長岡市医師会たより No.449 2017.8
表紙絵 「喜び事がやってきた」 福居憲和(福居皮フ科医院)
「八百枝浩先生の思い出」 武田啓治(長岡赤十字病院)
「故 八百枝浩先生との思い出」 茨木政毅
(茨木医院)
「孝行考」 福本一朗
(長岡市小国診療所)
「両国散歩」 三上理
(三上医院)
「蛍の瓦版〜その35」 理事 児玉伸子(こしじ医院)
「巻末エッセイ〜カリブ海クルーズ〜その4」富樫賢一(悠遊健康村病院)
「喜び事がやってきた」 福居憲和(福居皮フ科医院)
行いは思いの花、喜びはその果実と言われますが、
清い思いをめぐらせれば、
喜びごとが影のようにつきまとうのです。
遺影をみると「あのな、たけだ」と話しかけてくるように感じられた。八百枝先生は、私が医学部の学生の時からの仲でした。バレーボール部の先輩と後輩でした。バレーボールの医局対抗が終わると、審判をやったことで打ち上げの飲み会に呼ばれてごちそうになりました。卒後1年間の自主研修の後、眼科に入局しました。
先生は新潟大学医学部を昭和38年に卒業し眼科学教室に入局し、故三国教授に師事し、眼光学関係の論文を次々と発表しました。昭和47年に「眼底撮影の実際」という本を出版しました。三国政吉・八百枝浩の共著です。これは眼底カメラの歴史から始まり今日の眼底カメラの構造・特性、撮影技術、立体撮影の原理、眼底の立体計測の計算式、その他画像処理、模型眼の数値など広範囲にわたるものでした。当時でも今でも、他にこれに比する本はありません。立体計測をするものにとってはバイブルでした。
入局後の私は先生の指導を受け、眼光学の論文の発表を続けました。眼光学とは眼底カメラ、手術顕微鏡、細隙灯など観察や計測を行う機械の開発や、その周辺の工学現象を研究する学問です。眼光学学会とは、眼科と理工系の大学、メーカーの工学設計屋の三者が集まって議論する学会です。特殊な学会でしたが、先生に相談し演題を決め、毎年毎年発表を続けました。私の光学の知識は高校程度しかなく全くの素人でした。こんな私を懇切に指導してくれた先生に感謝しております。
光学メーカーの新潟訪問が毎年あり八百枝先生の意見を伺っていました。その後の夕食会に参加させてもらい光学の知識を仕入れさせてもらいました。
私にあたえられたテーマは眼光学における20世紀最大の発見といわれるスタイルス・クロフォード効果でした。1933年に発表されたものです。詳しい説明は省略しますが、瞳孔中心を通る光よりも、外れた所から入る光は感受性が弱いというもので、光覚のカーブを描くと瞳孔を中心とする放物線になります。これを使うと視細胞の向き方向を調べられることになります。私はこの現象を視力で表現できないかと考えて装置をつくり実験してみました。結論を言うと視力で表現できず、光学メーカーに計算してもらったら眼の収差の影響の方が大きいことになりました。ただこの効果はあまりにも有名なため、都合の良い間違った説明に使われたのが多かったと思います。
先生は昭和38年に眼科に入局し、昭和43年助手、そして講師を勤め、昭和50年から「眼科八百枝医院」に入り、昭和52年同眼科を承継、平成20年開設者を子息の潔先生に承継、平成26年現在地に移転新築、名称を「やおえだ眼科」とし今日に致りました。
医師会活動は平成4年から平成10年末まで長岡市医師会理事を、長岡市医師会の会史編纂委員会委員を昭和63年から平成2年まで勤め、長岡市医師会史の発刊に貢献しました。県医師会の会報編集委員を昭和59年から平成4年まで勤めました。
県眼科医会の理事・副会長を長きにわたり勤め、長岡眼科医会の会長を平成11年から平成22年まで勤め後輩の指導にあたりました。
