長岡市医師会たより No.531 2024.6


もくじ

 表紙 「梅雨入り近い渋海川」 丸岡 稔(丸岡医院)
 「院長就任のご挨拶」 藤田信也(長岡赤十字病院 院長)
 「お世話になりました」 川嶋禎之(長岡赤十字病院 名誉院長・顧問)
 「早くも1年」 横山 令(横山皮膚科)
 「ハロー長岡」 宮ア大輔(栃尾郷クリニック)
 「ご挨拶」 山本重忠(悠遊健康村病院)
 「巻末エッセイ〜『失われた時』の「菩提樹の茶」を求めて」 郡司哲己



「梅雨入り近い渋海川」  丸岡 稔(丸岡医院)


院長就任のご挨拶 藤田信也(長岡赤十字病院 院長)

 平素より、長岡赤十字病院にご理解ご協力を賜り、誠にありがとうございます。
 4月より川嶋禎之名誉院長の後任として病院長を拝命いたしました。これまで「ぼん・じゅ〜る」に寄稿したことは一度もなく、この場をお借りして私自身の経歴などを記させていただきます。
 私は、昭和33年に東京都に生まれました。幼少期はドイツと岡山で過ごし、小学校5年生の時に、父の新潟大学第三解剖学教室教授就任に伴い新潟に転校し、新潟県立新潟高校を卒業しました。「一浪は 人並と読む」と言われた時代でしたが、同級生の本間照君(現、新潟済生会病院院長)のお父様が借りた新大塚のマンションに転がり込んで、駿河台予備校に通いました。何とか鳥取大学に滑り込み「人並」で浪人生活を終わらせました。5年生になるときに学生結婚して、遠距離交際だった妻を米子に連れてきました。
 学生時代は、学問と言える勉強はせず、生活のためのバイトと落語などをやっていました。唯一、脳神経内科の高橋和郎教授(東大卒、のちに鳥取大学学長)の臨床講義が面白く、卒業間近に入局のお願いに行きました。「君は、新潟の宮武君(脳研究所神経内科2代目教授)のところに行くのがいいよ。彼は若いし、これからの人だ」と自分の教室に入局させるところを、新潟に帰ることを勧めてくださいました。私の人生の扉を開いてくれた恩人です。
 新潟大学の内科研修で、1年目は大学で神経内科と第一内科を廻りました。第一内科では本間照先生と再会し、一緒によく遊びました。オーベンの血液内科 滝沢慎一郎先生(現在新潟市でご開業)からは、患者の接し方を学び、臨床に最も大切なのは人間力だと教わりました。滝沢先生の勧めもあり、2年目は佐渡総合病院で内科研修をしました。内科研修医3人に割り当てられた部屋に、卒後3年目で外科の草間昭夫先生(現医師会長)がおられました。インターネットもなく、知りたいことは草間先生に聞くのが早道でした。それだけでなく、私の大きなミスで亡くなりそうになった患者さんを救っていただきました。
 卒後3年目に神経内科に入局して、大学院に入りました。高橋康夫教授の主宰する脳研究所神経薬理学教室で、神経内科の佐藤修三先生がやっておられたミエリンの糖蛋白質(MAG(マグ))の分子生物学的研究に取り組みました。P32の放射線を山のようにあびながら、背の丈ほどの電気泳動のゲルを作り、マキサム・ギルバート法で塩基配列を決めていくような土方の仕事でしたが、一旗揚げたいとの一心で寝食を忘れて実験に明け暮れました。論文を3本出すことができ、若輩ながら新潟県医師会学術奨励賞をいただきました。
