長岡市医師会たより No.449 2017.8


もくじ

 表紙絵 「白馬の夏」 丸岡稔(丸岡医院)
 「俳句で綴る越の四季〜その二」 江部達夫(江部医院)
 「ビーグルの魅力について」 畠野莉乃 (長岡中央綜合病院研修医)
 「蛍の瓦版〜別記:きまぐれ通信」 副会長 荒井義彦(荒井医院)
 「巻末エッセイ〜カリブ海クルーズ〜その3」富樫賢一(悠遊健康村病院)



「白馬の夏」 丸岡稔(丸岡医院)


俳句で綴る越の四季〜その二  江部達夫(江部医院)

 夏

 五月五日立夏の日から八月八日立秋の前日までの三カ月が日本の夏。
 夏は一年で最も暑い季節、この暑さが穀物の苗を育て、秋の実りへとつないでくれる。野菜の多くは夏に育っている。草花も夏に咲くものが多い。私の好きな蝶も越の野山で、夏には百二十種は発生している。
 私の楽しみの渓流の毛針釣り、尺を越す山女が出て来るのも夏、五十センチの大岩魚を釣り上げたこともある。また本当に旨い山菜が採れるのも雪解けの初夏の沢沿いだ。
 長岡の花火大会は夏の終りの風物詩、二日間で百万人を越えるお客がやって来る。二キロメートルに渡って広がるフェニックスや三尺玉が名物になっている。
 夏は命に力を与えてくれる季節だ。

郭公の初音に目覚む夏来る

 昭和四十六年四月、十四年間学生や研究生として過した新潟市での生活を終え、郷里の長岡に戻った。長岡赤十字病院に内科医として就職した。病院で用意してくれた住宅が信濃川の堤防の近く、河川敷には雑木林があった。
 立夏の頃の朝明け、郭公の声が聴えて来た。秋には南に渡っていた郭公が河川敷の林に戻って来たのだ。河川敷には葦原があり、大葦切(おおよしきり)が営巣する。托卵の習性のある郭公は大葦切や鶯の巣に産卵する。
 立夏の日五月五日はこどもの日でもある。また古くからは端午の節句。鯉のぼりを立て、武者人形を飾り、粽を食べた。鯉のぼりは今や街中から姿を消してしまった。
 大きな鯉のぼりは川の上空に綱を渡し、何十匹もの群で泳がせ、各地で名物になっている。風に吹かれると見事な泳ぎを見せてくれる。越では加茂市の鯉のぼりが有名だ。

粽巻く老婆の手さばきしばし見ゆ

子供らの巻きし粽の大きさや

鯉のぼり泳ぐ姿は街になく

数十の鯉谷上る風みどり

 越は雪国、商店街や町家では軒の庇(ひさし)を長く張り出させ、冬の通行に便利な雁木が造られている。南の国で冬を過した燕達は五月初めには日本に戻り、雁木通りの庇の下に巣を造り子育てをする。
 その燕の巣造りが近頃街では殆んど見られなくなった。街の空を飛び回る燕の姿も見られない。
 燕は人の営みの中で生きている鳥、昭和の頃は家の中まで入って来て巣を造っていた。
 燕に代り街に増えているのが鴉だ。庇に造られた燕の巣を鴉が襲い、雛を捕食する光景を目にした。燕は街から出て行った。鴉だけでなく、街の空には餌になる虫も少なくなっているのだろう。
 郊外の農村に行くと、今でも燕が虫を求めて飛んでいる姿に出会える。しかしその数は減っている。トイレの水洗化による蠅の発生の減少が大きな原因ではないだろうか。

舞う燕なきまま街は夏迎え

街去りし燕村里空に舞い

 越では田植えは五月上、中旬、山間部では下旬に。田植え前の水を張った田は美しい。殊に里山の棚田、水面に浮かぶ夏の雲の流れを見ていると、時の経つのも忘れてしまう。
 一家総出でやっていた賑やかな田植えも、今や田植え機で、一人十反を一日で植えてしまう。