先生には研究のみでなく、お酒でも大層お世話になりました。先生のお酒は談論風発で楽しいものでした。その八百枝先生は病魔にとりつかれ8月14日なくなられました。80才でした。研究、お酒の師匠であり続けました。
ご冥福をお祈り申し上げます。
とうとう八百枝浩先生とお別れの時が来てしまいました。
私が浩先生を意識しはじめたのは昭和32年の春、新潟大学医学部を受験するために新潟市へ向かう列車の中でお会いしてから、実に60年の月日が経ちました。
長岡高校一年先輩である先生はその年新潟大学へ、私は浪人の後、東京の昭和医科大学(当時)に入学したために、しばらくは直接お目にかかることはありませんでした。
昭和38年先生は新潟大学医学部を卒業し、インターンの後、三国教授(当時)の眼科教室に入局するやたちまち頭角を現し、論文を矢継ぎ早に発表されました。特に眼光学の分野ではお得意の数式、公式を駆使されて、まるで理数系の大学を卒業されたかのようなお仕事でした。
再びお目にかかったのは昭和48年新春、私が父の病気のために研修もそこそこに、長岡に帰り眼科を継承した時でした。「お前を歓迎するから新潟まで飲みに来い。」というお誘いでした。その時はどこで飲み、何軒まわったかは定かではありませんでしたが、持ってこられたお金を全部使いはたして帰りのタクシー代もなくなり、奥様をお呼びになり、帰られたことをよく覚えております。
その頃は新潟大学眼科教室の講師として大活躍されておられたのに、突然という印象でしたが、昭和50年長岡に帰られて、お母様の眼科医院を継承されました。そのため一緒に長岡市医師会、長岡眼科医会でお会いすることになりました。その頃は長岡眼科医会の勉強会を企画したり、麻雀を囲んだりで、そのあと飲みに出かけることが多くなりました。
先生はお酒には大変強く、ビール、ウィスキー、ワイン、ブランデー、ジンのお話を“ぼん・じゅ〜る”に寄稿されています。
しかし、お酒を飲みはじめて一定量に達すると、足もとがふらつかれるようになり、心配性の私は、タクシーにお乗せするよりも、御自宅まで送って行ったほうが安心と判断して、よくお送りいたしました。これはご自分でもわかっておられて演じておられたのではないかと推察しております。(このくらいで帰ろうと。)
昭和57年11月国際眼科学会がサンフランシスコで開催され、浩先生御夫妻と同じ航空機で出発しました。先生はサンフランシスコで最も高級なホテルに泊まっておられ、その最上階のレストランから見える夜景は本当に素晴らしい眺望で、席を確保するのは困難なのですが、ドアマンやボーイ、ウェイターにはおしげもなくチップをはずみ、VIP待遇で連日食事を楽しまれたことでした。
我々も還暦を迎える頃になると連日お酒を飲みに出かけることは苦になり、長岡での飲み歩きは自然と遠のくことになりました。
そのかわり大都会東京の灯を求めて上京し、ワインや食事を楽しまれておりましたが、ホテルの予約は面倒と東京渋谷にマンションを購入されて月に2回くらい上京されていました。
月日が経過し平成20年にご長男の潔先生が眼科医院を継承されると、直ちに第一線を退かれて、以前より行かれていた東京でのお酒とグルメの旅を増やされて楽しまれておられました。しかし6年前に奥様を亡くされてからは東京へもあまり行かれなくなりました。
そして長岡駅ココロの居酒屋では毎週2回、決まった曜日に席が確保してあり、その曜日の夕方には必ずお見えになるので、時々意識的にお会いしておりました。
実に40年にわたる先生との楽しい思い出は走馬燈のように目に浮かびますが、もうお酒をくみかわすこともなくなり残念のひとことです。
やすらかにお眠りください。合掌。
