写真7)。リクライニングがなく、フットレストもないので、日中長く座っているのには、あまり楽ではありません。この列車には何処にもテレビはありませんが、各客室にCDプレーヤが設置されています。
 トイレは飛行機と同じで真空バキュウムのようです。シャワーの水圧も十分でした。
 二部屋あるデラックス・スイートについては、見学できないので報告できません。

乗車の感想

 何もかも豪華で非日常的でした。乗客同士の交流はなく、自己紹介の機会も集合写真の撮影もありません。しかし、5号車のバーカウンターにでも行き、カクテルでも飲んでいれば交流の機会があったのかも知れません。
 車両の乗り心地は、在来線の線路を運行しているので、新幹線のようにはゆかず、随分揺れます。デラックス・スイート客室のヒノキ風呂の使用状態をトレイン・クルーに聞いたのですが、普通に使用しているとのことでした。ダイニングルームでの食事中でも特に不便はありませんでした。
 途中の下車地点には移動用に「四季島」特別仕様の本革シートやトイレ付のバスが用意してありました。
 列車内でお世話を頂くスタッフは、車掌(2名)をはじめトレイン・クルー(9名)、キッチン・クルー(4名)カメラマンと16名で、実に乗客の半数以上が乗車しています。運転手は運転区ごとに交代になります。トレン・クルーは十分訓練されており申し分ありません。トレイン・クルーは3グループあり、交代で乗車しているそうです。

「四季島」の運行コース

 2017年の春〜秋コースは、青森、北海道まで足を延ばす3泊4日コースと、塩山、姨捨、会津若松の1泊2日コースの二つです。旅行代金は3泊4日コースが75万円と90万円で、1泊2日コースは32万円と40万円です。一人で参加する方は5割増しになります。大体乗車1時間ごとに1万円の計算になります。冬のコースとして上野と青森を往復する2泊3日コースがあります。12月から3月までは日本海側を通るコースはありません。来年3月までの出発分は、申込み受付は終了しているそうです。

長岡では何時「四季島」を見られるか?

  本年11月末までは、現在の3泊4日の青森、北海道コースと1泊3日の塩山、姨捨、会津若松コースが運行されています。青森、北海道コースは月曜日に上野を出発し、木曜日の12時49分に長岡駅を3番線と4番線の間を通過して上野に向かいます(写真8)。具体的には、7月13日、8月17日、24日以外は11月末までは木曜日に通過します。
 次に塩山、姨捨、会津若松コースは、土曜日の真夜中、日曜日の早朝0時57分から1時12分までの15分間、長岡駅の1番線に停車します。深夜ですので駅に入れませんので、長岡駅東口のEプラザの裏の駐車場から見るのがいいと思います(写真9)。具体的には7月8日、8月19日以外は11月末まで土曜日の深夜に見られます。

「四季島」への今後の期待

 「四季島」は動き出したばかりです。運行プランも見学箇所も机上のプランだった筈です。実際に運行して種々の改善点が出てきていると思います 。
 例えば、姨捨では篠ノ井と聖高原の間を二往復位していたし、会津若松ではもっと早く到着して、朝食前に鶴ヶ城や飯盛山の「さざえ堂」などを見学できればいいと考えます。
 また、新しいコースの開発も行われると思います。

まとめ

 6月3、4日に1泊2日で「四季島」に乗車しました。高が1泊2日だったのですが、降車後も中々日常に戻れませんでした。しかし、大変貴重な体験をさせて頂きました。
 乗車後1カ月の7月上旬に、ファミリー毎の写真集が贈られて来て、一層思い出が深まりました。
 旅行代金は驚くほど高額ですが、それでもJR東日本ではペイしないそうです。また乗車申し込みも殺到しているとのことです。

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忠臣蔵異聞〜後編   福本一朗(長岡市小国診療所)

