長岡市医師会たより No.530 2024.5


もくじ

 表紙絵 「新緑の中のばんえつ物語号(豊実駅付近)」 田辺洋之(長岡赤十字病院)
 「山梨大学生から新潟の開業医になるまで」 保川亮太(保川内科医院)
 「阿賀の里山でSLを撮りナメコを採っていた頃の話し」 田辺洋之(長岡赤十字病院)
 「母の教え」 小林眞紀子(前小林真紀子レディース・クリニック)
 「少年老い易く(その5)」 三宅 仁(悠遊健康村病院)
 「蛍の瓦版=i80)」 理事 児玉 伸子(こしじ医院)
 「巻末エッセイ〜気が付けば八十路(下三)」 星 榮一



「新緑の中のばんえつ物語号(豊実駅付近)」  田辺洋之(長岡赤十字病院)


山梨大学生から新潟の開業医になるまで 保川亮太(保川内科医院)

 2023年5月1日に、摂田屋町に内科医院として開業しました保川(やすかわ)と申します。出身は奈良県の葛城市というところで、他県で同じ苗字、同じ読み方をする人とは顔を合わせたことがなく、今でもときどき「ほかわ」や「たもつかわ」と呼ばれることがあります。卒業大学も山梨大学でしたので、縁もゆかりもない新潟で開業するようなことになるとは、奈良で浪人していたころには全く想像もできませんでした。
 出身大学である山梨大学の学生のころ、医療法人立川メディカルセンター理事長の吉井先生が講義をされておられ、立川綜合病院を知ることとなり、当初は心臓血管外科医に憧れを抱き、神田町にあった旧立川綜合病院で研修を開始しました。その中で、腎臓内科の青蜷謳カをはじめ、いろいろな方々からのご指導をいただき、腎臓内科医として仕事を始めることとなりました。新潟大学第二内科に入局後、県内の関連病院で研鑽を積み、最終的に小千谷総合病院、長岡中央綜合病院で勤務をしていたこともあり、長岡市の中でも小千谷市寄りの摂田屋町で開業することとなりました。
 私は腎臓内科を専門としてきましたので、新潟の腎臓内科医といえば、透析診療がまず専門の一つということになりますが、当院はそんな大掛かりな機器や人材もなく、腎臓内科と標榜しているものの、あまり専門性のない一般内科としてこの1年やってきました。ワクチンひとつとっても不慣れな点が多く、日々調べながら、またご教示いただける先生方にご相談をしながら、診療しております。これまで縁もゆかりもなかった新潟での開業でしたが、立川綜合病院や小千谷総合病院、長岡中央綜合病院で勤務をさせていただいたことがあったからこそ、現在もいろいろな方々にご指導いただきながら、なんとかこの1年、大きなトラブルもなく続けることができました。心より感謝申し上げます。
 当院はもともと、長岡健康管理センターの明石先生が明石医院として開業された、入院機能を有する2階建ての施設であったため、現時点での無床診療所の内科医院としては規模が大きく、2階はそのまま持て余している状況であり、今後どのようにしていくかを日々考えているところです。当院ホームページで謳っております通り、この地域のかかりつけ医となれるように頑張っていければと考えております。しかしながら、当院にかかりつけの方が急変することもあり、その際、日中夜間問わずご対応いただいている病院の先生方をはじめ、スタッフの方々には、改めてこの場を借りて心より感謝申し上げます。

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阿賀の里山でSLを撮りナメコを採っていた頃の話し 田辺洋之(長岡赤十字病院)