今年5月19日の朝日新聞朝刊「おやじのせなか」に、タレントのベッキーさんのパパの話が載っていた。空手修行のため来日した英国人のパパは、娘達にいつも「Are you happy ?」と問いかけ、いい加減な返事をすると「何パーセント幸せ?」と問いつめ、進路を相談したときも「Of course, it's you rlife. 一度きりの人生、自分自身で生き方を決めなさい」と言っていつも許してくれたという。優しいパパは「困っている人と動物がいたら、学校や仕事に遅れてもいいから助けなさい」と諭し、ベッキーがマスコミに叩かれ仕事を干された時も、厳しい助言を与えると共に、「家族だからそばにいるよ」と決して見捨てる事はなかったという。このような理想的な父親像は、英国に限らずフランスや北欧諸国でも普遍的に受け入れられており、日本人の父親達が学ぶところは大きい。また父性愛と対になっている母の愛の偉大さも、ポンペイの母子遺体やインドの鬼子母神伝説など世界中で伝承されている。
ただこの「親からの愛」に対する「親への愛(=親孝行)」の考えは、地域と時代により変遷しており一様ではない。例えばフェゴ島では役に立たなくなった老婆を食べる≠アとは当然なすべきこととみなされていて、親孝行≠ニいう概念はないといわれている(Fig.1)。
それに対して我が国の「親孝行」は家族制度を基盤とする儒教道徳の基本として、「養老の滝」伝説にみられる様に父母によく仕える行為・子の親に対する道徳とされ、近世封建社会以後、生活規範として確立され重視されてきた。明治以後も「教育勅語」に「父母ニ孝ニ」と、国民の実践道徳の第一として示され、天皇に対する「忠」と並んで「忠孝」が国民道徳の基本とされた。本来勅語は法律的性質を有しないのが原則であるが、この「教育勅語」だけは天皇の単なる私的道徳訓にとどまらず、教育一般の基本方針とされたので、実際には法的な効力をもっていた。アジアでも中国映画「我的父親母親(=初恋の来た道1999)」や韓国パンソリ「沈香伝」にみられるように、「父母の恩に報いなければならない」として、親孝行は現在に至るまで広く深く受け継がれている根本道徳となっている様に思える。
ただ西洋では、旧約聖書でモーゼが神から授かった十戒第4戒に「汝の父と母を敬え」とあるように、また強大な家父長(pater familias)に家族生殺与奪権を与えたローマ法のように、昔は子供が親孝行をするのは当然であった。それは親にとって老後の最大の保証が子供であり、また労働力の多寡が生産量を左右する農業文明において家を豊かにするための貴重な労働力とみなされていたからでもあった。
しかし十分な土地を持たず、通貨で生活必需品を購入しなければならなかった農民や貧しい人々の多かった近代の英国では事情は異なっていた。判例の積重ねが法的効果を持つコモンロー(普通法)では、親に子供の財産を支配する権利はなく、幼児でさえその父親が生きていてもなお、自分の財産に対しては所有権があり、その権利を守るためならば、法廷に立つ事ができた。親は家計を楽にするためにどんな金持ちであろうと7〜9歳になった子供を奉公(徒弟制度)や寄宿舎校などに追い出し、大人になるまで他人に預けて、その代わりに他人の子を使用人として受け入れた。1574年から1821年までの間、15歳から24歳までの人口の約60パーセントが使用人として働いていたという。こうして幼い頃から稼いだ賃金は微々たるものであっても子供自身のものであり、将来親方や主人から独立するための資金となったのである。そのためか英語では親孝行に対応する filial piety や dutifulness, devotion to parents という言葉はあるにはあるが、滅多に使われず、東洋の様に庶民に広く受け入れられている徳目として無条件の倫理的賞賛を伴うこともなく、むしろ特定の具体的行動に対して理由を付して誉める場合に「○○するとは良い子供だ」と使われるに過ぎないと思われる。