 大学院を卒業して、新潟市民病院に出向しました。病院にはMRIもない時代で、「神内は、治らない(・・)、治せない(・・)、どうしようもない(・・)から3内(ない)(無い)」と揶揄された時代でした。私自身も研究への野心が勝っていて、日本学術振興会の特別研究員に応募して、1年で大学に戻してもらいました。翌年には、米国ノースカロライナ州立大学に留学することができました。前述のMAGのノックアウトマウスを作る仕事を始めましたが、留学先の鈴木邦彦先生のラボでは、その経験も環境もありませんでした。培養していた未分化であるべきES細胞が、心臓のように鼓動を始めたのを見て、ここでは一生かかってもノックアウトマウスはできないと悟り、思い余ってその道のパイオニアであったオリバー・スミシーズ先生(のちにノーベル生理学賞受賞)のラボを訪ね、実験室を使わせてもらうことに成功しました。「石の上にも3年」と言いますが、留学3年が経った時、作ったマウスに振戦の症状が出て、自分の手も震えながらビデオに収めました。
 平成7年7月、米国から長岡赤十字病院に副部長として着任しました。当時は、鈴木正博部長(現 三島病院)と田部浩行先生(現 新潟県立中央病院院長)の3人体制でしたが、完全なチーム制で、「働き方改革」では先陣を切っていたと思います。3年日本を留守にしている間に神経内科は「3内」から大きく変わり、めずらしい症例も集まり、仕事にはメリハリがあって、すっかり当院での仕事が気にいってしまいました。2年間で大学に戻る約束でしたが、当時の辻省次教授にお願いして居残らせていただくことになりました。以来、永井博子部長をはじめとして44人のスタッフと神経内科の診療にあたり、振り返ると29年が経ってしまいました。
 神経内科医として、救えた症例も救えなかった症例も、世の中に報告をすることを心がけてきました。年4回の日本神経学会関東地方会と年2回の内科学会信越地方会は欠かさず演題を出し、研修医と一緒に参加して、打ち上げで神経内科の面白さを説きました。学会誌「臨床神経学」には、39本の症例報告を出しました。強引な手口のリクルートの結果、初期研修医は、これまでに21人が神経内科に入局してくれました。ちなみに現在のスタッフの小宅睦郎部長、梅田能生部長、梅田麻衣子部長も、私が昔勧誘して仲間になってくれた方々です。
 平成15年、44歳の時に情報システム委員長を命ぜられました。新病院に移転したときに導入されたオーダリングシステムから「電子カルテ」への立ち上げに尽力しました。平成26年に副院長になってからは、医療安全推進室長を務めました。どちらも全く気乗りのしない仕事でしたが、自分なりに情熱を傾けて取り組むと、愛着というものが湧いてきました。医療事故調査報告書を2回提出しましたが、医療安全は職員ファーストだと学びました。
 65歳を迎えて本来は定年退職でしたが、川嶋前院長から、大きく重い人生の扉を開けていただきました。若い頃は、「運命は自分で切り開いていくもの」と思っていましたが、「人生を形作るのは出会い」と実感します。これまでの数多くの出会いとお世話になった方々へ感謝の気持ちでいっぱいです。
 院長就任にあたり、スローガンを「全職員One Teamで、地域の住民・医療機関、職員からも選ばれる、活力のある病院をめざす」としました。コロナの補助金が見込めなくなり、「With コロナ」から、本当の意味で「After コロナ」に移りました。県内どこの病院も、「金がない、モノがない、ヒトがない」の「3無い」状態ですが、最も大切なのは「ヒト」です。全職員がやりがいを持って働き続けてもらえるように、ハラスメントのない心理的安全性の確保された職場づくりに取り組みたいと思っております。
 働き方改革も本格的に動き出し、苦境の医療情勢の中、「地域医療」を守るためにオール長岡?One Team?で取り組む必要性を益々感じます。医師会の皆様には、今後とも一層のご支援とご指導をお願い申し上げます。

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お世話になりました 川嶋禎之(長岡赤十字病院 名誉院長・顧問)

