長岡市医師会たより No.533 2024.8


もくじ

 表紙 「木曽の渓流」 丸岡 稔(丸岡医院)
 「マイカー」 脇屋義彦(わきや医院)
 「プラハの犬」 田崎紳一(長岡保養園)
 「現代機械文明を敬遠するアーミッシュ(後編)」 福本一朗(長岡保養園)
 「巻末エッセイ〜間人蟹について」 八百枝 潔(やおえだ眼科)



「木曽の渓流」  丸岡 稔(丸岡医院)


マイカー 脇屋義彦(わきや医院)

 往診用ではなくて、自分個人用に乗って来た車は今までに9台あります。
 一番最初の車は日産スカイライン2000GT。ケンとメリーのスカイラインと言ってあの頃は若者に一番の人気車でした。ボディカラーは白、内装は茶色の明るい色でした。
 2ドア車であったために後部座席に座るには前席の背もたれを前に倒さないと乗車できず、やや不便でした。フロントエンジン・リアドライブ(FR)車であったために雪道では尻を振りやすく、スキーに出かける時には緊張しながらの運転でした。あの頃は新潟県のナンバープレートは「新」の一種類のみでしたので車に詳しくない女医さんから、先生の車は新宿ナンバーなんですか?と言われて何と答えてよいかわからずに困った経験がありました。二台目はやはり日産車で日産フェアレディZ 2by2。色はモスグリーンと落ち着いた色にしました。スポーツカーでしたので車高が低くコーナリングはとても気持ちよく出来ましたが今のようにパワーステアリングではなかったために、またタイヤサイズが大きいこともあり、ハンドル操作にすごく力が必要でした。車庫入れや縦列駐車時には肩が痛くなる程でしたが、「スポーツカーを運転しているんだ」と楽しくもありました。
 三台目以後は国産車を離れてドイツ車にしました。まずBMW318iという1800ccの車です。医局の同僚が乗っていたので追従しました。左ハンドルへの憧れもありました。ただこの車に乗ってみて排気量の小さい車では国産者に優る車は無いと思い知らされました。夏の暑い日にドアを閉め切ってエアコンをつけて運転している際に信号待ちで停車すると、エアコンのパワーに負けてエンストしてしまうわけです。仕方なく信号待ちではブレーキを踏みながらアクセルも踏んでエンジン回転数を上げてエンストを防がなければなりませんでした。やはり国産車は世界一だと思いました。
 そう思いながらも四台目以後もやはりBMWにしました。BMW525i 2500cc。この車は満足のいく車でした。特にこれぞBMWという、腹に響く重いエンジン音がお気に入りでした。スピードメーターが260kmまで刻んでありました。これを見た友人が「200qを超えてみろ。ただし関越道のような下り坂ではなくて平な道で。」というので、ある時北陸道柿崎から上越の間で挑戦してみました。オービスが無くパトカーのいない前後を確認しながら。思いのほか簡単に○○qに達しましたが、スピードの怖さは無く、前方走行車線を走っている車が後方をよく確認しないで追い越し車線に車線変更して来るのではないかとそれが怖かったことを覚えています。
 五台目はBMW740i(3500cc)この車に関してはあまりこれといった記憶はありません。六台目はBMW760iL、BMWの最高車種でした。前の車を使って5年ほどたって、そろそろ買い替えかなと考えていたら、ディーラーの担当者に強く勧められました。値段も高い車でしたが結構な値引きもしてくれました。それでも迷っていると「現在ドイツ本社から重役が来日していてもっと値引きしても良いから何とか売るようにと、はっぱをかけられている。」とのことで更なるサービスをしてくれました。確かにこれぞ高級車の中の高級車でした。冷蔵庫まで標準装備でした。6000ccというとてつもない排気量のV12気筒エンジンの力は凄まじいの一言で、空いている道で先行車のいないことを確認してアクセルを思いきり踏み込んでキックダウンをするとオートバイかと思うほどの物凄い加速をして瞬時に身体が座席に押し付けられます。またFR車にもかかわらず雪道でのスリップなど全く無く快適でした。その一方、12気筒のために走行時のエンジン音がものすごく小さく、室内には殆ど聞こえないほどでした。契約直後に担当者からこの車は日本には3台しかなく、他の2台は日本TVの○○社長と歌手の松田聖子さんです。と教えられた時にはそれはまずいと思いましたが契約後で後の祭りでした。その後はやはりBMW−7hybrid iL、BMW750iLと7シリーズを乗り継ぎましたが、1年前に現在のBMW8シリーズに乗り換えました。理由は新しい7シリーズはモデルチェンジの結果、全長が530pを越える超ロングボディモデルのみとなり、我が家のガレージに収めるにはギリギリである事、出先での駐車が大変である事、特に立体駐車場では前後がはみ出てしまう事などから7シリーズは諦めました。日本に輸入されている8シリーズは右ハンドル車しかなくて、長らく続けていた左ハンドル車にはお別れとなり、やや寂しく感じます。