水張りし田に流るるは夏の雲

田植え歌なき田に流るエンジン音

 立夏の日から一カ月間は初夏の候、越の野山は花の季節だ。私の好きな谷空木は長岡郊外の里山で、五月十日頃には咲き初める。新緑の中に淡紅色の花が群れて咲く。
 谷空木はスイカズラ科の落葉低木、北海道と本州の日本海側の山地に自生し、越ではこの季節、里山を飾る代表的な花だ。山藤の開花も同じ頃、一緒に咲き競う姿が長岡の里山にはあちこちに見られる。

谷空木咲くも夜は冷え夏炬燵

谷空木咲くや山藤咲き初め

そよ風に揺れる藤花に熊ん蜂

 初夏の花、その代表とも云える花は牡丹であろう。原産国の中国では花王と呼ばれ、日本には平安時代に来ている。多くの人々の手で改良、今日では色や型は極めて多彩に。
 私が訪れる患家に牡丹の好きな老爺がいた。亡くなる十日前には庭で牡丹の手入れをしていた。臨終に駆けつけると枕許に一輪の白牡丹が飾ってあった。

燃ゆ如く咲きて香送る紅牡丹

強き香に蝶も寄らぬか大牡丹

臨終の老爺見守る白牡丹

 初夏の里山で私の好きな花の一つに朴の花がある。緑鮮やかな大きな葉に囲まれ、高い木の枝先に咲く大きな淡黄白色の花、中央に紅い雌蕊、気品のある花だが、手にすることは難しい。香りの良さは花の中でも抜群だ。

高く咲き香り届かぬ朴の花

音をたて咲き初めはじむ朴の花

 朴の花の蕾は緑色の苞葉に包まれている。花が咲く前に苞が解ける。ほどこの瞬間“ポッ”と音を立てる。明け方に苞は解ける。
 五月は渓流釣りのシーズン入り。山女や岩魚を釣りながら八十才に。事故もなく来たのは幸い。
 五月の渓水、温み始めるのはその年の雪解けで違うが、小満(五月二十一日)の頃には冷たさも取れ、渓流魚の動きは活発に。沢沿いにジダケ(ネマガリダケ)の藪があり、タケノコが採れる。山の恵みだ。

雪解水(ゆきげすい)去りて渓水温み出し

夏めくも滝の飛沫は肌を刺し

岩魚棲む渓より仰ぐ五月空

じだけ伸ぶ雪解の沢の遅き春

 六月六日は芒種、この日から中夏。芒種とはイネ科の植物を植える頃のこと。今では越は田植えも終わっている。田のオタマジャクシは手足が生え始め、陸に上る準備が始まっている。
 平野部の田では苗の分蘖(ぶんけつ)が進み出し、田は青々として来る。青田に混り、刈り入れを迎えた麦畑があり、面白いコントラストを見せている。減反政策で植えられた麦であろうか。

芒種の日棚田のおたま手足伸び

株張りも盛りて青田なお青く

モザイクに麦秋まじる越の田や

 日本の各地に名水と呼ばれる天然水が湧出、ボトルに詰められ、ガソリンよりも高値で売られている。
 越には水を商売にする程の名水は無いが、旨い湧き水はたくさんある。山の湧き水を集め流れて来る渓流の水も旨い。

名は無くも湧き水うまし越の里

沢水を飲む眼の前をかにが這い

 六月は尺を越す大山女が渓流に姿を見せてくれる。冬場に河口近くまで下り、たっぷり餌を食べ大きくなり、渓流に戻って来たものだ。岩魚で冬場海に下り、春川に戻って来たものはアメマスと呼ばれ、五十センチを越す大物にもなる。
 私の釣り上げた山女で最大のものは三十五センチ、引きが強く、釣り上げるのに二十分はかかった。大岩魚と一時間以上闘ったこともある。
 六月の渓流、河鹿蛙の唄声がすばらしい。河鹿の雄の鳴き声、鈴を転がしたような美声だ。夏の渓流が好きなのは河鹿の唄声が聴かれることにもあるのだ。この河鹿、大きな山女や岩魚の餌にもなっている。

