長岡市医師会たより No.529 2024.4


もくじ

 表紙 「魚沼早春」 丸岡 稔(丸岡医院)
 「移転後の近況」 齋藤 修(耳鼻咽喉科斎藤医院)
 「閉居罰」 齋藤良司
 「少年老い易く(その4)」 三宅 仁(悠遊健康村病院)
 「近江八景巡り」 武田さち江
 「巻末エッセイ〜W先生」 江部佑輔(江部医院)



「魚沼早春」  丸岡 稔(丸岡医院)


移転後の近況 齋藤 修(耳鼻咽喉科斎藤医院)

 医院を移転して今年の5月で2年になります。医院移転後の困った事、自分の趣味について書きます。移転当時は、診療器具の移送、診療機器の配置、医療コードの変更など、様々な作業に追われ大変でしたが、診療を始めてみて、新たな問題に直面しました。一つは外に設置した患者さんの車椅子が通れるスロープ、屋根がないため1年前の大雪ではスロープが雪で埋まって使えなくなりました。代わりに患者出入り口の階段に簡易スロープを設置しましたが、表面の凍結で滑って危ないため数日で撤去。結局元のスロープの雪をどける作業となった事。
 もう一つは駐車場の問題。
 患者さんの駐車場スペースは、当初院内10台と薬局3台の13台がとめられましたが、駐車できない問い合わせ、そのため路駐する車が増え、隣人の方から迷惑していると苦情が度々ありました。スタッフ用に借りていた医院裏の駐車場の台数を4台増設(これで17台)と、院内に隣人の敷地内に立ち入らない・路駐できない文面の看板も設置。今もその状況は続いていて駐車場が足りてない状況です。当院は予約制でなく来院順で診ているのも駐車スペースが足りなくなる原因かも知れません。
 最近は、自宅からあまり出かけることが少なくなりました。自宅の居心地が良いからと言う理由でなく、単に出かけることが面倒になった為です。余った時間は観葉植物の世話をしています。きっかけは運気が良くなる植物を置く目的でしたが、趣味に転じ今では、狭い自分の書斎が植物だらけになっています。本棚から本を取り出す時、衣類収納のドアを開ける際に植物を動かさないといけない有様です。バキラ、ガジュマルから始め、モンステラ、フィロデンドロンオレンジプリンセス、ピンクプリンセス、アガペチタノタブラック&ブルーなどが増えました。オレンジプリンセス、ピンクプリンセスはモンステラの仲間で葉っぱにオレンジ、ピンクの斑が成長とともに入り綺麗ですし、アガペチタノタブラック&ブルーは、サボテンですが鋸歯が通常の白でなく黒いのが特徴でお気に入りの一つです。モンステラは支柱を立てないと大きくなった葉っぱの重みで茎が折れることがあるのと、つる性植物で横に広がり地面を這うようになります。見栄えが悪くなります。茎の下の方から出る気根の所に猫の登り棒(支柱の名前)を立てて気根の成長を促し自分の気根で支えられるようにすると横に広がらず上に伸びてくれるようです。暇を見てネットやユーチューブで知識を習得している毎日です。
 写真は令和5年の夏コロナが5類になった後、台湾旅行に行った際のものです。
 @一つは彰化県九龍の野生に自生したガジュマル、Aもう一つは鹿港(ルーカン)天后宮の宮(日本で言う神社)
 日本の沖縄では、ガジュマルにキジムナーと呼ばれる精霊が宿ると言われています。