このように見てくると西洋の合理的な親子関係は冷たいものと考える人もいるかもしれないが、それは違う。倫理的な徳目としてあげられるのは、その国の人々が「なすべきだがなかなか行われないこと」が賞賛され、人々の記憶に残る傾向があるからである。例えば儒教の国韓国で親孝行美談を探してもなかなか見つからないのは、親孝行をすることが当然であるため滅多にニュースにならないためと思われる。この韓国出身の若者が自らを犠牲にしてホームから転落した日本人を救ったことが、両国で大きく取り上げられたのは、そのような人間愛にあふれた勇敢な行為が「なされることの滅多にない立派な行為」であるからであろう。
また日本では親子無理心中が頻繁に起きているが、子供が可哀想だと親子に同情はしても、殺人事件≠ニ考える日本人は少ない。そのため今年6月6日福岡県の母子三人の死亡事件が、当初無理心中と見られていて殺人事件としての捜査開始が遅れたことがあった。欧米では無理心中≠ニいう単語もなく、明白な殺人であってただ下手人が親というだけと考えられ、決して許されるものではない。日本では古来子供は親のもの≠ニ考える風潮があるためか、親は永遠に子供の面倒を見なければならない≠ニいう考えに結びつき、面倒をみられなければ可哀想だから一緒に死のう≠ニなる。これはすべての人を個人として平等に尊重する近代文明社会思想とは絶対に相容れないものである。
親孝行≠ニいう言葉を持たない北欧の人々も、老人ホームの老母を家族全員で定期的に見舞うことは普通に行われており、身寄りのない老人でも近所の友人や地区教会員が頻繁に慰問しているため、わが国の老健施設の様に入所以来一度も親族に見舞われない入居者は、ほとんどいない。彼らの親に対する考え方を聞いてみると、まずお互いの人格や生き方を尊重し、困ったときには助け合うが、普段は心理的にも経済的にも頼らず迷惑をかけず、礼儀を守って互いの悪口を言わず、定期的に訪問して家族の顔を見せるようにしているという。これはまさに親孝行そのものではないか?
日本人にとって親孝行とは、親を敬い大切にして真心を持って尽くすこと、生活に不自由している親に仕送りをしたり、年老いた親を介護したりすることと思われてきた。しかし本当の親孝行は、「大きく育ったからこれまでの養育費を返せ」「年を取ったから自分を看病しろ」と強制することではないのである。ほとんどの親が一番願うことは、自分が手塩にかけた子供が立派に成人して社会に貢献することであろう。北欧の人々にとっての親孝行とは、まさに子供が幸せな大人になり社会に貢献する立派な社会人になってくれることであるので、それは同時に子孝行≠ナあるといえよう。
スウェーデンの産婦人科や小児科待合室には、レバノン生まれの詩人カリール・ギブランの詩「こどもについて」が掲げられている(Fig.2)。子供を攫(さら)って自爆テロに使うISも、児童虐待に目をつぶる日本人も等しく、この本当の親孝行・子孝行の思想を学んでほしいと願う今日この頃である。
「こどもについて」
あなたのこどもは、あなたの子ではありません
絶えることなく続こうとする生命、それが息子や娘になったのです
こどもはあなたを通過する存在であり、あなたから生じた存在ではありません
こどもはあなたと共にいますが、あなたに属しているわけではありません
こどもに愛を与えることはあっても、あなたの考えをおしつけてはなりません
こどもにはこどもの考えがあるからです
こどもの体を家に住まわせることはあっても、こどもの魂までをそうしてはなりません
こどもの魂は未来という家に住むからです
その家をあなたは訪れることはできません。たとえ夢の中であっても
あなたがこどものようになろうとすることはあっても、こどもをあなたのようになるよう強いてはなりません
