長岡市医師会たより No.455 2018.2


もくじ

 表紙絵 「雪止む」 丸岡 稔(丸岡医院)
 「ドクターヘリがやってきた」 江部克也(長岡赤十字病院)
 「新年ボウリング大会優勝記」 明石明夫(健康医学予防協会長岡健康管理センター)
 「新年麻雀大会優勝記」 吉川明(長岡中央綜合病院)
 「新年囲碁大会の報告」 斎藤古志(さいとう医院)
 「第1回新春将棋大会優勝記」 高橋利幸(長岡中央綜合病院)
 「平成30年新年会」編集部
 「蛍の瓦版〜その39」 理事 児玉伸子(こしじ医院)
 「巻末エッセイ〜風邪の神送り」 郡司哲己(長岡中央綜合病院)



「雪止む」 丸岡 稔(丸岡医院)


ドクターヘリがやってきた 江部克也(長岡赤十字病院)

 平成29年3月、長岡にドクターヘリ(以下「ドクヘリ」と略)がやって来てからまもなく1年になろうとしています。
 平成24年秋に配備された新潟県のドクヘリ1号機(新潟県東部ドクターヘリ、通称:新潟ドクヘリ)に次いで、新潟県2機目のドクヘリです。正式名称は新潟県西部ドクターヘリで、普段は通称の「長岡ドクヘリ」と呼んでいます。
 長野・青森など面積の大きな県では、ドクヘリを複数機運用させています。新潟県では、新潟市から糸魚川地域までの飛行時間は約50分かかりますので、新潟ドクヘリを配備しても、上越地域では、ドクヘリの運用はなかなか実用的なものとはなりませんでした。最初にドクヘリの導入を決めた前知事の泉田さんは、早くから2機目の必要性を考えておられたようで、平成25年秋には当院を訪問し、2機目の基地病院は是非日赤病院でやってほしいと話していかれました。
 長岡ドクヘリの機体は、レオナルド社のAW109という、日本のドクヘリとしては全国で6機しかないレアものです。同じタイプで大型のものは新潟県の防災ヘリなどにも採用されている、信頼のおける機体です。スマートな機体で速度が速いなどの特徴があります。長岡は新潟県の真ん中にありますので、新潟県全域を20数分でカバーすることができます。
 ヘリポートは以前から病院裏にありましたが、隣接した場所に格納庫を建設しました。日中はいつでも飛び立てるように、ヘリポート上に駐機させています。ヘリポートは信濃川の土手の遊歩道と同じ高さになっているので、一部のマニアには、レアものの機体の絶好の撮影スポットとなっているようです。
 出動実績は、現在まで1日あたり約1件となっており、大きなトラブルもなく経過しています。興味深いのは、全体の約半数は長岡消防をはじめとする近隣地域からの要請であることです。これは、ドクヘリが単に搬送時間を短縮するだけのツールではなく、医療スタッフを直接現地に送り込んで医療を開始するメリットがあるということが徐々に受け入れられてきていることだと考えております。ただ、新潟ドクヘリの恩恵を受けにくかった上越・糸魚川地域からの要請が、残念なことに全体の10%以下と伸び悩んでいます。こちらの方は地道に実績と理解を積み重ねていくしかないと考えております。
 さて、ドクヘリには、運航スタッフとしてパイロット・整備士が、医療スタッフとして医師(フライトドクター)と看護師(フライトナース)の合計4名が搭乗します。
 整備士が乗り込むことで、パイロットが操縦に専念できるとされ、日本のドクヘリは飛行事故が少ないと考えられています。運航スタッフとしてはもう1名、運行管理を担当するCS(コミュニケーション・スペシャリスト)がいます。CSはヘリポート脇の運航管理室に勤務しており、消防からの要請や天候の情報をチェックしたりと、地上からの後方支援をはたしています。運航管理は静岡エアコミュータースという航空会社(親会社は新潟空港から名古屋便を飛ばしている富士ドリームエアライン=FDAです)から派遣されています。暖かい土地からの交代勤務ですので、今のところは雪かきなどを満喫しているようです。