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プラハの犬 田崎紳一(長岡保養園)

 「私は長女と来年チェコに行くつもりだけど貴方、どうする?」
 私の妻はしばしばこのような不意打ちのような問いを私に投げて来る。そして今回も私は考えもなしに即答してしまった「僕も連れてって!」と。
 プラハに行く前の1年間でひとまず予習をしておくことにして、新書2冊と随筆1冊とDVD1本をアマゾンで取り寄せて運動会の前日の子供のようなウキウキした気分で待ち焦がれる日々を送った。
 2023年の6月5日の月曜日に成田からエミレーツ航空のエアバスでドバイに向かいそこでボーイング777に乗り換えて日本時間の6月6日午後8時にプラハ空港に着いた。現地時間は午後1時だ。本来なら8時間の時差なのだがサマータイムのため7時間の時差ということになる。心配した時差ボケは帰国した時だけで済んだ。
 今回のJTBでのツアーの目的は舞台美術関係の日本の美大生と大学教官との「カドリエンナーレ2023」への参加とプラハ観光ということであった。定員に空きがあったので学生の父兄も参加可ということだったので我々夫婦もご相伴に与ったのである。
 カドリエンナーレについては、
 https://www.osaka-geidai.ac.jp/assets/files/id/741をご参照あれ。
 この旅に合わせて我々夫婦は初めてスマホを購入した。これで重いカメラも持っていかずに済むぞという筈だった。そして「雷神」という長岡高専の学生が起業した会社に行ってスマホの取り扱い方を「いままさに高齢者になろうとしている私達」は習って来た。これで万全の筈だった。
 集団行動をしている時や添乗員さんがいる時はスリにさえ気を付けていればOKで、それで問題はなかったのだが、いざ二人で市内観光を始めることになったら難題が山積していた。まずはナビで現在地の確認と目的地の検索をしようとして画面を見た。さてここはどこだ?なんとスマホの回答は「ホテルニューオータニ長岡」と出てきた。えっ?!と、このまま我々は凍りついてしまい、あとは「地球の歩き方」だけが頼りだった。この古そうな建物が目的地かな、と思ってドアの文字をスマホで写メしながら翻訳機能で解読したら「従業員入り口」と出てきた。本当に頭が真っ白になりそうだった。普段運動不足の足が棒になり疲れ切ってホテルに戻るという日々が続いた。こんな有様だったから写真は一枚も撮らずじまいだった。その代わりに長女と長女の友人が沢山写真と動画を撮ってくれていたので、まあそれでいいや、と思うことにしてハプニングを含めて旅を楽しむことだけに集中した。街並みの美しさなどについてはNHKの「トラムの旅」に出て来るあのままなので、ここで今さら改めて取り上げるまでもないから、それ以外で印象深かったことを一つだけ話しておきたいと思う。それは、プラハの犬は全くこわくない?ということだ。
 私は幼稚園の頃より犬が嫌いだし恐くて仕方ない。歩道を大型犬が向こうから飼い主と一緒に歩いて来ると思わず車道側に降りて犬をよけてしまう。その時に車が走っていてもそうしてしまうほど私は犬が恐い。
 ところがプラハの犬はリードが外されたまま堂々と歩いているくせに私には何の殺気も送って来ないのだ。犬と接近して恐さを感じなかったのは本当に生まれて初めての経験だったので心底ビックリした。もしかするとプラハの犬は私のような東洋人を人間とは思ってなくて「ガン無視」していただけだからかもしれない、とも考えた。リードに繋がれていたのは大型で口に金具のようなものを嵌められている犬かまだとても幼い犬かのどちらかであった。一度だけ黒い犬が私の目の前で立ち上がって吠え、それを飼い主がすぐに制す、という事があった。そんな時でも私はちっとも恐くなかった。しかし帰国したら日本の犬はやっぱり恐かった。これは一体どういうことかと思い、プラハの犬事情について調べてみることにした。すると京都大学医学部3年生(2018年当時)石川真帆さんによる以下の文献を見つけた。
 https://www.kyoto-u.ac.jp/contentarea/ja/education-campus/student_3/types/program2/omoro_challenge/report/documents/2018/2018omoro_report_04.pdf
 なるほど、そういうことか、と納得した。つまり、プラハの犬は誕生の瞬間から人間の子供のように育てられ躾られているのだ。その結果彼らは自分のことを人間だと思っているのに違いない。人間も動物も自分と異質のものに対して警戒し威嚇する。相手が自分と同じ仲間あるいは味方だと思ったらその人(動物)は相手に殺気を送る必要はないわけである。プラハの犬は東洋人のボクを人間として見てくれていたとわかって少し安堵した。

