長岡市医師会たより No.452 2017.11
表紙絵 「チャイナタウン」 木村清治(いまい皮膚科医院)
「俳句で綴る越の四季〜その四」 江部達夫(江部医院)
「はじめまして」 渋谷裕之(長岡赤十字病院)
「蛍の瓦版〜その37」 理事 児玉伸子(こしじ医院)
「巻末エッセイ〜星の物語」星榮一
「チャイナタウン」 木村清治(いまい皮膚科医院)
冬・新年
十一月七日立冬の日から、二月四日立春の前日までの三カ月が冬の季節。立冬からの一カ月が初冬になるが、近年の温暖化、雪国の越でも初冬は秋の延長のようなもの。
里山の紅葉はようやく盛りを迎え、秋の虫たちはまだ元気。十一月二十二日小雪の候になりようやく冬らしさを覚える。温暖化になっても太陽の動きは変らない。晴れた日の夕方、長岡郊外のゴルフ場からの眺めは美しい。日は南西に沈み、夕焼けは透き通るような赤さに。一番星の輝きは冬になったと感づる。
ゴルフ場近くの農家の庭にある大きな桜、毎年のようにこの季節に花をつけ、垣根に植えてある山茶花は開花を待っている。
立冬に汗ばむゴルフ温暖化
星一つ冴えて輝く冬の夕
帰り花冬の兆しの中に咲き
山茶花の綻び始む冬の入り
日中の日差しは部屋の奥深く入り、高令で寝たり起きたりの生活をしている義母は縁側に座って、庭に残っている草花のスケッチをしている。元気の頃には私のエッセイの差し絵をよく描いてくれた。
玄関前の日溜りに近所の猫が三匹集まって来ている。もう二十年前の事だが懐かしく思い出される。
小春日に病む義母床を抜け出して
日溜りに猫集い来る小春の日
初冬の晴れた日の里山、盛りを迎えたナメコを探しによく出かけた。乾いた枯葉がかさこそと鳴る中、山深く入って行く。
ナメコは楢、?(ブナ)、山桜などの老木や倒木によく生えており、群生に出会うと担ぎ切れない程の収穫に。
里山には米作りに必要な水の確保のため溜池が作ってある。古くなった池は自然に溶けこんで人工的なものには見えない。そんな山中の小さな溜池にも、シベリアから渡って来た鴨が羽を休めている。
枯葉踏み分け入る里山なめこ採り
冬ざれや初鴨浮かぶ里の池
木枯し、冬の到来を告げる冷たい北風だ。昭和の頃には立冬前に吹いた日もあった。十月末に軽装でキノコ狩りに出かけた里山で、雪混じりの冷たく強い風が吹き始め、寒さのため逃げるように山を下ったこともあった。しかし平成の世、それもこの二十年は十一月半ばを過ぎないと木枯らしは吹き始めない。
私の大切な食材の一つムカゴは木枯しが吹くと蔓から落ちてしまうため、以前は十一月初めには採り終えていたが、今日では十一月半ば過ぎても蔓にしっかり付いている。山に長い期間入れるので収穫量も増した。
寒風干しで有名な村上鮭、この北風の中で二週間干され、旨さが凝縮する。更に長く干し続けると、名物酒びたし用の身のしまった鮭に仕上がる。越にあっては木枯しは生活に欠かせない風なのだ。
里山に木枯し聴くや村わびし
木枯しの止む束の間の渓の音
木枯しに紅葉さらわる里の山
軒下の鮭うまみ増す北の風
木枯しの吹き止む里に雪が舞う
木枯しの到来が遅くなったと同じく、時雨の降り出す日も遅くなって来ている。みぞれ混じりの時雨が降り出すといよいよ冬だと実感する。
初時雨紅葉さかる中に降り
散りゆくを知りて紅葉(もみじば)血の涙
時雨るるや越は冬へとまっしぐら
温暖化とは云え、年によっては紅葉盛る十一月中頃に寒波がやって来て雪をもたらすことがある。雪をかぶった紅葉も美しいものだ。
雪は木々を傷めるが、山の雑木は低木のうちは雪の重みに耐え、折れにくくなるように成長してゆく。
紅葉も一夜に変る雪の朝
山の木々雪に備える術を知り