 そもそも浅野内匠頭が殿中で刀傷沙汰を起こした動機については、下手人が即日切腹となったため解明されてはいない。当時世間に流布していた噂では、勅使饗応役となった浅野は高家筆頭の吉良に贈物をして指南を受けねばならなかったのにもかかわらず、へつらうことを嫌った浅野が手元不如意を理由として鰹節一箱で済ませたため、吉良のいじめを受けたことが原因であるとされていた。しかし、考えてみると浅野内匠頭は18年前の天和三年17歳の時に第一回目の勅使饗応役を無事勤め上げていて、今回は二回目であった。しかもその時の高家指南役も吉良上野介義央であり、江戸家老も大石内蔵助の大叔父大石来母であったため、浅野家には饗応マニュアルや knowhow が残されていたと考えられる。また吉良は事件の起こる10日前まで将軍の命で京都に出張していたため、浅野を再指導する時間は物理的にもなかったと思われる。その10日間にどのようなやり取りがあったかは想像の域を出ないが、勅使下向行事に関して生じた不都合のすべては総監督である高家筆頭吉良に責任があると考えると、意図的に「浅野いじめ」をしたとは考えにくい。そもそも感情の起伏の多かった浅野には物事に激しやすい「閊え(つかえ)」という持病があったといわれており、吉良は供浅野にはできれば関わりたくなかった僑という噂もあった。そのため勅答の儀が行われる日に浅野が「此の間の遺恨覚えたるか」と問答無用で斬り掛かったときに、吉良にはその理由が全く分からなかった可能性が高く、まして高家筆頭として殿中で刀を抜いて応戦するなど思いも寄らなかったに違いない。
 歌舞伎などでは悪逆非道のエロ親父として描かれる吉良上野介も、実際は典礼の造形深く、生涯ただ一人の妻を持ち、子供達をこよなく愛した優しい父親であった。その領地の愛知県幡豆郡吉良町では、黄金堤の築堤・新田開発・用水路改善・寺社への寄進など善政を施し、友情に厚く隣人に慕われた名君であったと言われる(Fig.3)。吉良町出身の尾崎士郎は、忠臣蔵の芝居を見て「お気の毒なお殿様」と涙し、高家吉良菩提寺の華蔵寺に「往昔見ずして語り、今日見て語らず」と書いた色紙を残している。
 火事場衣装の下に鎖帷子を着込むなど完全武装していたため、討入時には死者を1名も出さず、切腹後は英雄として泉岳寺に主君とともに手厚く祀られている赤穂浪士達とは対照的に、突然就寝中を襲われた吉良家では主人を守って17名が忠死し、加えて重傷者9名も事件後10日以内に死亡し、15名が傷を負っている。武士としてけなげに戦い、主君吉良に命をささげたにもかかわらず、世間を憚ってか墓さえも建てられていない。さらに不可解なことには、吉良上野介の家督を継いだ長男義周(よしちか)は小薙刀をふるって防戦し全身に傷を負ったが、一度は「おかまい無し」として無罪とされたにも関わらず、2年後に「乱入時の処置(??)よろしからず」として、信州高島城に幽閉され3年後に病死し、高家吉良は断絶してしまう。村上鬼城は「行く春や憎まれながら三百年」の句を残したが、その句碑を見て「やっぱり悪人だったから300年経った今でも憎まれているんだな」とつぶやく人もいるという。こう考えると道義的にも吉良側に非難すべき点は見当たらず、大変お気の毒と思われる。
 最後に社会的な問題としては、映画を見る子供達への影響が心配である。確かに映画「忠臣蔵」で描かれている様に、「正義」のため自らの命をかけて、あらゆる困難を乗り越えて目的を達成する強い意志と使命感は、未来を作る子供達にとって望ましい徳目である。しかし一方、暴力を用いて自らの意見を貫く事は、リンチ・私的復讐・決闘を決して認めず、原則として「自力救済」を禁じている法治国家では決して許されない。例えばスウェーデン国営放送では、子供達に悪影響を与える暴力シーンや反社会的行為をテレビなどで放映する事を禁止しており、童話も北欧産の「ムーミン」や「長靴下のピッピ」、フランス製の「アストリックス」など、暴力シーンのないソフトな物語のみ児童に与えている。そのためかスウェーデン社会において、人権はどんな場合にでも堅固に守られ、暴力や犯罪をみんなで嫌悪する国民的風潮が育てられていて、強盗や殺人事件などの強行犯はごく稀である。
 師走になると毎年の様に放映される「忠臣蔵」は今では日本人の国民的精神遺産となっている。しかしこの遺産を後世に伝える時に、人の世に「絶対の悪」も「絶対の正義」もなく、かつその「正義」は両刃の剣でもあり、「悪人」とされる人の側にも言い分があるということ、「正義」の概念は時と所によって変わりうる事、風聞に由って軽々に「正義」を判断せず、必ず自ら調べ自ら考えて判断する事をも、同時に子供たちに教えねばならないと考える。