写真@

写真A

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閉居罰 齋藤良司

 高齢になると出会いの挨拶は何時の間にか天気の話から「毎日何しているの」と生活内容に変わってくる。然し中々適当な返事が素早く出てこない。少し仕事をして、少し新聞を読み、テレビを見てそれから……
 もはや十年先のことには興味もないし、頭も回らない。思いは常に過去にむかう。過去に想いを巡らすことは老人の心の琴線を揺らし、フェロモンのようなものを出す力があるのかも知れない。スマホで明治、大正、昭和の演歌、寮歌、軍歌、歌謡曲を聞きながら、さまざまの視点から見た歴史の裏話の本を読む時間が増えた。これが不思議と心を癒す時間となっている。そして歴史の裏舞台であの時あんな事があったのかと驚かされることが少なくない。
 最近新聞で名古屋拘置所の問題に関連して、日本の刑務所内の受刑者になお閉居罰なる罰則があり、この度、法務省の第三者委員会は刑務所内の暴行を含む受刑者の罰則を無くすべく、防止策を提言したとの記事が目についた。この閉居罰という言葉から吉村昭の『赤い人』を思い出し、読みかえしてみた。
 明治十四年、赤色の衣服を着せられ、二人ずつ両手、両足を鉄鎖で繋がれた四十人の終身懲役囚が行く先を知らせられないまま、東京小菅村の東京集治監から北海道石狩川上流の須倍都太(すべつぶと)に新しく作られた樺戸集治監へ移送される話で始まる。
 北海道の蝦夷地で明治十四年から大正八年まで約四十年間のこの集治監での懲役囚とその監視官との凄まじい戦いの歴史を描いた作品である。懲役囚達は死と隣り合わせで未開の蝦夷地開発の労務に使役させられた。集治監内には脱走はじめ多く不祥事が頻発し、これに対し監獄罰則規定が作られた。その中に閉居罰に似た暗室罰や?禁室罰があった。暗室罰は半坪の暗室で食事も三分の一に減らされ、七昼夜過ごさねばならない。
 閉居罰と聞くと此の暗室罰を連想し、こうした看守と囚人の間の四十年余の鬱積した怨念が現在の監獄内の罰則に閉居罰として残って居るのではないかと思えてくる。これは根の深い問題と思えてくる。
 明治初期、世間が華やかな文明開化に浮かれていた頃、その裏で明治新政府は西南戦争後激増した浪士、凶悪犯、国事犯、軍事犯の集治処理、拡大する軍事費、急がれる北海道蝦夷地の開発など多くの難問を抱えて苦慮していた。これを一石三鳥に解決する方法が北海道の須倍都太をはじめ数か所に集治監を建設し、懲役囚を無償で蝦夷地の開発に使役させることであった。時には軍役にも徴用したとのこと。
 吉村昭は歴史記録文学者と呼ばれるほどで、この集治監にまつわる史実を極めて忠実に細かく描出している。私の読後感では彼は明治政府のやり方を揶揄批判し、彼の心情はいつも死に纏わりつかれている懲役囚側にあったように思われる。そして文中に五寸釘の寅吉や稲妻小僧、あるいは偽札犯の熊坂長庵、ニコライ皇太子を襲った津田三蔵の話など織り交ぜ、囚人たちの心の叫びを聞き取ろうとしている。そんな吉村の心を思い描いていると、何時しか窓辺には夕闇が迫っていた。
 大学の同級生の半数以上とは既に幽明境を異にしている。もう数年来珊瑚会(同級会)の連絡はない。今更みんなで会っても話す話題もないだろうが、黙って盃を上げ、顔合わせ、肩を叩きあうだけでもよいではないか。時々そんな気持ちが不意に襲ってくる。
 昔を偲んでいたらいつしか、吉村昭の『赤い人』の拙い感想文のようになってしまった。乞うお許しを。

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少年老い易く(その4) 三宅 仁(悠遊健康村病院)

 4 PDP8とAH臨床応用

 話を急ぐ。いろいろ失敗談もある。研究施設共有のコンピュータであるPDP8というミニコンピュータ(当時のお金で1千万円以上。性能は今のスマホの千分の1以下。)をさわっていたら、ある日動かなくなった。ただし、ハードを壊したわけでなく、ソフト部分を壊したのだとあとで知った。最初は頭が真っ白になったが、お蔭でコンピュータの仕組み(ハードとソフトの違い、特にOS)の理解が良くできた。
 1980年5月、日本で最初の人工心臓(AH)臨床応用が三井記念病院で行われた。今でいう左心補助(左心バイパス)である。我々下っ端には何も知らされず、しかもかなり急な臨床サイドからの依頼であったように思うが、マスコミを賑わすことになり、こちらも肝を冷やした。
 ほかにも思い出深いイヨウデンシであったが、まだまだ青い若者≠ヘ晴れて赤門から長岡に向かって旅立った。

 5 NUTHCC

 長岡技術科学大学(NUT)とは名前の通り工学系の単科大学であり、戦後の学制の小中高大というコースから外れた唯一といってよい中学から入る高校と短大が合併したような工業高等専門学校の卒業生を受け入れる大学(新入生は3年生となる)であり、2年間の大学教育を経て、さらに大学院修士課程の2年間(合計4年間)を過ごすことを標準とした大学院大学である。工業高校の卒業生を想定した学部1年からのコースもある。この仕組みに慣れるだけでも大変であり、ましてや第3者に説明するときはとても大変であった。その大学の医師(当初は体育・保健センター(いわゆるホケカンHCC)の学校医で、後には産業医も兼任)として表向き採用されたと思ったが、実は一教員としてであり、教育・研究(+雑用(会議が主))もやらねばならなかった。後に独法化(国立大学法人)となってからはそれがさらに追い打ちを掛けた。