 中学、高校と蒸気機関車(以下SL)を追って日本中を旅していた。高校2年の春休み(昭和50年春)全廃間際の北海道で最後のSLを見送った時の強烈な喪失感は忘れられない。
 平成11年5月新津と会津若松間の磐越西線にSLが復活した。新津駅での初日の出発式(映画「ぽっぽや」で共演した高倉健と広末涼子が駆け付けた)を駅構内で見送り、汽笛の音を聴いたら溢れる涙を抑えられなかった。四半世紀ぶりに熱い想いが蘇り、その後SLの撮影に嵌ってしまった。
 SLの運転日は週末。朝9時過ぎに新潟の自宅を車で出発。先ず五泉や咲花付近で1回目の撮影、その後車で追っかけ、2回目を津川付近で撮影、その後更に福島県境の阿賀町豊実駅(放浪の画家山下清が降り立った駅らしい)付近まで走り3回目の撮影を行い、昼過ぎに帰路につくスケジュールだった。
 最後の豊実付近では山中に三脚を立て列車を待つことが多いのだが、この辺りが自然豊かな里山で、春の山野草、山菜、新緑、夏の川霧、秋の燃えるような紅葉、キノコ、時々姿を見せる野生動物(サル、カモシカ、オコジョなど)など、四季折々の楽しみがあり、徐々に里山の自然探索の比重が大きくなった。早春の日溜まりで見つける雪割り草やカタクリ、ヒトリシズカ等の春の妖精には心を癒されたし、時に採れる山の恵み(タラの芽やアケビの蔓、蕨など)を帰宅後に頂きながら飲むビールは格別だった。
 そんな事を続けていた平成20年晩秋、いつものように列車を見送った後、豊実の里山を歩いていると立ち枯れしたナラの幹にナメコの幼菌を見つけた。それまでも豊実の山では灰色シメジ、ムキタケなど(これらはそれほどうまいキノコではない)を採ったことはあったが、ナメコは初めてだった。ナメコはもっと深い山の恵みと思っていた。しかし目の前のキノコは形、色、ぬめり具合などどう見てもナメコである。まさかと思って山の中に入ってみると、あちこちの立ち枯れのナラの木にナメコが生えているではないか。木の根元から天に向かってびっしり生えているところもある。大きさはこれまで見たナメコの何倍もあり、大きいものは子供の握り拳位ある。驚いて車に戻りビニール袋を持って大量のナメコを収穫し自宅に戻った。気味悪がる妻や子を尻目に複数の図鑑で確認し、味見をしてみるとヌルヌル、コリコリした食感はまさにナメコそのもの。味や香りはスーパーの栽培物よりはるかに濃厚だった(用心深い妻は私の無事を確認し翌日から食べ出した)。ナメコ下ろし、みそ汁、そばの具等でも食べきれず、知り合いにもおすそ分けした。ゆでて瓶詰保存し正月のお雑煮にも入れて楽しんだ。
 それから数年、晩秋は豊実の山でナメコ採りに興じた。ナメコ以外にもヒラタケ、クリタケ、ナラタケ等も採れた。特大のツキヨタケ(毒茸)の群生は気味悪かったが、一度だけマイタケを見つけ一人で山の中で舞っていたこともあった。
 ところが5年程するとナメコが徐々に採れなくなった。同時にムキタケや目障りな程見かけたツキヨタケまでもがさっぱり生えなくなった。何が起こったのだろうと調べてみると、新潟県内でH16年頃からナラ枯れが広域発生したこと、そしてその後に枯れたナラの木にナメコ等の朽木に育つ菌類が大量発生したこと、更に枯れたナラの樹皮が剥がれるとキノコの発生が終わってしまうことを知った。私が何年間か出会えたナメコの大量発生はこのナラ枯れによりもたらされたものだった。同時期に魚沼など県内各地でも同じような現象があったらしい。
 そして更にその頃から県内で熊の出没が多くなり、山に入ることが怖くなってしまった。豊実の山で熊に出会ったことはなかったが、それらしき爪痕や猿やカモシカとは明らかに異なる糞を見つけたことは何度かあった。小出で熊に襲われ当院に搬送された患者のPTSDを診察してからは一層怖くなってしまった。
 その後SL撮影も、マナーの悪い撮り鉄(撮り鉄は私も含めたいてい目障りで見苦しい)へのネットバッシング(本当にボロクソ)を見て居心地が悪くなり、意欲が失せ、ここ数年はすっかり足が遠のいてしまった。
 この先またあのように大規模なナラ枯れがおこり、豊実の里山でナメコが大発生することがあるのだろうか。時々我が家の味噌汁に浮かぶ、待ち針の頭(例えが昭和)のように小さく味気ないナメコを箸でつつきながら、煙のにおいと共ににあった、あの奇跡のようなナメコの大群との邂逅を懐かしんでいる。