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現代機械文明を敬遠するアーミッシュ(後編) 福本一朗(長岡保養園)

 3.近代文明のSDGsと人類の幸福

 冒頭に述べた東北大の研究チームは、インディアナ州バーンのアーミッシュの人々177人を調査してそのうち43人に「SERPINE1」と呼ぶ遺伝子変異があることを発見しました。平均寿命はこれら43人が85歳だったのに対し、残りの住民の平均寿命は75歳でした。調査したノースウエスタン大のダグラス・ボーガン氏は、「こうした遺伝子変異を持つアーミッシュの人々は糖尿病にも極めてかかりにくく、代謝も良い」「彼らはより長く生きているだけではない、より健康的に生きている、長生きの理想型だ」と述べました。細胞の老化で中心的な役割を果たしているタンパク質はプラスミノーゲン活性化抑制因子1(=PAI-1)とみられており、SERPINE1遺伝子の影響を受けています。PAI-1は動物の加齢に関連があることが知られていますが、ヒトでの影響はいまだ解明されていないので、今後加齢に関連した病気を予防し寿命を延ばそうとして、試験薬の開発が期待されています。
 これまでのところアーミッシュの人たちは頑なにならず、本当に必要でかつ彼らの信仰生活を乱さない現代科学技術のみを、コミュニティーの討議によって取捨選択しているように思えますが、アーミッシュが多く居住するランカスターは原子力発電所事故が生じたスリーマイル島からわずか40q南東に位置しています。幸い人的被害は報告されませんでしたが、この事件は近代文明技術と全く無縁に生きているアーミッシュの社会にも否応なく影響を与えることが再認識されました。
 実学が人々を幸福にすることを疑わず、工学・医学・法学部での大学教育を受けてきた筆者は、アーミッシュの人々の幸福な生き方に衝撃を受けました。工学では高校生の頃、水俣病・四日市喘息などの公害事件に対して東大都市工学科助手の宇井純先生(1932〜2006)による水俣病告発などの反公害運動が盛んでした。そのため比較的公害を出さないと考えられてきた東大工学部電気工学科に進学しました。医学では、農薬使用の増加に伴い、BHC、DDT、ディルドリン、有機水銀剤等による食物及び環境の汚染が社会問題化していました。学生時代は東大精神病棟でのロボトミー事件やサリドマイド薬害事件をきっかけとして発生した学生運動で長期間授業がありませんでした。スウェーデンで医師になって帰国すると、恩師の一人の郡司篤晃厚生省課長が薬害エイズ事件で起訴され、新潟大椿教授がキノホルムに依るスモン病を解明され、精神科病棟での患者虐待事件が多発していました。そして2011年3月11日の東日本大震災では津波被害に加えて福島第一原発メルトダウンのため47万人の人々が家を追われました。さらに産業活動によって排出される温室効果ガスの増加による地球温暖化は南洋の島々を海水面下に沈め、数多くの動植物を死滅させ、地球環境の悪化を生じさせています。法学では袴田事件の再審決定まで57年の長期間と多大の裁判費用を要したことや、生活保護減額訴訟では相次ぐ違法判決が出ているにもかかわらず国は見直しを否定したことなどに象徴されるように、日本の裁判制度では実際の国民救済にはならず、冤罪を産んでも保障は無いに等しいと感じました。
 これらをじっくり考えてみますと、これまで素直に人類を幸福にすると考えられてきた近代科学技術と制度の発達は、結局は人々を苦しめ不幸にしているのではないかと思うようになってきました。国立大学工学部教授として四半世紀の間、150名の工学士・修士・博士を世に送り出して来ましたが、本当に人類の幸せに資する教育を行なって来たかどうか反省すると、内心忸怩たるものがあります。わずかに人体と工学技術の関連を常に考える医用生体工学の理念を伝えて来たこと、佐橋昭客員教授との共同研究である災害ME研究として救命ロボットの発明などの大災害時救命技術を提唱し(Fig. 4a)、また対光縮瞳反射を用いた認知症自動診断装置の発明(Fig. 4b)などによって社会に警鐘を鳴らせたことだけが、わずかな救いかと自ら慰めているところです。
 それに比して自分自身には厳しく、人と地球を傷付けず、人々に優しいアーミッシュの生き方は、まさにSDGs(持続可能な開発目標=Sustainable Development Goals)そのもののように思えます。そしてそれは、本当の幸せとは何かと我々に問いかけていると思います。生ある人は必ず死にますし、人類という種もあるいは永遠には存続できないかも知れませんが、神様のご計画は計り知れないものです。40億年の生命進化の目的を人類は知りませんが、知らないことは決して無意味であることを意味してはいません。それゆえにこそ、明日のために今日も林檎の苗を植え続けることが大事なのではないでしょうか?