命は過去にさかのぼることも、留まることもできないからです
あなたは弓です。そこからあなたのこどもが生きた矢となって、解き放たれるのです
神の射手は無限の道の彼方にある的を見
神の力を使ってあなたをしならせるのです
その矢が勢いよく遠くまで飛んで行くように
あなたが射手の手によってしなることを喜びとしなさい
なぜなら、神は飛んでいく矢を愛しているだけでなく
そこに留まっている弓をも愛しているからです
今から34年前、寮のあった中野から毎日黄色の総武線に乗り両国の予備校に通っていました。
先日東京に用事があり、家内とともに上京しました。土曜日に用事を済ませ、翌日曜日、朝から蒸しっとする一日でしたが、ある意味懐かしい両国を散歩してきました。
その当時両国駅には現在の総武線各駅のホームとは別に、房総方面行きの列車が出発する3番線、4番線にも列車が時々入っていました。現在はそのホームも臨時以外は開かないようです。
駅を、江戸東京博物館とは反対方向に降り、昔の名残のビルを眺めながら総武線の線路をくぐり、錦糸町方面に向かいました。その通りは北斎通りと名前がついています。通りを歩いてすぐの路地には蕎麦の名店があり、店先の青竹が涼しそうです。さらに進んで写真用具で有名な「ハクバ」を越えると最初の目的地であるすみだ北斎美術館が見えてきます。外観は非常にモダンな造りで、とてもその中に200年前の日本を代表する美術作品が存在するとは想像できません。江戸東京博物館もそうですが、外観と中のギャップは、むしろ現代らしいのでしょう。
葛飾北斎は1760年に本所割下水に生まれ、幼少期より木版彫刻師の徒弟となり、その後浮世絵師に従事し、改号、転居を繰り返し、北斎漫画、富嶽三十六景などの作品を次々に残しています。75歳を超えようやく納得できる作品ができ、100歳まで生きる事を考えていたようですが、90歳でこの世を去っています。私は表参道にある太田記念美術館で浮世絵に遭遇して以来、東洲斎写楽、歌川広重等、機会があるたびに繰り返し鑑賞し、髪の毛一本一本の細かな線、着物の文様、波しぶき、細かな人々の描写、さらに北斎の遠近法や構図、そして遙か上空からの視点や想像力の世界に魅了されています。今回美術館訪問時には特別展として「北斎×富士」、富嶽三十六景、富嶽百景の揃い踏みが催され、様々な視点からの富士を堪能してきました。また、常設展ではすでに何度か観ていますが、北斎漫画や手本本など、人間の様々な表情、動物の描写、さらに動物の描き方や構図の取り方まで、現代のB5程度の用紙に細かく丁寧に表現され、その穏やかな表情に癒やされました。ここは何度訪れても飽きません。ゆっくりじっくり館内を2時間程度鑑賞し、外に出るとまぶしく、暑いお天気になっていましたが、今度は京葉道路に出て、次の目的地を目指します。途中胴囲100cm以上しかおいていない力士御用達の洋品店を眺め、コインパーキングを左に折れ少しするとナマコ壁が見えてきました。赤穂浪士討ち入りで討ち果たした吉良上野介の首を洗ったとされる井戸を中心に吉良邸跡の本所松坂町公園です。暑い夏の昼間で、背筋が凍る思いはしませんでしたが……
公園を後にして、京葉道路に戻る途中、時津風部屋があります。玄関には双葉山相撲道場の看板があり、歴史を感じさせられます。ちょうど名古屋場所前で、あたりはしんと静まりかえっていました。相撲つながりではありませんが、京葉道路をさらに隅田川方向に進むと江戸時代から東京大空襲までの無縁仏をまつる回向院が見えてきます。この境内で行われた神事が大相撲の始まりとされています。
回向院を背にして両国駅に向かう道すがら横綱の手形があしらわれたモニュメント、通り沿いや路地にはちゃんこ屋と、相撲の街らしい景色を眺め、今は使われなくなった旧両国駅舎にできた「江戸NOREN」に初めて入りました。お土産屋と飲食店、そして、奥には本物と同じ作り方をした土俵があり、圧巻の光景でした。