 フライトドクターは、院内救急科から3名、院外医師として新潟大学・魚沼基幹病院・立川綜合病院・柏崎総合医療センターなどから派遣していただいています。これは、単に当院の人材不足というより、ドクヘリが新潟県の事業として、今後も連携して救急医療をすすめて行く、という各病院長のご理解の賜物であると感謝しています。フライトドクターとして参加することで、派遣元の病院における理解も深まり、双方でメリットがあると思うのですが、残念ながら、この点でも上越・糸魚川地域からの積極的な関わりはほとんどありません。
 フライトナースは、現在4名の少数精鋭で、全員が当院の看護師です。災害にも対応できるよう、全員が日本DMAT隊員資格も持っています。
 フライトドクター・フライトナースは、普段は救急外来で仕事をしていますが、CSに要請がはいると、携帯しているPHSに緊急呼び出しが鳴ります。ドラマならヘリまで全力疾走となりますが、滑って転倒することのないよう安全第一に行動しています。まずは迅速に離陸し、その後に傷病者情報が入ります。救急外来勤務の場合は、救急車到着までに疾患の予習をすることは可能ですが、ドクヘリでは、ぶっつけ本番です。私の5年前の初フライトでは、「猿と間違えられて散弾銃で撃たれた」との情報で、もともと循環器内科医であった者としては、少々うろたえたものでした。飛行中しばしの絶景を楽しむ(もちろん患者情報を聞き、対処をフライトナースと打ち合わせながらですターとして参加することで、派遣元の病院における理解も深まり、双方でメリットがあると思うのですが、残念ながら、この点でも上越・糸魚川地域からの積極的な関わりはほとんどありません。フライトナースは、現在4名の少数精鋭で、全員が当院の看護師です。災害にも対応できるよう、全員が日本DMAT隊員資格も持っています。フライトドクター・フライトナースは、普段は救急外来で仕事をしていますが、CSに要請がはいると、携帯しているPHSに緊急呼び出しが鳴ります。ドラマならヘリまで全力疾走となりますが、滑って転倒することのないよう安全第一に行動しています。まずは迅速に離陸し、その後に傷病者情報が入ります。救急外来勤務の場合は、救急車到着までに疾患の予習をすることは可能ですが、ドクヘリでは、ぶっつけ本番です。私の5年前の初フライトでは、「猿と間違えられて散弾銃で撃たれた」との情報で、もともと循環器内科医であった者としては、少々うろたえたものでした。
 飛行中しばしの絶景を楽しむ(もちろん患者情報を聞き、対処をフライトナースと打ち合わせながらですが)のも束の間、消防と連携して決定した場所に着陸します。現場から搬送されてきた患者と接触するという意味で、ランデブーポイントといいます。学校のグランドであることが多いですが、窓に子どもたちや先生方の顔が鈴なりになっているのはご愛敬です。ただ日本人は規律正しく、グランドに飛び出してくるようなことはありません。
 ランデブーポイントで患者さんと接触した後は、救急車内で患者さんを診察し、必要な救急処置を行います。もちろんドラマのような派手な処置ばかりではなく、静脈路確保(いわゆる点滴)など常識的な活動のみの場合も多いです。
 治療が終わったら、搬送先を決めます。患者さんのことを考え、よほどの重症でなければ、地元の病院に収容をお願いすることが多いです。搬送依頼先の看護師さんに病状を説明すると、「医師に代わりますね」と言われ、しばらくまたされた後、また初めから説明して、やっぱり断られる……。それだけで10分くらいが経過します。現場の救急隊の嘆きを感じるのはこのような時で、次の当直では、救急隊からの収容依頼には気持ちよく応じよう、と思わず考えてしまいます。
 搬送先が決まったところで、ヘリ内に搬入します。時には付き添いの家族も同乗します。同乗者はぴんぴんしていますので、興味津々で乗り込んできます。スマホ片手に上空からの写真を撮影、患者さんには見向きもしない……というのは若い女性に多いです。
 気苦労も多い仕事ですが、ヘリが関わることがなければ生還できなかったような患者さんが、助かって社会復帰している例も少しずつ増えてきています。今後も皆様のご理解ご支援をいただきながら、安全に留意し、ドクヘリ事業を進めていきたいと考えております。