 4.アメリカの桃源郷とアリの人生

 アリは蜜蜂とともに集団生活をする昆虫の一種です。アリといえば、飴や砂糖が好きな甘党≠ニ思われがちですが、吸蜜性はわずか8%程度に過ぎず大部分(88%)はミミズや虫の死骸をも食べる雑食性で、常に大地を清掃してくれている勤勉な掃除屋さんです。餌を見つけると、大きなヤマオオアリは巣に持ち帰って仲間に知らせますが、より小さなトビイロシワアリは、まず自分が食べ残りは社会胃≠フ中に貯めて巣に持ち帰り仲間に分け与え、あるいはその場で土をかけて餌を隠し仲間に教えます。狩りをする肉食のヤマオオアリは小さなアリの食べ物を横取りすることもありますが、それに対して小さなアリは集団で食べ物を社会胃≠ノ収めて持ち帰る輜重アリ、土を運んで食べ物を隠す工兵アリ、巣穴と食物を防衛する衛兵アリ、常に周りを見張る偵察アリなど役割分担して対抗し、自分たちのアリ社会を防衛しています(Fig. 5)。アリには複眼も単眼もありますが、地中生活に適応したため視力はよくなく、嗅覚と味覚それに触覚が優れていて、仲間同士は匂いやフェロモンで意思を伝えあっています。自分が通った地面には道標フェロモンを付けておき、迷子になった家族を巣に運んで行くことも行います。危険が迫ると硬い腹部を地面に叩きつけて、その振動で仲間に危険を知らせます。アリはとてもきれい好きで、頻繁に自分の体や、仲間の体を舐めてきれいにします。アリの社会の女王は次の世代を生むだけで、働きアリたちに命令する王様も存在しないにもかかわらず、アリ達は自主的に自らの任務を認識し、食物を探し、巣を掃除し、入口を見張り、敵からコロニーを防衛していますが、その自律分散システムの仕組みは全く分かっていません。
 エンゲルスは『家族・私有財産・国家の起源』の中で、富に対する集合的な権利・社会的関係における平等主義が実現され、階層も搾取もなく、権威的な統治や階級もない社会を「原始共産制」と述べましたが、アリの社会はまさにそのものです(Fig. 6)。そしてアリ達は自分一人の命を考えにいれず、常に集団に奉仕することだけを考えて、個々人の行動が総合として全体のためになる集合知≠ノよって規定され、All for One, One for all≠ニして種族の存続と繁栄のために役立つことを自分の喜びとしています。この集合知は、決して強制や洗脳によるものではなく、また一部の天才や英雄が考え出して教えるものでもなく、状況に即してお互いに情報を共有・交換し続けることによって自然に醸成されるものです。そしてこれはまさにアーミッシュの人々の生き方そのものなのです。
 南北朝の詩人陶淵明はその著書「桃花源記」の中で、桃林に囲まれ平和で豊かな俗界を離れた別世界を「桃源郷」として描きました(Fig. 7)。その中に「先世秦時の乱を避け、妻子邑人を率ゐて、此の絶境に来たりて復た出でず、遂に外人と間隔す」「問ふ今は是れ何れの世ぞ≠ニ、乃ち漢有るを知らず、魏・晋に論無し」として、戦乱と宗教的迫害を逃れ、時代に迎合せず、自給自足で争いのない自分達だけの理想郷を作った人々のことを記録しています。まさにアーミッシュの村は、「アメリカの桃源郷」と言えるのではないでしょうか??そして疑いを抱くことなく近代文明に浸り切って、物質的豊かさこそが人生の幸せと思い込んでいる我々こそ、今一度立ち止まり人の本当の幸せとは何かを考えて見る必要があるのではないでしょうか??良寛和尚は「騰々天真に任す 嚢中三升の米 炉辺一束の薪 誰か問わん迷悟の跡 何ぞ知らん名利の塵」と詠っておられますが(Fig. 8)、アーミッシュの生き方はそれに加えて、「自らの幸せは他者への愛と奉仕によってのみ得られる」と教えてくれているのです。