「江戸NOREN」で江戸前の蕎麦をたぐり、改札を抜け、横綱の手形や優勝力士の絵を見ながらまっすぐ進むと今は使用されていない両国駅の3、4番線ホームにつながる回廊です。両脇には歴史を示す写真があり、実際に目にした懐かしい光景もありました。
江戸中期の討ち入りを偲び、江戸末期の浮世絵に浸り、その頃から現代まで続く相撲の文化に触れ、現役で使われていた駅舎のその変貌ぶりに時代を感じた両国散歩でした。江戸東京博物館もその時代を感じられるスポットですが、それ以外にも両国には江戸と現代を今でもつなぐ歴史を感じられる箇所がたくさんある魅力的な街です。お時間がありましたら是非お散歩されてみてはいかがでしょうか。
二師懇談会
先の8月22日に、長岡歯科医師会と長岡市医師会による定例の二師懇談会が開催されました。この会は両医師会の会長副会長全理事に加え事務局も参加する賑やかなものです。初めにそれぞれの医師会が活動状況を報告し、その後全員参加の懇親会へ移行します。長岡地区では、歯科医師会と医師会は古くから良好な関係にあり、以前は合同のゴルフコンペが行われていたそうです。二師懇談会も歴史は古く、昭和46年の開催記録が医師会事務局に残っています
。
今回、歯科医師会からは歯周病検診∞後期高齢者歯科健診≠ニ、がん診療医科歯科連携事業≠ノついて発表されました。医師会は総務省補助事業のクラウド型医療情報連携基盤高度化事業≠フ進捗状況を報告しました。
歯周病検診
今回ご紹介された歯周病検診≠ヘ平成15年に40歳と50歳を対象に開始され、17年からは60歳と70歳にも対象が拡大されています。検診では歯周病の有無や口腔内の状況をチェックし、歯周病等に関する指導が行われます。対象者には5月末までに長岡市の福祉保健部健康課から検診票が送付され、6月から12月の間に同封の一覧表にある協力歯科医院に個々に連絡し、受診していただきます。基本的には検診の自己負担はありませんが、歯ブラシ代等の実費がかかることもあります。また検診で疾病が認められ治療が必要となった場合は、医科の検診と同様に、別途に保険診療の対象となります。
受診率は平成24年度の9.3%に比べ、昨年度は13.4%と徐々に増加していますが、まだまだ低調です。歯周病は歯を失う原因の第一位ですが、歯だけの問題に限らず、動脈硬化や糖尿病、肺炎等の様々な疾患に関与することが分かっています。生活習慣病等で診療所に通院されている患者さんに、お口の健康≠ヨの関心を持っていただくためにも、歯周病検診の受診を勧められてはいかがでしょうか?!
後期高齢者歯科健診
平成27年度から新たに後期高齢者を対象とした歯科健診も始まり、75歳と80歳が対象年齢です。歯周病検診に加え、咀嚼嚥下機能も含めた幅広い口腔機能の評価を行うことが特徴です。こちらも歯周病検診同様に、基本的には自己負担はなく、健診票の送付を待って個々に協力歯科医院へ連絡し受診していただきます。平成27・28年度の受診率は、15%前後と歯周病検診同様にまだ低い状況です。いずれも長岡歯科医師会会員の大半が協力歯科医院となっています。
妊婦歯科健診
平成22年度から長岡市では、母子手帳を交付された妊婦さんを対象に妊婦歯科健診を無料で行っており、毎年対象者の40%を越える方が受診されています。
幼児歯科健診ほか
昭和40年発効の母子保健法に基づき、長岡市は1歳6ヶ月児と3歳児を対象に、さいわいプラザ≠竓e支所で、身体測定や小児科健診、発育相談等と並行して歯科健診も行っています。現在長岡市では健診対象者のうちの希望者に対し、無料でのフッ素塗布も補助しています。さらに歯の生え揃う2歳児の希望者を対象に、平成17年度から個々の歯科医院での健診とフッ素塗布も行われており、こちらの受診率はほぼ70%です。