杉林の中の雪割草

ナラの朽木のナメコの幼菌

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母の教え 小林眞紀子(前小林真紀子レディース・クリニック)

 閉院して自由な時間を得た今、会報「ぼん・じゅ〜る」を読み返してみました。荒井義彦先生(荒井医院)投稿の「老化・惚け」(令和4年8月号)を拝読し、亡き母を思い出し綴ってみたくなりました。
 荒井義彦先生の父上、荒井榮二先生とは、医師会旅行で何度か御一緒させていただきました。その穏やかなお人柄は忘れられません。
 母が他界して7年の歳月が流れました。「90歳まで生きてごめんね。」と或る日突然母が私に言いました。母は内科医だった父の時代から産婦人科に移行した私の時代まで、当院の会計を一手に担っておりました。現在のようにパソコンも無く、電卓も不得意だったため常にそろばんを使用しておりました。「こんなに簡単な計算も出来なくなり惨めです。今後の事は貴女に任せたい。」と言い、その後あっという間に認知症になってしまいました。「自分の老後はプロに看てもらいたい。嫁でもなく、娘でもなくプロにお願いしたい。そのための費用は蓄えてあります。」これが母の強い希望でした。「プロにお願いしたら娘の私の出番が無いではないの?」と私が問いかけると「貴女にはそのプロの方々に感謝の気持ちを忘れないで欲しい」との返事。希望通りグループホームへの入所が叶い、非常に手厚い介護を受けたのちに他界致しました。最後は私の手を握り「あー、あー」と呟いて亡くなりました。荒井先生と同様に「ありがとう。」と言いたかったのではないかと勝手に想像致しております。
 認知症は「亡くなる人は死への恐怖からの防御反応・残された者にとっては別れるための準備期間」と聞いた事が有ります。
 以前「母さんの居ない暮らしなんて考えられない。」というと「大丈夫ですよ。その頃にはもっともっと大切な人が出来ていますよ。」との返事。今思い出すと母に救われたことは数限りなくある気が致します。青春時代に「友人に裏切られた」と大騒ぎをしたことがありました。その時に言われたことは「人の心はころころ変わるものです。神様がこんなにコロコロ変わるものはなんだろう?と考えて心と付けたのですよ。人の心は変わって当然です。」
 医師になって間もないころ、たった一度だけ両親の前で泣いた事が有りました。勝手に上司に嫌われていると思い込み、大泣きを致しました。そんな私に対して父は「忍」の一字、何事も忍耐が大事であると言いました。母は「嫌われていると感じても、避けることなく寄っていきなさい。野良猫だって寄ってくれば可愛いでしょ。」その上司との関係も解決し、以前にもまして信頼関係が深まりなんでも話し合える関係になりました。
 産婦人科を開業してから様々な事が有りましたが、その中で最も苦しかったことは、当院で仮死産にて出産した赤ちゃんの予後が悪かった時の事です。その赤ちゃん、ご家族とどのように向き合えばよいか途方に暮れておりました。母がたった一言「簡単な事ですよ。あなたにもう一人子供が出来たと思って向き合えば良いのではないですか?」
 母は11月22日(いい夫婦の日)に亡くなりました。満95歳でした。父が他界して32年になります。父の最後の言葉は「お母さんと結婚して当たりくじだったな!」
 そんな私が母にたった一つだけ不満があるとすれば、お酒を一滴も飲めなかった事です。鹿児島の造り酒屋の娘だったにもかかわらず、まったく飲めませんでした。そのためか「趣味宴会」などと言っている私の事は理解できないようでした。会合で出かける私を見送る時には必ず「喋りすぎるな!飲みすぎるな!」と忠告し続けておりました。
 「お化けでなければ必ず死にます。」と言っていた母が、もし生まれ変わって来たならば一緒に晩酌でもしたいものです。もっともっと会話が拡がるかもしれません。
 自分自身晩年を迎えた現在、私の生きざまから娘も何かを感じ取ってくれていると嬉しいです。
 荒井義彦先生の投稿を拝読し、思わず筆をとりました。

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少年老い易く(その5) 三宅 仁(悠遊健康村病院)