 小生、本年3月に70歳という赤十字病院の院長定年の歳を迎え4月より晴れて年金生活者となりました。1993年6月末、前任地の信楽園病院から、それまで赴任経験の全く無かった長岡市に引越しし、こちらでの生活が始まってあっという間に31年が経ってしまいました。この間、中越地域は7・13水害(2004)、中越地震(2004)、加えてその冬の豪雪、数年置いて中越沖地震(2007)といった様々な天災に見舞われました。全国的には赴任した年に起きた北海道南西沖地震(1993)、阪神・淡路大震災(1995)、東日本大震災(2011)、熊本地震(2016)、掉尾に能登半島地震(2024)と赤十字病院勤務という立場上地震大国日本をことさら身近に感じる年月でした。さらには2020年から始まった新型コロナウイルスによるスペイン風邪以来100年ぶりの世界的感染症の大流行といった災害≠フ現場にも立ち会うことになりました。
 一方長岡市の医療体制はというと赴任当時市内中心部に集まっていた急性期の3病院は二次救急輪番体制を堅持しつつそれぞれ移転新築を行い3方向に拡がっていきました。また、かつては当たり前であった病院完結型医療は、病病連携、病診連携、医療と介護の連携を基盤とした地域完結型医療へと変貌を遂げていきました。加えて、近隣の医療圏では魚沼基幹病院・県央基幹病院開院といった地域を揺さぶる医療機関の大きな集約化・再編の動きもありました。振り返ってみると激動の30年余であり、長岡、中越だけでなく日本の医療そのもの、そして災害医療が大きく様変わりする時代を、ここ長岡で皆様と共有させていただいたのだとしみじみ思います。個人的にも様々なエポックメーキングなイベントにその時々の立場で立ち会わせてさせていただき、得難い経験満載の長岡での医師人生であったと感慨深いものがあります。また新婚間もなく長岡に赴任し、家庭を持ち、家族のそれぞれが成長していく過程もここ長岡で経験させていただきました。この場を借りて公私にわたり支えてくださった皆様に深く感謝申し上げます。
 さて、長岡での31年間のうち後半の10年間は市医師会理事を務めさせていただき主に救急・災害、学術を担当いたしました。それまで臨床一辺倒で内弁慶であった私にとって市医師会は自らの視野、人脈、行動範囲を拡げるための恰好の学校=勉強の場≠ナあったといって過言ではありません。もとより浅学菲才(謙譲の常套句ですが私ほどこの言葉が当てはまっていた新米院長はいないとつくづく思います)の身ながら赤十字病院院長職を大過無く勤め上げることができましたのも温かく見守りご指導くださった歴代の市医師会長、理事並びに医師会会員の皆様のおかげと感謝しております。
 昨今の物価高、乱高下する円相場、県内の医師不足、4月からの(医療の効率化というより一部医師の労働強化、総医療供給量の削減がもたらされるであろう)医師の働き方改革、6月からの(実質マイナス改定の)診療報酬改定と今後病院・診療所にはこれまで以上の逆風が吹き荒れると想像されます。そんな嵐の中でも、長岡市医師会は地域の幅広い世代の医療・福祉・行政の関係者を巻き込んで、一丸となって未来に向けてより良い長岡の医療づくりを進めていくものと信じて疑いません。
 皆様の今後ますますのご活躍を祈っております。長い間本当にありがとうございました。

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早くも1年 横山 令(横山皮膚科)