豊かになった日本、雪の越でも冬は家庭での暖房設備が良くなっており、家の周りや床下も暖かさがあるようだ。そこに棲みついたコオロギは初冬が過ぎる頃にも鳴いている。しかし霜が降りる程に冷え込んだ夜は鳴く音は聴こえて来ない。
小雪にこおろぎ聴くや庭前に
虫の音も途絶えて今朝は初霜や
十二月七日大雪の日から一月五日小寒の前日までが中冬の候、師走のあわただしさの中、冬は進んでゆく。温暖化の現在、昭和の頃に抱いていた冬への厳しい思いは今はなく、まだ秋の延長線にある気分だ。京都や奈良では十二月は紅葉がまだ残っている。冬眠に入るはずの熊が餌を求めて里に出て来ている。猿の群れがやって来て、たわわに実をつけていた柿の木を半日で裸木にしてくれる。雪のない畑には猪が我が物顔に。昭和の頃にはなかった光景が越の里で起きているようだ。
冬眠に入れず熊は里に降り
猿群れて実りし柿も裸木に
師走はそれでも冬の最中、時折強い寒波がやって来て、長岡でも一夜に三十センチを越す重い雪を降らせ、木々の枝を傷める事がある。この寒冷前線の到来は夕刻に多く、激しい稲妻と雷鳴、町中に落ちて建物火災を起こしたりもする。荒れた一夜が過ぎると朝は雪景色に変っている。雪国ならではの光景だ。
囲われて木々眠りつく越の里
雪運ぶ雲雷神も乗せ来たり
鰤起こし枯れ木は闇に浮き上り
雨音もやがて静かに雪模様
初雪をかぶり山茶花なお紅く
この寒波長くは続かず、やがて冬晴に。山々は杉木立を残して真白に。野には雪に埋もれず立っている芒(すすき)が揺れている。
鈴生りに実った柿はまだしっかりと木に残っている。澄みきった青空を背景に、紅く熟した柿の実は白い帽子をかぶっている。町の中には柿の木を切らずに残して置く家も少なくなった。戦後の食糧難を経験した私にはもったいない思いだが、今は干し柿を作ることもなくなった。
この季節はリンゴがおいしい。盛岡に住む大学時代の友人から、大きなリンゴ箱が届く。この年になると何時届くかと楽しみに待っている。
雪晴れて夕日山脈赤く染め
枯れすすき雪積る野に立ち続け
もぐ人のなきまま柿は冬景色
熟れリンゴ岩手の友の冬便り
師走は賀状書きが忙しい。年に一度の挨拶となる賀状、一言加えるのが大変。この年になると毎年欠けて来る人がおり、名簿から消し去らねばならない。親しくしていた友の名が無くなるのは淋しい。
この季節は忘年会と称する飲み会が多い。若い頃は師走の半分は会、高齢となった今日、三、四回に減らしてはいるが、それでも大変。年金生活に入ったこの頃、懐も冬なのだ。
無事年を越せるかどうか賀状書く
賀状書き今年も友の名二人消え
お互いの無事祝い合う忘年会
二年前、医院の外来診療は息子と交代、院長職を退き、今は週二回午後から寝たきり老人の訪問診療に廻っている。冬至が近づくにつれ、四時過ぎには夕闇に。患家を廻りながら暗くなって行くと、気ばかりが焦り、夏のようなのんびりさがなくなるが、冬至も過ぎ、日が長くなって行くと思うと、気分も明るくなる。
短日に患家廻りつ闇に入り
明日からは日が長くなる冬至かな
鴨猟が十一月十五日から始まっている。脂がのって旨くなるのは十二月半ば過ぎてから。我が家にはクリスマスの頃、毎年二羽届く。友人にハンターがいるのだ。
治部煮、金沢の郷土料理でお正月には欠かせないもの。女房の親父は金沢出身、何時のまにか治部煮が我が家の正月料理の一つに。
正月に欠かせぬ治部煮鴨届く
たすき掛け義父は鴨との戦かな