 7 発達障害

 もうひとつ重要なのは発達障害である。ちょうどDSMVからWの変わり目あたりにこの問題にぶつかり、DSMとは何ぞやというまさにmentalの課題に苦しむことになった(現在はDSM5)。その少し前、ある学会で精神科におけるEBMという内容の講演があった。古い?ドイツ医学を習った者としては精神医学とEBMが結びつくのはおよそ「セカイノオワリ」と思っていたのだが、最新のアメリカ医学では当たり前であり、日本の精神医学もまさにEBMの時代に変わりつつあった。他方、そんなこととは無関係に発達障害(ASD、ADHD、LDやその混合型など非情に複雑ないわゆるアスペルガー症候群を筆頭とする本来は小児の疾患〜個人的には文字通り発達の障害であり、発達という時間関数はあくまで漸増と考えている)が脚光を浴びてきた。この病気(障害=障がい〜表記も揺らいでいる)の特徴は年齢もスペクトラム状(要は異常と正常が連続〜EBM的に言えばカットオフ点が無い、2峰性ではなく、なだらかな連峰あるいは平坦に連続〜している)であり、どの年齢でも見られるということである。子供の頃には少し性格が変わったおとなしい子というのが中学生になる頃には閉じこもり、社会に出られなくなる。あるいはマンガの主人公のようにお節介でおっちょこちょいで何でもかんでもやってみては失敗するなどの人物はいくらでもいよう。釈迦に説法であるが、障害とは本人があるいは周囲(=社会)が困れば障害であるが、困らなければ障害では無い。本人が納得し、周囲も理解すれば十分普通の社会人としてやっていけるのである。フーテンは自分で生きる道を見つけ、放浪画家も立派な芸術家として扱われた。最近は大人の発達障害も話題となっている。米国で特にICT分野で成功した著名人の多くは自分が発達障害であることをカミングアウトしている。発達障害は俗に凸凹障害と呼ばれ、ヒトの持つ様々な能力のいくつか突出した(あるいは極端に低下した)状態である。平均点以下のところのみをあげつらえば障害者となるが、優れた才能の持ち主は天才と呼ばれる。ごく一部の天才を除けば、多くの人間は恐らく正規分布しているのであろう。それも例えばIQという物差しひとつではなく、多次元の尺度においてであり、まさにそれこそがヒトがヒトたる所以の存在であろう。このような観点から学生及び保護者(父母)、指導教員などを説得し、それなりの学業に励ませるのもホケカンの仕事であった。

 8 老人と高齢者(結び)

 大学時代の研究についてはまさに「学成り難し」なので割愛するが、やっと「形態と機能」という永遠のテーマを見つけることができたと思ったら、定年となり、煙がもくもくと立ち上がり、40年の歳を取った老人≠ニなっていた。
 大学を定年退職して「花の年金生活!」と思っていたら、とても年金では暮らせないということに退職してから気が付いた。以前に寄稿させて頂いたように、10年以上前に心筋梗塞を患い、先はあまりないので再就職して頑張っても無理だろうと諦めていたが、幸いお誘い下さる先生がおられ、今は悠遊健康村病院(主として老健の悠遊苑)でお世話になっている。会員諸先生には別の形でお世話になるところになり、改めてお礼申し上げる。
 ここでは教師と学生という大学と違って、多くの職種の方と協同(共働)し、あまり上下関係を意識させない。当初は戸惑ったが、だんだん慣れてきた。最近ではCOVID-19で大変であった。老健でもクラスターが発生し、ある意味歴史の一コマを経験できて仕合わせ≠セったと言わざるを得ない。
 このように自身および対象者(恩師、学生、教職員、患者としての高齢者など)の青年期から高齢期までを経験できた。医師−患者関係だけでない対等の多くの方との交流があり、中越地震や東日本大震災などの災害時のリスクマネジメントも大きな思い出である。まさに「人間万事塞翁が馬」であり、「学成り難し」の半生(反省)であった。(了)

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蛍の瓦版=i80) 理事 児玉 伸子(こしじ医院)