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新年ボウリング大会優勝記〜19年ぶりの優勝   明石明夫(健康医学予防協会長岡健康管理センター)

 恒例の長岡市医師会新年レクリエーションのひとつ新年ボウリング大会が1月15日、台町のポップボウルで開催されました。
 この大会は昭和45年から毎年行われており、今年が第49回目とほぼ半世紀にわたる伝統のある大会です。
 月例のメジカルボウリングは月1回はほとんど出席しています。(昨年も皆勤賞でした。)
 以前は月例会の前に、週1回は練習していたのですが、最近はいつもぶっつけ本番の月例会参加なので、なかなかスペア・ストライクが取れず、ここ5年間4ゲームトータル150前後、今年度は1ゲームハンディキャップ39とかなりいっぱいもらっておりますが、いかんせん練習不足で、イージーなスペアミスも多く、なかなか好成績をあげられません。しかし昨年の月例会は皆勤賞、アベレージアップ、2月、8月の1位もあり、15名中3位と良い結果でした。しかし10月以後は3回連続1011位、特に12月例会は4ゲームトータル481という最悪の成績だったので、今回の新年大会もただ参加するだけかなと思ってのスタート。メジカルボウリングは、1フレーム毎にレーンを替える方式なので、なかなか連続ストライクを取ることが難しく、レーンコンディションが隣り同士でも違ってくるので、簡単にスペアを取るのが大変なのです。
 案の定1投目が9本のオープンフレームとなり、ストライク1回、スペアも3回だけでトータル120と散々のスタートとなりました。しかし、2ゲーム目は159、3ゲーム目は172(ダブル1回)と徐々にスコアアップし、最終の4ゲーム目は、第9フレームのストライク(ちなみにファンデーションと言います。)から最終のテンフレームは、2投目がピンアクションでストライクとなる幸運にも恵まれ、パンチアウトでしめることができ、187というハイスコアー。1ゲームハンディキャップ39を加え4ゲームでトータル795の結果でした。
 他の先生方及び廣田さんはいまひとつ調子が上がらず、思いもかけなかったのですが、平成11年の新年大会以来19年ぶりに2回目の優勝となり新年早々満足感に浸ることができました。
 私は今年6月で満69歳になりますが、できるだけ健康寿命を保つべくこれからも毎月月例会に参加するつもりでおります。
 メジカルボウリングのメンバーは15名で、野村先生80歳(残念ながら昨年でリタイアとのこと)。続く古参の茨木先生が79歳、あとのメンバーも60代、50代の先生ばかりで、和気あいあいで楽しくやっておりますが、20代〜40代の若い先生方、とくに病院勤務の先生方の参加をお待ちしております。いっしょに月一度の楽しい時間を過ごしませんか!

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新年麻雀大会優勝記   吉川明(長岡中央綜合病院)