 2023年6月5日に、前医院と同じ敷地内(元々の駐車場)に出来上がった新しい医院での診察が始まってから、あっという間に1年がたった。私自身が院長になったのは2023年4月1日、それ以前からも父親から引き継ぎ、やりたいことをやれる環境づくりや、どうしたらもっと患者さんのためになるだろうと考え行動していたが、やはり自分自身のスタートは、新しい医院とともにあると思う。もう1年近く経つが、いろいろなことがあって、まだまだ慣れず落ち着かない。新しい医院では、将来性も考えて診察室は2つに増やした。将来性というが、本音を言えば父と少しでも一緒に仕事をしてみたかった。淡い期待だったが、やはり、その夢は叶わなかった。2023年7月31日、父は亡くなった。新しい医院の完成が間に合い、一緒に写真を撮った時のあの初心を忘れずにこれからも頑張っていきたい。前医院が取り壊され、駐車場が完成するまでの5ヶ月間は、患者さんにも「やってるかわからなかった」などと言われる始末で、来院患者数もそう多くはなく不安な日々を過ごしていた。その分、どうしていきたいか、どうしなければならないかなどしっかり考えることができて良かったのかもしれないと今なら思える。
 保険診療においては、生物学的製剤やJAK阻害薬での治療、基本的に紹介させていただいていた小手術など、今までは行ってなかった(行えなかった)治療を積極的に行った。生物学的製剤承認施設の認定を受けるにあたって、新潟大学および長岡赤十字病院の皮膚科の先生方と話し合いを重ね、お力添えをいただいた。開業医のなんたるかも全くわからない、心の準備もできていない状態での継承だったので、自分でできていた多くのことができないジレンマを未だ抱えつつ、次々と新しいことをやる自分についてきてくれるスタッフには本当に感謝しているし、今までの環境がいかに恵まれていたのかを痛感する日々である。
 また、美容医療と言われるような自費診療も開始した。「儲かるでしょ!」とよく言われるが、スタッフ増員と機械の借金返済を考えればそうでもない。駅周辺の皮膚科でも美容医療は行われているし、特に最近では駅中に大手美容クリニックもできた。競合は多い。しかしながら、「治してあげたいけど、うちじゃどうしようもないから他に行ってもらうしかない……」という悲しい思いをすることは格段に減った。皮膚科は、見ただけで治っているかそうでないかがわかる。患者によって求めるレベルは違うが、見た目を気にして青春を謳歌できない、いじめにあってしまうなどの疾患に対する治療選択肢は絶対に増やしたかった。大学時代は美容に関して管轄外だったので、自分自身もっと勉強しなければと思う。スタッフは自費診療に関しても非常に勤勉で、新しい機械や美容関連の商品があればともに意見を出し合い導入を決定している。改めて感謝である。
 これからの課題は院内のDX化だ。若いのに、とよく言われるが、アナログ人間な私は、DX化に対して抵抗がある。診療報酬改定でDX加算が加わったことで、しっかり進めて行かなければと思う反面、今のままでいいのにな、と思ってしまう。電子処方箋などマストな部分に関しては(渋々)進めるとして、会計や予約システムなどはしばらくこのままでいたい。が、患者の声を聞くとやはり予約システムは必要そうだ。いつまでこのまま頑張るかは検討している。
 ここまで真面目なことを書いたので最後にプライベートのことを。元々お酒が好きで毎日飲み歩いていた私だが、最近はめっぽう機会が減って週に2,3回ほどしか飲みに出ない。娘が可愛すぎるのである。もう少しで3歳になる娘は、日に日に話せることが増え、1日家をあけるだけでも変化がある。誘われた飲み会は断らないイエスマンの精神で生きているが、6月には第2子が生まれる予定なので、夜遊びはしばらくお預けの予定だ。自分自身はクラフトビールが好きで、醸造家を目指しているので、この期間に家で飲みながら勉強したいと思う。この話はまたいつか。

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ハロー長岡 宮ア大輔(栃尾郷クリニック)