 1.初めに

 久しぶりの瓦版は長岡市医師会の会館に係わるものです。すっかりお馴染みとなりました現在の医師会館は、二代目として平成15年に建設され今日に至っています。それ以前の初代会館は幸町の長岡工業高校の並びにあり、長岡市医師会准看護学校や長岡市医師会保健衛生センターを併設しておりましたが、いずれも現在は廃止されています。
 二代目会館建設の始まりは、長岡市医師会長であった故高橋剛一先生が会館建設準備委員会を立ち上げられた平成11年です。その後、当時の斎藤良司医師会長のもとで大貫啓三先生を会長とする会館建設委員会等で議論を重ね、平成13年には現在の土地の購入が医師会の臨時総会で承認されました。翌14年には会館建設の最終案と施工会社が決定され、約半年間の工事の後、平成15年9月30日に無事に引き渡しを受けています。

 2.長岡市医師会准看護学校

 二代目医師会館への移転とともに廃止されましたが、長岡市医師会には昭和35年創立の准看護学校が併設されておりました。設立当時は現在とは異なり准看護婦に対する大きな需要がありましたが、長岡市内の看護婦養成所は長岡赤十字高等看護学院と中央病院付属准看護婦養成所の2校だけでした。そのような状況から、働きながら勉強して資格を取得できる准看護婦養成所の設立を求める嘆願書も出され、昭和35年に長岡市医師会准看護婦養成所として設立されました。当初は神谷病院内に併設されていた補助看護婦養成所を昇格させたもので、そのまま神谷病院内に設立されました。設立の経緯からも明らかなように、神谷退蔵院長を始め神谷病院の甚大なる寄与によって実現したものでした。
 昭和41年には幸町に設立された初代医師会館へ移転し、その後約30年間には毎年30〜40名方々が昼間働きながら夜間に勉強され卒業生として巣立っていかれました。しかしその後は社会情勢の変化もあり、夜間授業から全日制への変更等で対処しましたが、応募者は減少し続けました。平成7年には長岡市内に4校目の看護専門学校が設立され、応募者の減少に加え教員の確保等の問題もあり、平成14年には当初の役割を終えて閉校となりました。奇しくも新しい医師会館への移転と同時期とでした。

 3.長岡市医師会保健衛生センター

 昭和30年代の中越地区には寄生虫検査を行うところがなく関係団体からの要望もあり、昭和40年に医師会の寄生虫検査所として設立されました。翌41年には新設された初代の医師会館へ移転しています。その後は学校保健法の改正等に応じて尿検査や貧血検査及び心電図心音図と実施する検査内容も追加され、昭和51年には保健衛生センターと名称変更しました。しかし寄生虫が減少したことや、検査会社が盛んになる等の社会状況の変化により平成22年には事業を廃止しています。二代目医師会館になって7年目のことで、当初の検査室は小会議室へと模様替えし今日に至っています。

 4.二代目長岡市医師会館の維持補修

 二代目会館となって20年余りが経過し、いずれの建築物と同様に消耗品の交換や経年劣化等による様々の修理が必要となり対処してきました。
 大きなものでは平成22年に約1千万円をかけて屋上外周のステンレス補強等の工事を行っています。平成23年には検査室を小会議室へ用途変更し、テレビ会議システム用LAN配線を設置しました。その後も、エレベーター、空調、照明器具等の部品交換や駐車場の線引き等の細々とした補修を行っています。高額なものとして令和2年には屋上部分に雨漏りが認められ、1千万円近くかけて防水工事を行いました。
 また令和4年には、空調機の入れ替え工事に5千万円近くが必要となりましたが、天井部分に扇風機を設置したこと等によって冷暖房の効率が上がり維持費は半分程度の節約となっています。さらに昨年度は会館内外の照明をLEDへの交換を行ったため、2千4百万円近く必要となりました。近年の物価上昇のため数年前にLED化を検討したころと比べるとかなりの値上がりとなりましたが、今後の電気代と補修費の節約を期待しております。
 今後早期に必要とされる補修としては西側外側ブロック壁の水漏れ補修や非常照明の入れ替えがあります。その他に建物調査では、各所の塗膜防水劣化や錆および亀裂や剥離さらに消雪ポンプの入れ替えを指摘されており、緊急性のあるものから順次補修や再塗装等を行ってゆく予定です。