五十年前お正月が近づくと、女房の父は庭で鴨の羽を毟(むし)っていた。今では鴨を捌(さば)くのは私の仕事になっている。後期高齢者になっても、医師として少しは働いている。八十才を過ぎると、新しい知識を得ようと講演会に出かけても、話しは素通りして行く。そろそろ完全引退と思っているが、多忙そうな息子の手伝いを少しでもと働いている。
老いの身でよく働きて大晦日
年夜の夜食に蕎麦を食べている。NHKの紅白歌合戦が終わる頃に茹で、近頃は子や孫達と一緒にお正月を過すことが少なくなったため、女房と二人でテレビの除夜の鐘を聴きながら静かに食べている。それなりの味わいがある。年越し蕎麦には細く長く生きて行くようにと云う意味がこめられているが、荒れ地にたくましく育った味でもあるのだ。
八十路入り年越し蕎麦の深き味
年越しは女房と二人鐘静か
去年今年無事渡り切る老いの橋除
夜の鐘、昭和の頃は窓を開けると四方から鐘の音が聴こえて来た。長岡では鐘楼があり、鐘を打つお寺も多くあった。平成になってからは色々な事情で鐘が打てなくなったお寺が多くなったと云う。
近くのお寺からの鐘の音、降り続く雪の中に聴こえて来る音、晴れた日の冴え渡る夜空に響き渡って来る音、それぞれの趣があった。鐘の音が終るといよいよ新しい年が始まると身が引きしまったものだが。
しんしんと降る雪震わす鐘の音
星冴える静かに響く音去年今年
鐘の音も止みて新たな望み湧き
元日の朝は雑煮で始まる。越新潟は年夜にご馳走を食べ、新年のお節料理は簡単にする風習があるが、元旦の雑煮は欠かせないものだ。
我が家の雑煮には二種類ある。金沢風の昆布出しだけのあっさり雑煮、芹を浮かべて食べる。老人向きだ。若い者には塩鮭の頭でとった出し汁に、大根とニンジンの短冊切を入れたもの、仕上げにイクラを入れる。子や孫達に人気がある。
若い頃は二十個も食べたお餅、今は二、三個だ。
元旦や餅で追い出す去年の糞
家ごとに異なる味や越雑煮
雑煮の造り方全国ではどれ位あるのだろうか、食べ歩きしたいものだ。
お餅を食べた後、晴れていれば運動を兼ね、三十年来続けているヒラタケ採りに。歩くスキーで長岡郊外の雪の里山に出かけ、雪が少ない年は歩きで探す。良い木に当たると担ぎ切れない程の収穫に。
ヒラタケは立ち枯れしたり、倒れたミズナラやクヌギのまだ樹皮の付いている状態の所に生え、冬でも生長している。
初日浴びヒラタケ群れて日向ぼこ
お正月のテレビ番組、今でも一億総白痴化物が多い中、私の好きな放送がある。二日、三日に行われる関東大学駅伝だ。選ばれた大学生が二日間に渡り東京、箱根路百キロを各大学十人で往路、復路を駆け抜ける。毎回新たなドラマが生まれる。
箱根路を駆ける若人輝きて
若者達のエネルギーが伝わって来るのだ。元気が出て来る。
一月四日は仕事始め、傘寿を迎えた頃から、日々進歩する医学に取り残された頭で診療をやっていても良いものかと自問している。主たる業務は息子と交代したのだが。
引退を心に秘めて初仕事
一月五日小寒から二月四日立春の前日までが晩冬だ。越は晩冬から初春にかけてが一番冷え込み、冬らしくなる。しかし温暖化はこの季節にも影響が出ている。寒に入ると昭和の頃は雨になる日はめったになかったが、平成は雪が雨に変る日が多くなった。
雪の長岡も昭和六十年以後は、二メートルを越す積雪は見なくなった。屋根の大氷柱もなくなった。
しかし寒はやはり寒、冷たい北風が街の中でも枯木や電線をうならせている。寒風の吹き荒れた後は雪に変る。雪降る庭に小鳥たちがやって来ている。
天空の月も凍てつく寒の入り
越の寒虎落笛(もがりぶえ)の音凄まじき
窓越しに眺む庭の木寒の雨(息子 佑輔 作)
ヒヨドリの番訪ぬる雪の庭
丸まりて枝に居並ぶ寒雀
一月二十日大寒の頃はやはり寒さは厳しい。庭に沿って流れている川の水量も減り、せせらぎの音も小さくなり、山茶花にも似た冬椿が咲き始めている。