〔参考文献〕
1.西山松之助監修:「図説忠臣蔵」河出書房新社1998
2.岳真也:「吉良の良い分−真説元禄忠臣蔵(上・下)」KSS出版1998
3.鈴木由紀子:「義にあらず−吉良上野介の妻」PHP研究所1999
4.福本一朗:「桃太郎伝説異聞」長岡市医師会たより“ぼん・じゅ〜る”2017

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蛍の瓦版〜その34 理事 児玉伸子(こしじ医院)

 リハビリテーション

 多職種紹介シリーズです。今回はリハビリテーションの現場で実際に患者さんの治療に当たる療法士(理学療法士・作業療法士・言語聴覚士)について紹介します。リ
 ハビリテーションの語源は、教会による破門からの復権で、一度失った機能を再度獲得することを意味します。疾病や外傷によって失った機能を、訓練や補装具等の機器の利用によって再度獲得することを目指しています。たとえば歩行ができず移動が困難となった方に対し、歩行訓練を行うことだけではなく、歩行に代わる移動手段として車椅子を選択し活用することもリハビリテーションです。

 理学療法・作業療法・言語療法

 理学療法は英語の Physical Therapy の日本語意訳で、直訳すると“身体的治療”となります。具体的には身体の下肢や体幹を使って行う、起居や移動に伴う動作を主な治療の対象としています。
 作業療法は英語からの直訳で、18世紀ころから精神科での治療の一環として作業を取り入れたことに起因します。現在の作業療法では主にADL(日常生活動作:摂食・更衣・整容・排泄)に関する動作の自立を目指します。その他に精神疾患や認知症対象のリハビリや、“手の外科”等の上肢の手術後の後療法も行っています。
 言語療法は、かつては耳鼻科領域の構音障害や聴覚障害と、中枢神経の損傷による失語症や発達障害を主な対象としていましたが、近年は嚥下摂食障害や認知症にも広く関わっています。

 現状

 理学療法士や作業療法士、言語聴覚士は比較的新しい国家資格で、看護師と同様に高等学校を卒業後3年間の専門学校課程以上を終了し、国家試験に合格する必要があります。
 昭和41年に国家資格となった理学療法士と作業療法士の養成は、国立療養所東京病院付属リハビリテーション学院の卒業生各20名から始まりました。その後は徐々に、やがて指数関数的に増加し、昨年度の理学療法士は258校から1万人弱の方が国家試験に合格しています(合格率74%)。現在は14万人の有資格者がおり、平均年齢は33歳と若い職種です。作業療法士もほぼ同様の状況ですが、有資格者の累計は7万5千人と、理学療法士に比べほぼ半数強の規模です。
 言語聴覚士は昭和60年代から臨床現場では活躍されていましたが、国家資格は平成11年にやっと法制化されました。大学卒を含め毎年2千人弱が合格し(合格率70%前後)、有資格者の累計はまもなく3万人となります。