 長岡市医師会の諸先生方。初めまして。
 2023年4月1日より栃尾郷クリニックに赴任しております宮ア大輔と申します。
 この度ご挨拶がてら「ぼん・じゅ〜る」への寄稿を仰せつかりましたので徒然なるままに書いてみようと思っています。
 私は自治医科大学の出身ですが、生まれも育ちも千葉県になります。新潟県といえば小学校の頃祖父母・家族と佐渡島に旅行した位しか記憶にありません。しかも佐渡島に渡るカーフェリーで激しく船酔いをしたため正直あまりいい思い出がありません。
 他に新潟県にかかわる思い出と言えば大学時代に野球部に所属していたのですが、私の在学中は新潟大学野球部がかなり強かった事でしょうか?自治医科大学が主管を勤めた東医体で圧倒的な力を見せて見事に優勝された事が強く印象に残っています。
 自治医科大学の義務年限中や義務年限明けも千葉県に勤務していましたが、諸事情のため2013年4月から2015年3月の佐渡島の診療所に勤務していたので、今回の栃尾で2回目の新潟県の勤務となります。
 自宅は東京のため現在は東京と長岡を行き来していますが、佐渡島まで行き来していた頃と比べると片道2時間程度短縮されたので随分と楽になったと感じています。とはいえ遠距離通勤に変わりがないので、健康に留意して少しでも長く継続出来ればいいかと思っております。
 週末にクリニックを留守にする事も多いので医師会の先生方にはご迷惑をおかけする事が多いと思いますが今後ともよろしくお願いいたします。
 現在の栃尾地区は世帯数6,627・人口15,266人です。比較的山奥まで点在して生活されているようでかなり遠方からも栃尾郷クリニックに受診されています。
 私は消化管内視鏡および肛門外科が専門でありますが、主に慢性期の生活習慣病の治療を中心とした診療を行っております。
 内視鏡の設備がないため自分の専門を活かせる事は正直少ないのですが、腹部超音波検査を積極的に使用しながら悪戦苦闘の日々を過ごしております。
 特にここ数年は専門的な疾患・検査しかしていなかったので、循環器疾患・呼吸器疾患などは最近のトレンドを把握できていないので長岡中央綜合病院・立川綜合病院・長岡赤十字病院の先生方につまらない患者をお願いする事が多く、いつも大変ご迷惑をお掛けしております。
 ですが、いつも丁寧なお返事を頂ける事が多くて大変助かっております。この場をお借りしてお礼を申し上げます。
 この5月から電子カルテの本格的な導入・稼働が始まったばかりです。まだまだ試行錯誤の日々が続きますが微力ながら栃尾地区の医療を絶やさぬよう頑張っていくつもりです。
 最後に個人的な趣味についての話をしたいと思います。
 2012年に職場の同僚とハーフマラソンに出た事がきっかけでランニングを始めました。以降足掛け12年に渡り走る事を続けています。
 少ないながら毎年3〜4回大会に参加してフルマラソン・ハーフマラソンを走っています。
 新潟県でも数多くの大会が開催されていますが、せっかく申し込んだ新潟シティマラソンが台風のため開催中止になったり、コロナ禍のため遠方の大会に参加しにくくなった等の問題でなかなか新潟県の大会に参加できていないのですが、今年こそは新潟シティマラソンを走りたいと思ってエントリーを済ませました。無事に開催される事を願っています。
 ちなみにハーフマラソンは新潟ハーフマラソンの第一回大会に参加しており、この時のタイムがハーフマラソンのベストタイムが出た大会なので非常に印象に残っています。
 ここまで読むと先生によっては私がかなりストイックにトレーニングをされていると感じたかもしれませんが、実はここ数年ひどい腰痛に悩まされており、この1月に長岡中央綜合病院で診察を受けた所腰椎の圧迫骨折が見つかりました。正直あまりムリできない状態ですが、今後はタイムを狙うのではなくメディカルサポートランナーとしてのんびりと走ろうと思っております。
 以上取り留めなく筆を進めてみました。あんまり面白い事を書けなくてすみませんという謝罪をして終わりにしたいと思います。

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ご挨拶 山本重忠(悠遊健康村病院)