 平成30年1月3020日土午後2時より坂之上2の麻雀荘「トップ」にて、12名の選りすぐり(?)のメンバーによる恒例の新春麻雀大会が華々しく開催されました。その御氏名は成績表(※下に参加者のみ記載)に記された通りです。
 御覧の通り、はからずも優勝させて頂きました。結果的には児玉先生、佐藤先生に激しく追い上げられましたが何とか逃げ切った、と言った方がよいようです。
 そもそも今日の出場を決めたのは間際に頂いた事務の星さんからのご連絡でした。出席者が足りないとのことでしたし、小生も3月に院長を退任してから時間的、精神的に余裕ができたこともあり参加させて頂きました。かなり以前に1度参加したらしいのですが、ほとんど記憶にありませんのでほぼ初出場のようなものでした。
 学生時代から麻雀は大好きな上、学園紛争真只中でよく授業が休講したこともあり、主義主張(?)を同じくするノンポリ同志が集まり部活の時間が来るまでよく麻雀をしたものでした。当時はかなり勝率が高く、一目置かれていた存在でした。ところが社会人になってからはあまりパッとしません。今まで様々な麻雀大会に出ましたが上位に入った記憶が全くありません。
 そんなことで優勝など縁が無いものと思いながらも大会が始まってからは御多聞にもれずアルコールも同時進行しました。小生最近は物忘れもひどくなってきた上にアルコールにも弱くなり、出来上がり方が早くなってきました。1回戦が始まって間もなく、ほろ酔いの勢いで「今日の大会の優勝記は私が書きます。」とほざいた上、書き出しは「同伴の先生方の御協力を得て……」とします、などとやたら多弁だったようです。周りの先生方からは相当顰蹙を買ったものと想像するに難くありません。赤面の至りであります。
 ともあれ、麻雀大会での優勝は全く記憶にありませんので大変感激しています。囲碁や将棋は実力通りの結果が出ることが多いようですが麻雀は運7割実力3割と言われています。どなたでも勝つチャンスがあるということですので、是非多くの先生方のご参加をお願い致します。
 今度参加する際には「飲んでも言うな、言うなら飲むな」の標語を胸に刻んで臨みたいと思います。

※参加者(敬称略):吉川明、児玉伸子、佐藤一範、新国恵也、田中政春、高橋暁、樋口賢太郎、丸山直樹、渡辺庄治、田村隆美、小林徹、須田義裕

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新年囲碁大会の報告   斎藤古志(さいとう医院)

 今回の参加者は次の8名です。(50音順・敬称略)太田裕 大塚武司 小林矩明 齋藤古志 新保俊光 三間孝雄 柳京三 山本和男
 アミダクジで対戦相手を決めました。初戦で太田先生の見損じに助けられたのを弾みに優勝しました。
 尚、準優勝は2勝者3名だったためにスイスルールを適用して柳先生に決定しました。
 恒例の感想文提出を仰せ付かりましたが気の利いた話題は思い浮かびませんので、『囲棊十訣(いきじっけつ)』を紹介させていただきます。囲碁を嗜む人なら一度は読んだことがあると思われますが、改めて読み返すと中々含蓄に富んでいると思います。
 囲碁ライターとして活躍している秋山賢司氏(ペンネーム春秋子)の著書『碁のうた碁のこころ』から引用しました。(2004年刊)
 同書によれば囲棊十訣は1300年前頃、唐の時代、玄宗皇帝に仕えた碁の名人、玉積薪という人の作とのこと。囲碁の心得です。
 十訣と( )内の読み方は同書から引用し、私の勝手な解釈をつけました。違っていたらご容赦ください。