 今後

 現在はいずれの職種も半数以上の方が規模の大きい病院に勤務されていますが、徐々に小規模病院や診療所・老人保健・介護保険関連施設にも就業されています。また高齢者相手の現場では理学療法・作業療法・言語療法の垣根は低く、それぞれの専門を生かしながらも広く対応することが求められています。厚労省は慢性期のリハビリテーションは医療保険から介護保険へ移行を目指しており、今後さらに介護現場でも広く活躍されることでしょう。

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巻末エッセイ〜カリブ海クルーズ(その2)  富樫賢一(悠遊健康村病院)

 乗船翌日6時起床。デッキ(16階)に出て日の出を見る。遠くの水平線から少しずつ上って来るカリブの太陽。何とロマンチック。トミイに目をやるとあらぬ方向を見ている。そこには日の出も見ずに体操をしている老人。カリブ海クルーズは4度目という同じグループのお一人様だ。何と興ざめ。朝食を食べに15階に降りる。

 その日は終日クルージング。添乗員のもとに集まって説明を聞き一団となって船内を見て回った。構造はエーゲ海クルーズのコスタとほぼ同じ。2交代制で無料ディナーが楽しめる大レストランのザ・トロピカーナが船尾、大劇場が船首。インフォメーションデスクは6階の中央にある。翌日のオプショナルツアーをここで申し込んだ。

 3日目はホンジュラスのロアタン島。東西77km南北8kmの細長い島だ。島北側はカリブ海屈指のダイビングスポット。だがダイビング経験のない初老夫婦は島西端のタビャナ・ビーチでカリブ海につかっているだけ。ここは有料ビーチで巡回警備員がいて物を盗まれる心配がない。とはいえ海は無料らしく地元の子供が勝手に泳いでいた。泳ぐのにも不味い昼食にも飽きて、6時間コースだったが早めに船に戻ることにした。ところがバスの運転手がダラダラしていてなかなか帰れない。ロアタン島印象悪し。

 4日目は今回の目玉、ベリーズ・シティ。1981年英国から独立したばかりのベリーズの旧首都。ベリーズはグアテマラの東側メキシコの南側に位置し、四国よりやや大きく人口約35万人。こんな小国に何があるのか。知る人ぞ知る世界一の絶景(グレート)ブルー・ホール観光の起点。セスナで見に行くツアーを予約済み。

 ベリーズ・シティには直接接岸できない。沖合に錨を降ろした船からテンダーボートで上陸。待ち合わせ場所に現地ガイドがやって来た。20歳位のイケメン男性。6歳からここに住んでいて日本に帰ったことがないと言う。両親は日本人で日本語を話す。ちなみにベリーズの公用語は中南米には珍しく英語。さてガイドは来たがバスが来ない。携帯で連絡を取り合っているが1時間たっても来ない。何とこの日はベリーズの独立記念日。市内の主要通りはパレードで通行禁止になっているとのことだ。

 やっと来たバスの運転手は若い女性。ワーキングホリデーで働いているとのこと。パレードを避けてスラム街を通り抜ける。途中で地元のスーパーに寄った。ベリーズドルの価値は米ドルの半分に相当。慣れないと多少戸惑う。レジで会計が思っていたより安かったので、もっと買えばよかったと少々後悔。

 空港に着くと土砂降り。何となく不安。だが周りの空港スタッフは気にする風もない。約1時間後小降りになったところを見計らって出発。待合所から飛行機までは傘を貸してくれた。乗客は添乗員を含めて6人、操縦士1人。うまく飛び立てば雨は関係ない。雨雲は眼下。30分の飛行で目的地に着く。コバルト・ブルーの海とサンゴ礁に囲まれた濃い群青色のブルー・ホール。鍾乳洞が地殻変動で沈み込みできたもので直径300mの円状のもの。そこだけが底無し沼のようで、思わず吸い込まれそうになる神秘的な光景だ。セスナはもっとよく見ろというように上空を右に左に何度も旋回した。

 離れがたい思いをパイロットに断ち切られ帰途に。突然雨上がりの虹が出た。何と上から見る虹はまん丸。幸運な6人は神秘的なブルー・ホールとまん丸の虹の見送りを受け無事空港に戻った。(つづく)

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