 5.最後に

 長らく継続してきました蛍の瓦版≠燒{編は今回が最後となりました。10年前に長岡市医師会の理事を拝命し医師会の仕事を垣間見る機会を頂き、その内容の多様さに驚きました。そして私自身の驚きを皆様にお伝えし多くの方に共有して頂きたく存じ、合計80回の記事を続けてきました。最後の半年は尻つぼみとなりましたが、医師会内外の方々に温かく見守って頂き感謝申し上げます。そして資料の提供等のご教示を頂戴した方々や拙い文章の校正を頂いた方々およびぼん・じゅ〜る≠フ編集委員会の皆様に厚く御礼申し上げます。ありがとうございました。

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巻末エッセイ〜気が付けば八十路(下三) 星 榮一

 前編までは主に形成外科を中心に記載したが、これからは視点を変えて生活面について記述してみたい。
 僕はこれまでに引越をしたのは数回しかない。最初は昭和四十九年二月に聖マリアンナ医科大学に出向した時だ。一家五名がスバル4WDで一月三十一日に雪の三国峠を越えて川崎市高津区のグリーンハイツ三十九号棟に転居した。ここは大成建設が開発した五十棟八百戸程の団地で、三十九号棟は東名高速道路の東京料金所の真横の高台にあり、東名高速の車が良く見えた。聖マリ医大までは三km位、車で十分ほどで行けた。周りには緑が多く、小学生と幼稚園の子供達には良い環境だった。
 昭和五十四年八月に新潟大学に戻ることになり、子供達は学校のこともあるので四月に一足先に新潟に戻った。新潟の住宅は同級生の第三解剖の小林繁君が山梨医科大学に赴任するので、彼の新築住宅を借りることにした。小針六丁目の二階建ての一軒家で、前庭には家庭菜園も作れた。ここには平成十年に長岡に自宅を新築するまで住んでいた。
 平成八年十月に長岡中央綜合病院へ赴任して、今朝白二丁目の病院借上げマンションの『サンハイツ』に二年間住んで、家内が「もう高齢だから引越しは終わりにしませんか?」と提案してきたので、六十歳になりそろそろ定住した方が良いだろうと長岡に土地探しを始めた。
 その頃、前田二丁目の星野製菓の跡地・約九十区画が売りに出されていた。駅から二十分、図書館・体育館も近く、病院の同僚も数名購入しているので、一番南側の陽当りの良い、旧栃鉄線路脇の区画を求めた。それから半年間は住宅建築について猛勉強し、種々の見学会に悉く参加した。
 単純な形の家屋で高床式、高気密高断熱の構造で、集中冷暖房、オール電化、屋根融雪等を備えた住宅にすることにした。平成十年五月から工事を始め、十月に完成し住み始めた。伊勢丹デパートに勤めていた長女も小針の住宅は引払い、長岡から通勤することになった。あれから二十五年が経過して、あちこちに綻びが出始めている。
 話を平成八年十月、長岡に住み始めた頃に戻すと、長岡に骨を埋めるつもりで来たので、長岡の町を好きになりたいと考えた。好きになるには、良く知らなければならない。そこで、病院から夕方帰宅すると、家内と二人でほぼ毎日約一時間半ばかり市内をウオーキングした。毎日歩く方角を変えてあちこち歩いた。小路に入ったり、店先を覗いたり、街歩きを楽しんだ。自動車で移動していた時には気づかなかった沢山の発見があった。一〜二年して、家内の膝の具合が悪くなり市内ウォーキングは中止になった。その代わり僕はサンライフで週三〜四回夕方フイットネスをすることにした。。
 市内の地理は大分判ってきたが、東山・西山については皆目分からない。病院から見える東山と西山の絵を描いて記載して覚えた。案外古くからの長岡住民は知らないことが多いことが分かった。
 また、長岡の歴史を学ぶために長岡郷土史研究会に入会させていただいた。丁度「長岡市史」上下二巻が発行されたばかりで、月一回「長岡市史を読む会」が発足し、毎回市史の執筆者が自分の担当箇所を解説して下さり、これにも入会して四年かけて読み終えた。これで長岡の歴史も大分判って来た。そして沢山の異業種の方々とも知り合いになることが出来た。

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