不得貧勝 「貧(むさぼ)れば勝を得ず」
  大勝を目論んではいけないという戒めです。これでよく失敗。

入界宜緩 「界(かい)に入りては宜しく緩なるべし」
  界とは相手の模様や勢力圏のこと、相手の強い所では無理しないで軽く打つ方が良い。

攻彼顧我 「彼を攻めるには我を顧みる」
  これは解説の要なし。

棄子争先 「子(し)を棄(す)てて先を争う」しす
  子とは石のこと、捨て石を使って先手を取る。

捨小就大 「小を捨て大に就(つ)く」
  読んで字の如しだが、大小の判断は難しいのが現実です。

逢危須棄 「危(あや)うきに逢えば須らく棄つべし」
 危ない石はすべて捨てた方が良い。弱石をもがくのは悪い。

慎勿軽速 「慎みて軽速なるなかれ」
  良く考えて、手拍子やポカを打たないように。

動須相応 「動かば須らく相(あい)応ずべし」
 相手が何かやって来たら必ず応対すべき。これは全面的に賛同はできないかな。手抜きが良いときもありますよね。

彼強自保 「彼強ければ自ら保つ」
  相手の優勢な所ではしっかり眼形を確かめる。殺されぬように。

勢孤取和 「勢孤なれば和を取る」
  彼強自保とよく似ていますが、自分の石が孤立した時は戦いを起こさず穏やかな分れを目指す。たとえば早生き、振替わりなど。

 私達アマチュアは、石を取りたい、捨てたくない、大勝をしたい、自分の足元を見ず、また逆に理由もなく恐れたりと心が安定しません。時には十訣を思い起こして自分を振り返ってみようと思います。

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第1回新春将棋大会優勝記   高橋利幸(長岡中央綜合病院)

 今回、長岡市医師会で、幹事の窪田久先生、玉木満智雄先生のご尽力により、第1回の将棋大会が、1月26日に魚藤で開催されました。
 将棋の用語が、多々でてきますので、将棋に興味がない先生は、読み飛ばしていただければと思います。
 参加者は、幹事の窪田先生、玉木先生、大塚武司先生、福居憲和先生、長岡西病院の宮本二一先生、福居和人先生、津川病院の原勝人先生、長岡中央綜合病院の高橋正明先生、松井俊晴先生、長岡中央綜合病院内の床屋の高野幸雄さん、自分の11名でした。本会会員以外からおよび他職種とオープンな大会でした。
 大会は、スイス方式で、4回対局しました。勝利すると1回戦は10点、2回戦は9点、3回戦は8点、4回戦は7点が得られ、合計点が多い人が優勝です。対戦相手は、1回戦は全員の抽選で決めます。2回戦以後は、得点が近い人同士で抽選を行い、決定します。
 戦前の予想は、幹事でアマ三段の玉木先生、窪田先生、松井先生が優勝候補でした。自分は、大学院生の時に新潟日報の入段戦で、優勝し初段を獲得しましたが、以後、万年の初段です。近年は、大会に出場しても一番下のクラスで、小学生に負けてしまうなどさっぱりでした。現在は、新聞、ネット観戦や、新潟で開催されるタイトル戦を観に行く「観る将棋ファン」です。
 1回戦は、原先生でした。先手で、矢倉囲いにしました。一抹の不安がありました。昨年、プロ棋士の間で、「矢倉は終わった。」と言われていました。その一因の対矢倉の急戦でこられ、「強い!医師会の将棋大会レベル高い。」と、思いました。角と金銀の2枚替えになり、自玉が丸裸になり劣勢となりました。「好事魔多し」で、原先生が、攻撃に専念しすぎ、自玉付近にと金ができるのをうっかりして逆転することができました。2局目は、高橋先生で、振り飛車党でした。今回も先手でした。穴熊囲いに組め、自玉は安全になりましたが、馬を作られ、攻撃困難で、完封されそうになりました。ただ、一瞬のスキで、その馬と飛車を交換し、王手桂取りが決まり、攻めがつながりました。最後は、猛追されましたが、丁度、詰みがあり勝利しました。3回戦は、松井先生でした。この時点で、2連勝は、玉木先生、松井先生、自分の3人でした。2回戦で、窪田先生と玉木先生の対局があり、窪田先生が敗退しました。またも先手で相矢倉になりました。途中で、高橋正明先生と対局の玉木先生が王手をうっかりし敗れる波乱が起きました。そして、自分か松井先生の勝者が優勝という状況になりました。銀交換で角がさばけ、指しやすさを感じました。しかし、丁寧に受けられ、銀をそっぽに打たなければならず、攻めが遅くなりました。すかさず、反撃にあい、飛車を銀と交換させられ劣勢なりました。決め手を与えず粘りにでたところ、そっぽに打った銀(成銀)が、攻撃に使え勝負形に持ち込めました。最後、松井先生が攻め合いでなく、受けにまわったおかげで、自分の攻めがぎりぎりつながり、ぴったし詰みもあり勝利し、優勝しました。4回戦は、宮本先生でした。優勝で、油断したわけではないですが、するどい攻めに反撃もできずあっさり敗れました。勝利した3局はすべて逆転で、4回戦では敗北したように、実力伯仲だったと思います。4局すべて先手で主導権を握れる運にも恵まれ、藤井六段流に「望外」の結果で優勝できました。
 自分は、最強の羽生世代で、小学の頃は、プロ棋士を夢見ましたが、困難な道だったと思います。遠い存在に感じていた羽生先生に昨年、共感できたことがありました。永世七冠達成時に「自分は将棋の本質をわかっていない。」との発言です。自分は、なぜか20代のころ、10年で皮膚科を極められるではないかと勝手に思っていました。でも20年以上やりましたが、進めば進むほど、わからないことだらけです。皮膚科学の奥深さを感じます。今回、国民栄誉賞を取得する人でさえ、道半ばであることにホッとしました。ただ、羽生先生の座右の銘に「運命は勇者にほほえむ」ともあります。極めることは不可能でも立ち止まることなく、挑戦し進んで行ければと思います。
 最後に今大会の開催に尽力された幹事の両先生、医師会のスタッフに心より感謝を申し上げます。