尺山女糸うならせて右ひだり

また一年河鹿唄聴く喜びよ

大岩魚鳴かぬ河鹿が腹に棲み

 長岡の市内、市の東にある山脈(かまなみ)から流れてくる川がある。柿川と呼ばれ、市街地を流れて信濃川に注いでいる。この川明治中頃までは運送の主軸になっていた。私の家はこの川沿いにある。
 昭和三十年代までは柿川には十種ほどのトンボが棲息していたが、農薬や家庭排水の中性洗剤などにより、生き物が棲めない川になった。
 昭和四十年代には、魚やザリガニ、清流を好むトンボやホタル、魚や貝を狙うサギなどの水鳥は全て姿を消してしまった。
 市街地に下水道が完備し、平成になると柿川は徐々に清らかさを取り戻し、今では放流した鯉が増え、ウグイやオイカワなどの小魚も増えた。サギも姿を見せている。
 十年前からオハグロトンボが姿を見せ始め、六、七月には私の庭に飛び交うようになった。しかし他のトンボやホタルはまだ姿を見せてくれない。川底にヘドロが溜まっており、餌になる川虫や貝が育っていない。

子の頃はしおから川の主であり

花菖蒲おはぐろ翅を閉じ開き

街流る川蛍消え五十年

 長岡の郊外、村里を流れる川ではホタルが増え、村起しにホタルの名所にしようとする試みもある。街から消えたホタルの光りを求めて、私も出かけている。ホタルの火には心を癒す力があるようだ。

真夏日や川風涼し蛍狩り

蛍雪の時代もありし初蛍

平穏を願う心や蛍の火

 越は七月が最も暑い。七月七日の小暑の日から、二十三日の大暑を経て八月八日立秋の前日までが晩夏。
 この時節、真夏日が続き、時には三十五度を越す猛暑日もあるが、越では少ない。
 今やエアコンが家庭に普及し、蚊帳を吊って夜風を楽しむ風情は無くなった。

川風の運びし涼や庭に満つ

夕涼み涼風街に無き平成

涼風の訪(おとな)う頃は夜が白み

冷房をほどほどにし診察す

 街に住む人々は暑さを避けて海や山へと出かけて行く。国は“海の日”や“山の日”まで用意してくれたが日が悪い。海の日は梅雨の最中、山の日はお盆前と。大暑の頃の月、火曜日と連休にしてくれたら利用し易いが。
 私の暑さ対策の一つは渓流釣り、渓に吹く風は涼しい。五十才頃までは海に潜ってサザエや岩ガキを採っていた。冷房の効いた部屋でテレビを見ているのが安全な暑さ対策か。

涼風の吹き上ぐ渓に一人釣り

夏の月上りて涼し山女釣り

飯に炊くさざえ今朝には海におり

猛暑日や家にこもりて夏眠かな

 私の庭には父が六十年前に植えた椎、桜や松の木がある。今では大木となり、油蝉が大発生する。真夏日の続く昼下り、蝉の大合唱が庭中に湧き上り、暑さをより暑くする。そんな日の夕方、一雨やって来ると急に涼しさを覚える。雨足が強いと蝉は一たん鳴き止むが、雨が上るとまた鳴き始める。
 里山の渓流で聴く蝉の声、四、五種の蝉の音、瀬音も消される程だ。

雲湧きてにわかに激し夏の雨

夕立の止みてまた降る蝉しぐれ

蝉しぐれ岩をも砕かんほどに降り

 夏の関川村での朝、●ぎ立ての胡瓜や茄子を届けてくれる人がいる。夜露で冷えた胡瓜はおいしい。塩もみにした茄子もうまい。朝釣りは止めビールが始まる。

朝●ぎの胡瓜が肴日曜日 (●:「てへん」に宛)