佐渡では大鰤が獲れているが、殆んどが築地に行き、長岡の魚市場に回って来る量は少ない。寒鰤は脂ものって旨い。
冬深し瀬音も凍る夜明けかな
大寒に嬉々と咲きたる冬椿
大鰤の競らるる市場大寒や
寒の中の晴れ間は長続きせず、一、二日で雪に変わる。子供達は晴れ間に外で雪遊び。孫達が来ると庭に雪だるまが出現する。
春はもう隣にやって来ている。
深雪(みゆき)晴れ明日また雪の一日か
冷たさも覚えず子らは雪遊び
往診に廻る夕暮れ日脚伸ぶ
越はまだ雪降る中や春隣り
越新潟での八十年の生活、ふり返ってみると八十年も生きていながら、行動していた生活圏はごく限られた場所だったと改めて感じた。多くの方々が同じなんだと思う。人間極く限られた地域の中で暮し死んで行くのだ。
私の八十年は、長岡市と学生生活を送った新潟市、そして第二の故里となった岩船郡関川村での里山の生活とで終わっている。数日間の旅行に出ても、生活した訳ではないので殆んど記憶に残らない。
私も後期高齢者、後数年の寿命を更に狭い範囲内の暮しで終えることになるだろう。足腰の動く中にもう少し人生を楽しみたいものだ。
病む人と共に歩みて八十路かな
人の世の短さ吾は遊び暮れ
さて来世は何をして過そうか。
注:第二の故里関川村について
岩船郡関川村は新潟県で最大の村、九割が森林。昭和三十九年医師になって初めて診療に従事した国保病院(現、村立診療所)があり、大学からの出張で七年間過し、多くの友人が出来た。今でも年数回は出かけ、里山の生活を楽しんでいる。
昨年10月より長岡日赤の総合診療科で働いています。長岡出身で高校を卒業後、大学、一般社会など紆余曲折を経て医学部に再入学し現在医師6年目です。超熱し易く冷めやすい性格で一つのことを極める自信がなかったことから専門科を選ばず、あいまいで新しく、上の空いている分野のように感じられた総合診療を選びました。
趣味ですが、熱しやすく冷めやすい性格なので今までハマったものは数え切れませんが、ここでは競輪について書こうと思います。というのも、先日、医局内で救急部のN先生からドクヘリが競輪場からくると聞いたのです。瞬間的に、弥彦競輪のS級シリーズで時間帯からS級の一流選手の可能性があるなと思いました。スマホで搬送されてくる選手の落車シーンを再生し医療情報としてN先生に提供しました。もとアイススケートで有名な選手であることや予想される年収なども必要かはわかりませんが提供しました。その後もN先生がすっかりノッてくれたので相当マニアックな競輪の話をしてしまいました。
競輪は9人で行う自転車競技で地域や競輪学校の学年などでラインと呼ばれるチームで協力し合って戦う競技です。ラインの先頭は自力型といい、二番手、三番手と続きます。自転車競技の最大の敵は風ですので当然自力型は一番大変で若く脚力のある選手が中心です。自力型は先行や捲りなど自分で戦法を選ぶ自由があります。つまり自分自身でレースを作ることができるので圧倒的に有利なはずです。しかし、必ずしも自力型が勝つわけではないのが競輪なのです。ちょっと前までの競輪は、若い自力型の後ろには怖い先輩がついていることが多かったのです。そのため、若い自力型は必死に逃げて怖い先輩を勝たせるレースをするのです。しかし、若手の自力型もずっとただ逃げるだけではありません。先輩の人間力を観察しているのです。その先輩の人間性が欠けていると判断すると自分のためのレースに切り替えます。競輪が人間関係の縮図といわれる原因です。また、八百長くさいと言われる原因かもしれません。