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平成30年新年会   編集部

 平成30年新年会が、最強寒波による悪天候の中、平成30年1月24日水午後7時よりホテルニューオータニ長岡にて開催され、長岡市長 磯田達伸 様をはじめ来賓の方々8名にご臨席いただき、会員約80名が出席しました。
  長尾政之助会長の新年挨拶の後、来賓のご紹介、その後磯田市長様よりご挨拶をいただき、長岡市議会 丸山勝総 議長様の乾杯のご発声にて開宴となり、しばし歓談の後、盛会裡のうちに長岡歯科医師会 大竹正人 会長様の万歳三唱にて閉会となりました。

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蛍の瓦版〜その39   理事 児玉伸子(こしじ医院)

 救急医療電話相談(#7119)

 昨年の12月1日から、新潟県民を対象に、“救急医療電話相談” が開始されました。夜間の急病や怪我に対しすぐに救急車を要請するべきか迷ったときに、救急受診の必要性や対処方法について電話で助言します。小児を対象とした同様のサービスは、平成17年1712月から開始され月平均750件程度の利用がありました。
 この制度は新潟県と政令指定都市である新潟市が共同で、総務省の補助事業を活用し、全国では11番目に導入したものです。総務省では、全国の救急出動回数と救急隊の搬送所要時間が漸増していることから、救急車を適正に利用するための電話相談の活用を目指しています。“救急安心センター事業(#7119)” と名づけられ、平成19年最初に東京都で導入され、全国に展開しています。なお#7119はプッシュ回線や携帯電話から、#119のように相談窓口へ直接通じる番号のことです(小児は#8000)。
 総務省の統計によると、電話相談のうち救急搬送要請を勧められたものは全体の格程度で、救急安心センター事業導入後は救急車による軽症者の搬送数が減少したそうです。
 自治体によっては、相談の対応時間やコールセンターの運営母体は様々で、#7119で対応していない地域もあります。新潟県では、夜間19時から翌朝8時までに限り、東京のコールセンターが対応しています。そこでは看護師と医師が対応し、総務省消防庁 “緊急度判定プロトコール” に準拠しながら、患者の状態に応じて助言します。東京で対応しているため、具体的な病院名を助言することはなく、内容は一般論に限定されます。
 長岡地区では3病院による救急の輪番制度が良く機能し、救急要請から病院への搬送までの時間は全国平均を下回ります。昨年度の長岡市消防本部の資料によると、救急出動件数は10529件および搬送人数は9863人あり、やはり漸増しています。病院の先生方や職員の皆様のご苦労のお陰で、95%の方は輪番体制の3病院へ搬送され、市外へ搬送された方は1.5%に過ぎません。その他に見附市や小千谷市等の市外からも年間2千人近い方が、長岡市内へ救急搬送されています。
 先日新潟県から診療所へ “救急医療電話相談” に関する配布用のパンフレットが送付されております。地域の救急医療資源の確保のためにも、電話相談の活用をよろしくお願いします。