 大暑の頃の渓流、夕方になっても暑い。淀で村の子供達が水遊び、私も下着で川に。冷たく気持が良い。水中眼鏡で流れを見ると、山女の泳ぐ姿が見られた。年長の子が深みの岩陰で大きな山女をヤスで突いて来た。尺近いもの、子供達がいなければ私の毛針にかかったかも知れない。

釣るを止め山女と遊ぶ大暑かな

戦後間もない昭和二十四年七月、私は中学一年生、長岡の昆虫少年五人で白馬岳に高山蝶を採りに登った。白馬山荘に泊まり、朝日を拝んだ。雲海の彼方に登る太陽、その美しさは七十年近く経った今でも目に焼きついている。登山客はまだ少なく、高山植物のお花畑は見事なものであった。尾根道に沿い咲いているコマクサ、印象深いものであった。

戦いの傷跡もなき御来迎

敗戦の影なく咲けり高嶺花

頭垂れ山人迎うる駒草や

 三年後再び白馬岳に登った。三国境いより頂上に向う尾根道にはコマクサの群生はあったが、その数は減っているように思えた。日本は登山ブーム、日本隊がヒマラヤのマナスル登頂に成功していた。
 八月二日三日は大花火大会、全国から百万人が訪れ、長岡が一番賑わう日だ。この季節、東北各地で大きな祭りが開かれている。

闇ついて華まき散らす玉三尺

火の粉舞う川渡る風秋近し

フェニックス煙雲流す風は秋

 もう秋は隣りに来ている。

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ビーグルの魅力について   畠野莉乃(長岡中央綜合病院 研修医)

 昨年の秋、実家で飼っていたビーグル犬が天国に旅立ちました。愛犬レモンへの感謝の気持ちを込めてビーグルの魅力について書かせていただくことにします。
 ビーグルはもともとウサギ狩りの猟犬として用いられていた犬種で、活発で陽気な性格をしているといわれており、スヌーピーのモデルとなったことでも有名です。私が飼っていた13インチのビーグルは体高33cm、体重10kgほどの大きさです。一般的に体も丈夫で、運動量が比較的多く必要なこと(散歩の時間の確保)以外には、毛も短いため世話が簡単で、初心者でも飼いやすいとされています。
  私が小学生の頃、どうしても犬が飼いたいと父にしつこく頼んで買ってもらったのが、レモン&ホワイトのビーグルでした。当時人気のあったミニチュアダックスフントが私のお気に入りの犬種でしたが、屋外でも飼うことができ、丈夫で毛の手入れに手間がかからない、性格も良い犬種ということで、父がビーグルを提案してくれました。とにかく早く犬を飼いたかった私は、家族で初めてペットショップを巡ったその日に、飼う犬を決めました。コロコロとした白いお腹で、背中と耳から目の周りは淡い茶色、鼻から口にかけては白い子犬でした。ビーグルの毛の色といえば、トイカラー(黒、茶、白)が一般的ですが、他にレモン&ホワイト(淡い茶色、白)、レッド&ホワイト(茶色、白)の毛色もあり、私には優しい雰囲気のレモン&ホワイトの子犬がとてもかわいらしく見えたのです。(ちなみにスヌーピーはどの配色にも当てはまらず、スヌーピーカラーのビーグルは幻であると考えられます。)ペットショップの店員さんが、「この子は吠えなくて、大人しい良い子ですよ」と教えてくれましたが、その言葉は本当でした。ビーグルはもともと猟犬であり、ウサギを追い詰める時に、よく通る吠え声で仲間と連絡を取り合うため「森のトランペッター」という愛称もあります。そのため、むだ吠えが問題になることもあるのだそうですが、幸い我が家のビーグルは、家の中で吠えるということはほとんどありませんでした。もともとは、少し成長したら庭で飼うつもりでしたが、可愛さのあまり家族の誰も外で飼おうとは言いださず、生涯室内犬として、ぬくぬくと過ごすことになりました。