しかし、競輪界も変化を迎えました。オリンピックの正式競技になったのです。オリンピックではスピードが求められます。もう、ラインは必要なくなりました。個々のトップスピードがすべての時代が来たのです。僕の大好きだった人間臭く、時に八百長くささを感じる競輪はKEIRINという自転車競技に生まれ変わったのです。そして、競輪クイズで準優勝し賞金30万円、香港ペア旅行を獲得したり、そこそこ人気のあった競輪のホームページを主宰していたほどの僕の競輪熱は急激に冷めたのです。
それから十数年経過し、夏の休日には家族で信濃川沿いをドライブしながら野積で海水浴をし、少しだけ弥彦競輪に行くようになりました。弥彦神社の神々しい雰囲気のすぐ隣で、欲望にあふれた人たちはまばらな競輪場で、蝉の声を聴きながら目の前を過ぎる車輪の乾いた音を聞いていると、競輪でもKEIRINでもどちらでもよいと思えるようになりました。
競輪と総合診療をむりやり関連付ければ、総合診療は少なくとも自力型ではありません。主人公にはなれないけれども、自力型(各専門科)と密に連携し良好な信頼関係を築いていくことが大切だと思っています。今後ともよろしくお願いいたします。
医療メディエーター
先日、新潟県医師会から医療メディエーターやコンフリクト・マネージメントに関する研修会のご案内が届いたと存じます。耳慣れない片仮名ばかりですが、医療メディエーターは平成24年から、患者サポート体制充実加算として診療報酬に反映されている職種です。
コンフリクトの本来の意味は、意見や利害の葛藤や矛盾であり、日本ではあまり肯定的な意味では使用されません。しかし、コンフリクトのない均一な組織や社会は、流動性が低く変化に対応できず進歩が期待できません。そこでコンフリクトを上手くマネージすることによって、組織や個人に好ましい変化を導こうとする手法をコンフリクト・マネージメントと称しています。意見や立場の異なる両者が対処する態度として、競争的・受容的・回避的・妥協的・協調的の5モードに分類されています。これらの中で、協調的に相互の立場を尊重し協力しながら事態の解決を図る態度が、双方にとって最も生産的な対処です。そのため、通常コンフリクト・マネージメントとは、協調的な問題解決の手法を示します。
当初はビジネスモデルとして発展した手法ですが、近年の医療界においては主に患者と医療者等が不幸にして対立する関係になった場合に、活用されています。
その際患者と医療者の橋渡し役として、相互の関係改善を進めながら両者の協働を目指すのが医療メディエーターです。そのために医療メディエーターは、事実認定や紛争処理の解決案の提示および苦情処理を行うことはしません。競争的や受容的、妥協的、回避的な解決を避けるために、中立な立場で両者の対話を促進します。対話によって当事者がお互いの立場や感情を受容し共感する供気づき僑に至り、それを通して相互の理解が深まる(=認知の齟齬を解消する)ように努めます。
医療メディエーターは国家資格ではありませんが、診療報酬算定には日本医療機能評価機構が認定した団体が主催する研修会の受講が求められています。日本医師会、都道府県医師会、行政や各種病院団体が様々な講習会を開催し、現在全国で約4千人の認定メディエーターがいます。その大半は病院の事務職や社会福祉士等で、医療職は全体の2割程度と少数です。
長岡市医師会にも市民や医療者からの様々な相談や苦情が昨年は24件寄せられ、事務局の広田千尋さんが対応しています。彼女は日本医療メディエーター協会認定の研修を最終段階まで終了した認定メディエーターです。医療コンフリクト・マネージメントは、医療者と患者や家族との間により良い医療を提供することを支援しています。興味のある方は是非彼女にお声がけいただければと思います。