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巻末エッセイ〜風邪の神送り 郡司哲己(長岡中央綜合病院)

 研修セミナーのため上京したついでに、ひさしぶりに大好きな落語を聞こうと寄席をのぞきました。

 通常の演目はおおかたは幾度も聞き慣れたものばかりです。イントロにあたる枕話も定型ありで、少し聞けば、ああこれから「親子酒」が始まるとかわかるもんです。
 ところがその日、桂文雀という若手の落語家が聞いたことのないめずらしいネタをかけました。

 江戸時代の風習ですが、「風邪の神送り」というのが民間で行われたそうです。はやり風邪でも命を落とす人が多かった時代ですから、悪性の風邪がはやると「風邪の神送り」という臨時の行事を流行の鎮静を祈願して行ったようです。
 町内に奉加帳を回して寄付金を募り、その町衆のお金と人手で「風邪の神」の人形を作り、鐘や太鼓で囃し立てながら隣の町や村の境まで送っていくのです。最後は川や海へ流してしまうのです。
 その際の賑やかな囃したてが……「送れ送れ、風邪の神、送れ、どんどと送れ」と町衆一同で人形を海に放り込もうとします。
 そこになんとぽそりと、
「お名残り惜しい。」という奴がおりました。
「けしからん奴だ、誰だ?」と捕まえて顔を見たら、なんと町内の薬屋の若旦那……。

 なおこの落語のオチ部分は、薬屋でなく、藪医者というバージョンもあるそうです。「風邪の神送り」初めて聞いた言葉でした。
 調べてみると『日本国語大辞典』には以下の記載があります。
  「かぜのかみおくり」江戸時代、風邪が流行した時行ったまじないの一種。風の神に見たてた人形を作って、鉦や太鼓ではやしたてて風邪を追い払う。雑排「藪医者の頭痛は風の神送り」。

 かつて人々は様々な災厄から逃れるために、それらを統御する神さまを想定し、それを宥めて身の回りや共同体から排除する儀礼を行いました。疫病や天災は、外界より訪れる悪しき神さまによるものと考えていたからです。災いをもたらした悪しきモノを、人形に託して、共同体の外の異界へと送り出す(むしろ送り返す)のです。この儀礼は民族学では「人形送り」とか「神送り」とか、呼ばれるそうです。

 さて風邪といえば、折からインフルエンザはA型とB型が入り混じり、全国で猛威をふるい、県内でも大流行中であります。まさに風邪の神のせいにでもしたいような有様です。
 この2月上旬の全国規模でのインフルエンザの流行は、国内で感染症の定点観測システムが始まって以来の大流行だそうです。
 これはA型とB型が同時に流行したからと解釈されております。つまり例年はA型の流行が12月から2月で終息し、3月から4月になってB型が流行のパターンが原則だったのです。
 今シーズンは当地でも1月から2月でインフルエンザB型がどんどん増加し、はるかにA型罹患者数を上回りました。
 また近年にない大寒波と大雪に日本列島が見舞われております。雪国育ちの自分でも、連日でこんなに雪がつもるのは初めてというレベル。
 できるものなら、「風邪の神」とそちら方面に関係のある神さまがたも全部まとめて「神送り」で国の外へ送り出したいものです。

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