Fig. 4a 2009年横浜にて救命ロボットで教授される佐橋昭先生(左)

Fig. 4b 2001年柏崎にて認知症診断装置を試される利根川進先生(右)

Fig. 5 大勢の小さなトビイロシワアリと一匹の大きなヤマオオアリ

Fig. 6 フリードリヒ・エンゲルス(1820−1895)

Fig. 7 無弦の琴で心の音楽を聴く陶淵明(356−427)

Fig. 8 良寛和尚(1758−1831)

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巻末エッセイ〜間人蟹について 八百枝 潔(やおえだ眼科)

 冒頭からどうでもいいお話しから始めて恐縮なのですが、あたくしは学会会場に行くのが大の苦手で、なぜなら人混みが嫌いなのと、同業に会うのが気恥ずかしいと言いますか、微妙な心持ちにさせられるのですよね。仲良しな同業に会えばそれはそれで楽しいのですが、面識はお互いあるのだけど、挨拶した方がいいのか微妙な同業に会うと、何かむずむずして、講演聴くのにも集中できないのですよね(笑)。でも、冬期間に開催される某学会だけは医院を休診にして意地でも行くようにしています。なぜなら、うちの科では冬季は患者さんが少なく、雪掻きもその期間しなくて済むし、「(休診になるので)いい加減学会に行ってください!」と従業員さんからグチグチ言われているのですが、そのガス抜きという理由も含めて、心を痛めながら休診にさせて頂いています。

 その学会が京都で行われるともちろんテンションがあがります。で、その節は必ず高台寺和久傳という名店に伺うのです。和久傳、、、からすみ餅やれんこん菓子でも有名ですが、数々の名料理人を輩出していることでも有名な和久傳のフラッグシップなお店が高台寺和久傳で、冬の時期の間人蟹(たいざがに)を頂くのが毎度の楽しみなのですよね。以下HPから改変引用「間人蟹と呼ばれるのは、丹後にある間人港の5隻の小さな底引き網船が水揚げしたずわい蟹だけです。なので水揚げ量が極めて少ないことで知られますが、セリでは身の詰まりや足落ちに応じて、約50段階に振り分けるほどの徹底した等級づけが行われています。今も昔も日帰り漁で、シケの多い漁場でもあり、水揚げは決して多くはありませんが、どんな状況であれ、和久傳では上蟹だけを扱います」。ということで、日本一のずわい蟹と言われる間人蟹コースを頂くのが数年に一度の贅沢なのです。

 半年前でも電話予約できるこちらのお店(京都のお店を予約する時には固定電話からしない方がいいです。田舎者と思われて、電話繋がらないのは有名な話で)、HPみてびっくり! 間人蟹コース税込み88000円って、数年前の倍のお値段でした。とりあえず予約して、知り合いの料理人達にお話しを聴いたら、「間人蟹ならそのくらい普通ですよ。高台寺和久傳は、その日獲れた間人蟹の中でも一番のものを仕入れますし」とのこと。ということで、お店から近所でもあるし、清水の舞台から飛び降りるつもりで頂いてきました。これが最後かもという思いもあり。

 蟹の良し悪しがよく分からない残念なあたくしですが、やっぱりとんでもなく美味しかったですよ。身が詰まっていると言いますか、旨味が凝縮されているのですよね。炭火の火入れが上手なのか、余計な水分がなく、かと言ってパサついている訳でもなく、炭の香りがほんのり付いて絶品でした。いい蟹は焼きが一番なのだなあ、と思い知らされた次第で。ゆで蟹も同時に頂きましたが、旨味が逃げてしまっている感じでして、美味しいのだけど、焼きには勝てないかなあ、でした。本来風味が得意でない甲羅酒も絶品でした。

 もうすぐ獲れなくなるかもしれない間人蟹を食べに、清水の舞台から飛び降りることが正しいかどうかは、「飛び降りた者しか分からない」という結びで。

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