ロマンチックな星や星座の物語ではない。NHKでも最近「日本人のおなまえっ!」という番組が人気をよんでいるので、星姓についてのあれこれを調べてみた。
「星」という名字は、森岡浩(日本姓氏研究者)によれば、全国順位では二百九十九位で、県別では福島県が十四位、宮城県では三十三位、新潟県では七十位、栃木県七十八位で、その他の県では百位にも入っていない。福島県では会津地方に圧倒的に多く、南会津郡の各市町村で一番多い名字となっている。星姓のルーツは、福島県でも秘境の奥会津の尾瀬沼の入口の桧枝岐であると言われている。ここでは星姓と平野、橘の三姓しかない。昭和四十三年では全村百五十戸のうち、星姓六十三戸、平野六十二戸、橘十七戸、その他八戸であったが、最近は星姓が増加しているらしい。桧枝岐の星姓の古い記録に星家に伝わる「家宝記」がある。それによると、平安時代に紀伊国牟婁郡星の里(現在の田辺市細野)かむろごおりら桧枝岐に移住してきた藤原氏が、星姓を名乗ったと言われている。藤原姓が桧枝岐に現存しないのは、罪を逃れて隠遁の身で、郷里の「星」を姓としたものと思われる。中世になり、奥会津の中心の田島に長沼氏が鴫山城を築き統治した。長沼家四天王と言われた星、湯田、渡部、室井家が家老職に就いた。このようなことから南会津一帯に星姓が広まったのではないかと考える。小生が育った南会津郡田島町大字田部集落では、約六十戸のうち半数は星姓で、他の半数は湯田姓、他に渡部、小林、佐藤が各一戸ずつであった。江戸時代は武士以外でも名字を持ってはいたが、名乗ることは許されなかった。明治四年に戸籍法が制定された際に一斉に名字を名乗ったのではないかと思われる。
先にも記したが、新潟県の星姓は七十位であるが、湯之谷村では二十四%で最多姓であり、小出町では四位である。湯之谷村は福島県南会津郡と接しており、小出町は江戸時代は会津領であった。会津でも新潟でも星姓は割合ポピュラーだが、関西以西ではほとんど見られない姓なのでロマンチックに感じられるらしい。星姓の有名人は、星薬科大学を創立した福島県出身の星一(はじめ)で、戦後第一回参議院選挙で全国区からトップ当選を果たした。その長男がSF作家の星新一(本名・親一)である。明治時代の政治家・星亨は逓信相、衆議院議員(政友会)。明治大正期の東北アジア研究家・星武雄は会津若松出身。昭和後期の版画家・星襄一は魚沼出身。歴史作家・星亮一は宮城県出身。東宝映画女優・星由里子(本名・清水由里子)は東京都出身。NEWS23のキャスター星浩は白河市の出身である。
次のような星の付く名字があるが、直接星姓から派生したものではないと思われる。星合、星岩、星加、星川、星子(熊本に多い)、星崎、星沢(北海道に多い)、星島(岡山に多い)、星田、星谷、星出、星名、星原、星見、星宮、星村、星屋、星山、大星、金星、保志などなど。星に関連した特別な姓に、星野姓がある。これは全国順位百五十九位、新潟県でも二十一位で星姓よりずっとメジャーである。群馬県と新潟県の中越地方に多い。旧山古志では人口の一割を越し、旧川口町では一割弱を占め最多である。星野姓のルーツは筑後国生葉郡星野村(現・福岡県八いくはぐん女郡星野村)と言われている。星野姓はメジャーなだけに著名人も多い。
ところで、明治二十三年に長岡で大平与文次により刊行された「温古の栞」によると、長岡地域で「大平家連合懇親会」を八十余名の参加を得て行っている。それに倣って「星家連合懇親会」を企画してみたい。