学童を対象とした学校健診は幼児健診より古く、昭和33年施行の学校保健安全法に基づき、主に嘱託医によって年に2回程度行われています。
また長岡歯科医師会では新潟県委託事業として障がい児(者)を対象とした健診も行っています。いずれも詳細は歯科医師会へお問い合わせ下さい。
巻末エッセイ〜カリブ海クルーズ(その4) 富樫賢一(悠遊健康村病院)
クルーズ最後の寄港地はメキシコ最大の島コスメル。知名度が低いコスタ・マヤとは違いマリンスポーツのメッカとして世界的に有名な所だ。だがオプショナルツアーは今回パス。添乗員と一緒に港近くのスーパーに行くことにした。下船すると観光客目当ての高級店が港内にずらっと並んでいる。それらの店の前を素通りしてエスカレーターで2階まで行き港の外に出た。
強い日差しと好奇の眼差しをものともせず無言で歩く。10分位でスーパーに到着。入口に居た警備員が入り方を教えてくれた。中は日本のスーパーと変わりないが雰囲気はまるで違う。客が少なく閑散としているうえ、アナウンスが全く無いので静か。というか不気味。その中をトミイは精力的に動き回り始めた。表示の意味が分らず時々私を呼びに来る以外居所不明。
メキシコの通貨単位はペソ。通貨記号はM$で米ドル$に似ている。価値は20分の1くらい。ペソ表示の価格を米ドルに換算し、更に日本円に換算しないといけない。いったい安いのか高いのか。驚くほど安いということが判明。その後トミイの動きは格段にアップし買い物籠の中はいっぱいになった。その中には多少私のものもあるにはあったが。
重い荷物を両手に持って郵便局に向かう。スーパーとは反対側の方向にあるため港前の人ごみをかき分けながら行く。港内とは異なり外の店は庶民的。その一つに驚くほど安いブランド品のハンドバックが置いてあった。暑くてブーブー言っていたトミイは突然方向転換してその店に。いくらなんでも安すぎるでしょう。と思ってみていると店主がどんどん値下げしてきた。遂には値札の五分の一に。郵便局の場所だけ聞いて去る。
あるはずの郵便局がなかなか見つからない。ここなんだがと思っても、どうみてもバラック立ての廃屋。二人なら怖くない。思い切って入る。中は薄暗くカウンターのようなものがあるがそれだけ。やはり廃屋だ。その時隅で荷物をいじっていた人が振り向いた。一応聞いてみる。と、ここは郵便局だと言う。日本まで葉書を出したいというと切手を貼って出してくれると。いくら払えばいいのか聞き取れないので小銭をカウンターにばら撒くとその中から適当に拾ってくれた。グラシャス・アミーゴ。
旅行先で絵葉書を自分宛(夫婦別々)に出す楽しみ。30年前家族で富士山に登ったとき記念にと山頂で絵葉書を出したのが始まり。そこには記念スタンプが押されていた。スイスのゴルナーグラート展望台(標高3135m)、バチカン市国、モン・サン・ミシェル、ルーブル美術館などには中には郵便局があり、そこで書いて投函できる。ただしフランスでは昼休みが2時間もあるのでその間は入れない。
その日はイリュージョナリウム、マジックショーを見ながらの夕食。早めに行って舞台の最前列に陣取る。瞬く間に混んできて身動きができなくなる。舞台には英国ヴィクトリア朝の古めかしい家具。突然大時計の中から人が現れマジックが始まる。主に人が消えたり現れたりするマジックだが仕掛けが大掛かりで面白い。そこにはユーモアも盛り沢山。大魔術師が宇宙に帰りエンド。日本人には馴染みの無いスティームパンク(SFジャンルの1つ)仕立てになっていた。
いい買い物も出来たし、葉書も出せたし、すごいマジックも見られたし、満ち足りた気分で部屋に戻る。バルコニーに出て一人暗い海を見ていたら何処からか小鳥の鳴き声が聞こえてきた。(つづく)