 さて、ビーグルの魅力についていくつか説明したいと思います。
 まず性格についてですが、活発で好奇心旺盛、愛想が良く人見知りをしない、寂しがりや、と言われています。レモンもそのとおりだったと思います。表情豊かで、楽しそうに遊ぶ姿は、いつも家族を笑顔にさせてくれました。また、他のビーグルについてはわかりませんが、とても賢い犬だったように思います。家族の話している言葉や表情から、私たちが思っていることを感じ取ることができるような犬でした。疲れた時にはそばにいてくれ、いつも家族を癒してくれる存在でした。
 次に外見は、逆三角形の垂れた大きな耳、ピンと立った長いしっぽが特徴です。嗅覚を使って狩りをするため、においが逃げないように耳が鼻の位置まで長く垂れているそうです。また、しっぽは主に茶色か黒ですが、先の方は必ず白となっています。これは、獲物を追って茂みに入っても、飼い主に自分の居場所を教えることができるように、という理由があるそうです。いろいろと理由を説明しましたが、とにかく人懐っこい性格のビーグルが大きな耳をひらひらさせ、長いしっぽをふりふりしながら歩いている姿は、とても可愛らしいのです。小さな爪が実家のフローリングに擦れ、カタカタと音を立てながら歩く姿は、忘れられません。
 もう一つビーグルの共通の特徴として、とても食いしん坊であることが挙げられます。ドッグフードを食べる時は、いつも顔ごとお皿の中に突っ込んで、首の角度をあれこれと変えながら勢いよく食べます。上品に食事をしてもらいたい飼い主さんにはあまり向かないかもしれませんが、大喜びでご飯を食べている姿も私にとっては魅力の一つでした。私たちが何か食べていると、すぐに寄ってきて、よだれを垂らしながらじっとこちらを見つめ、「それ食べたい」と言いたそうにアピールする姿もまた忘れられません。そういうわけで、ビーグルは肥満に注意が必要で、可愛くても食べ物をあげすぎないように、またしっかりと運動させてあげるように気を付けなければなりません。
 他にもビーグルの好きなところはたくさんありますが、書き尽くすことはできないので、この辺で筆をおくことにします。
 今年の春には、食いしん坊だったレモンが喜ぶようにと、いつも遊んでいた実家の庭にりんごの木の苗を植えました。その木が大きく成長し、たくさんの実をつけることを楽しみにしながら、私も医師として成長できるように一日一日を大切に研修生活を送ろうと思っています。

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蛍の瓦版〜別記 きまぐれ通信 副会長 荒井義彦(荒井医院)

 去る7月22日より1泊2日の日程で、茨城県土浦市医師会を表敬訪問してきました。参加者は長尾会長以下、草間副会長、高橋・小林両理事、太田監事、事務の星さんと荒井の総勢7名です。
 この相互訪問は太田前会長の時に山本五十六元帥に縁のある2つの医師会が、災害時相互援助協定を締結したことに始まり今回で4回目となります。(詳細は本誌平成年3月号参照)初日は夕方に着いたため、即懇親会となり、土浦市医師会の川島房宣会長、小原芳通、塚原靖二、宮崎三弘各副会長、湯原洋一事務長と懇親を深めました。席上普段ほとんど見られない伝統の幇間芸に感動致しました。
 翌日は、医師会館において、(1)在宅医療・介護連携拠点事業の現状について、(2)災害時の医療体制の確保について、の2題で情報交換がおこなわれました。席上、東日本大震災時福島からの自主避難の方々で大混乱したこと。施設管理者の医師が夜間は現地にいないこと等、首都圏近郊の医師会ならではのご苦労を感じました。その後、筑波宇宙ロケットセンター見学、(コウノトリをはじめ打ち上げ衛星やロケットは想像よりかなり巨大。)昼食後、中之島レンコン畑の数百倍もの規模の蓮の花の咲き誇った畑(生産量は日本一)に圧倒され土浦を後にしました。