 研修医時代以来、10年以上ぶりの『ぼん・じゅ〜る』寄稿依頼にて、まずは簡単に自己紹介をさせて頂きたいと思います。2010年に初期研修医として2年間の立川綜合病院で研修の後に、地元である三重県で勤務を行っておりましたが、2018年より長岡に戻り現在、悠遊健康村病院で勤務を行っております。
 趣味の話を原稿にしようと改めて自分の趣味を思い返すと難しいもので色々と悩みましたが、@食べること A動物を飼育する事 B旅行(アジア限定)が思い浮かびました。
 数年前よりジビエにハマっており、インターネットで様々なジビエ肉や珍肉(ワニ、ダチョウ、ラクダ、エミューなど)も購入し楽しんできましたが、次第に満足できなくなり、自分で捕まえて食べてみたい欲求が大きくなり狩猟免許(わな猟)を取得しました。トレイルカメラにて職場裏の林には、ウサギ、タヌキ、ハクビシン、キツネの姿を確認し、どれも狩猟鳥獣であるため何が捕れるか楽しみに、猟期にはわなを仕掛けています。わな猟では、連日、わなの確認が必要となり、なかなか手間のかかる猟となりますが、毎日窓から仕掛けたわなの様子を確認するのも楽しみとなっております。しかし、今まで捕獲できた獣はハクビシンのみです。ハクビシンは雑食性ですが、特に果物を好むことから果物農家からは親の仇のような扱いとなります。また、街中にも出没し、小さな隙間から屋根裏に浸入し粗相する害獣とされ被害者である家主からしてみれば、これまた親の仇のような扱いとなります。しかし、その肉の味はとても美味です。「少々のフルーティー風味+ターキー」といった、スーパーに売っている肉にはない味を秘めています。是非ともオススメの一品です。ジビエ肉という目標を獲得すると、次の欲が出てきます。飼育したくなってしまいました。
 基本的に野生の獣は人には慣れません。しかし、赤ちゃんの頃から育てることができればその限りではありません。鳥獣保護法、狩猟法のため害獣駆除で捕獲された赤ちゃんハクビシンを飼うことはできません。また、冬の猟期には赤ちゃんハクビシンは繁殖期ではないため捕獲できません。わざわざ狩猟免許を取得し、ペアとなるハクビシンを猟期に捕獲し、繁殖期まで飼育し繁殖させるという非常にハードルが高い計画となります。昨年、偶然にも幼獣ハクビシンのペアを捕獲できたため、計画を実行に移しました。その名も「ベタ慣れハクビシン計画」です。
 1年間2匹のハクビシンを飼育しました。メスのハクビシンは思ったよりも慣れてくれ、近づくとエサを欲して出てきてくれます。好物のバナナがあれば、頭や体を撫でることもできるようになりました。ついに3月、2匹の赤ちゃんハクビシンが産まれましたが、寒さ対策が不十分であったことや保育の知識不足もあり、いずれも死なせてしまいました。反省です。
 旅行についてですが、アジア特にベトナム料理が好きであるため、料理を食べることを第一の目的にベトナムへ旅行によく行きます。近年、フォーやバインセオなどベトナム料理も有名になっておりますので今回はマイナーな、お気に入り料理について紹介したいと思います。皆様はホビロン(バロット)をご存じでしょうか? ホビロンとは孵化直前のアヒルの卵を使って作るゆで卵です。初めてホビロンを食べた時のことは印象深く、同じく珍味好きの息子にも食べさせたいと、3月に息子と二人でベトナム旅行に行き目的を果たしました。ホビロンは観光客が利用するレストランではあまり見かけません、ローカルレストランまたは路上屋台で食べることができます。古い卵(孵化の途中で死んでしまった)の場合もあるので、信用できる店を利用するために現地の方にお勧めの店を聞くのが無難だと思います。今回は友人(ベトナム人)のツアー会社の「珍しい物 食べようツアー」を利用し、路上屋台のホビロンをいただきました。ホビロンの食べ方ですが、1.卵を縦に持ち、スプーンで卵の上の方を叩き殻を割ります。2.溢れ出るスープを啜ります。このスープがホビロンの醍醐味の一つで、少し塩気のあるチキンスープでとても美味です。3.殻を剥き露出した本体にかぶりつきます。目をつむっている本体もあれば薄目を開けている本体もあり、不気味極まりなく、かぶりつくには大きな決断が必要となります。しかし一度かぶりついてしまえば、思った以上に食は進みます。美味しいのです。黄身と白身には、ほんのりと肉の風味があり、本体は当然のことながら羽毛やクチバシも生えていますが、特に口に残ることなくそのまま頂けます。内臓にはほのかな苦みがあり、他はトリ肉そのもので美味しいです。ゆで卵なのにチキンスープやトリ肉の味も楽しめ何といってもその不気味なフォルムを有する食材「ホビロン」、是非、東南アジアを旅行の際はご賞味下さい。一生の思い出に残る一品になると思います。
 追記ですが、子供の夏休みの自由研究に卵の孵化の観察をしようと、孵卵器を購入しました。これでいつでもホビロンが食べられます。ご希望がありましたらお声掛け下さい。