 6 自殺と心理工学

 着任2年目か3年目の春の土曜日午後だったと思う。この頃はまだ半ドンの時代である(半ドンすら知らない方もおられるかもしれない)。研究室でぶらぶらしていたら、学生が青い顔をして友人が首をつっていると飛び込んできた。若い人はこんなに簡単に死ぬのだというのが素直な感想であった。大学保健管理センターの仕事は結核管理だと思っていたら、時代は変わり、自殺対策が主眼となっていた。これは40年前の話であるが、現在も変わっていない。若い学生だけでなく、産業医としても教職員のうつ・ストレス対策は年を追う毎に進んでおり(裏を返せばより深刻になっている)、今や働き方改革として医療関係者を含む全労働者の問題となっているのはご存知の通りである。この基本は普段(不断)のストレス対策、労働環境改善、ハラスメント防止などであろう。最終講義の題目ともしたが、from artificial heart to mind≠ニしてメンタルヘルス対策が重要な仕事となったので全国大学メンタルヘルス協議会(文部科学省後援)の北関東地区大会や全国大学メンタルヘルス研究会(現同学会)を主催したこともある。蛇足であるが、mindの医用工学的アプローチとして「心理工学」を提唱した。全く不完全なものであったが、現在のVRやARにつながり、サイボーグや人工知能まで視野に入れた医工融合の新しい地平である。最近の若い医師は生体情報と医療情報をICT機器で結びつけ、起業するのが一種流行とのこと。ただ、昨今人工知能など情報処理部分(ヒトでいえば脳神経系)のみが注目され、駆動系(筋骨格系)やセンサー(感覚器)の研究が遅れている。(続く)

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近江八景巡り 武田さち江

 奈良や京都に比して影のうすい滋賀県へ行ってみました。近江八景・竹生島巡りです。近江八景とは、中国湖南省洞庭湖の八景に因んで平安後期(室町時代とも言われていますが)に選ばれた八景です。その後江戸時代広重の風景画によってブレイク。超マイナーな観光地ですが因んだ唄を添えて紹介させていただきます。

 @粟津の晴嵐[波の粟津の波はれて、千舟百船打ち出の]:広大な松林の枝葉が強風にざわめくのが趣よしと。現在は湖の埋め立てで全く面影なし。復活を祈念して植樹中。木曽義仲終焉の地でもあるそうです。

 A矢橋の帰帆[浜をあとなる追風に真帆あげ、帰る矢走潟]:ここも都市計画で消滅。

 B瀬田の夕照[夕日さす浦々の景色を見つつ渡るには、瀬田の長橋ながからず]:瀬田川に架かる橋。壬申の乱や「鎌倉殿の十三人」の承久の乱で戦時の要所として紹介されました。夕日の頃に徒歩で渡りたいと希望してたどり着きました。ところが、片側一車線・長生橋の四分の一の長さの橋の一日通行車輌は一万二千台。車の流れは途絶えることなく、ひどい騒音でした。橋は全身銅の鋳物。散策はあきらめました。橋の近所の方は「現状のままの橋の保存運動をしている」とのことです。歴史的建造物保存も難しいな、と思わされました。

 C三井の晩鐘[三井寺の入相告ぐる鐘の聲]:当然撞いてみました。「他のお寺の音とのちがいがわかる?」「わからん」でした。来年は桜の季節に行きます。

 D比良の暮雪「比良の高嶺は白雪の]:長岡住人としては、雪は十二分です。

 E堅田の落雁[やや肌寒き浦風に、おつる堅田の雁がねも]:冬このあたりには多くの雁が飛来し、優雅に列をなして夕闇迫る湖上に舞い降りたそうです。小さなお寺・満月寺があります。竜宮城を連想させる楼門をくぐると、目の前には湖面に突き出た小さなお堂(浮御堂)。平安時代後期、湖上安全と衆生済度を祈願して建てられ、風情をそのまま残しているそうですが、鉄筋コンクリート製でした。ここも観光客は皆無。

 F石山秋月[照る月の影もさやけき石山や]:月見亭から眼下に瀬田川や琵琶湖を望みながら月見をしたと。石山寺から月を眺めた場合、天文学的には、広重の描いた位置に月は絶対出ないそうです。

 G唐崎の夜雨[夜半の時雨も唐崎の、松に千代の聲すなり]:唐崎神社には傘のように大きく枝を広げた松林があり、夜の雨がその上に注ぐ情景がいい。一本の高い木は天智天皇時代からの御霊木だと。また、「禊ぎ」→「御手洗団子」→「みたらし団子」になり、ここが発祥地。日当たりのいい湖畔のベンチに腰をかけて過ごしました。正面には近江富士・湖面にはヨットが一隻。大津京の頃はもっと多くの帆船が浮かんでいたのかな、と思いながら。