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巻末エッセイ〜カリブ海クルーズ(その3)  富樫賢一(悠遊健康村病院)

 船内のレストランは4つが無料で9つが有料。我が家の夕食は大体無料の大レストラン「トロピカーナ」。ベリーズ・シティ遊覧飛行の日はツアー・メンバー皆と有料ステーキハウス「キャグニーズ」での夕食。有料とはいえ旅行社払いなので飲み物以外は無料。米国に38年前来た時はあまりに固い牛肉に辟易した。今回の牛肉は柔らかくジューシー、我が家で食べる和牛より高級そうだ。

 5日目の寄港地はメキシコのコスタ・マヤ。ユカタン半島のカリブ海に面した小地域でクルーズでもなければ行けそうもない所。オプショナルツアーはロアタン島での苦い経験から海ではなく古代文明マヤ遺跡観光を予約しておいた。早朝下船すると目の前に数百メートルもありそうな桟橋。集合場所は見えないがそのはずれらしい。下船後渡されたツアー参加証を持って暑い中を2人で歩く。

 集合場所はグループごとにロープで仕切られていた。所定の場所に並ぶ。近くの広場で現地人と思われる人たちが踊っている。見るのはただだが一緒に写真を撮ったりすると有料。そうこうしている内にだんだん参加者が集まって来た。突然リボンが渡され移動が始まった。リボンの色ごとに別々のバスへ。何となく気後れする夫をしりめにトミイは前の席に陣取る。なんと日本人は2人だけで周りは大柄な外人ばかりだ。

 結構新しいバスで席は狭いがクーラーが良く効いていてまずまず。メキシコ人ガイドが話し始めた。陽気なアミーゴはスペイン語なまりの英語で聞き取りにくい。これからの観光のことを話し終えるとやおら何かを取り出した。ここでしか買えないというマヤ民族の暦と名入り銀ペンダント。見本と申込用紙が手渡しで回されてきた。もちろんパス。

 港の入口付近にはバラック建ての店が何件かあったが、百メートルも走ると荒涼とした野原以外何もなくなった。本当に何もない。動物も見かけない。そんな中を1時間。周りの外人はというと静かでマナーがいい。小声の話し声に耳を傾ける。するとどこからかハングル語が聞こえて来て妙に親近感がわいた。

 着いた所はジャングルに囲まれたチャクチョーベン・マヤ遺跡。紀元前10世紀頃のマヤ族祭典跡が見つかった所。7世紀頃にピラミッドが造られ、その後は巡礼地として栄えたらしい。エジプト程ではないがそれなりのピラミッドが3つある。その1つは独特の赤に塗られたスタッコ細工壁が有名。ジャングル内を30人位が一団となってガイドについて見て回る。

 ジカ熱やデング熱が話題になっている時期も時期。長ズボンに長袖シャツ、さらに虫除けスプレーと完全防備の2人。そのおかげで汗だく。周りの外人はというと半ズボンに半袖シャツ。しかも蚊に刺されても一向に気にする様子もない。女性はもっと軽装。「後で後悔するぞ」とつぶやいてみても何となく割り切れない気持ちだ。

 その日の夕食は「トロピカーナ」。ダンスフロアーに近い席を取ろうと早めに並ぶ。テーブル付きの給仕がフィリピン人で「我々アジア人、何でも遠慮なく言ってくれ」と親切にしてくれた。夕食後は大劇場で「ミリオンダラー・カルテット」ショーを見る。エルビス・プレスリー、ジョニー・キャッシュ、ジェリィ・リー・ルイス、カール・パーキンスなどの往年の大歌手の物まねショー。すぐ飽きてトミイと部屋に戻る。シャワーを浴び早々にベッドへ。蚊に刺されず無事に戻れたことに感謝しながら眠りにつく。(つづく)

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