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巻末エッセイ〜『失われた時』の「菩提樹の茶」を求めて 郡司哲己

 プルーストの『失われた時を求めて』という小説をご存じでしょうか?その長さが有名で、鈴木道彦訳の集英社版なら全十三巻。息の長く続く文章、あるようでないような筋立てから、読みかけの途中で投げ出す作品の代表。作者以外で完読できたのは、担当した編集者や翻訳者だけと冗談の出るほどです。今年の大河ドラマで再人気の紫式部、かの我が国の『源氏物語』の上をゆく挫折必至の作品なのです。

 最近の出版物でも『失われた時を求めての完読を求めて』という半分だけ本気の著者は曲者の仏文学者の鹿島茂。はたまた『30分でプルースト』(佐久伊十郎)なんてハウツー本まがいも出ているくらいです。

 今回の話題は、わたしのような「永遠の読みかけ読者」でも、すぐお目にかかる場面に関係しています。

 第一巻「スワン家の方へ」の冒頭近くで出てくる有名なマドレーヌのエピソードです。それは「叔母のくれた菩提樹のお茶に浸したマドレーヌのかけらの菓子である味」(鈴木道彦訳)これをきっかけに喚起された清新な感覚、それが埋もれていた遠い日の記憶を呼び起こすことになります。

 ちなみにプルーストは、こうした過去の経験と同じ感覚にふと出会った時に生じる回想を「無意志的記憶」と呼び、これがこの作品を支える大きな柱なのだと語ったそうです。

 ところでこのエピソードに出てくる「菩提樹のお茶」という飲み物がどんなものなんだろうと、以前からずっと気になっていたのでした。

 最近の新訳(…目にすると買いそろえる一種のマニアのわたしです)のこの部分の訳語は微妙に異なり、「シナノキの花のハーブティー」(吉川一義訳)「菩提樹(ティユール)のハーブティー」(高遠弘美訳)と訳されております。

 そうか、ハーブティーなのです。うかつにも学生時代に読んだときからずっと「菩提樹のお茶」をハーブティーと思ったことがありませんでした。

 今は園芸が趣味のひとつなので、庭先で数種類のハーブも育てています。ハーブの本も幾冊か読み、春から秋までは摘みたての葉で、ミントやレモンバーム類のハーブティーを飲んでいます。しかるに菩提樹の花のハーブティーについてはまったく無知でした。

 思いついてインターネット検索してみると、いくつかのハーブ専門店で通販の扱いが見つかりました。その名称は菩提樹のドイツ語名「リンデンバウム」で通用しています。シューベルトの曲名で知られるこの木は、古代から神聖とされ「千の用途を持つ木」と呼ばれるそうです。

 その花と苞はハーブティーとして古くから親しまれてきているそうです。なお和名は「西洋菩提樹」(またはセイヨウシナノキ)です。あのお釈迦様がその下で悟りを開いた「菩提樹」はクワ科のインドボダイジュで、このシナノキ科であるリンデンとは全然別の品種だそうです。

 リンデンは神経と身体の緊張や凝りをほぐすとされ、心身のリラクゼーションに用いられ、また心地良い眠りを誘うと不眠にも使用されてきました。

 それではと早速にかの「菩提樹のお茶」であるリンデンのハーブティーを取り寄せてお試しとします。届いた製品はハーブはブルガリア産で、製品は日本生産。お湯を注ぐとパックがぬめりを帯び、味もまったりといくらか甘さのある香りのよい風味です。

 今でもフランスでは、興奮しやすく落ち着きのない子供にこれを飲ませる習慣があるそうです。なるほどそれでプルーストもね、と納得です。でも過敏なペットの犬にも飲ませるとよいとの効能記載は笑えました。

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