 H竹生島:彦根港からのルートで。小さな島には弁才天・竜神以外に二柱の神様がいました。「天」は仏様を守る武力実働隊と思っていましたが、「弁財天」とも書き「財」にも御利益ありと。期せずして日本三大弁財天(竹生島・厳島・江ノ島)に行ったことになりますが、未だ御利益は全くなしで、ジャンボ宝くじの賞金は三百円のみ。断崖に立つ拝所では、薄く軽いお皿に名前と願いことを書き投げましたが、願い成就ラインまで届きませんでした。

 I彦根城・玄宮楽々園:時間の余裕がありましたので立ち寄りました。広大な池泉回遊式庭園。全く知識のない者の感想ですが、兼六園よりも空間(?)が広くゆっくりと散策しました。

 J旅行の感想を主人に聞きました。「近江米はまずかったが、近江牛はうまかった」。

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巻末エッセイ〜W先生 江部佑輔(江部医院)

 W先生は中学剣道部の顧問であった。私は小学6年の秋から友人のMに誘われて剣道を始めた。千手小学校の体育館で夜行われていた自由参加の練習であった。私は背が高く、力もあったので、指導をしてくださるA先生にひたすら面打ちの練習をさせられた。A先生は剣術家然とした大柄な方で、その気迫に常に圧倒されていた。

 中学では剣道部に入りW先生の指導のもと毎日朝6時から練習が行われた。当時の南中学は一学年9クラスのマンモス校で、体育館は狭く、夕方の練習だとスペースが確保できないため、剣道部の練習は専ら朝に行われた。W先生自身はまったく剣道をしたことがなく、一度も防具をつけて指導する姿を見ることはなかった。ただ、先生は研究熱心で、書物や大学の剣道部に進んだ娘さんからも知識を吸収して、様々な練習法で我々を指導してくれた。先生は日々の学習や生活のことにも厳しかったが、それにも増して練習は厳しかった。年間休みは数日しかなかったし、定期考査の朝も練習した。冬休みも元旦以外は練習した。W先生は生徒だけではなく親に対しても厳しく接した。ただ、誰一人、親からも不平不満の声は上がらなかった。大雪が降った朝も我々よりも早く登校して、生徒のために玄関前の除雪をしてくれた。毎週末には練習試合に出かけたが、いつも先生が実家のニット会社のバンで送迎してくれた。その結果、秋の新人戦から夏の中越地区大会まで団体では1敗もしなかった。県総体では予選で県内最強校と対戦し完敗した。初めての敗戦であり、それが最後の試合になった。この試合先鋒であった私は、相手に圧倒されつづけ、防戦一方となり引き分けた。戻った私に先生は無言であった。試合の直後は少々不機嫌であったが、帰りの車中で先生は我々のことを労ってくれた。

 先生が我々を滅多に褒めることはなかったが、不器用で甘ったれの私はたまに褒められることもあった。子供たち個々の個性を解っていたんだなと思う。ただ、Mは違ったようだ。Mはずば抜けた運動神経と剣道の実績から、1年の秋からレギュラーメンバーになり、2年の秋からはキャプテンに選ばれた。私から見れば超が付くほどのエリート街道であった。ただ、3年の部活が終わったあとの謝恩会でMの母が私の母に「W先生のせいでうちの子は暗くなった」と伝えたそうだ。彼が私の数十倍もの重圧で辛い日々を過ごしていた事を知った。Mとコロナ禍前に数十年ぶりに再会してその時のことを語りあったが、当時は先生を恨んでいたこともあったそうだが、今は感謝の気持ちもあると聞いて少し安堵した。

 W先生とは意外な形で再会した。一度は私が当直のアルバイトに行っていたときで、先生の自宅が近くであることを偶々知ったため立ち寄った。先生は当時のことを嬉しそうに話してくれた。次は私が日赤に赴任後で、W先生の弟さんが肺癌で入院した時である。多臓器転移があり、高齢でもあり化学療法は1コースのみでその後はBSCとなった。その時、一度先生が面会に来られた。車いすに座り弱々しい姿になっていた。私の顔を見て怪訝な表情をするも言葉はなかった。弟さんが亡くなった日も来られたようだが、救外からの呼び出しも重なり先生に会うことはできなかった。

 私はW先生に褒めてもらったこともあったが、その数十倍も怒られた。校則を破ったとき、私は教務室に呼び出され、先生の右手にあった火のついたままのキセルで頭をたたかれた。さすがに手加減はあったが、たばこの火が目の前に散った。まさに目から火が出る思いであった。今の世であればありえないことであるが、その晩父母にそのことを伝えると、あんたが悪いんだから仕方ないといわれた。W先生の指導方針は、「練習は1時間だろうが、3時間だろうがそれは1回の練習に変わりない。だらだら長時間やるより短時間に集中して練習するほうが身につく」であった。W先生の指導で時に合点がいかないこともあったが、その教えは正しかったと信じている。W先生との出会いがあったからこそ今の私があると感謝している。

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